第二章:出会いは市役所で
湊市での生活が始まって数日。新しい職場への挨拶もそこそこに、崇はまず生活の基盤を整える必要があった。その第一歩が、市役所での転入手続きだ。社宅は工場の近くにあり、市の中心部からは少し離れている。スマートフォンの地図アプリで調べた最寄りのバス停まで歩き、時刻表を確認してやってきたバスに乗り込んだ。
がたごとと揺られながら、車窓の風景を眺める。乗客はまばらで、ほとんどが高齢者だ。彼らの交わす方言混じりの会話が、耳に心地よく響く。バスに揺られること20分ほどで「市役所前」のアナウンスが聞こえ、崇は降車ボタンを押した。
湊市役所は、想像していたよりもモダンで綺麗な建物だった。吹き抜けになった開放的なロビーには、柔らかな自然光が差し込んでいる。番号札を取り、待合の椅子に腰掛けて自分の番号が呼ばれるのを待つ。ここで何をして生きていけばいいのか。会社と社宅を往復するだけの日々が、また始まるのだろうか。そんな漠然とした問いが頭をよぎる。
手持ち無沙汰に辺りを見回していると、ふと、壁際に設置されたパンフレットラックが目に入った。その中に、一つだけ明らかに毛色の違うチラシがあった。
「自家醸造、はじめませんか? ― あなたも湊市で、自分だけのお酒を造ってみませんか? ―」
クリーム色の柔らかな紙に、手書き風の温かみのあるフォント。ビールのイラストだろうか、黄金色の液体と白い泡が描かれている。
「自家醸造特区……?」
チラシに書かれたその言葉に、崇は引き寄せられるように立ち上がり、一部を手に取った。
そこには、この湊市が日本で唯一の「自家醸造特区」であることが謳われていた 。数年前にこの街を舞台にした自家醸造をテーマにしたアニメが社会現象になるほど大ヒットし、その人気が後押しする形で特区が実現したらしい 。
『物語の始まりは、いつも一杯のグラスから。』
チラシのキャッチコピーが、崇の心の奥底にしまい込まれていた興味を呼び覚ます。大学時代の講義、顕微鏡の向こうでうごめく酵母菌、糖をアルコールに変える生命の神秘。忘れていた情熱が、指先に火を灯されたようにじわりと熱を持つ感覚。品質管理の仕事は、完成された製品の「結果」だけを見る仕事だった。しかし、醸造は違う。自らの手で、生命体の力を借りて、新しいものを「生み出す」行為だ。
『届出制で安心!講習会に参加して、あなたも醸造家デビュー!』
手続きは意外と簡単なようだった。市役所に届け出を出し、指定された講習会を受講すれば、誰でも自家醸造を始められる 。もちろん、造ったお酒の販売や、許可のない持ち出しは固く禁じられているが、それでもこれは画期的なことだった 。
自分の番号が呼ばれる声がして、崇ははっと我に返った。慌てて窓口に向かい、無事に転入手続きを済ませる。だが、頭の中は先ほどのチラシのことでいっぱいだった。
空っぽだったはずの社宅の、あの広すぎるガレージ。あそこなら、醸造のためのスペースとして活用できるのではないか。そんな考えが、ふと頭をよぎる。
市役所を出た崇は、もう一度チラシに目を落とした。一番近い講習会は、今度の土日に開催されるらしい。
「……やってみるか」
誰に言うでもなく、崇はそう呟いていた。それは、湊市に来て初めて、自分の意志で未来に向かって踏み出す、小さな、しかし確かな一歩だった。