第十二章:ホップの魔法
一次会の満足感と、地酒の心地よい酔いを体に纏いながら、一行は湊市の夜の街を歩いていた。サバしゃぶの濃厚な旨味の余韻がまだ舌に残り、気分は最高潮だ。
「灯町、地元の人は『ヒマチ』って呼んでるよ」
佐藤先輩が、少し呂律の回らない口調で崇に教えてくれた。駅前の喧騒から少し離れた、市役所や先日訪れた百貨店のある方角だという。かつては湊市で一番の賑わいを見せたというアーケードの跡地は、今やその面影もなく、両脇に並んでいたはずの商店はシャッターを下ろすどころか建物そのものがなくなり、ぽつぽつと街灯が灯る静かな住宅街へと姿を変えていた。アスファルトの下に、かつてのタイル張りの床が眠っているのだろうか。そんな想像をしながら歩を進めると、不意に数十メートルほどの短いアーケードが、まるで忘れ去られた時代の遺跡のように、闇の中にぽっかりと浮かび上がっていた。
そこを通り抜けた瞬間、空気は一変した。ここがヒマチか。週末の夜ということもあって、道の両脇に並ぶ飲食店の温かい光が賑わいを生み、人々の陽気な笑い声やグラスの触れ合う音がそこかしこから聞こえてくる。魚介を焼く香ばしい匂い、甘辛い煮物の香り。様々な匂いが混じり合ったその活気は、新宿の眠らない街の、人を寄せ付けないような暴力的な喧騒とは全く違う、どこか平和で人間味のある温かさに満ちていた。
目指す店はすぐに見つかった。「Hop Freak」と名付けられたそのブリューパブの扉には、ビールの魂とも言うべきホップを模した、洒落た木製の看板が掲げられている。ガラス張りのドアから漏れるオレンジ色の光が、一行を手招きしているようだった。
ドアを開けると、麦芽を煮る甘く幸福な香りと、ホップの青々しく爽やかな香りが混じり合った、ビール好きにはたまらない濃密なアロマが一行を迎えた。店内は思ったよりも広く、五十人ほどは余裕で入れそうだ。長いカウンターの向こうの壁には、壮観な光景が広がっていた。ずらりと並んだ二十本ものタップハンドルが、それぞれ違う個性を持ったビールが注がれるのを、誇らしげに待ち構えている。
「奥のテーブルへどうぞー」という快活な声に導かれ席に着き、メニューを広げると、島田課長が「ほう」と感心した声を上げた。その名の通り、店で醸造しているビールのほとんどが、ホップを大量に使ったIPAのスタイルだったのだ。
「こりゃすごいな。ここまでホップに振り切ってる店は東京でもそうないぞ。気合が入ってる」
「うわ、これ見てくださいよ、『追いホップIPA』だって」
「こっちは『濁りの向こう側ヘイジー』……名前が面白いな」
皆、メニューに書かれた個性的なビールの説明書きとにらめっこしながら、子供のように目を輝かせて次の一杯を選んでいく。そんな中、崇の視線はカウンターの一角に釘付けになっていた。ガラス製の大きな筒が、まるで大学の実験器具のように鈍い光を放ちながら鎮座している。その中には、鮮やかな緑色のホップの毬花が、これでもかと詰め込まれていたのだ。メニューの片隅に、その筒についての説明書きをようやく見つけた。
『ランドル:ビールにフレッシュホップの生々しい香りをプラスします(本日は国産ピルスナーを接続中!)』
「すみません、このランドルを通したピルスナーをお願いします」
崇は、知的好奇心とビールへの渇望を抑えきれずにそう注文した。
やがて、それぞれのグラスがテーブルに揃う。崇の目の前に置かれたグラスには、見慣れた黄金色のピルスナーが注がれていたが、その液面からは明らかに普通のピルスナーとは違う、青々しく華やかな香りが立ち上っていた。
「じゃあ、二次会もかんぱーい!」
誰かの陽気な声と共に、ひんやりとしたグラスが再び打ち合わされる。崇は逸る気持ちを抑え、深く息を吸い込み、グラスを傾けた。
瞬間、驚きに目を見開いた。大手メーカー製の、慣れ親しんだドライでキレのあるピルスナーの味わい。だが、その直後、まるで早朝の森に迷い込んだかのような、あるいは生のホップをそのままかじったかのような、鮮烈で瑞々しい植物の香りが鼻腔を駆け抜けていく。苦味は全くと言っていいほどない。ただ、白ブドウを思わせる、どこまでも上品でフルーティーなアロマだけが、舌の上にふわりと残り、消えていった。これは、美味い。一次会で飲んだ洗練されたピルスナーとも、自宅で造った手作り感のあるエールとも全く違う、新しいビールの世界の扉が開いた気がした。
「いやあ、湊市は面白いなあ。自家醸造もできるし、こんなに美味い店もあるし」
島田課長が満足げに頷くと、話は自然と自家醸造の話題へと移っていった。
「そういや、山根くんも家でやってるんだったよな?最近どうだ?」
課長に話を振られたのは、人の良さそうな顔をした、地元採用の若手社員の山根だった。
「はい、まあ、ぼちぼちと。キット缶でたまに造るくらいですけど。この前、嫁さんの実家から貰った夏みかんの皮を入れてみたら、意外といい香りになりましたよ」
山根が照れ臭そうに頭を掻くと、周りからは「すげえな!」「自家製フルーツビールかよ!」「今度飲ませてくれよ」と羨望の声が上がる。興味はあるものの、実際にやっている人間は他にいないようだった。
その活気ある会話の流れの中で、崇はアルコールの勢いも手伝って、「僕も、こっちに来てから始めました」と、つい口を滑らせた。その瞬間、課の全員の視線が自分に集中するのが分かった。
「え、鍛冶内くんも!?」「マジかよ!意外すぎる!」
驚きの声が上がる中、佐藤先輩がニヤニヤしながら崇の肩をバンと叩いた。
「なんだよー、さては鍛冶内くん、ビール造るために湊市に転勤してきたクチか?アツいな!」
そのからかいに、座がどっと沸いた。崇は顔を赤くしながらも、この街で自分だけの楽しみを見つけたことを、そしてそれを共有できる仲間がいることを、素直に嬉しく感じていた。
その後も、崇はビールの世界の奥深さに完全に魅了され続けた。ランドルという装置の面白さもさることながら、この店には他にも、イギリスのパブでよく見られるという、炭酸が弱く麦芽の風味をじっくり味わえるハンドポンプで注ぐリアルエールや、窒素ガスで充填された、クリーム状の滑らかな泡を持つスタウトなど、好奇心をくすぐるものが溢れていた。気づけば、様々なスタイルのビールを次々と試し、心地よい酩酊感と共に、うっかり飲み過ぎてしまっていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、二次会もお開きの時間となる。店の外に出ると、ひんやりとした夜風が火照った体に心地よかった。
「じゃあ、俺たちはこの辺で」
そう言って手を振る山根の隣には、車で迎えに来てくれたという、優しそうな奥さんの姿があった。工場近くに住んでいる者は、その車に乗せてもらうことになり、崇もありがたく後部座席に乗り込んだ。
「課長たちはどうするんですか?」
佐藤先輩が尋ねると、島田課長は「俺らはもう少し夜の街をパトロールしてから帰る」と豪快に笑った。
その時だった。どこからともなく現れた、モデルのように美しい女性二人組が、「お兄さんたち、この後どちらか行かれますか?ちょうど団体さん向けのお得なプランがあるんですけど、いかがですか?」と、甘い声で課長たちに声をかけたのは。
「おお、いいねえ!ちょうど三次会を探してたところだ。案内してくれたまえ!」
課長を含めた数名は、待ってましたとばかりに、美しいお姉さんたちと共にヒマチの夜の喧騒の中へと吸い込まれていった。その頼もしい(?)後ろ姿を車窓から見送りながら、崇は湊市の夜の、もう一つの顔を垣間見た気がした。




