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第十一章:歓迎の宴

金曜日の終業を告げるチャイムが、天井の高い工場内に朗々と響き渡った。一週間張り詰めていた意識の糸が、ふつりと緩む感覚。ヘルメットを脱いだ同僚たちの間から、解放されたような安堵のため息が漏れる。崇もまた、他の社員たちと共にタイムカードを押し、まだ夕陽が西の空に名残を惜しむ工場を後にした。


社宅の最寄りにある無人駅のホームで待っていると、やがて視界の先に小さな光が二つ現れた。それは東京で乗り慣れた滑らかな電車ではない。ごとり、ごとりとレールの継ぎ目を重々しく刻むディーゼル駆動の汽車だ。二両編成の短い車両に乗り込むと、がたん、と心地よい衝撃と共に車窓の景色がゆっくりと流れ始める。満員電車の息苦しさとは無縁の、乗客もまばらな車内。窓の外には、広大な田園風景と、点在する瓦屋根の家々が夕暮れの茜色に染まっていく。たった十数分の短い旅路を経て、汽車は湊市の玄関口である湊市駅へと滑り込んだ。


佐藤先輩から聞いていた店は、駅から少し歩いた、古くからの飲み屋が軒を連ねる路地の一角にあった。けばけばしいネオンサインはない。だが、『漁火いさりび』と墨痕たくましい文字で書かれた年季の入った木の看板と、軒先に吊るされた大きな赤提灯が、ここが確かな腕の店であることを雄弁に物語っていた。店の入り口脇に置かれた黒い立て看板には、「本日のおすすめ」として達筆な文字が並んでいる。その中に「天然 岩牡蠣」の五文字を見つけ、崇の口元が思わず緩んだ。あの日、アニオンモールの魚市場で味わった、細胞が歓喜するような生命力に満ちた味わい。あの記憶が鮮やかに蘇り、喉の奥がきゅっと鳴った。


「ごめんください」と藍色の暖簾をくぐると、「へい、いらっしゃい!奥の階段から二階へどうぞ!」と威勢の良い声と、魚介を焼く香ばしい匂いに迎えられた。急な木の階段を軋ませながら上がると、そこは全て座敷席になっているようで、一番奥の襖が開け放たれた一室に、すでに見慣れた顔がいくつか集まっていた。

「お、鍛冶内くん、こっちこっち!お疲れさん!」

手招きするのは人の良さそうな笑顔の佐藤先輩だ。その隣には、生産管理課を束ねる恰幅の良い島田課長が、腕を組んでどっしりと腰を下ろしている。


やがて、他のメンバーも続々と到着し、総勢八名の生産管理課の面々が座敷に揃った。島田課長が「じゃあ、まあ固い話は抜きにして」と前置きし、崇の歓迎と課の結束を願う短い挨拶の後、高らかに乾杯の音頭を取った。

「ようこそ湊市へ!かんぱーい!」

威勢の良い唱和と共に、差し出されたジョッキを打ち合わせる。満たされているのは、日本のどこででも飲める、キリリと冷えた黄金色のピルスナーだ。ここ最近、自宅で味わうのはホップの華やかな香りと麦芽の豊かな風味が濃厚に主張する自作のエールばかりだった。その舌には、大手メーカーによって極限まで洗練されたピルスナーが、驚くほど軽やかで、澄み切った水のように感じられた。これもまた、プロの仕事だ。寸分の狂いもなく設計され、管理された味。


最初に運ばれてきた先付けは、小さな巻き貝を甘辛く煮付けたものだった。バイ貝、と課長が教えてくれる。楊枝でくるりと身を抜き出して口に運ぶと、醤油と砂糖の味がじっくりと染み込んだ、滋味深い味わいがじんわりと広がった。続いて、大きな皿に山と盛られた天ぷらの盛り合わせ、そして出汁の芳醇な香りがたまらない、ふるふると震えるほど柔らかい出汁巻き玉子がテーブルに並ぶ。どれも丁寧に作られているのが分かる、心のこもった味だ。ビールが面白いように進んでいく。


宴が程よく温まってきた頃、店員が各テーブルに固形燃料用の小さなコンロを設置し始めた。その上に置かれたのは、ぴかぴかに磨かれたステンレス製の小ぶりな鍋。中には、まるで墨汁のように真っ黒な出汁がなみなみと注がれている。

「お待たせしました、名物サバしゃぶでございます」

運ばれてきた大皿には、銀色に輝く皮目が美しい、厚切りのサバの切り身が、まるで大輪の花のように盛り付けられていた。

「まず、こちらのニンニクとエノキを鍋に入れていただきまして、出汁がふつふつと煮立ってきましたら、サバをさっと、数秒だけ泳がせるようにお召し上がりください」

サバを、しかも半生で食べる。その事実に崇が内心驚いていると、その表情を読み取ったのか、島田課長がにこやかに解説してくれた。

「驚いたか?まあ、普通は寄生虫の心配があるから、サバはしっかり火を通すか、酢で締めるのが常識だからな。だが、最近はこの辺りでも養殖技術が発達してな。寄生虫の心配がまずない、特別な餌で育てた『潮乙女しおおとめ』っていうブランド鯖が名産になってるんだ。こいつは刺し身でもいけるくらい新鮮で、脂の乗りも違うんだよ」


やがて、醤油とニンニクの食欲を刺激する香ばしい香りが立ち上り、鍋の表面が小さく煮立ち始める。崇は恐る恐る、一切れのサバを箸でつまみ、黒い出汁の中へと沈めた。一、二、三。心の中で秒数を数え、ほんのりと表面が白くなったそれを引き上げる。口に運ぶと、まず濃厚で甘みのある出汁の味がガツンと来た。そして、そのすぐ後を追いかけるように、上質なサバの脂の旨味が、とろりと舌の上で溶けていく。懸念していた青魚特有のクセは、全くと言っていいほど感じられない。これは、とんでもなく美味い。


「課長、この料理は、ビールよりも日本酒じゃないですか?」

夢中で二切れ目を頬張りながら尋ねると、課長は「よく分かったな」と目を細め、メニュー表もろくに見ずに店員に銘柄を告げた。

「こいつはな、地元の大学が中心になって、一度は栽培が途絶えた古い酒米を復活させたプロジェクトから生まれた酒なんだ。純米吟醸でな、すっきりしてるから何にでも合う」

ほどなくして運ばれてきた一合徳利から、お猪口に澄んだ酒が注がれる。口に含むと、驚くほど軽やかだった。米の旨味はしっかりと感じられるのに、後味はすっと潔く消えていく。いわゆる辛口なのだろうが、トゲトゲした感じは一切ない。サバしゃぶの濃厚な味わいを、この酒が実に見事に洗い流し、また次の一口へと誘う。


宴の締めくくりに運ばれてきたのは、なんと寿司だった。白身魚や白いかといった地物が中心の盛り合わせは、どれもネタが新鮮で、この店の魚介への揺るぎない自信が窺える。


腹も心も満たされた一次会が終わり、一行は満足のため息と共に店を出た。サバしゃぶの濃厚な旨味と、キレの良い地酒の余韻に浸りながら歩き出した崇の脳裏に、ふと店の入り口で見た立て看板の文字が閃光のように蘇った。

(……しまった!)

心の中で、崇は思わず天を仰いだ。

「天然 岩牡蠣」

店に入る前、あれほど心ときめかせたはずの逸品を、サバしゃぶの衝撃と宴の楽しさですっかり注文し忘れていたのだ。痛恨の極みだったが、今さら言い出せる雰囲気ではない。


「よし、じゃあ次はどうする?」


崇が内心で唇を噛んでいると、誰かがそう言った。佐藤先輩が待ってましたとばかりに手を挙げた。

灯町あかりちょうに、最近ブリューパブができたの知ってます?店の中でビール造ってて、出来立てが飲めるらしいんですよ。結構評判いいみたいで。せっかくだから行ってみません?」


その提案に、崇の心臓がどきりと高鳴った。自家醸造が特区として認められたこの街で、プロが造るクラフトビールが飲める店。これ以上ない二次会の誘いだった。


「いいねえ、それ!行ってみようじゃないか!」


課長が快活に笑うと、皆も異論はないようだ。一行は、駅前の明かりを背に、新たな一杯との出会いを求めて、ひんやりとした夜の空気が心地よい湊市の街を歩き始めた。

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