第十章:水槽の静かな心臓
再び、ダイニングの隅から生命の音が聞こえる一週間が始まった。
「ポコッ……ポコッ……」
百貨店で手に入れた「優等生」の酵母は、その評判に違わず、驚くほど仕事が早かった。仕込んだ日の就寝前には、エアロックはもう小気味良いリズムを刻み始めていたのだ。初めての醸造の時よりも明らかに力強く、そして規則正しいその音は、まるで健康な心臓の鼓動のように、順調な発酵を告げている。仕事から帰った崇が、スーツの上着を脱ぎながら発酵容器の前に膝をつき、その音に耳を澄ませる時間は、新しい生活における神聖な儀式となりつつあった。容器にそっと触れると、微かに、しかし確かな熱が伝わってくる。それが酵母の活発な代謝によるものだと、崇には分かっていた。それは、無数の小さな仲間たちが、今この瞬間も糖を分解し、懸命にアルコールを、そして未来の喜びを生み出してくれている紛れもない証だった。
週の半ば、ヘルメットを脱いだばかりの工場内で、生産管理課の先輩社員の一人である佐藤が、人の良さそうな笑顔で声をかけてきた。
「鍛冶内くん、今週末の予定は空いてるかな?少し遅くなったけど、課の皆で歓迎会をやろうと思ってね」
思いがけない誘いに、崇は少し驚きながらも頷いた。配属されてからまだ日も浅く、業務の引き継ぎと工場内の見学が中心の日々。まだ本当の意味で職場に溶け込めているという実感はなかった。そんな中で企画された歓迎会は、素直に嬉しい。
「会場は少し遠いんだけど、湊市駅の近くの居酒屋なんだ。地元の会社がやってる店でさ、とにかく魚が美味いんだよ。期待しててくれ」
その言葉に、崇の口元が自然と緩む。この街に来てからというもの、海の幸には良い思い出しかない。アニオンモールの魚市場で食べた、あの衝撃的な岩牡蠣。地元の回転寿司屋で味わった、シャリを覆い隠すほど大ぶりで、新鮮そのものだった地魚たち。またあの感動に出会えるのかと思うと、週末が俄然待ち遠しくなった。
一方で、順調な発酵の音を聞きながらも、崇の頭の中では次なる課題が大きな位置を占め始めていた。発酵温度の管理だ。カレンダーはもうすぐゴールデンウィーク。それが明ければ、この日本海側の街にも本格的な夏がやってくる。昼間の日差しが、日に日に力を増しているのを感じていた。エール酵母は比較的高温を好むとはいえ、25℃を超える環境は酵母に余計なストレスを与え、不快な香り、すなわち「オフフレーバー」を生み出す原因になる。国内外の、どの解説サイトにも、まるで申し合わせたかのようにそう書かれていた。せっかく手に入れた、クリーンな味わいを生むはずの「優等生」酵母も、劣悪な環境ではその真価を発揮できない。最初の一杯で感じた、あの「ねっとりとしたクセ」を繰り返すわけにはいかないのだ。
夜な夜な、がらんとした社宅の部屋で 、崇はスマートフォンの画面を眺めながら、先人たちの知恵を漁った。自家醸造家たちのブログや掲示板で最もよく見かけるのは、小型のワインセラーを改造して発酵庫にする方法だった。手軽で、見た目もスマートだ。しかし、崇の品質管理部門で培われた分析的な思考が、その安易な結論に「待った」をかける。
「ワインセラーの多くは空冷式か……。ドアの開閉や外気温の変動で、庫内の温度はどうしても不安定になりがちだ。それに、冷却方式として採用されているペルチェ素子は、構造上、冷却能力そのものに限界があるはず……」
温度の急激な変化によるストレスこそが、オフフレーバーの元凶なのだ。やるからには、可能な限り安定した温度管理を実現したい。それはもはや、彼の性分であり、譲れない一線だった。
思考は袋小路に入り込んだかに見えた。そんなある日、仕事帰りに立ち寄った大型ホームセンターを、目的もなくぶらついている時だった。広大な売り場を歩き、様々な道具や素材を眺めることが、今の崇にとっては気分転換の一つになっていた。ペットコーナーに差し掛かった時、彼の足がふと止まった。青い光に照らされた水槽が並ぶ一角に、「水槽用クーラー」という札が掲げられた、黒い箱型の装置があったのだ。熱帯魚という繊細な生き物のために、水温を精密に、そして一定に保つための機械。その存在が、崇の頭の中でバラバラだった知識のピースを、一つの完璧な線で繋げた。
「……これだ」
崇の脳内に、新しいシステムの設計図が瞬く間に、そして鮮明に描き出されていく。発酵容器そのものを冷やすのではない。発酵容器を丸ごと、「温度管理された水の中」に入れてしまえばいいのだ。水は空気に比べて熱しにくく冷めにくい。つまり、遥かに安定した温度環境を作り出せる。
まず、ウォーターバスとなる容器。これは、蓋付きの大型プラスチック製収納ボックスで代用できるだろう。そして、その心臓部となるのが、今、目の前にある水槽用クーラーだ。ボックス内に水を張り、小さな水中ポンプでクーラーへと水を送り込む。設定温度にまで冷却された水が、再びボックスへと静かに戻ってくる。このサイクルを絶え間なく繰り返せば、水の温度は驚くほど安定するはずだ。
「蓋をすれば、醸造のもう一つの大敵である光も完全に遮断できる。合理的だ……。これならいける」
ネット上でもあまり実施例を見かけない、独創的なアイデア。だが、理論上は完璧なはずだった。大学時代における実験の経験と、会社で叩き込まれた品質管理の視点。その両方が、このシステムの優位性を力強く肯定していた。
胸が高鳴るのを感じながら、崇は決意を固めた。
「よし、ゴールデンウィークは、これの試作に決まりだな」
新しい街で迎える最初の大型連休。自分だけの醸造所を進化させるという、創造的で確かな手応えのある計画に胸を躍らせていると、ポケットに入れていたスマートフォンが軽快な音を立てた。画面に表示されたのは、母親からの短いメッセージだった。
『連休、予定通りそっちに行くからね。お父さんも楽しみにしてるわ』
「ああ、そうだった」
自分の計画に夢中になるあまり、連休の半ばに両親が東京からやって来るという、もう一つの大きな予定をすっかり忘れていたのだ。新しい冷却システムの試作に、両親の観光案内。湊市に来て初めての大型連休は、想像していたよりもずっと忙しくなりそうだ。




