第一章:新天地・湊市
月曜の朝はいつも、分厚い灰色のフィルター越しに世界を見ているような気分になる。それは、繰り返される一週間の始まりが、自分の人生が単調で予測可能なサイクルの上に成り立っていることを、容赦なく突きつけてくるからだ。
鍛冶内 崇、26歳。総合職として大手素材メーカーに就職して5年目。ゲートが開くのを待つ満員電車のホームで、ガラスに映る自分の顔には、見慣れた社会人の無表情が張り付いている。都下の住宅街で育ち、都内の大学を出て、都心に勤める。その安定した軌道から、一度もはみ出したことはなかった。
会社での崇の仕事は、品質管理だった。全国の工場から送られてくる、建材や電子部品に使われる様々な素材サンプル。それらの強度、耐熱性、透過率といった性能が、規格を満たしているかを確認する。一日中、パソコンのモニターに映し出される膨大な数字の羅列と向き合う。その数字の一つ一つが、どこかの誰かの安全や快適さを支えているのだと頭では理解している。だが、崇にとっては、それは実感の伴わない、ひどく無機質な作業に感じられた。大学で生命科学を専攻し、微生物が織りなす世界の神秘に胸を躍らせた日々は、遠い昔の夢のようだ。
「鍛冶内くん、ちょっといいかな」
自席でデータのグラフを眺めていた崇は、背後からかかった声に、椅子を回転させた。品質管理部門のトップ、五十嵐部長が腕を組んで立っている。その表情からは、意図が読めない。
部長室の重たい扉が閉まり、外の喧騒が嘘のように遠ざかる。革張りのソファに促されるまま腰を下ろすと、五十嵐部長はいくつかの書類に目を通した後、まっすぐに崇を見て、単刀直入に本題を切り出した。
「鍛冶内くん、転勤の話だ」
「……はい」
ついに来たか。崇の心は、意外なほど凪いでいた。総合職である以上、いつかは地方工場への転勤がある。同期は3年目あたりで次々と地方へ赴任していったが、自分にはなかなか順番が回ってこなかった。このまま、本社で数字を眺めるだけのキャリアで終わるのではないか。そんな漠然とした焦燥感が、ここ一年ほど胸の内に澱のように溜まっていた。
「湊市だ。日本海側の」
「湊市、ですか」
聞き慣れない地名だが、特に驚きはなかった。会社の工場があるリストは頭に入っている。地図上の点でしかなかったその場所に、自分の人生が交わる時が来た。ただ、それだけのことだ。
「湊市の支社工場、あそこの生産管理課に一つポストが空いてね。総合職のローテーションの一環として、君に行ってもらおうということになった」
「生産管理、ですか。私は今まで品質管理でしたが……」
「分かっている。だが、君は大学で生命科学を学んでいたそうじゃないか。生産現場のプロセスを理解する素養はあるはずだ。それに、ずっとデータとにらめっこしているより、現場を知ることは君にとってもいい経験になるだろう。モノが生まれる瞬間を、その目で見てこい」
部長の言葉は、会社員としてのキャリアパスを考えた、ごく標準的なものだった。だが、「モノが生まれる瞬間」という一言が、崇の心の奥底にしまい込んでいた何かを、小さく揺さぶった。
「なかなか声がかからないんで、忘れられてるのかと思いました」
少しだけ本音を漏らすと、部長は「はは、忘れるものか」と笑った。「君の真面目な仕事ぶりは評価している。だからこその生産管理だ。期待しているよ」
「ありがとうございます。頑張ります」
辞令は4月1日付。あと2週間。引っ越しの手配や住居については、総務から後ほど説明があるとのことだった。
その日の夜、大学時代の友人数人に連絡を取り、壮行会を開いてもらった。新宿の喧騒の中、ジョッキを片手に「日本海側かー、魚が美味そうだな」「向こうで彼女とか作っちゃったりして」などと囃し立てる友人たちに、崇はまんざらでもない顔で応じる。
「まあ、なんだ。環境が変わるってのは、悪いことばかりじゃないって。新しい出会いとか、あるかもしれないだろ」
「そうそう。東京にいたって、お前、会社と家の往復ばっかりだったじゃんか。たまに飲むっつっても、こうして俺らとだしな」
慰めではなく、事実だった。この巨大な都市にいながら、崇の世界は驚くほど狭かった。刺激的な何かがすぐそばにあるはずなのに、それを見つけに行こうという気力すら、いつの間にか失っていた。
「……そうだな。ちょっと、武者修行のつもりで行ってくるか」
そう口にすると、覚悟のようなものが腹に据わった。ジョッキに残っていたビールを呷る。いつもと同じ、けれど今日だけは少し違う決意の味がした。この停滞した空気を抜け出して、新しいサイクルを始める時が来たのだ。
東京での最後の二週間は、目まぐるしく過ぎ去っていった。業務の引き継ぎと、いくつかの部署との合同で開かれた壮行会。そして、夜な夜な段ボールと格闘する日々。本棚に並んだ専門書や、いつか着るだろうと溜め込んでいた服を詰めながら、崇は自分の人生の断捨離をしているような気分になった。これは持っていく、これは捨てる。その選択は、過去の自分と決別し、新しい生活へ向かうための儀式のようでもあった。
引っ越し当日。家財は業者に任せ、自身は新幹線と特急を乗り継いで湊市へ向かうことにした。品川駅のホームで両親に見送られ、少し気恥ずかしい思いで列車に乗り込む。
新幹線が滑り出す。窓の外に流れていく見慣れた街並みが、徐々に知らない風景へと変わっていく。ビル群が低くなり、空が広くなっていく。西日本の大きなターミナル駅で特急に乗り換えると、車窓の景色は一変した。深い緑の山々が、これでもかというほど目に飛び込んでくる。まるで、文明の世界から自然の世界へと、トンネルを抜けるたびにグラデーションのように引き込まれていく感覚だった。
やがて、列車が日本海沿いに出ると、不意に視界が開けた。鉛色と藍色が混じり合ったような、広大な海。東京湾の穏やかなそれとは全く違う、荒々しくも美しいその光景に、崇はしばらく言葉を失った。
湊市駅の改札を出る。東京の駅のような人の波はなく、空気はひんやりとしていて、潮の香りが微かに混じっている。工場の総務課の人間だという初老の男性が、人の良さそうな笑顔で待っていた。
「鍛冶内さんですね。ようこそ、湊市へ。長旅お疲れ様でした」
男性が運転する社用車に乗り込み、市街地を抜けていく。駅前はそれなりに栄えているが、少し走るとすぐに背の低い建物が並ぶ、落ち着いた街並みになった。
「ここが、鍛冶内さんに住んでいただく社宅です」
車が停まったのは、工場からほど近い住宅街の一角だった。そこには、少し変わった光景が広がっていた。平屋の木造家屋と、同じくらいの大きさのガレージが、交互に5戸ほど、まるで櫛の歯のように並んでいる。
「ちょっと古いんですけどね。中はリフォームしてあるんで、綺麗ですよ」
鍵を渡され、玄関のドアを開ける。むっとした、誰も住んでいない家特有の匂いがした。間取りは2DK。六畳の和室が二つと、広めのダイニングキッチン。一人で暮らすには十分すぎるほどの広さだ。そして、案内された通り、家の隣にはシャッター付きの立派なガレージがあり、その前にもう一台分の駐車スペースまで確保されている。
「車、お持ちじゃないと伺ってますが、まあ、スペースはご自由に使ってください。物置代わりにでも」
総務の男性はそう言って笑い、一通りの説明を終えると帰っていった。
がらんとした部屋に一人残された崇は、大きな窓を開け放った。東京のアパートでは感じたことのない、新鮮で、少しだけ土の匂いが混じった空気が部屋を満たす。遠くから、汽笛のような音が聞こえた。
数時間後、引っ越し業者のトラックが到着し、見慣れた段ボールが運び込まれる。荷解きをしながら、これからの生活に思いを馳せる。静かだ。東京の夜は、常にどこかでサイレンや車の走行音が聞こえていた。だが、ここでは虫の声しか聞こえない。その深閑とした静けさが、今はむしろ心地よかった。この静けさの中でなら、何か新しいことを始められるかもしれない。そんな予感が、胸の内で静かに芽吹いていた。