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2-2 真実の肖像

アステランの夜は静かだった。白壁の街並みが月の光を反射し、街全体が仄白く輝いている。風に乗って、どこかから弦楽の音が微かに聞こえてくる。


タクマはホテルのバルコニーに立ち、夜空を見上げていた。星々は遠く、手の届かぬ世界に点在しているが、なぜだか今夜は近くに感じられた。


「ん、何か……?」


視線の先、ホテルの壁際で黒い影が動いた。


「誰かいるな」小声で呟くと、タクマは階段を駆け下り、外へと出た。


石畳に靴音が響く。建物の裏手、淡い灯りのもとで、誰かが壁に向かって何かを描いていた。絵筆のような細い棒、動きは迷いなく、むしろ祈りに似ていた。


タクマがそっと近づいたとき、その人物が振り返った。


「……ヴェルザさん?」


「あら、見つかっちゃったわね」


月明かりに照らされたその顔は昼のあどけない笑顔ではなく、どこか翳りを帯びた覚悟のある女の貌だった。


「何を描いているんですか?」


壁には、暗闇から睨みつけるような獣の姿。禍々しいようで、それでいて神々しさすら感じさせる構図だった。


「護符よ。……守りのための絵。神隠しに遭う子を、少しでも減らしたくてね」


「どういう意味ですか?」


ヴェルザは筆を止め、ゆっくり語り始めた。


「わたしはこの大陸——エルヴェシアでも知られた画家よ。でもね、あまりに『本物みたい』だって、あるときから噂になった。『彼女が描くと、魔物が目覚める』って」


彼女は笑ったが、その目には影があった。


「だったら、それを利用してやろうと思ったの。昼間は似顔絵屋として街の女性たちを観察し、どこに住んでいるか調べて……その建物に、守護獣を描く」


「威嚇としての魔物……?」


「そう、誰かが連れ去ろうとしたときに、目が合えば……怯むかもしれない。守れた子もいたわ」


タクマは言葉を失った。筆一本で闘っている。そんな芸術家が、現実にいるのだ。


その数日後——。


白いホテルの一室に、厚手の紙に包まれた電報が届いた。美しい筆致で書かれた一文が、リンとヴェルザの目に焼きついた。


『絵画ヲ志ス美シキ者タチ 我ノ勇マシキ肖像画ヲ描ク也 ザカー枢機卿』


アステランにおいてザカー枢機卿は、文化と芸術の象徴にして絶対的な権威を誇る存在だった。美術館、劇場、放送局――街の創造的インフラはすべて彼の資金援助と審美眼によって成り立っており、彼の一声で芸術家の命運が決まるとも囁かれる。


かつて愛妻と共に描いた芸術都市の理想を胸に、街の景観や美意識にすら口を出し、「美しくあることこそが正義」と信じて疑わなかった。


だがその正義の裏に潜む狂気に、誰も気づこうとはしなかった。


「……権力者ってのは、こういう言い回しが好きね」とヴェルザが呟いた。


「何か嫌な予感がする……」リンの声には、かすかな戸惑いが混じっていた。



ザカーの宮殿に呼ばれた二人は、庭園でスケッチブックを開いた。事前に習作を試していた。


しかし、いくら手を動かしても、思うように線が描けない。ザカーの顔、衣服、姿勢……全てが曖昧で、輪郭が掴めない。


「筆が乗らない……なぜだろう」


「心が拒んでるんじゃない? あの人を『描きたい』って、思えないのよ」


二人は庭の噴水の縁に腰を下ろし、語り合った。


「ヴェルザさん……なんか、あなたの描き方……私の姉に似てます」


「……あら。どんなお姉さんだったの?」


「すごく上手だった。色彩の扱い方、構図の発想、でもね……いつもこう言ってた。『見えるものだけが真実じゃない』って」


「ふふ……いい言葉ね。見えないものを描く、それが芸術の本質だと思うわ」


リンはふと気づいた。いま目の前にいるヴェルザは、姉との記憶と重なっている。


これはただの仕事ではない——自分自身の過去との、そして芸術家としての自分との勝負なのだ。



一方その頃、タクマたちはザカーの宮殿の調査に乗り出していた。


ザカーの宮殿一階は大理石の柱と金色の装飾に彩られ、まるで美術館のように絵画や彫刻が並ぶ荘厳な空間だった。その奥、一見ただの壁に見える絵画の裏に、秘密の地下階段が隠されている。


宮殿の地下。


階段を降りると雰囲気は一変、石と鉄で構成された冷たい地下室。そこには整然と並んだ工具棚、木材や鎖、人体の寸法を記した古いノートが置かれ、芸術というより工場めいた異様さが漂っていた。


ほこりをかぶった倉庫のような場所で、彼らは異様な光景を目撃する。


ずらりと並んだ人形——いや、マネキン。それも、どれもが妙に『生々しい』。


「これは……人間か?」


「マネキン……だけど、肌が……顔の造りが……リアルすぎる」


ファル・フィンが震える声で言った。


「これ……まさか、攫われた女性たち……?」


そして、後ろから現れた老執事の口から語られた話。


「……若い頃のザカー様は、優しいお方でした。美しい奥様を病で失ってから、何かが変わってしまったのです。これは、その頃の……」


そう言って彼が見せたペンダントの中には、若き日のザカーと、その妻が微笑み合う写真。


タクマは老執事にペンダントを少しの間だけ借りる約束を取り付け、その写真をリンとヴェルザに預けた。


リンは、ザカーとその妻の写真を見た瞬間、何かに突き動かされるように立ち上がった。


「これだ……この人の『心』を描かなきゃダメなんだ!」


ヴェルザもそれに呼応するように、画板を取り出した。


「過去の『光』を引き出すのよ。いまの彼の闇を照らすために」


夜が更けても、彼女たちの筆は止まらなかった。


描くべきは、ただの肖像ではない——忘れられた愛、狂気の裏にある哀しみ、そのすべてを包み込んだ『真実の肖像』だった。

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