7-1 セイレナールは海を唄う
海は、静かだった。
いや、ただ穏やかというわけではない。
その青は深く、底の底まで見えぬ不気味さを含み、空の色を映しながらも、どこか異界の皮膜のように揺れていた。
《東方ナヴィルの環礁》海域に差し掛かった《火力船エクソダス》の甲板には、漂う緊張感が張りついている。
「……気のせいかな。空が青すぎない?」
リンの言葉に、ファルがぽそりと囁く。
「『ナヴィルの鏡』って、精霊たちが昔そう呼んでた海域。空と海の境がなくなるほどに静かで、でも、何かが潜んでるって」
テルキが甲板の手すりに肘をついて苦笑する。「うわ、やだなあ、フラグじゃん、完全に」
そんな彼の背中を、ドゥーガが軽くどついた。「ビビるな青年。こういう時はな、火力船のエンジンを信じろ。あれだけ熱くて重たいもんを載せてるなら、精霊だろうが海賊だろうが寄ってこねぇ」
「でも、いますよね? 《白海賊》っていう伝説の女たち」
ファルの声に、誰も即答できなかった。
*
白海賊——それは東方ナヴィルの環礁にだけ出没すると言われる、白装束に身を包んだ女たちの幻影。動力源不明の白い帆船に乗り、弓でも銃でもない、海風と共鳴する謎の力で敵艦を沈めるという。
「彼女たちの頭領は、『セイレナール』と呼ばれているらしいわ」
控えめにそう口を開いたのはヴェルザだった。波を見つめる横顔に、風が金色の髪を泳がせている。
「千年前の戦争で、全員が沈んだ船の亡霊という噂もある。けれど私は、そうは思わない。あの海の『気配』には、怒りではなく、祈りに近いものがある」
「未実装だったイベント……かもしれないな」
リュウジがポツリと呟くと、タクマが肩をすくめた。
「またか。バグかフラグかデバッグ漏れか知らんが、今回はちゃんと『会話できる敵』だといいんだけどな」
その瞬間——
風が変わった。
静寂が凍ったように固まり、船上を満たしていた熱気が急速に奪われていく。《ノクターナル・シンドローム》で赤く染まった空がなぜかこの場所だけ、青の深淵を維持している。
「見える——!」
セレノが叫んだ。
彼の杖の先が、水平線の一点を指している。そこには、海の反射すら拒絶する白が、波を滑るように迫ってきていた。
風が……逆らってる。あの帆船、風向きと関係なく進んでる?」
ファルが息を呑んだ。
それは確かに『船』の形をしていた。だが、物理法則を無視して浮かぶ白い艦体は、まるでこの世界のものではない。水面の影さえ落とさずに滑走し、船体からは常に霧のような薄い蒸気が立ちのぼっている。
そして、その船の先頭に、白いヴェールをかぶったひとりの女性が立っていた。
「——セイレナールだ」
ヴェルザの声は、風に消されそうなほど小さかった。
白装束の女は、こちらを見ていた。目は見えない。だが、その存在感は圧倒的で、まるで海そのものが形を取ったような神秘があった。
「彼女は……戦う気があるのかな?」
タクマの手が、無意識に《三日月ムネチカ》の柄に触れる。
「いや……今は様子を——」
その瞬間、白帆が開いた。
風が唸り、波が裂ける。白い海賊船がまるで無音の弾丸のように《火力船エクソダス》に向けて急接近してきた。
「来るぞ! 白海賊、全艦展開だ!」
ドゥーガの声と同時に、白い艦隊が霧の向こうから現れる。計五隻。すべて、音も火も出さず、蒸気のような気流に包まれていた。
「白海賊、全員女性……しかも、同じ顔?」
リンが目を凝らして叫んだ。
白装束の女たちは確かに『同じように』見えた。年齢も、装束も、目の色さえ。全員がどこか人間味を欠いた『精製された存在』のようで、動きは無駄なく、静かで、凛としていた。
「意思統一が異常だ。人間じゃねえな……でも、AIって感じでもない」
リュウジの分析に、ヴェルザが頷く。
「これは……魂ではない。精霊たちの残響。何かを訴えている。でも、それが言葉になる前に——彼女たちは、戦ってしまう」
「なら、こっちも黙って見てるわけにはいかねぇな」
テルキが《スチームハンマー》を肩に担ぎ、足を鳴らす。
「こっちはこっちで、『未来の残響』だ」
その時、白い旗が風に裂かれた。
開戦の合図。
海が叫びを上げた。
白き艦隊との戦闘——それはただの戦いではなかった。詩のような、舞のような、沈黙の中の咆哮だった。波が高鳴り、陽が翳る。
白装束の女たちは、まるで月光の化身のように、甲板を駆けて来る。
タクマは刀を引き抜き、呟く。
「……セイレナール。神話じゃ、人を惑わす歌姫。だが、現実じゃ——『危険を知らせる存在』だったりもする」
リュウジがうっすら笑った。
「つまり、まだ仕様変更の余地はあるってことか?」
「いや……こんなイベント、聞いたことないよ」
刀先が青に煌めく。




