1-1 祝福の夜
「アルカディア・エンドブレイカーIIIの運営三周年、おめでとう! それでは、乾杯!」
威勢の良い社長の掛け声が、夜の帳が降りかけたビルの食堂に高らかに響き渡った。
瞬間、無数のグラスが澄んだ音を立て、あたかもこの場所に小さな祝祭の鐘が鳴り響いたかのようだった。
東京の片隅にある中規模ゲーム会社、XEONIX。創業から二十三年。
派手な広告展開は少ないが、質実剛健なゲーム作りを信条とし、その姿勢はゲーム業界の一部マニア層から『老舗の名門』とまで讃えられる。
スマートフォンゲームが隆盛を極める現代においても、流行に安易に迎合せず、オリジナルIPを育て続けるその信念は、職人集団とも称されていた。
赤木タクマがXEONIXの扉を叩いたのは三年前のことだ。
学生時代からノートにびっしりとゲームアイデアを書き連ね、誰にも見せずに溜め込み続けてきた。
中学の頃に出会った『エンブレI』『エンブレII』。その独自性あふれるダークファンタジーの世界に魅せられて以降、彼はその世界を「いつか自分の手で創る」と決めていた。そして、いま——。
『アルカディア・エンドブレイカーIII』。通称『エンブレIII』。選択によって運命が分岐する《カオスメーター》、登場人物たちの偽善を崩し真実を引き出す《アークコード》システムなどで知られる幻のRPGシリーズ。時に主人公が非業の死を遂げる《さだめ死》はシナリオ効果と相まって伝説的な話題を作った。
その三作目をスマートフォン向けソーシャルゲームとして復活を遂げたのは、まさに社運を賭けた満を辞しての挑戦だった。
もっとも、タクマ自身はまだ主力とは言えなかった。開発メンバーとして参加はしていたが、実際にはサービス開始後の運営やサポート業務が中心だ。
それでも、心から誇りに思っていた。自分があの「世界」に、少しでも関われたことが。
パーティが盛り上がる中、社長の口からさらなる発表が飛び出した。
エンブレIIIは、皆さんの尽力で素晴らしい成果を出すことができました。SNSでも《さだめ死》の話題がトレンド入りしたと聞いています。
そして実は——PCやコンソール版の要望も、たくさん届いているんです!」
一瞬、ざわつきが静寂を裂き、次の言葉を待つ空気が食堂を包んだ。
「ということで……このたび、三周年記念パッケージを発売します!」
その瞬間、歓声が爆発した。
「ハードはなんですか!?」という誰かの叫びが飛ぶ。
社長は笑いながら片目を瞑り、秘密を打ち明けるように声を潜めて言った。
「なんと……Horizon Linkです!くれぐれもご内密に!」
雷鳴のような喝采が響いた。最新鋭の次世代コンソール。その名が告げられたとき、タクマの胸にも確かに熱いものが込み上げた。
いま、この瞬間に立ち会えていることの高揚感。それは幼い頃、初めて『エンブレ』の世界に足を踏み入れたときの、あの感情と重なっていた。
*
パーティが終わりに近づくと、人々は次第に散り散りになっていった。だが、タクマはその場に残っていた。
ビール(もちろんノンアル)を片手に、古い友人のひとり、青柳リュウジが隣に立っていた。
「……あっという間の三年だったな。記念パッケージの話、マジで聞いてなかったわ。お前、知ってた?」
「ちょっとだけな。単なる移植じゃなくて、いろいろ盛り込む予定だってよ。お前のアイデア、出してみたらどうだ?」
そう言われて、タクマは肩に掛けたバッグから、年季の入った赤いノートを取り出した。表紙は擦り切れ、角には無数の折れ目があった。
「アイデアなら、山ほどある。ただ、どれも捨てられなくて困ってんだよな。ははっ」
「先輩、そのノート……ずっと持ってますよね」デバッグ班の若手、緑川テルキが感心したように言った。
「学生の頃からじゃなかったっけ?」キャラデザの黄嶋リンが、丸眼鏡の奥で目を細めながら笑った。
「赤木先輩の赤ノートって、社内レジェンドっスよ」
「一度出たアイデアは捨てない。これ、俺の信条だからな」
表紙をぽんと叩きながら、タクマは静かに言った。カオとヨウも話に加わってきた。
「私はやっぱり Iが衝撃だったわ。エピローグで勇者が《さだめ死》だもんねー。なんだろう、こう、当時クラスで賛否分かれちゃってさ」
藍色のロングヘアが目を惹くエフェクトデザイナーの黒咲ヨウが合わせて話す。
「そうそう、賛否あったねー。主人公を殺すのはいかがなものか?って」
「いやぁ、IIIのノア姫イベントは伝説だったもんねぇ」
桃山カオは黒咲ヨウと同期のUI/UXデザイナーだった。カオとヨウはいつも連んでいるようで、距離感も近く仲が良さそうだった。
語られる思い出の一つひとつに、タクマの胸はじんわりと熱を帯びていた。
「じゃあ、今夜は遊びながら、ちょっとブレストでもしてみるか?」
リュウジが冗談めかして言うと、全員が「えー、仕事ー?」と笑いながら反応した。
「違うって、遊びだよ、遊び!」
スマホを立ち上げ、仲間とパーティを組み、ゲーム内の狩場へログインする——それはいつもの日常だった。
けれど、その夜は、どこかで何かが違っていた。
*
窓の外では、雨が静かに降り始めていた。
その音は、次第に激しさを増し、やがて打ちつけるような豪雨に変わる。
ログイン直後、違和感が走った。
「……このムービー、見たことない」リンが声を潜める。
「いや、開発中もこんな演出なかった。絶対に」
画面の奥に、見慣れぬタイトルが表示された。
《アークコード:開放準備中》
「アップデート、来週の予定だよな……?」リュウジの声が、どこか不安げに震える。
画面越しに、確かに空気が『揺れた』気がした。
視界がわずかに歪み、音が遠ざかる。
そして。
「ようこそ、開発者たち。いよいよ、始まるわよ——アルカディア・エンドブレイカーの本当の『夢』が」
それは、確かに聞こえた。ゲーム内ナビゲーター、『妖精ファル・フィン』の声だった。
*
その瞬間、世界は音を止めた。
雨は降り続いている。だが、もう誰の耳にも届かない。
夜の食堂に、タクマたち六人の姿はなかった。
残されたのは、激しく降りしきる雨音と、天井からのLEDの光だけだった。