第三十八話
おっさんが朝風呂に浸かり、
昇ってくる眩しい朝日に目を細め、
お盆を湯に浮かべ、ジョッキ焼酎とパステルの漬けたぬかみそにうつつを抜かし──
そして……昔習った小手先の技術で、破かれた畳をそれなりに補修し、
「しばらくのんびりすっぺか」
と、布団を被り、朝寝に入る頃……
遥か遠くに離れた、この国の王が城を構える都市──王都セリオンでは。
──おかしな異変が起きていた。
仕事に向かう者──恋人との待ち合わせに足を速める者。
店先に並べた花に水をかける者、
それを横目に、鎧やローブで装備を整え、ギルドを目指す者達。
それを追い越すように走る馬車。
治安維持の為に街を徘徊する騎士達。
朝日が登り、さして時間の経っていない大通りは、
活気に溢れて…この街には既に、目覚めたばかりとは思えないほどの熱と喧騒が広がっていた。
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人にぶつからない様に歩くのが、困難になってきた大通りには、昨日までの日常であれば……
道ゆく冒険者の通行を、小さな子供が邪魔してしまい、
「どけぇ!クソガキが!!」
などと怒号が飛んだり…
店先に並んだ焼けた串肉を盗んで走り去る男に、
「まてこらぁ!!騎士ども!!さっさとあのコソ泥を捕まえやがれ!!!」
巻き込まれた騎士達も、面倒そうに笛を吹いて、
合図を聞いた離れた者達が、窃盗犯を引きずり倒し、動けなくなるまで暴行を加える……
人も人種も多いこの都市では毎日の様に起こる細事なのだが──
今朝は何故か、柔らかな笑い声と爽やかな笑顔が大通りに溢れかえり、ボロを纏った浮浪者に近い様な者達にも、冒険者ギルドが門戸を大きく開き、日雇いの簡単な仕事を斡旋したり…
母と逸れて泣く子供には、3メートル程もある巨人の騎士が、抱え上げ保護者を高所から探したりしていた。
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──変化は、王城の中でも。
遠く離れた土地を、国王から任されて領主となっている貴族達は、
そちらの治安や景気などは顧みずに、代官に仕事を押し付け……
自分たちは──いかに派閥に力ある貴族を取り込み、
へつらう相手を厳選し、
一滴でも多くの甘い汁を啜ろうと……
そんな事しか考えていない現代風にいうならば、町長、市長、県知事、それらを纏める国会議員。
国王の信念に心から寄り添う者などごく少数であり、
利権、謀、賄賂、汚職に精を出す心の底までドブの様に濁った者達が──
朝からゾロゾロと馬車を手配し、領地に帰ってゆくのだ。
その目は、昨日までの獲物を狙う爬虫類のような眼球ではなく、
鱗の剥がれた、今までの自身の行動を猛省し、一刻も早く領地を静定せねばと燃える。
初心を思い出した様な、立派な政治家達の顔が並んでいた。
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これ程の人々の意識の変化が、一体どこから来たのか?
──新しい神や、教祖でも生まれたのか?
意外と、事実はそんな事ではなかった。
人々の心の排水溝が汚れ、嫉妬、羨望、軋轢といった、家系ラーメンの残り汁を冷やしたような……
ベッタリとこびりつき剥がれない…何百年という年月の間に付着した負の感情が、その流れを悪くしていたのだった。
どこぞのおっさん家族が──それを……
刈り取って、浄化し、猫に戻してしまった為…
怒り、嫉妬、哀しみ、といった、
幸せ、愛情、慈悲、などという流れ去ってしまいやすい感情を押し留め、
良い感じに薄め合いながら、どんどんと排出されて往くのだ。
全部ではない。何事にも、バランスというものはある。
だがそれが正常に混ざり合い流れ出てゆき、
世界の果て迄を巡り、いずれ…また流れ込んでくる。
これらの事態の結末を、人間達が認知できる様になるのはまだまだ先の話なのであるが……
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だが、ここ王都がその昔…小さな農村であった頃から、
一志を貫徹して代々受け継がれてきた、
目指す未来に一切のブレのない国王や──
腹を割って話ができるごく少数の側近や大臣達は……
このささいな機微を敏感に察知していた。
「お前も、解るか…宰相よ。
なんだというのだろうな…この心の底から湧き出る機微は……」
横に控えた、王に負けるかという勢いでハゲあがった宰相は、
「うまくは言えんのですが…空気?の様なものが変わった…としか…私の胸中にもあったこの機微は……」
──キビが刈り取られて人々の機微が変わった──
まるで冗談みたいな話であった。
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昼近くまでぐっすりと眠ったおっさんは──
妙な夢を見た。
「I miss you, Dad」
聞き覚えがあるような、ないような──
そんな声に、何度も何度も呼びかけられた気がした。
「I want everyone to have more fun」
目を覚ましたおっさんの脳裏に浮かんだのは、あの人物──否、あの建物だった。
ボリボリと頭を掻きながら体を起こす。
家族に嫌われたくはないので、起き抜けでもスメルチェックは欠かさない。
階段をノソノソと降りていくと、リビングでは家族全員がそれぞれに寛いでいるようだった。
「メシ、くったんけ?」
誰にともなく声をかけてみると、セーブルとシェリーがトーストやサラダ、軽い朝食を用意してくれていたようだ。
コーヒーを淹れてもらい、それを啜りながら、夢の内容を思い出して口にする。
「なんかよぉ、あのデケえホテルあっぺよ?
アイツがよ……なんか呼んでるような夢を見たんだがよう……」
真っ先に反応したのはトゥエラだった。
「あーーー! ご飯いっぱい出てくるとこー?」
彼女にとって、あのビュッフェは夢のような贅沢なのだろう。
「パーパ……建物と会話してんの? マジウケるんですけど?」
空中に浮かべた光複写魔法を見つめながら、マツゲにのりたまみたいなマスカラをくっつけているダークエルフが、鼻で笑う。
「旦那様が建てられたお宿なのですよね?
魂が宿っていても……おかしくはありませんわ」
リリは何かにアクセスしているようだったが、ふと顔を曇らせ、「建物のゾンビ……?」と、不穏な呟きを漏らす。
「オジサマ、私もまた行ってみたいですわ」
弾けるような笑顔を見せたパステルは──
生前のおっさんであったなら、間違いなく詐欺を疑がってしまうほど。
くらりとくるような美貌を、無邪気に放っていた。
おっさんは、配膳されたトーストを齧り……
相変わらずに甘い、新婚騎士達の蜜の様なジャムを、苦い顔で腹に収めるのだった。