第二十三話
「ふふ…セーくん。大工さんは楽しいのですか?」
いつもは見せない、悪戯っぽい笑みで──
床に張るべき木材に鉋をかける、
王族直属の近衛騎士、セーブル、
おっさんにも明かしてはいない本名…
セシル・フォン・セーブル伯爵
代々、この国の王族を守護する為だけに継承されて来た一族の、現当主であった。
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王国で唯一、派閥に属さない血統貴族。
セシル家とは…数百年前、現在王都と呼ばれる地がまだ、川沿いの集落だった頃から──
当時の村長に生涯を誓い、
そして脈々と今日まで…
何を疑うこともなく王家を守護し続けて来た一族なのである。
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十三代目当主として幼くして叙爵を受けたセシル・フォン・セーブル伯爵は、
自らより十余年も年若き第一王女──パステリアーナ殿下の、
護衛という重大な任を拝命した。
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産着の世話から始まり…
ワンパクで向こう見ずな幼き姫の守護は困難を極めた。
時報よりも数多く訪れる刺客。
離乳食は毒物まみれ。
着替えには仕込み針…と、
押寄せる悪意は、舞い散る花びらの如しであった。
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だが、そんな細事など──
彼は一度として、「起きた」と気取らせたことはない。
「おともだちに、なってくだしゃいませ〜♡」
幼き姫の無垢なる願いに応え、
いつしか彼は、血飛沫舞う修羅場のなかでも──
常に“爽やかな兄”として在り続けた。
日々、バケツ一杯分の血を浴びるような荒事でさえ、
彼の笑顔の前では、
まるで“微笑ましい日常のひとコマ”に過ぎなかった。
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そうして時は流れ、王女はかすり傷一つ負うこともなく美麗に成長した。
セシル・フォン・セーブル──
その名を知る者は、王国広しといえど国王ただ一人。
彼は存在すらも秘匿された、王家の「影」。
けれど、彼自身には何の不満もなかった。
代々続く血統に誇りを持ち、ただ王家のために──
何より、魂命よりも大切な第一王女・パステリアーナのために、己を捧げる日々を過ごしていた。
それはある密命の途上、
王家の資産を横領していたとある神官を、
静かに、そして確実に処理していたその時のこと。
──その隙を突くように、魔の手が伸びた。
パステルに危害が及んだばかりか、
王国の礎たる鎮魂の宝具が奪われたのである。
それは、どれだけの犠牲を払ってでも守らねばならぬ「起源の象徴」。
それを喪うことは、
この国の始まりと終焉を共に断ち切る──
それほどの、取り返しのつかない事態であった。
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押し入り強盗にも等しい、その一件。
王宮の結界をも破り、宝玉を強奪して逃げ去った賊を──
鮮やかに鎮めたのは、ひとりの中年の男だった。
彼はその場に残ることもなく、
盗まれた宝玉だけを鳥に託し、王女のもとへと届けた。
それは、誰よりも信じ、仕え、護ってきたセーブルでさえ、
到底なすことのできなかった迅速さと手際だった。
──その日を境に、姫の世界は変わった。
かつては無垢で天真爛漫だった王女。
けれど今や、彼女の胸元に輝く宝玉は、
本来の「力」を覚醒させていた。
姫はセーブルを相手に、日々の訓練に励むようになり、
王族でありながら、己の身は己で守る覚悟を抱き始めていた。
それはきっと、
あの事件で出会った“名もなき英雄”に──
少女の心が、深く動かされたからなのだろう。
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「セーくんは……ずっと変わらないよね。」
いつでも優しくて、強くて──
そして何より、パステルにとっては誰よりも信頼のおける“頼れる兄”だった。
血の繋がった実の兄は、王宮内にいるとはいえ──
顔を合わせた記憶は、ほんのわずかしかない。
彼は生まれた時から「王位を継ぐ者」として育てられ、
日々、政治と帝王学に囲まれ、少女に微笑みかける余裕など持ち合わせていなかった。
だからこそ、パステルにとっての「家族」とは──
苦楽を共にし、泣き笑いを見守ってくれたセーブルただ一人だったのだ。
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そんなある春の日のこと、
──王女は突然城を抜け出したのだ。
19歳になり、隣国の王子との錫の杯の儀…
幼少の頃より決まっていた、婚約者との結納を前にして、
遥か遠い地でおっさんが何かを成し遂げたという噂を耳に入れ…
見るからに怪しい“変装”を身にまといながら、
王女は平民に紛れて、乗合馬車へと滑り込み
王国から飛び出して行ってしまったのだった。
姫の思惑など、手に取るように熟知していたセーブルは、
王からの指示を仰ぎ、
連れ戻さなくても良いから、守りきれ。
という命を受け、
最低限の兵士と相棒の騎士を連れ、
わんぱく姫の長旅に同行することになったのだった。
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「セーくん?──わたくしはもう、お城には戻りませんよ?」
王都を発ってまだ数時間。
早くもセーブルに拿捕されたパステリアーナは、
ぷいっと頬を膨らませ、敬愛する“兄”を睨みつけた。
「ご安心ください。──連れ戻しに来たわけではありません。」
昔から、姫があの王子を好いていないことなど──誰よりも、セーブルがよく知っていた。
鼻につく礼儀作法と、空気の読めぬ貴族気質。
言葉では飾れても、目は決して笑っていない。
そんな男の傍に、姫を置いてよいはずがない。
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──だが、それでも…迷いはあった。
王級冒険者として知られる、一人の中年の男。
セーブルは、直接言葉を交わしたことこそ無いが──その名と功績は、幾度も耳にしていた。
下水道を“聖域”へと浄化し、
迷宮のごとく入り組んだ王都の、完璧な地図を描き上げた。
寂れていた教会の女神像は、彼の手で光を取り戻し、
──なにより衝撃だったのは、騎士団の武具倉庫の件である。
王都には、貴族の嫡男たちが「国防の経験」を積むため、
形式的に二年間だけ騎士団へ所属する──そんな制度がある。
だがその実態は…目を覆いたくなる有様だった。
育ちの良すぎる“ボンボン”たちは、武具の扱いも手入れも知らず、
倉庫は、折れた剣と歪んだ盾、埃と錆まみれの鉄屑で埋め尽くされていた。
それを──
たった一晩で、男はすべてを変えた。
壁という壁に鉄の箱を打ち込み、
剣の一本、盾の一枚までもが“誰の物か”一目で分かるように整頓され、
錆びついた刃は、すべて研ぎ直されて、美しく光を放っていた。
それはもはや──
「片付け」や「修繕」といったレベルではない。
死んでいた武具たちに“命”を吹き込む、異能の業だった。
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話したこともない、その中年の男に……
どうやら王女は、相当に惚れ込んでしまったようだった。
──しかし。
いくらなんでも、年齢差がありすぎるのではないか?
その一点だけが、セーブルの胸に小さく刺さり、
なかなか抜けぬ棘のように疼き続ける。
だが──どう転ぼうとも、自らの使命は変わらぬ。
この命の灯が尽きるその日まで、
王女を、影のように──いや、空気のように、守り続けるだけだ。
そう言い聞かせ、雑念を振り払いながら、静かに前を向いた。
……まさか、後にその中年の弟子になるなどとは、
このときのセーブルは、露ほども思っていなかった。