第二十六話
延々と続く強制スクロールにも、
さすがに飽きが来ていた頃…
突然、本当にピタリと──
白い嵐が、止んだ。
さっきまで、目の前の家族と会話するにも、
怒鳴らなければ聞こえなかったほどの暴風音が、
まるで嘘のように消え去る。
視界は、まだ晴れない。
けれど、そこにあるのはただの霧ではなかった。
白く立ち込める靄の粒子は、
冷気ではなく……まるで光が霧になったような、
そんな神聖さがあった。
「これは……雲の中なのけ?」
おっさんは呟くが、すぐに首を振る。
──いや、違う。まるで違う。
あの、ダークエルフの神殿。
七柱の女神像が並んでいた、あの空間。
無音で、無臭で、白く、どこまでも広がる場所。
あれに──似ている。
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程なくして、頭上がふわりと明るくなった。
まるで幕が上がるように──白い靄がサァーっと晴れてゆく。
視界が開けたその先に、現れたのは──
雪に閉ざされた山頂とは、
とても思えない光景だった。
陽光が柔らかく降り注ぎ、見渡す限りに、
色とりどりの花が咲き乱れている。
薄紫の高山植物に、真紅の低木の花弁。
風も、香りも、すべてが静謐で穏やかだった。
「わぁ〜…きれーだねー」
トゥエラが、両手を広げて駆け出しそうになる。
「やっと着いたっしょ〜⭐︎」
テティスは満足げにストレッチをしながら、
ウィンクをひとつ。
「はわわわわわ……っ」
リリは両手を口に当て、瞳を潤ませている。
そんな中──
グオオン、と重い音を立てて、
足元の動く石段がぴたりと止まった。
その先には、なだらかな花咲く平原が広がっている。
まるで神様が住んでいそうな、異界の園。
おっさんは、ごくりと唾を飲み込んだ。
テティスが作った階段が、まだ足元に残っている。
ということは——ここは神界や別次元などではなく、
実際に登ってきた山の頂なのだろう。
そっと一歩を踏み出す。
一面に咲き誇る花々。そのどれかを踏まずに進むのは、どう考えても無理だ。
せめて傷つけぬよう、重すぎない足取りで歩く。
踏みしめるのは岩ではない。
柔らかく、それでいて確かな大地の感触。
丘陵のように緩やかな起伏を描きながら、この花の野は遥か遠くまで広がっている。
足元を確かめながら、背後を振り返る。
家族たちの姿を確認し、小さく頷く。
そして——目指すは、
中央にぽつんと浮かぶように存在する小高い丘。
たぶん、あそこがこの場所の“中心”だ。
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近づくにつれ、頂上の姿がはっきりとしてきた。
そこには——朱塗りの鳥居があった。
このファンタジー世界には似つかわしくない構造物。
赤い塗装は煤けて薄れ、
中の木材には深いひび割れが走っている。
それでもなお、鳥居は雄々しく、
堂々とそびえ立っていた。
高さは、ざっと見ておっさん3〜4人分といったところだろうか。
そして、不思議なことに——
鳥居の周囲、半径数メートルほどの地面には
一輪の花も咲いていない。
ひび割れた地面が干からび、
剥き出しの土が静かに広がっている。
まるでそこだけが、世界から切り取られたように。
おっさんは、花畑と荒地の境に立ち、一礼をしてから鳥居へと歩みを進める。
家族たちは鳥居の意味こそ分からないだろうが、
それでも真似をして、ぺこりと頭を下げていた。
——そして、鳥居の向こう。
そこに「何か」がいることは、遠目にも分かっていた。
だが、それは半ば風景に溶け込み、陽炎のように揺らめいている。
よく見ると、ほんのわずかに地面から浮いてすら見えた。
乾いた地面の裂け目の上に、まるくなって眠るように佇むその姿——
それは、猫だった。
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おっさんは、一瞬でわかった。
——あれは、知っている猫だ。
「……みーちゃんけ?」
毎日のように、昼の弁当を強請りにきていた。
すらりとした体つきで、どこか神経質そうな、白い猫。
ある日、屋根から落ちてきたところを——
おっさんが、身を挺して庇った。
……その結果、同じように死んで、
そして、こっち——この異世界に来てしまったのだろうか?
呼ばれた名前に、白猫はピクリと耳を動かす。
うっすらと目を開け、こちらを見た。
数秒、目が合う。
——大きなあくび。
そして、また顔を前足に埋めて、目を閉じた。
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「うははっ」
おっさんは、思わず笑ってしまった。
断崖絶壁の山脈を越え、
映画さながらの雪嵐をくぐり抜け、
ようやく辿り着いた“頂”にいたのが——
かつて、日々を共に過ごしていた野良猫だったとは。
後ろを振り返り、家族たちに「大丈夫だ」と目で合図を送ると、
おっさんはその場に、ドカリと腰を下ろした。
腰袋をごそごそと探り、小皿と、猫が好みそうなものを取り出して並べ、
白猫の鼻先に、そっと差し出す。
「みーちゃん、くわっせ。…いでかったろうになぁ」
その言葉は、自分の“最期”を思い出すことで生まれた。
だが、それ以上に。
自分よりも、この小さな命が感じた痛みを思い、
気づけば——目頭が熱くなっていた。
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年甲斐もなく、ぐすぐすと泣いてしまった。
……正直、ちょっと恥ずかしい。
そんな空気を気にもせず、みーちゃんは——
刺身に唐揚げ、さらには出汁の効いた煮卵まで、
遠慮なく食い散らかした。
器のまわりを爪でカリカリと掻きながら、
「あとで、あとで」と言わんばかりに主張してくる。
気づけば、場の空気はすっかり和んでいた。
「始祖」とか「神域の魔物」とか聞いて、
ボスモンスター級の化け物を警戒していたおっさんは、
拍子抜けして——
その場に、即席でちゃぶ台をこしらえた。
トゥエラに借りた斧の刃を土台にして、土鍋を据える。
そして、晩酌を始めてしまったのだった。
白身魚に、牛すじ、ソーセージ。
ネギに豆腐にもち巾着。
ツミレも、肉団子も、ぜんぶまとめて放り込む。
普通に考えれば、味が喧嘩して、どうにも落ち着かない鍋になるところだが——
今日ばかりは、そんなことはどうでもいい。
おっさんはすっかり上機嫌で、みんなに
「け〜け〜」と料理をすすめ、
焼酎をグビグビあおって、そのまま寝てしまった。
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どれくらい眠っていただろうか——
息苦しさに目を覚ますと、
おっさんの胸の上には……猫が座っていた。
……いや、でかくね?
見下ろしてくるのは、たしかにみーちゃんだ。
けれど、その大きさは——愛車並み。
圧死してもおかしくない重さのはずだが、
不思議と、息ができないわけではない。
むしろ、みぞおちの絶妙な位置を、
前脚でぎゅっ…と押さえつけられているような、
心地よく、鬱陶しい……そんな、猫特有の存在感。
そして——
その巨大なみーちゃんが、のんびりと口を開いた。
「ごめんにゃ〜」