第二十一話
噛むほどに味わい深く、
“極上のイカメシ”を堪能していたその時──
コトリ…という音もなく、
四人の前に漆器の椀が、そっと置かれた。
香りは、まだ漂ってこない。
おっさんが静かに蓋を持ち上げると──
ふわりと、磯の気配と、焦がし味噌の香ばしさが、
湯気とともにあたりに広がった。
──二品目は、貝の味噌汁。
その日の朝に採れたばかりの、
小ぶりながら旨みの強いヒオウギ貝を使い、
白味噌と焼き味噌を合わせて仕立てられている。
潮の香りがじわりと立ちのぼる、深い味噌の香ばしさ。
口に含めば──
まるで、干潮の岩場にできた潮だまりへ、
そっと掌を差し出したとき、
海が静かに、優しく包み返してくれるような……
そんなぬくもりを感じた。
甘じょっぱいイカ飯を──
深みのある貝出汁と焼き味噌の香りが、
静かに、けれど確かに洗い流していく。
味噌汁の余韻は、まるで舌を濯ぐ潮騒のようだった。
塩気、旨味、香り……全部が絶妙の波で押し寄せる。
しばし沈黙が流れる。
娘たちは、誰も口を開かない。
ただ、ぼんやりと眼を伏せて──
味の記憶を、じっと胸に刻んでいた。
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そして空腹は…ゆっくりと浮上するように、
身を沈めていた味噌汁の主役──
ヒオウギ貝の身をそっと引き上げ、噛みしめる…
帆立のようにぷりっと弾ける歯ごたえの中に、
ほんのわずか、筋肉質なコリッとした噛み応えが混じる。
──そして何より、旨味が強すぎる。
トゥエラじゃないが、嚥下するのが惜しい。
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──ふと気づけば──
目の前にはすでに、
三品目と四品目が、静かに配膳されていた。
一つは、ワイングラスに注がれた
島野菜のスムージー。
片や、小鉢に盛られた、
見た目も涼やかな生ウニと海藻と甘夏のサラダ。
今し方まで生きていた、
殻付きのウニから剥ぎ取った実を──
豪快に、だが美しく盛り付けた逸品。
土台には、海藻とほぐした甘夏を和えたもの。
とろみのある酸味のタレが、素材を繋ぐ。
濃緑と橙のコントラストが美しく、
そこにぽってりと盛られたウニが、
ひときわ濃厚な“黄昏”を演出していた。
夜明けではない。
それはまるで──夜景のようであった。
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雲丹の上に数滴の醤油を落とし、
まずはそれだけを口へ……
舌の温度で溶けてしまうその身は…
噛むことも、飲むことも出来ない。
建築家として、気安く災害を表現には使いたくはない。
──ないのだが──
旨さの津波だ。
イカ飯と貝出汁の築き上げた防潮堤を粉砕する、
幸福の高潮が口内を蹂躙する。
次に、添えられていた大さじに、
海藻サラダとウニを盛りつけ咀嚼してみれば、
プチプチと弾ける柑橘の酸味に、
ねっとりとした海藻が絡み…
そして濃厚な雲丹が全てを纏めてくれる。
海葡萄のような茎海藻から出るとろみが、
早摘の柑橘をマイルドに包み、
そこへ協調性など欠片も持たない潮の暴力が
……不思議と調和する。
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潮騒が飽和を起こしそうな口へ、
色の濃いドリンクを迎えると、
海の幸とは真逆の…畑の恵み。
紫芋をベースに、赤紫蘇が悪戯を仕掛け、
完熟のブルーベリーが僅かに香る。
全てをリセットし、
大地に引き上げてくれる濃厚なスムージー。
この一巡が、綿密に図られた五島列島巡りであった。
器から全てが消え去るまで、恵の巡礼は続く…
量としては、ビュッフェの数皿にも及ばない、
頂の朝食。だが、家族達の表情は、満たされていた。
「〆がまた、うめーんだっけ」
テーブルにあった食器が全て、
霧のようにふわっと消え去る。
そして、最後の器が召喚された。
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この一杯こそが、あの偏屈オヤジのすべてだった。
島の恵みだけを使い、
一本一本、手で引き延ばした──五島手延べうどん。
──そして、それに“乗せる”ことすら拒否した別皿のかき揚げ。
もう一皿、脇に添えられたのは、ただの粗塩。
言葉などいらない。
この三点で、“料理人の矜持”がすべて語られていた。
箸で麺を持ち上げ、汁をひと口、啜る──
……濃い。
だが、しょっぱくはない。
鼻に抜けるのは、焼きあごの強く香ばしい香り。
まるで、朝の浜辺で焚いた漁火のような、
野性と清廉を併せ持つ味わいだった。
指先に粗塩をひとつまみつけ──
それを舐め取ってから、
揚げたてのかき揚げに、かぶりつく。
サクッ……
音と同時に、おっさんの中で何かが崩れ落ちた。
──限界だった。
「おい! おんちゃん!!」
厨房の方角に向かって、思わず怒鳴ってしまう。
すると、ゴトン!
おっさんの目の前に、
大ジョッキに並々と注がれた島焼酎ロックが、
何も言わずに叩きつけられる。
おっさんは、まるで水でも飲むように、
それをガブガブと煽り──
「ゔぁ〜〜〜っ……」
ひと息ついて、ぼそりと呟く。
「……でれすけ同士……わがってんでねぇの……」