第二十話
段ボールのような色味になってしまった、おっさんの左腕は──
ぬるま湯と、水流のマッサージ効果で、
次第に血流を取り戻す。
まるで“漏電したコンセントを、
握り続けていたような痛み”も、
徐々に解放され……壊死は、免れた。
「すんもんじゃねぇな……」
後悔を滲ませる呟きと、ぐぅぅぅ〜っと鳴る腹の音。
──おっさんは、晩酌中ほとんど食わない。
ゆえに朝は、1日の中でいちばん腹が減っている。
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スヤスヤルームへ様子を見に行くと、
猫の着ぐるみパジャマに包まれ、
くるりと丸くなって眠る幼女を発見する。
優しく肩を揺らし、「メシだぞ」と耳元で囁けば……
寝起き1秒でフルチャージ。
「ごはん!?やったぁぁあぁぁ!!」
キャッキャとベッドの上で転げ回る姿に、
思わず笑みがこぼれる。
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次は、テティス。
何処ぞの王妃でも眠っていそうな──
北欧の天然無垢材で組まれた、天蓋付きベッド。
骨組みには黄金の細工がこれでもかと施され、
純白のカーテンで包み込まれた奥から、声がする。
「パーパ? もうあーし起きてるし〜〜
マジあざまる水産〜〜♪」
なんかの会社名みたいなフレーズを、鼻歌交じりに口ずさみながら──
鏡の前で、真剣な表情で化粧をしている娘の姿があった。
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アクアリウムなリビングへ向かうと、
リリがコポコポと音を立てながら、
コーヒーを淹れていた。
昨夜とは打って変わった、
どこか憑き物の取れたような明るい笑顔。
「お早ようございます、旦那様」
「早えなっす……」
香ばしい湯気を立てるカップを受け取り、
ソファーに腰を下ろす。
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テレビ──は、当然だが地上波など映らない。
けれど、
館内案内チャンネルのような番組が流れており、
画面の中では、美味そうな朝食ビュッフェが所狭しと並べられていた。
新鮮な野菜、
焼き立てのパン、キラキラ光る果物たち。
娘たちもぞろぞろと集まってきて、
テレビの前にかぶりつき。
──ディナーとはまた違う、
朝の爽やかさと、みずみずしさが際立つ朝食映像に、興奮を隠せないようだった。
「おとーさん!ここおいしそ〜!いきた〜い!」
「ヤバこれ!アゲ町不動産〜〜!!」
などと目をキラキラさせてせがんでくる娘たち。
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だが──おっさんは、
カップをくるくると傾けながら、
ぽつりと呟く。
「今朝は、違うんだっけ……」
重い腰を上げ、家族を引き連れて向かう先は──
ブルーラグーンのある別館・最上階、ではなく。
静かに開く、ホテル本館の地下フロア。
そこは、選ばれし者だけが足を踏み入れる、
“朝の聖域”であった──。
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昨夜のうちに、フロントで予約しておいた…
というか、カウンターに置かれていた、
特別な、エレベーター用カードキー。
これを機械に通さないと、
最下層のあの神域には決して運んでもらえない。
液晶モニターを見ても、地下1Fより下階は、
表示すらされない。
他のフロアでは必ず聞こえる、
「◯◯階でございます」というアナウンス──
……その声すら鳴らず、無音のまま開く自動ドア。
本来であれば、割烹着の女将が入口に立ち、
予約名を確認して個室まで案内する。
だが、この朝は違った。
そこに人の気配はなく──
深藍の暖簾だけが、
静かに揺れていた。
中央には、白抜きの書風で、ただ一文字。
『頂』
それだけの名を掲げた、無言の朝食処。
おっさんは娘たちを促し、中へと足を踏み入れる。
小上がりの個室が五つ。
そのうち、たったひとつだけ──襖が開いていた。
「ここさはな、メニューもなんもないんだ」
靴を脱ぎ、座布団に腰を下ろしたおっさんが、
小さく呟く。
この店を預かるのは、
建設中に幾度も打ち合わせを重ね、
酒を酌み交わし、意気投合した──孤高の料理人。
あの日あの時、島で仕入れた最上の素材を。
たった五皿に凝縮して供する、
“五島の頂”の名を冠した、神域の朝食。
それが、この場所だった。
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四人が席に落ち着いた、その瞬間──
フワリと音もなく、冷水のグラスが、それぞれの前に差し出された。
海の恵みを豊富に含んだその一杯は、
舌にふれるとひやりと冷たく、
まるで喉奥へと自然に滑り込むような、極上の水。
まるで“今朝の口”を整えるために
仕組まれたかのような、
そんな一滴だった。
だが──
ただひとつ。おっさんのグラスだけは違った。
それは、ほんのわずかに島焼酎が垂らされた、
“深海仕立ての”特製水割り。
厨房の奥から、料理人がニヤリと笑ったような気がして──
おっさんは、肩をすくめて苦笑しながら、
静かに杯を傾けた。
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海の底から始まる、至高の五皿。
その幕が、いま──しずかに、あがった。
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最初に、四人の前にそっと置かれたのは──
今朝、目の前の海で釣り上げられた水イカ。
その胴体を、丁寧に掃除し、
生姜醤油ベースで下味をつけた
もち米とうるち米を程よくブレンドし、
たっぷり詰め込んで炊き上げた──
まるで“海の方舟”を思わせる、ふっくらとしたイカメシ。
イカの香ばしい香りと、生姜のほのかな辛みが、
鼻腔と胃袋を、瞬時に刺激する。
箸で割れば…中からは艶やかに炊きあがった米が、
ほろりと顔を覗かせ──
口に運べば、柔らかさと弾力、甘みと香ばしさが、
ひと噛みごとに交錯する。
それはもう、
「朝食」などという言葉では到底くくれない、
“食の覚醒”とも呼ぶべき一撃だった。
いつもなら、
まるで戦場で敵を屠るがごとく──
ガツガツと喰らいつくトゥエラですら……
このイカメシだけは、違った。
ひと口食べたその瞬間から、動きが止まり、
もぐもぐと、いつまでも咀嚼を続けている。
やがて、両手でほっぺたをおさえたまま、
瞳を潤ませて呟いた。
「……おいしすぎて……のみこめない〜……」
それはまるで、
“終わってしまうのが惜しい”とでも言うような、
そんな切なさすら宿した言葉だった。