表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
135/279

第二十話

段ボールのような色味になってしまった、おっさんの左腕は──

ぬるま湯と、水流のマッサージ効果で、

次第に血流を取り戻す。


まるで“漏電したコンセントを、

握り続けていたような痛み”も、

徐々に解放され……壊死は、免れた。


すんもんじゃねぇな(しなきゃよかった)……」


後悔を滲ませる呟きと、ぐぅぅぅ〜っと鳴る腹の音。


──おっさんは、晩酌中ほとんど食わない。

ゆえに朝は、1日の中でいちばん腹が減っている。


➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖


スヤスヤルームへ様子を見に行くと、

猫の着ぐるみパジャマに包まれ、

くるりと丸くなって眠る幼女を発見する。


優しく肩を揺らし、「メシだぞ」と耳元で囁けば……


寝起き1秒でフルチャージ。


「ごはん!?やったぁぁあぁぁ!!」

キャッキャとベッドの上で転げ回る姿に、

思わず笑みがこぼれる。


➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖


次は、テティス。


何処ぞの王妃でも眠っていそうな──

北欧の天然無垢材で組まれた、天蓋付きベッド。


骨組みには黄金の細工がこれでもかと施され、

純白のカーテンで包み込まれた奥から、声がする。


「パーパ? もうあーし起きてるし〜〜

 マジあざまる水産〜〜♪」


なんかの会社名みたいなフレーズを、鼻歌交じりに口ずさみながら──

鏡の前で、真剣な表情で化粧をしている娘の姿があった。


➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖


アクアリウムなリビングへ向かうと、

リリがコポコポと音を立てながら、

コーヒーを淹れていた。


昨夜とは打って変わった、

どこか憑き物の取れたような明るい笑顔。


「お早ようございます、旦那様(だんなさま)


早えなっす(おはよう)……」


香ばしい湯気を立てるカップを受け取り、

ソファーに腰を下ろす。



テレビ──は、当然だが地上波など映らない。


けれど、

館内案内チャンネルのような番組が流れており、

画面の中では、美味そうな朝食ビュッフェが所狭しと並べられていた。


新鮮な野菜、

焼き立てのパン、キラキラ光る果物たち。


娘たちもぞろぞろと集まってきて、

テレビの前にかぶりつき。


──ディナーとはまた違う、

朝の爽やかさと、みずみずしさが際立つ朝食映像に、興奮を隠せないようだった。


「おとーさん!ここおいしそ〜!いきた〜い!」


「ヤバこれ!アゲ町不動産(テンション爆上げ)〜〜!!」


などと目をキラキラさせてせがんでくる娘たち。



だが──おっさんは、

カップをくるくると傾けながら、

ぽつりと呟く。


今朝は、違うんだっけ(あそこじゃねぇんだ)……」


重い腰を上げ、家族を引き連れて向かう先は──


ブルーラグーンのある別館・最上階、ではなく。


静かに開く、ホテル本館の地下フロア。


そこは、選ばれし者だけが足を踏み入れる、

“朝の聖域”であった──。


➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖


昨夜のうちに、フロントで予約しておいた…


というか、カウンターに置かれていた、

特別な、エレベーター用カードキー。


これを機械に通さないと、

最下層のあの神域には決して運んでもらえない。

液晶モニターを見ても、地下1Fより下階は、

表示すらされない。


他のフロアでは必ず聞こえる、

「◯◯階でございます」というアナウンス──


……その声すら鳴らず、無音のまま開く自動ドア。


本来であれば、割烹着の女将が入口に立ち、

予約名を確認して個室まで案内する。


だが、この朝は違った。

そこに人の気配はなく──

深藍(ふかきあいいろ)の暖簾だけが、

静かに揺れていた。


中央には、白抜きの書風で、ただ一文字。

『頂』


それだけの名を掲げた、無言の朝食処。


おっさんは娘たちを促し、中へと足を踏み入れる。

小上がりの個室が五つ。

そのうち、たったひとつだけ──襖が開いていた。


「ここさはな、メニューもなんもないんだ」


靴を脱ぎ、座布団に腰を下ろしたおっさんが、

小さく呟く。


この店を預かるのは、

建設中に幾度も打ち合わせを重ね、

酒を酌み交わし、意気投合した──孤高の料理人(頑固オヤジ)


あの日あの時、島で仕入れた最上の素材を。

たった五皿に凝縮して供する、

“五島の頂”の名を冠した、神域の朝食。


それが、この場所だった。


➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖


四人が席に落ち着いた、その瞬間──

フワリと音もなく、冷水(海洋深層水)のグラスが、それぞれの前に差し出された。


海の恵み(ミネラル)を豊富に含んだその一杯は、

舌にふれるとひやりと冷たく、

まるで喉奥へと自然に滑り込むような、極上の水。


まるで“今朝の口”を整えるために

仕組まれたかのような、

そんな一滴だった。


だが──

ただひとつ。おっさんのグラスだけは違った。


それは、ほんのわずかに島焼酎が垂らされた、

“深海仕立ての”特製水割り。


厨房の奥から、料理人(あのオヤジ)がニヤリと笑ったような気がして──

おっさんは、肩をすくめて苦笑しながら、

静かに杯を傾けた。



海の底から始まる、至高の五皿。

その幕が、いま──しずかに、あがった。


➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖


最初に、四人の前にそっと置かれたのは──


今朝、目の前の海で釣り上げられた水イカ(アオリイカ)


その胴体を、丁寧に掃除し、

生姜醤油(しょうがじょうゆ)ベースで下味をつけた

もち米とうるち米を程よくブレンドし、

たっぷり詰め込んで炊き上げた──


まるで“海の方舟(はこぶね)”を思わせる、ふっくらとしたイカメシ(逸品)


挿絵(By みてみん)


イカの香ばしい香りと、生姜のほのかな辛みが、

鼻腔と胃袋を、瞬時に刺激する。


箸で割れば…中からは艶やかに炊きあがった米が、

ほろりと顔を覗かせ──

口に運べば、柔らかさと弾力、甘みと香ばしさが、

ひと噛みごとに交錯する。


それはもう、

「朝食」などという言葉では到底くくれない、

“食の覚醒”とも呼ぶべき一撃だった。


いつもなら、

まるで戦場で敵を屠るがごとく──

ガツガツと喰らいつくトゥエラですら……


このイカメシ(第一の一皿)だけは、違った。


ひと口食べたその瞬間から、動きが止まり、

もぐもぐと、いつまでも咀嚼を続けている。


やがて、両手でほっぺたをおさえたまま、

瞳を潤ませて呟いた。


「……おいしすぎて……のみこめない〜……」


それはまるで、

“終わってしまうのが惜しい”とでも言うような、

そんな切なさすら宿した言葉だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ