第十九話
夜は静かに、その深みを増していた——
子供たちもすっかり寝静まった頃…
おっさんのベッドルームに、
着崩した浴衣姿のリリが訪れた。
この“海底寝室”には、プライベートバルコニーが備えられており、
本来であれば喫煙は、外の灰皿を使うのがルールなのだが……
おっさんは気にも止めず、
ベッドサイドの小さなテーブルで、紫煙を燻らせていた。
部屋に充満する煙に、バイオレットラグーンの反射が混ざり合い──
幻想的というよりは、どこか“怪しい占いの館”のような雰囲気を醸し出している。
手にしたグラスの中は、魂の炭酸水割り。
そこに数滴垂らしたポン酢が、
ほのかな柑橘を香らせる。
通称:柑橘系ストロング酎ハイ。
リリの来訪に少々驚きつつも──
「眠くないのけ〜?」と、不細工に笑って、
薄めのポン酢サワーを作ってやる。
対面の椅子には座らず、
おっさんのすぐ隣に腰掛け、
しなだれかかってくる専属受付嬢。
「……お慕い申し上げます」
潤んだ瞳で妖艶な目配せをしつつ、おっさんの顔へとゆっくり近づいて──
しかし、そのタイミングで、
お洒落なカクテルグラスに注いだ酸っぱい酒を、
おっさんがリリの顎をクイッと上げて、スッと流し込んでしまう。
「……ッ!?」
覚悟していた“感触”とは違う、
硬いガラスの口当たりに、目を丸くするリリ。
けれど、文句を言うでもなく、
しっかり咀嚼(?)し、頬をぷくっと膨らませる。
「……美味しいです。……ケド。」
ハムスターのような可愛さで膨れっ面をするリリに、
おっさんはヘラヘラと笑って──
「おめは、んなことしねでも……めんごいんだわ」
「無理すんでね。……」
そう言って、リリの頭を優しく撫でる。
まるで波音のように静かな、夜のひとときだった。
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「……不安なんです。貴方が突然、
どこかへ消えてしまうのではと……」
リリは瞳を潤ませ、曇った眼鏡の上から、おっさんをじっと見つめていた。
「…ですから…深い絆を…」
などと内情を暴露し始める美女に対し、
「こんだらこぎたねぇおっさんさ、妙な気使うんでね。
慕ってくれるもんをうっちゃけて、どこかさいっだりしねから、心配すんでね。」
と訛り切った東北弁で告白してみた。
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風呂上がりで暑いのか、頬を真っ赤に染める受付嬢。
「窓あけっけ?」
と夜風を導き、煙草臭い部屋を換気する、
壮大な鈍感系主人公であった。
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長崎県・五島列島の片端に存在する──
Sanctuary
名もなき小島に、
たったひとつだけ建つ、
静けさの聖域。
ここは、
都会の喧騒から遠く離れ、
ただ、
波音とともに眠るためだけに、生まれた場所。
それが、このホテルの名称である。
──そして今、
海の果てから目を覚ました朝焼けが、
雰囲気作りを終えた寝室に、
容赦なく差し込んできた。
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結局──
汗臭いおっさんの腕を枕に、
リリは幸せそうな寝息を立てていた。
腕の麻痺と強烈な神経死の狭間で、
なんとか彼女を起こさぬよう、
ベッドルームからの脱出に成功したおっさんは──
壊死寸前の左腕を抱え、
洗面台のぬるま湯にて、
応急処置を施していた。
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昨夜の情景が頭の中で何度も再生されるが…
おっさんがリリを抱くことは、多分ない。
若かりし頃、
出張先の南国で、妻と出会った。
大地震と津波の被害により、
瓦礫の山となってしまった街並み。
その撤去と、仮設住宅の建築、
行方不明となってしまった島民の捜索などで、
大工として派遣された青年。
そんなとき…煙草が切れてしまい、
禁断症状で仕事が雑になり掛けた…そんなとき。
昭和の駅弁売りのような、
見窄らしい木箱を首から下げた少女が──
若干湿気ったメンソールタバコを、
一本づつ手売りしながら歩いて来た。
浅黒く、長いソバージュに魅せられた青年は、
「箱ごと買わせてくれ」と、
カラフルな一万フィリピンペソの札束を、
少女に握らせた。
呆気に取られる煙草売りに微笑みを浮かべ、
スーッとこないメンソールに火をつけ、
日本の渋い俳優を意識して煙を吐き出した。
若い頃からさっぱり整っていなかった顔面は、
それでも少女を微笑ませた。
一年以上の復旧工事をひと段落させ、
帰国の途につく青年に…
寄り添い手を繋ぐ少女の姿があった。
それから十数年、喧嘩もしたが、
仲睦まじく暮らしてきた。
…つもりだった。
ある日突然、故郷へ帰る。
と彼女に言われ、
謝ることも、
宥めることも、忘れて怒鳴り散らしてしまった男。
そして独身となり、
仕事と酒だけにのめり込み…
それでも。妻を愛していた。
それからというもの、
おっさんはスナックやキャバレーで鬱憤を晴らすことはあっても、
異性を口説くことは辞めた。
もちろん、ホモな訳では無い。