第十八話
エレベーターが静かに開き、最上階の廊下へと足を踏み出す。
館内とは思えぬほど落ち着いた照明に、上質な絨毯の足触り。
一番奥——
重厚な扉の前に差し出したキーが「カチリ」と音を立てて解錠されると、
おっさんはトゥエラを抱いたまま、ゆるりとドアを押し開けた。
「お〜し、着いたど〜。ここが最上階スイートだっぺよ」
部屋に入った瞬間——
「うわっ!?なにこれっ!?」
「おとーさん…床に…床にお魚さん泳いでる〜〜〜〜!!」
「ちょ、なにこれ!?やばすぎ!!SNSバズるってばこれ!!映えすぎっしょ!!」
広々としたリビングルーム。
その床の大部分が透き通った強化ガラス張りになっており、
その下にはライトアップされた海水アクアリウムが広がっていた。
優雅に泳ぐエイに、小さなウミガメ。
カラフルな熱帯魚が珊瑚の間を抜け、
どこからどう見ても、本物の海の中である。
「……おいおいおい、
こんな生き物、どう考えても地球の南の方から召喚してきたべ?」
おっさんが半分呆れ顔でぼやくと、
テティスはアホ毛をぴょこぴょこ揺らしながら床に寝そべり、
「ねーねーおとーさん、ここ住も?今日だけじゃなくて永住しよ?」と冗談を飛ばす。
リリはうっとりとアクアリウムの上を歩き、
「まるで空を飛んでるみたいです……」と夢見るように呟いた。
トゥエラはすっかり目を覚まし、
ガラスの床に張り付いて「これ食べられるやつ?」と、指を魚に向けている。
おっさんは苦笑いしつつ、
「ちがう。これは観賞用。今は食い物じゃねぇから」とやさしく頭を撫でた。
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女性陣は、はしゃぎ回り、大喜び。
笑い声が部屋いっぱいに響き渡る。
おっさんは、それを尻目に──
冷えたジョッキを片手に、しみじみと…
この部屋の工事の苦労を思い出していた。
なにせ、あれは……
なかなかに無茶な設計だった。
リゾートホテルとしては前代未聞。
最上階のスイートルームの、
その一つ下のフロアが──
まるまる“機械室”。
人工海水を作り出し、24時間常に循環し濾過する。
水温調整のヒーターや、
具合の悪い魚は簡単にピックアップし、
治療水槽にも移せる。
もちろん上階の床面には苔ひとつつかぬ様、
ワイパーロボも配置されている。
全ては、スイートルームのアクアリウムを、
常にクリアに保つための、専門フロアだ。
それを最初にプレゼンされたオーナーは、
ぽかんと口を開け、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で言ったものだ。
「……最上階の下が、機械室??」
それでも──
構造も強度も難解な、図面を夜な夜な引き…
自ら、五層にもなる強化ガラスを組み立て、
ついには“海底ジオラマ”まで作り込んだ。
完成したスイートルームを内覧したあの日、
オーナーは静かに涙を流し、
「こんな部屋、見たことない……あなた、
本当に天才ね」と言ってくれた。
あの瞬間──
おっさんは、
本当に、大工でよかったと思ったのだった。
たとえ、誰もが首をひねる無茶な図面でも。
誰かの「感動」に繋がるなら、それは、大工冥利に尽きる。
静かな満足を胸に──
おっさんは、ジョッキをもう一口、静かにあおった。
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ベッドルームの床に敷かれた水槽には、
生き物は入れていない。
その代わり、ほんのり紫色に着色された人工海水が、ゆるやかに波を描いていた。
静かな水面は、天井にもユラユラと反射し──
寝室全体を、まるで深海の夢の中にいるような、
幻想的な空間に染め上げている。
ここはただのベッドルームではない。
ムーディーで、落ち着いた大人のための
“海の部屋”だ。
そして、中央に鎮座するのは──
無駄な装飾を一切排した、額縁のみのシンプルなウォーターベッド。
そこに身体をゆっくりと預ければ、
視界を揺らめく紫の反射が包み込み、まるで海の底に沈んでいくような心地に誘われる。
チャポ……チャポ……と、耳元に届くのは、かすかな波の音。
その音が、静かに、ゆっくりと──心の奥まで沁みわたり、
極上のリラックスと、深く穏やかな眠りへと、
やさしく導いてくれるのだった。
他にも、まるで宝石箱のようにきらびやかな、
ラグジュアリールームや、
トゥエラたちが目を輝かせるような、
可愛らしくて安心感に包まれる「スヤスヤルーム」も用意されている。
「今日は……あの部屋がいい!」
「え〜!テティスはそっち!?じゃあ、わたしもそっちがいい〜!」
そんな声が響く中、みんな思い思いの寝床へと散っていく。
静けさと、柔らかな水の光に包まれて──
シーサイドリゾートの夜が、ゆっくりと、深く、更けていった。