第七話
朝の光をたっぷりと取り込み、
おっさんは目を覚ます。
やはり、地面が少し高いだけで、環境というものはガラリと変わる。
おっさんにとっての水分といえば、酒かコーヒーしかない。
とりあえず、今日はコーヒーを淹れてすすることにした。
窓辺に立ち、街並みを見下ろす。
馬車や冒険者、商人風の人々が、
忙しなく道を行き交っていた。
昨日は作業に夢中で気がつかなかったが、
この王都という街は、思っていた以上に広いようだ。
遠くには、お城が――
電子ジャーくらいの大きさに見える。
城のまわりにはぐるりと堀があり、
その水が川となって街中を流れ込んでいる。
川には何本も橋がかかり、
ノッポな教会のような建物がひとつ、
その近くには、たしかギルドがあったはずだ。
そして、やたらと広い公園もある。
樹海にいた頃、よく食べていた――
ワニ蝙蝠みたいな鳥が、
遠くの空を悠々と飛んでいる。
朝食は、パンだ。
街中の店で、普通に売っていた。
それをやや厚めに切り、
ピザソースを塗って、チーズとベーコンを散らす。
オーブンはないので──
フライパンと、娘の斧で挟み焼きにするという荒技だ。
……そういえば、アイツ《サイ》は元気だろうか?
起きてきた子どもたちと、朝食をすませる。
トーストは嫌いじゃない。
ないんだが……
あれだ、口の端が擦れてヒリヒリすんのがな。
着替えて、ギルドへ向かおう。
今日が始まるようだ。
「程よい依頼〜…」
掲示板を眺めていると、受付嬢が笑顔で手招きしてくる。
美人の機嫌がいいというのは、
それだけで心が安らぐものだ。
おっさんは腰袋から、
山脈団子虫の血をかけ、
山カマキリの足を冷やして固めた菓子
……を取り出し、そっと差し出す。
美人は、破顔して喜んだ。
何の用かと尋ねてみると、
美人は口をリスのようにポリポリさせながら──
金貨が山ほど届いているのだと告げた。
港町の収益の余剰金、
鉱山からの莫大な利益の一部、
荒野の猫たちからの上納金まで。
量にすれば、フレコン一杯分はありそうだという。
おっさんは、端数だけを受け取り、
残りは「ギルドや街のために使ってくれ」と放棄した。
さらに、美人にそっと端数の金貨を渡し、
「娘たちを連れて、服でも見繕ってやってくれ」
と言い添えた。
子どもたちのお守りは、美人に任せた。
おっさんは、掲示板から適当な依頼書を一枚剥がし、仕事へ向かう。
この仕事は街の中で事が足りるようだ。
のっしのっしと石畳を踏みしめながら進む、おっさん。
……今日は、貴族だ。
独身貴族である。
アバンギャルドな事件でも起こってしまうのだろうか?
などと他愛もない妄想を膨らましながら…
たどり着いた場所は…
教会である。
自宅から見えた、あの美しい斜塔の教会……ではなく、
街の雑踏に埋もれそうな、
小さく趣のある建物だった。
見上げた窓には、割れたステンドグラス。
屋根の上に掲げられた、十字架は、傾いたまま斜めを向いている。
外で掃き掃除をしている、シスター服の女性に声をかける。
「依頼で伺った、冒険者ですが」
手を止め、ゆっくりと振り向いたその人は──
二十代前半くらいだろうか。
美しい金色の髪に、宝石のような蒼い瞳。
……どうやら、今日は美人に縁のある日らしい。
「……お越し頂き、感謝します。中にマザーが居りますので──」
小さく頭を下げながら、彼女は手で扉を示した。
おっさんは、相変わらず軋む木の扉を引く。
中の構造は、簡素な礼拝堂のようだった。
古びた長椅子がいくつも並び、
正面には、説法台らしき台座。
そのさらに奥──
石で造られた、女神風の像が静かに佇んでいる。
歩みを進めると──
七尺《約二メートル》はありそうな脚立の頂点に、
ひょいと跨って、神像の頭を雑巾でゴシゴシと磨いている人物がいた。
「いらっしゃぁい、子羊ちゃ〜ん」
甲高く、伸びやかな声が礼拝堂に響く。
……マザーがいた。
純白のシスター服を纏い──
……纏いきれていない剛腕から、
チラつくすね毛を風に揺らしながら、
女神像の頭を、執拗に磨き続ける。
「ちょぉ〜っと待ってちょうだいねぇ〜」
磨き終わったのか、
聖母は脚立の頂点から軽やかに飛び降りた。
おっさんは、
ドロップキックを警戒した。
「その……依頼で来たのだが……」
戸惑いを隠せないおっさんに、マザーが嬉々として言う。
「貴方の行いを神に感謝ぁ〜するわぁ!
私のことはポーネと呼んで頂戴。
表にいたのはエミリーよぉ。
……それで、お仕事だったわねぇ?」
怪物は、吹き抜けの屋根を指差した。
「雨がねぇ〜、落ちてきて困ってるのよぉう。
女神様も、禿げちゃいそうだわぁ〜!」
おっさんも天井を見上げる。
急勾配の屋根裏には、ところどころ陽の光が洩れ、
高所窓も割れているのが目についた。
「ここは……なぜ、こんなに傷んでいるんだ?」
当然の疑問として口にすると、
ポーネは脚立に肘をかけながら肩をすくめた。
「前任の神父がねぇ、お布施を横領してたのよ」
「へぇ……」
「信者もみーんな、斜塔の大教会に流れちゃったわ。
で、残ったなけなしのお布施まで──
あのエミリーが、野良猫と孤児に使っちゃうのよぉ。餌付けってやつねぇ」
「……ああ、そういう……」
「それでぇ……依頼金なんだけどぉ……」
どこか申し訳なさそうに、モジモジと身をすくめるガチムチ聖母。
……全然良くない。
おっさんは懐から依頼書を取り出して、金額に目を通す。
一般的な労働者の、一日分の賃金。
「……金なら、いいぞ。なんなら寄付もしよう」
運ぶのも面倒な金貨の山は、今ギルドに預けてある。
あれから一掴みほど持ってきて渡せば、
この教会だって、しばらくは潤うだろう。
雷にでも撃たれたのか──
ポーネの燃える紅い瞳が、カッと見開かれた。
「な、なぜぇなのぉ……!?
あんただって、生活があるんでしょぉ〜……!」
おっさんは無言で、虹色免許証を取り出す。
金の心配はしていない、とだけ告げると、
まずは今日は修理プランの立案と、下準備を済ませるつもりだと説明する。
「……じゃあ、外から梯子で上がってみるか」
そう言って扉に手をかけようとした、その時だった。
ギイィィィイ……
外から扉が開き、差し込む朝の光の中に、ひとりの少女が飛び込んでくる。
「ポセイドン様っ!
猫ちゃんたちが来ました! ごはんを、買わせてくださいっ!」
「エェミィリイィィィィィ!!!」
教会の天井が揺れるほどの大声が、礼拝堂に響き渡る。
「ポーネと呼びなさあぁぁぁぁい!!!」
謎のこだわりを貫く聖母、全力の怒号である。
「ぽせ……」
かすかに聞こえた声を背に、
おっさんは無言で扉を後ろ手に閉めた。
外に出て、改めて屋根を見上げる。
本格的な仮設足場は後回しにして、
まずは現調《現場調査》だ。
二連梯子をカタカタと伸ばし、
足元には滑り止め付きの地下足袋を履く。
急勾配の屋根に、慎重に取りつく。
……登る前から分かってはいたが、
実際に見ると、なかなかの角度だ。
簡単に言えば、
研いだ鉛筆くらい。
いくらおっさんでも、
足場なしではまともに歩けないような傾斜だった。
屋根の上には、かつては美しかったであろう煉瓦瓦。
今はもう、あちこち剥がれ落ち、
下の木板がむき出しになっている。
「修理……ねぇ」
梯子の頂上、地上およそ十五メートル。
おっさんはタバコに火をつけ、煙を吐きながら腕を組む。
しばらく思案したのち、おっさんは梯子を静かに降りた。
地上に立ち、周囲を見渡す。
住宅や商店がひしめくこの一帯。
教会と隣の建物の間は……一メートル、いや、それもない。
壁ぎわを慎重に歩きながら、教会の外周をぐるりと一周してみる。
「……足場、やってから考えっけ」
腰袋へ手を差し込み、
中から鉄柱を──ヌルヌルと取り出すのだった。