玲瓏たる月の夜に
「それでは、どうぞそちらを。尤も、淑景舎のような上質なものではありませんが」
「いえ、そんな滅相もありません! ……その、ありがとうございます月夜さま」
それから、しばらくして。
玲瓏たる月の輝く宵の頃、お部屋にて柔和に微笑みそうお告げになる月夜さま。彼女の言うそちらとは、平安時代の敷物である褥のことだけど、上質じゃないなんて滅相もない。尤も、上質でなくても不満なんて全くないけれど。
……ただ、それはともあれ……もう、寝た方が良いのかな? ここはご実家であり、周囲の刺すような視線もないし、何よりあの暖かなご両親がいる。なので、後宮よりも圧倒的に安心感はあるだろう。
それでも、そもそもこちらに帰ってきたのは過度のご心痛のため……だとしたら、僕なんかでも彼女が眠るまでは起きていた方が良いのかも――
「…………へっ?」
刹那、思考が止まる。何故なら――卒然、そっと胸を突かれたから。すると、褥へと仰向けに倒れ茫然とする僕に覆い被さる清麗な少女。そして、クスッと微笑み口を開いて――
「――ようやく、この日が来ました。いつしか、ずっと待ち焦がれていたこの日が」
すると、卒然そう仰る月夜さま。……えっと、いったいどういうことだろう? 待ち焦がれていたなんて、今のこの状況に最も似つかわしくない類の――
「……藤壺さま、梅壺さま――ここまでなら、私への嫌疑は至極尤もと言えるでしょう。ですが、帝さまの崩御により私への嫌疑はほとんど晴れた。何故なら、先の御二方と帝さまの死因は恐らく同じ――だとすれば、御三方を黄泉の国へとお送りした人物も恐らくは同じ。……尤も、まだ人物とも限りませんが……ともあれ、客観的にも最も寵愛を受けていた私が、彼を亡き者にするはずがない――即ち、必然先の御二方についても私の仕業ではないということになりますから」
「……あの、月夜さま……?」
すると、僕の困惑を他所に滔々とお話しなさる月夜さま。そう、梨壺さまのご証言から、御三方――藤壺さまと梅壺さま、そして帝さまの死因は恐らく同じと推測された。なので、犯人も同一人物と推測されていたのだけど……そうなると、客観的にも帝さまの寵愛を最も受けていた月夜さまが犯人だとは極めて考えづらい。そもそも、藤壺さまと梅壺さまの死に関する月夜さまに対する嫌疑も帝さま絡み――即ち、大本の帝さまが亡くなってしまっては前提自体が成り立たないわけで。
……だけど、月夜さまはいったい何を仰っているのだろう。彼女が犯人でないことなんて、今更言うまでもなく明白で――
「――ですが、皆さんの嫌疑は概ね正しかったのですけどね」
「……………………へ?」
すると、呆然の最中そうお告げになる月夜さま。……概ね正しい? あの根も葉もない、理不尽極まりない嫌疑が? いったい、彼女は何を仰って――
「……まあ、必ずしも必要だったかどうかは定かでないのですが……それでも、藤壺さまと梅壺さまには退場していただいた方が都合が良かったのです。私を除けば、あの御二方は帝さまからお呼ばれになる頻度が高かったので」
「……あの、何を……」
「さて、その後は私さえ適当に理由をつけしばらくお呼びにならないようにお願いすれば、必然他の方がお呼ばれになります。他の皆さんも、それぞれ位は違えど帝さまの后――私が来ないからと言って、その間ずっと誰にもお声を掛けないわけにもいきませんし」
「……あの、月夜さま……」
「そして、藤壺さまも梅壺さま――そして、私以外からとなると、それまで機会のなかったお后さま方にも機会が巡ってくる。そう――例えば、梨壺さまにも」
「……あの、月夜さ……っ!! まさか……」
卒然、脳裏に衝撃が走る。……いや、まさか……だって、そんなの……でも、今のお話から推測するに、もはやそれ以外には――
すると、僕の反応から察したのだろう、満足そうに微笑む月夜さま。そして、ゆっくりと微笑み口を開き言葉を紡ぐ。
「――ええ、恐らくはお察しの通りです。彼女が帝さまにお呼ばれになった、あの宵にて――私は、彼を黄泉の国へとお送りしました。まさに目の前で、他人がこの上もない苦痛に苛まれ生命を――これほどに、心に甚大な傷を残す出来事もそうそうないでしょう?」
「…………そん、な……」
「……尤も、自身でも少なからず驚いてはいるのですけどね。よもや、かの源氏物語に登場する六条御息所さながらに生霊となって他人様に取り憑こうとは。尤も、彼女と異なる点があるとすれば、私の場合は夕顔や葵の上のように恨みの対象でなくとも取り憑けること――そして、どうやら憑依を『自身の意思』で出来るということです」
「…………」
月夜さまのお言葉に、ただただ茫然とする僕。……月夜さまに、そのような……それも、ご自身の意思で……でも、だとしたらどうして……なんて、流石に分からないはずもない。なので――
「……それで、帝さまを……? 梨壺さまを、完膚なきまでに追い込むために」
そう、おずおずと尋ねてみる。恐らく……いや、間違いなく知っていた。尤も、どういう経緯かは分からないけど……それでも、梨壺さまと僕の密通を彼女は知っていたんだ。だとすれば、梨壺さまに対する月夜さまの行動の動機は多少なりとも理解できる。今のところ推測だけど、多少なりとも理解できる。
……ただ、それでも……帝さまを亡き者にする必要まであったのだろうか? 彼は、月夜さまを誰よりも愛していたのに。……やはり、他のお后さまとも関係を持っていたから? 帝というお立場上、仕方のないことだとは思っていても、やはり途方もないご不満が――
「――ああ、それは違います。もちろん、小賢しい脅迫により伊織に手を出した梨壺さまに罰を与えるという意図はありましたが、それはついで――私の標的は、最初から帝さま一人だったのですから」
「…………へ?」
そんな思考の最中、仄かに微笑みお告げになる月夜さま。……えっと、どういうこと? 最初から、帝さまお一人とは――
「――そうですね。私なりのけじめ、といったところでしょうか?」
「……けじ、め……?」
「……梨壺さまの件にて、ようやく気が付きました。自分の男を盗られることが、こんなにも耐え難い苦痛であることに。なのに、帝さまと――他の男性と交わっていながら、私の方だけその状況が終わらぬまま貴方を求めるのは道理が通らない。
なので、申し訳なくも帝さまにはいなくなっていただきました。私の立場上、永久的に彼のお呼びをお断りするのは困難ですし……かと言って、貴方と共に帰省したいとの旨をお伝えしても、帝さまには万が一にもご承諾いただけなかったでしょう。あくまで架空の世界でのお話ではありますが、源氏物語にて桐壺帝からこの上もないご寵愛を受けていた桐壺の更衣も、亡くなる直前まで宮中からの退出を許可してもらえなかったですし」
「…………」
そんな彼女の言葉に、ただただ茫然とする僕。そのため、だけに? 藤壺さまを、梅壺さまを……そして、帝さまを、そのためだけに? ただ、僕を手にするためだけに――
「――ひょっとしたら……あるいは、私の願望なのかもしれませんが、伊織も私と同じ苦痛を抱えていたのかもしれません。帝さまと――他の男性と度々身体を重ねる私に対し、日々私と同じ苦痛を感じていたのかもしれません。だとしたら、本当に申し訳ありません。
ですが、もうご心配は無用です。今後、永遠に私は貴方だけのもの――そして、貴方は私だけのものです」
すると、そう言ってぐっと距離を詰める月夜さま。そして、茫然自失とする僕にそっと唇を重ね――
「――っ!!」
刹那、思考が停止する。……身体が、熱い。その唇から伝わる愛情が、灼熱の如く僕の身体を巡る。
……僕は、知らない。恋も、愛も、何も知らない。語れるような経験なんて、何もない。
……それでも、分かる。これほどの熱情は……これほどの深い愛情は金輪際、彼女をおいて他の誰からも注がれることはないと。
それからしばしして、そっと唇を離す月夜さま。そして、そっとご自身の衣服に手を掛け、ほどなくその素肌が顕になる。玲瓏たる月に照らされ、幻想のような美を放つその素肌が。
そして、ただ茫然とする僕をじっと見つめ微笑む月夜さま。肌だけじゃない、その髪も、瞳も、唇も――彼女の全てが、言葉に尽くせない、この世のものとは思えない美しさに呼吸さえも出来なくて――
すると、僕の衣服にそっと手を掛ける月夜さま。そして、その艶やかな唇をゆっくりと開き言葉を紡ぐ。目眩がするほどに蠱惑的な――それでいて、この上もなくあどけない笑顔で。
「――まだ、夜は始まったばかりですよ? 伊織」




