お礼
「――それでは、僕はこれにて失礼致します。お休みなさい、月夜さま」
「ええ、今日もご苦労さま。お休みなさい、伊織」
朧な月が浮かぶ、その日の宵の頃。
例の如く、清涼殿の御前にてそんなやり取りを交わす僕ら。以前と比べ――具体的には、一人でお伺いしたあの日以降は少し緊張が和らいで……あれ、それも良くないのかな? なにせ、国の統治者たる帝さまの御前――それ相応の緊張感は抱いて然るべきなのかも。
ともあれ、月夜さまをお見送りした後ゆっくりとした足取りで淑景舎へと向かう。少し疲れたけど、今日もすごく楽しかっ――
「――こんばんは、伊織さん。今、時間あるかな?」
「…………へっ?」
そんな感慨の最中、不意に届いた朗らかな声。驚き振り向くと、そこには――
「……こんばんは、梨壺さま。はい、今でしたら差し支えありません」
「そっか、良かった」
僕の返答に、パッと微笑みそう口にする可憐な少女のお姿が。……でも、いったいどうしたのだろう? それも、こんな時間に……あっ、もしかしてあの時、気付かぬ間に彼女に何か粗相を――
「――そう言えば、助けてもらったのにまだお礼を言ってなかったなって。まあ、桐壺さんに邪魔されちゃったのもあるけど」
「……へっ? ああいえ、お礼だなんて滅相もありません! どころか、こちらこそお礼を申し上げてなくて申し訳なく――」
「ふふっ、何回謝るの? ほんと、面白いね伊織さん」
すると、僕の反応に可笑しそうに微笑む梨壺さま。そのご様子からも、何か失礼なことをしてしまったわけではないようで……ふぅ、良かった。
「まあ、そういうわけだから、ひとまず部屋に来てくれないかな?」
「……えっと、お部屋とは梨壺さまの?」
「うん。さっきのお礼の話だけど、伊織さんが欲しいものって分からないから。だから、直接見て選んだもらった方が良いかなって」
「いえ、どうかそのようなお気遣いなどなさらないでください! そもそも、先ほども言いましたがお礼を申し上げるのは僕のほ――」
「ふふっ、静かにしないと聴こえちゃうよ?」
「……あ、はい……」
すると、何処か悪戯っぽく微笑みそう口になさる梨壺さま。みっともなく慌てる僕の唇に、そっと人差し指を添えて。……しまった、つい大きな声を。
「まあ、細かい話は後でするとして、とりあえず部屋に行こ? ほら、ここじゃ目立っちゃうし」
「……あっ、えっと……はい」
すると、そっと僕の手を取りそのように仰る可憐な少女。……いや、本当にお礼なんていらないのだけど……でも、確かにあまり他人様に見られて良い状況ではないだろう。なので、困惑はさて措きひとまず彼女の後をついていった。




