朝がない、明日はない 2024/09/07 12:31
自分の人生なんてどうでもいい。他人のこともどうでもよくて、悲しむのが苦しくて私はいつも橋の中央で立ち尽くしている。実際橋の向こう側、つまり欄干を登ったその一歩先は死の世界である。どこまでも深く暗いこの闇は私達を引き摺り込もうとする。この世とあの世の境は至る所に存在し、別の次元の入り口などと呼ばれるがそんな大層なものじゃないと感じる。光があれば影ができる。ちょうど、闇を照らすはずの街灯はついたり消えたりを繰り返す。もし、コインの裏と表でこの世が表の世界ならあの世は裏側であり、その間は存在しない。もし存在すると仮定するならばそれは、確実な死に直面した刹那の一瞬、シュレディンガーの猫のように観測されていなければ、その存在を認めることすら不可能である。
生きるのが嫌だから、死にたいと思っても深い深い心の底の方では死にたいと思うのと同じぐらい生きたいと思っているのかもしれない。死んでしまえば人世はそこで終わり、それ以上のことは何も起きない。と言うか、そうでなければ困るというか死んでも尚生き地獄ではいつまでも笑えない。いつ死ぬのかは誰にもわからない。青いまま散る葉もあれば、秋まで健気に待って枯れていく葉もある。秋を乗り越えたところで冬になってしまえばそれを乗り越えることができないとわかっている訳でもなく、ただ単に自然の摂理に任せ、効率のみを優先させ春を待つ。私は、どちらになるのだろうか。自分の最期を最初から知っていれば、あるいは。
寂しいなんて言葉は愚鈍な人間風情が海よりも広い心を端的に表した言葉の一つに過ぎず到底、真の底を掴み取ることなどできようはずがない。私達の心は、私達自身でしか表すことしかできないのだから。それを理解しているにも関わらず、それを許容する余裕が人間にあるはずもない。
生あるものは死ぬ。それは地球史上ずっと続いてきた当たり前だ。今この時も世界では誰かが死んで、その死を悲しむ誰かがいる、あるいはいないかもしれない。だが、私達はそれを知っていながらのうのうと毎日を惰性で生きて生きたその先に死は大きく口を開けて待っている。中には刺激を求めるものもいるだろう。だが、実際に行動に移すものはその中でもマイノリティな存在だ。死なずに生きていくことなど不可能であると理解していようが、理解しようとしていようが構わず世界は理不尽に回り続ける。それが、時の流れであり、世界の定めだからだ。もし、この世に時間という概念が存在しなければ死ぬことはなかったかもしれない。時間=timeが存在しないのであって他の呼名に変わることもない単純に時の流れが一切ない世界。それこそ、コインの裏と表の間の世界に値する世界なのかも知れない。
思い返せば私達は、常に生まれた環境を憎み、周りを嫌い、昨日を嫌い、明日を嫌ってきた。それが私達の表の世界だと信じ、教えられてきた訳でもない。それを覆すほどの知性も理性も持ち合わせていないのに、それ以上を求める滑稽な存在であったと笑う。だが、そんなこと他人の死よりもどうでもいいことだ。自分の興味を惹かれるものにしか関心を示さないのは至極当然だからだ。
苦しい世界に打ちのめされるために生まれたわけじゃない。そんなことは理解している。理解を越える何かが私達にはない。ただそれだけだ。
橋の中央に立ち、振るえる手で欄干の手すりを掴みその上に立つ。その瞬間、突風が顔のすぐ横を吹き抜け、少し俯く。地獄に降りてきた蜘蛛の糸を必死になって求めるように、右手は強く水銀灯を掴んでいた。さっきまであったアスファルトの安心感がそこには無い。あるのは全てを飲み込む真っ暗な闇だけだ。その闇は私達の心も死すらも受け入れてくれるように感じた。楽になろうなどとは思わない。今の世界から抜け出せることができればそれでいい。
世の中は善人と悪人に分けることはできない。正確には、その性質を両方持った醜い生き物が社会を形成しているだけだからだ。人の心は、水槽に例えるとその中の水でしかない。その水が、清く透明な人もいるだろう。反対に水槽の底が見えないほど汚れた水の物もいる。汚れた水はもともと透明だった。かもしれない。人を妬み、過去に縛られ、日々を怠り次第に暗い水となる。水槽の大きさはこころの大きさを表すなどとよく言うが、茶碗ほどの水しか入れることができない器ではすぐに感情が溢れ出てしまう。水の汚れもすぐに目立つようになる。逆に海ほどの大きさの器があれば人を受け入れることができるのかもしれないが私には関係のない話だ。
自殺者が多発していることからここは、心霊スポットとしても自殺の名所としても有名な場所だ。私も今はここに立っているが数秒後にはあちら側になっているのかもしれないと思うと滑稽に思えた。なぜ手が震えているのか分からない。あんなに強く願っていたはずの一つの気持ちが、あんなに苦しませていた痛みがまだ私を離してくれない。実際にはこれが生き物としての生存本能なのかもしれない。怖い、生きたい、死にたい、疲れた、寒い、いろんな感情が渦巻いて一瞬フラッとして足を滑らせた。ぐわっと闇が深くなってブラックホールのように吸い込まれるような感覚に堕ちた。驚くほど簡単に人間は死ぬのだとその時本当の意味で知った。なぜか涙がでた。その瞬間、本当に走馬灯って見るんだと楽観的に思った。実際に脳内ではこれまでの人生を有り得ないほどの速さで駆け巡っていた。走馬灯は動物が死に直面した時、生き残るため、最善の道を自分の過去の経験から探すために起こると言われているそうだ。私は落ちている間際にもまだ未練を残していたのかとうんざりした。だが、もうすぐそんなことも忘れて死んでしまうのだからどうでも良いと思った。さぁ、これで本当にこの世からおさらばだ。ふと、なぜ自分は今こんなに長い時間考えることができているのかと疑問に思った。50mはあろうかという橋から落ちたのだからそれなりに落下するのに時間はかかるだろうが、それにしても長い。もう、60秒以上は立っているはずだ。思い切って目を開けてみた。すると、そこは知らない世界だった。