二十一話 スライムとの決着
決して油断していたわけではない。
このスライム戦に、僕は出来る限りの準備と脳内シミュレーションを重ねてきた自負がある。傍から見れば、過剰だと思われるほどに。
筋トレをし、本を読み、記憶からスライムの弱点を探った。
それでも尚、このパターンは想像していなかった。
いや……考えたくなかったというべきか。
「ふっ、ふっ、ぅ、ぐぅう……」
『ギチ……ギチ……』
現在、スライムは僕の両膝を包むように捕縛し、凄まじい力で圧迫している。その圧力は経験したことのないものであり、既に足が酷く痺れていた。
そして、これこそがスライムの目的。
獲物の機動力を奪い、確実に殺すための作戦だった。
「はっ、はぁ……っ、ぃ、ぎっ」
『ギチギチ……ミシミシ……』
まるで重たい荷物を足に乗せられているような、じわじわと広がる痛み。
心なしか圧迫感も増してきているように感じる。僕の足が機能しなくなるまで、そう時間はかからないだろう。
地面に伏したまま、必死に手を伸ばす。
少しでも前に進むために。少しでも生き残るために。慣れない匍匐前進を懸命に続けた。
しかし。
『ピ、ギュッ』
「が、ぁ……こ、こいつ……!」
スライムを通して感じる地面の感触が、変わった。
さっきまでは固いサポーターを地面に擦り付けているようだったのに、今はまるでスパイクでゴリゴリ削っているみたいな感じだ。
恐らくはまた形状を変化させて。
地面との摩擦を増やそうとしているのだ。
ゴリゴリ、ガリガリ。
「ふん、っぐ……くそっ、くそぉっ!」
進みが段違いに遅くなる。ただでさえ迷宮の地面は角張っているというのに、こんなことをされては堪らない。
このままでは扉に着く前に殺される。
足を使えぬ僕なぞ、格好の的だ。そのまま突進されて終わりだろう。
「はっ、はっ。……ひ、ぐっ」
どうしてこんなことになるんだ。
あの日の焼き増しの如く、涙が溢れる。それは死による恐怖か。それともこの世の不条理に対する無力感か。
どちらにせよ、絶望に違いなかった。
『ギチ、ギチ。ミシ、ミシ』
「ぁ、あ、あぁ……」
最後の抵抗すらも奪うように。無情にもスライムは僕の両足を壊していく。
もはや足の感覚が痺れ過ぎて、自分の膝から下が真っ白になったとすら思えてくる。
もう、立ち上がれない。
こんな状況でどこか冷静な脳の一部分が、無感動にそう呟いた。
「ぁ、あ……」
『……ドロ』
立ち上がれない。
タイムリミットが来た。地面を擦るスライムの感触が変化している。離れる気だ。
僕を殺す気だ。
僕を殺す。
あと数秒もしない内に離れて、震えて、殺される。
死ぬ、死ぬ。
死ぬのは嫌だ。いくら覚悟しても、やっぱり嫌だ。
死ぬのは怖い。死ぬのは……。
『……ぅ、ぅぅ、あぁぁ……』
頭の中で甲高い子供の泣き声がした。それはどこか懐かしくて。
暖かい布団にぽっかり穴が開いたような寂しさを、あの夜を思い出した。
死ぬのは怖いことだ。
死んだらもう誰にも会えないのだ。死んだら、死んだら……。
残された人はどうなるんだ。
「――」
……母さんは、泣いていた。普段、あんなに強くて凛々しかった母さんが、父さんに置き去りにされて、泣いていた。
子供のように。
僕は何もできなかった。
ただ布団に包まり、一人分だけ穴の開いた家から寂しさが流れ込み、その寒さに耐えていた。
……覚えているさ。
「――ぉ、おお」
残された人達は泣くことしかできない。耐えることしかできない。
去ってしまった人に、僕達は何もしてあげられないのだ。
だったら、お前は。
そんな悲しみを。そんな夜を。
また、母さんに押し付けちゃ駄目だろう。
僕の関わった人たちに、死という離別を突き付けるなんて、駄目だろう。
死んでもいいなんて駄目だ。そんなのは駄目だ。
……あぁ、そうだ。分かっている。分かっているよ。
そうだよなぁ。
全部ぶっ壊してやる。
「おお゙、ぉお゙お゙ぉぉぉぉぉ゙!!」
喉が張り裂ける程に叫び、手を地面に突き立てる。それは奇しくも前回と同じ行動だった。
這い蹲った格好から反転、顔を天井へと向け起き上がる。
以前と同じ、地面に座り込むような姿勢。
だが今度は逃げるための策じゃない。
戦うんだ。
死なないために逃げるのではなく。
生きるために戦うんだ。
生きて帰るために、僕は殺すんだ……!
「っ、なぁ、スライム君よ。僕は、はぁ、知ってる、ぜっ」
『ピギュ、ピギュ……』
……現在、スライムは距離を取るために体を元の粘液状へと戻しつつある。
さっきまでの硬化した状態なら無理だったろうが。
今ならば、効くはずだ。
「君の体の、くっ、九十パーセントは、水で出来ている……つま、りぃっ」
『ピ……』
二番目のポーチに手を伸ばし、容器を取り出す。
秘密兵器を使う時が来た。
ガラス瓶の中に入っている白い粉末。
それは――塩であった。
「喰らえぇ、えっ!」
『ピッ……!?』
蓋を強引に外して中身を全てぶちまける。
スライムの体が入り込んだ異物に驚愕したように固まった。その隙を逃すことなく、僕はスライムへ塩を練り込んでいく。
近所のスーパーで安売りしてた300グラムの食塩様だ、たんと味わえよ……!
『!? ピギ、ピギィッ!』
「ぅ、お、足が、ぁあ……!」
手の中でスライムの体が暴れる。
すると必然、足も刺激されるわけで。僕は言葉にできない衝撃に身悶えした。
例えるなら三時間正座して痺れ切った足に足つぼマッサージを受けるような、そんな苦痛。
意識を失いそうになるが、それでいい。
どんどん暴れろ。それが君の自由を奪い、追い詰めていく。
『ピ、ギ、ギ……!』
「ぉ、おぉっ。どう、だっ。固まって、きた、かっ?」
浸透圧、というものがある。
理屈は僕もよく知らないが、とにかく塩を混ぜると水分が抜けるらしい。
ナメクジに塩をかければ縮むのと同じ理屈、と言えば分かりやすいか。
これを知ったきっかけはとある狂った官能小説であった。
題名は、『我がスライムよ、永遠に』。
裸で長時間スライムに抱き着いていたところ、スライムが縮んでいたことに気付いた著者が涙したシーンである。
どうやら体の汗により縮んだらしいが……何で汗をかいていたのだろう。悍まし過ぎて考えたくもない。
だがそんな変態的行為が僕を救っているのだから、とんだ皮肉であった。
「ぅ、ぐぐっ、ぅぅう~っ」
『ギ、ギ……ピギ……ッ』
「くっ、ぁ、まじ、かっ?」
塗り込んだ塩により水分が抜け、動きが鈍くなったと思った矢先。
ここにきてスライムは再び硬化を始めた。
しかも先程よりも遥かに強い、破壊的な圧力で。
『ギ、ィイッ!』
「が、ぁっ、や、ば……!」
ゴリゴリギチギチミシミシ。
体積の減ったスライムが、膝の少し下……脛骨を万力のように締め付けていた。
あまりの痛みに、視界がバチバチと弾ける。
「ぃ、あ゙、ああ゙あ゙ぁぁああ゙っ!」
『ギィイイイイッ!!』
ミジ、ブチ、ギュチ。
肉が破壊される音が、僕の絶叫の中に混じって聞こえる。いや、実際は聞こえておらず、痛みがそう幻聴させたのか。
「ぎ、が、ぁっ、あ゙、ぁっ」
『ピギ、ピギ、ピギィッ!!』
もはや抵抗することも叶わず、仰向けに倒れた僕は闇雲に正解を探す。
この圧力は普通ではない。もし元々出来るなら、さっきの状況でやらない理由がないからだ。
水分が減ったことで、スライムは硬度を増した。
これが答えだ。
問題はない。追い詰められているのはスライムのほうだ。
時間は僕の味方であり、やがてスライムの体は崩壊していく。
だから大丈夫だ。大丈夫、大丈夫……!
「かはっ、ひっ、んぎぃっ、いぃ゙っ!」
『ピギィッ!!』
……ああ、くそ! まだ、なの、か!?
こんな痛みをあと、どれだけ我慢すればいい!?
今にも足が千切れそうだ。いや、本当に千切れてしまうのではないか。
恐怖心が再び僕を襲い。
そして、そして。
『ピ、ギ』
その時は来た。
「――ぁ」
ボギュ、ギ、グヂ。
喪失感と共に不快な破壊音が響き渡り……。
「ぁ、ああ゙あぁ゙ああぁあ゙ああ゙っ!?」
折れた壊れた千切れた消えた。
神経という神経を凌辱する痛みの暴力に、僕はただ叫んだ。頭の中に思考は存在せず。本能的な情報が脊髄を通過した。
「ひっ、ひっ、ぇぐ、あぁ、あぁぁ……!」
折れたのはどちらの足なのか。右か左か。もしくはどちらともか。
どこが折れてしまったのか。
分からない。
とても、痛い。
「ぐ、ぅう~……ううぅ~……」
鼻水と涙で顔はびちゃびちゃだ。
僕は何度、迷宮で無様を晒せば気が済むのだろう。うるさい、好きでやってるんじゃないんだ。
誰が好き好んでこんな、痛い思いを。
違うそうじゃない。今はそうじゃなくて、しっかりしろ。
「ふっ、ぅ、ひっ、ぐ。……す、スライム、は……?」
震える腕で肘を付き、ゆっくりと上体を起こす。
そうして視界に入った情報から得られたのは、二つ。
一つは僕の折れた脚は左足だってこと。不自然にぐにゃりと曲がった足が不気味だ。痛み以外の感覚がないのも、心底恐ろしい。
そしてもう一つは……。
『ピ……ギ……ギ……』
「はぁ、はぁ……そこ、か」
視線の先。
僕から二メートルは離れた場所に、スライムはいた。
引き摺っている内に崩れたのだろうか。スライムの通った地面には、青色の小さな塊がいくつもあった。
赤色の核を揺らしながら、ボロボロと崩壊していくスライムは、それでも動き続けている。
僕から逃げようとしてるのか……?
痛みで朦朧とする頭でそう考えた瞬間、僕は考えを改めた。
スライムは動きを止め、静かに震え始めたのである。
『ピ……ピ……』
「……あぁ、そうかい。ちくしょう、分かったよ……」
震える度に、スライムの体が崩れていく。もう原型を留めることも難しいようだ。
これが最後の攻撃だというのは僕にも分かった。
スライムという生き物の、最期の一撃。
それを見て、僕は上半身を起き上がらせることにした。
「ふっ、ぐ……! おぉ、お」
寝ていれば、スライムの攻撃を躱せるかもしれない。というかたぶん、それが正解だ。
馬鹿なことしてるってのは、自分でも分かってるんだけどなぁ。
「ぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ……」
『ピ、ピ……ッ』
決死の思いで座り込み、眼前のスライムを見据える。
さっき見たよりも震えは大きく、そして損傷も増えていた。スライムの体の傍には青い塊が散乱しており、球体は凹凸が激しい状態になっている。
あと、十秒ってとこか……。
「……思えば、初めてこれを使うなぁ」
左手は鞘に、右手は柄に。左親指で押すように鯉口を切り、体を捩じって刀身を露わにしていく。
ひゅん、と一振り。
両手でしっかりと刀を持ち直した僕は、改めてスライムに視線を送る。
準備はいいか、と。
「……」
『……』
……不思議と、その静寂には恐怖がなかった。
痛みで頭がおかしくなってしまったのだろうか。少し前まで、足を折られて泣いていたというのに。
今はとても、落ち着いている。
疲れた眼に映るは宿敵の姿。
研ぎ澄まされた集中が世界を遅延し、意識を飲み込んでいく。
「……」
『……ッ』
来る。
『ピ、ィッ!』
打ち出された弾丸は、体が朽ちようとも衰えることはなかった。
自らの速度によって更に崩壊していく青色の閃光。
その中で一際輝く、赤く赤く煌めく星を――
銀閃。
右斜め上段から振り下ろした刀はスライムの核を捉え、一拍の拮抗の末、両断した。
『ィ……イィ……』
「……強かったよ、君は……本当に、本当に……」
目の前で崩れていくスライムの体を見て、そう呟く。
もう返ってくる声はない。
刀を振り抜いた姿勢のまま、指一つ動かさず、ゆっくりと息を吸って。
「……あぁ」
痛いほどの静寂に包まれながら。
この一瞬だけ、僕は痛みを忘れて目を閉じ……。
生きて帰れる喜びに、一筋の涙を流した。




