二十話 戦いの中で成長するもの
角ばった岩肌の壁が仄かに光を灯し、地下特有のひんやりとした不気味な空気が頬を撫でる。
迷宮に潜るのはこれで二度目だが、未だ緊張は抜けない。
鞘に添えられた左手に力が籠る。
地面を踏みしめた音と、己の呼吸音がやけに大きく感じられて、煩わしかった。
「……ふぅ、大丈夫だ」
言い聞かせるようにそう呟く。
まだ『扉』は見えていない。世界の常識を信じるならば、魔物は出現しないはずだ。
過度な緊張は能力の低下につながる。
一度、落ち着くべきだろう。
「すぅ、はぁ……」
立ち止まり、深呼吸をする。
僅かに激しくなった心臓を宥めようとするが上手くいかない。
冷静になろうとしても、前回の光景が脳裏に過ぎるのだ。
点滅する視界。両腕が折れる感覚。死への絶望。
二週間経ったとはいえ、それらが完全に消えることはない。
僕は額に滲んだ汗を手の甲で拭い、天井を見上げた。
「はぁ……まいったな」
迷宮の中にいる限り、この不安は永劫付きまとう。
僕が物語のヒーローとかだったら、それすら飲み下して頑張れるのだろうけど。
生憎と僕は良くて小悪党。悪くて道端の糞だ。
覚悟一つで恐怖を克服できるほど、凄い人間じゃない。
さっきのメリアさんだってそうだ。
僕が本当に善良であるなら、あんな無理に決めさせるはずがなかった。
もしかしたら彼女には彼女の事情があって、僕の言葉で傷付いてしまうかもしれなかったのに。
頼まれてもいないことを勝手に押し付けて。
こんな我儘な奴が、ヒーローになんかなれるはずがないんだ。
「……でも」
でも、嫌だったんだよ。
名前がないって寂しそうに言う彼女に、同情して、気を遣って、謝って。
そうして何も無かったように話すのが嫌だったんだよ。
たとえそれが世間での善だとしても。
僕は自分勝手な悪を選んでしまった。
その方がいいと、望んでしまったんだよ。
酷く気持ちの悪い欲望だ。
分かっているさ、そんなこと。僕は悪人だ。
「……そうだ、僕は悪人なんだ」
だから誰かを助けるためだとか、守るためだとか。そんなかっこいい理由で行動するんじゃなくて。
僕はただ、ひたすらに意地汚い。
迷宮に潜る理由? お金のためだ。
それだけだろう。贅沢な暮らしがしたくて潜るのさ。
父さんが残した遺産も尽きて、家が貧乏だから、それが嫌だから剣を取るのだ。
誰のためでもなく、金のために。
金のために、金のために、金、金、金だ。
「くひっ……うん、それなら命を懸けられる」
死ぬのは怖い。前回感じた痛みは鮮明に思い出せる。今にでも逃げ出したい。
けれど僕は弱いから。
その不安を退ける力なんてないから。
最も分かりやすく明確な理由に頼るのだ。
「金、金……僕は何のために冒険者になった? 金を稼ぐためだろう。今までもずっと、そうしてきたはずだ」
中学の時、歳を偽ってバイトしたのも。母さんに黙って適合者検査を受けたのも。
冒険者になり、今ここにいるのも全部、金のためだ。
だったら怖気づいてんじゃねぇよ。
あんなブヨブヨした玩具みたいな雑魚ぶっ飛ばして、金を掴むんだよ。
大丈夫。僕ならできる。
できなくてもやってみせる。
「……ふぅ、ぅぅ……うし、行きますか」
右足を前に進める。不用心に、大きく一歩。
何も怖くないんかないぜって顔で、大股で歩く。
ああそうだ、何も怖くなんかない。
もし死んだとしても、僕は父さんと同じく迷宮保険に入っている。
たとえ死んでも、金は手に入るのだ。何も問題はない。
ない、はずだ。
「……」
何故かふと、昔の記憶を思い出した。
遠い昔、包まった布団の中で回顧した思い出だ。
――大切な人のために、たくさん努力をしなさい。努力できる人になりなさい。
頭を撫でられた感触すら覚えている。
あの乱雑で、温かい、父さんの撫で方。
「……はは、お宅の息子さん、こんなんなってますよ」
金のために命かけて。数度しか会ったことのない女性に名前を付けて。更には女性にチョップをかまし、悪徳商法で罪なきゴリラを騙すという悪行三昧。
親不孝者で申し訳ないねぇ。
僕も本当なら、そうなりたかったんだけどさ。どうやらちょっと難しいようで。
……ごめんね、父さん。
「説教はあの世で聞くからさ。もう少しだけ、待っていてよ」
軽薄に笑って歩みを進める。
何ならおどけて、手を広げながら一回転とかしちゃってみたり。
靴が地面の凹凸に引っかかってよろめいた。慌てて体勢を整える。かっこ悪すぎて思わず気持ち悪い笑みが零れた。
うん、調子が戻ってきたぞ。
こちとら何年も嘲笑われてきてんだ、とことん滑稽にいこう。
「よっ、ほっ、ていっ」
心に残る恐怖から目を逸らし。
ぴょんぴょん僕は片足ずつ飛んでいく。
時によろめき、時に回り。道化の如く洞窟を進む。
一人きりのサーカス団が終わったのは、それから数分後だった。
「ぜぇ、はぁ……あ、扉……はぁ、やば、きっつ」
目の前に埋まる扉を見据え、呼吸を整える。
いくらなんでもふざけ過ぎた。もう体力の半分が持ってかれたぞ。
「おのれスライム……!」
二度も僕を謀るとは末恐ろしいやつよ。
しかし貴様の手の内は既に見えている。今度は僕が一方的に蹂躙する番だ。
新たに腰へぶら下げたポーチのボタンを開け、最後のチェックを行う。秘密兵器に問題はない。
イメージトレーニングも家で何度もした。
後は本番でそれを行うだけだ。
「ふぅ、ふぅ……オーケー、体も温まったし、準備完了かな」
一拍の静寂。
ゆっくりと右手をドアノブに向かわせ、慎重に握る。そして最大限の注意を払って回転させた。
カチャ……リ。
ギギ、ィィ……。
扉の軋んだ音が洞窟に響く。
明らかに運動のせいではない心臓の鼓動が、耳の奥で聞こえた。
「……いない」
扉を完全に開け放ち、長方形の空洞から先を見る。
やや薄暗いため奥の方は見えにくいが、取りあえずスライムはいないようだ。
「……」
唾が喉を通っていく感覚がやけに明瞭だ。そのまま不安を飲み下してくれ。
左手は鞘に添えたまま。一歩、右足を扉の前へ出す。
続いて二歩目。これで体の大部分が扉を通った。
三歩目。
もう扉は背の後ろだ。
「落ち着け~、大丈夫、僕はできる、僕はミステリアス美少年だ……」
ぶつぶつと励ましの言葉を自分に送り、更に前へ進んでいく。
汗ばんだ背中が気持ち悪い。
ただ歩くという当たり前の行為が、ここではマラソンのように辛く感じられた。
「はぁ、はぁ……」
前回よりも、かなりきつい。
そりゃそうか。あの時は警戒してても、スライムとか楽勝だと思ってたんだから。
今回のとは訳が違う。
死を本当の意味で覚悟している、今回とは――
「……ッ!?」
浮かし始めていた足を急いで止める。
タンッ……と地面を踏んだ音が洞窟に広がった。即座に失態を悟る。
僕の視線の先には、青色のバスケットボールサイズの粘弾性体がいた。
スライムだ。
「……すぅ、はぁぁ……」
……今の音、聞こえたか? バレたか?
いや、大丈夫なはずだ。本によれば、スライムに音を検知する器官はない。そのはずだ。
スライムが物を判別するのは……って、こんなこと考えてる場合か。
「落ち、着け。まずは……そう、まずは……」
あのスライムが通常個体なのかどうか調べる。
調べ方はいたって簡単で、近付いた時の反応を見るというもの。危険だがどの道、秘密兵器も近付かなければ使えない。
普通のスライムならそのまま倒す。
クソ強いあのトラウマ野郎だったら、秘密兵器の出番だ。
大丈夫、どちらでも対処できる。
行くぞ。
「……っ」
じりじりと摺り足でスライムとの距離を詰めていく。
発見したのがかなり前方なので時間はかかるが、慎重に越したことはない。
やがてスライムの姿がより鮮明に見えてくる。
やはりというべきか、見た目に相違はない。
「……普通のやつ、か?」
図鑑に載っている情報を基にするなら、スライムとは本来怠惰な魔物である。
戦闘以外では動くことすら稀なのだとか。
未だ十メートルほど離れているスライムもまた、動きはない。
本当にただのスライムなのか……?
「いや、これは駄目だ。フラグだ、絶対によくない」
慎重さを失うな。常に最大限の注意を払っていけ。
半歩、もう半歩と距離を縮めていく。先ほどよりも細かく。先ほどよりも繊細に。
「……どっち、なんだ……」
汗が頬から零れ落ちる。目を開きすぎて乾燥が酷い。
スライムとの距離はおよそ三メートル。
一度目をしっかりと瞑り、汗を拭おうかと考えた瞬間だった。
スライムの体が、見覚えのある震えを見せた。
「くそっ、やっぱりかぁっ!?」
『ピ……ッ!』
判断は一瞬。
空いた右手でポーチの中に手を入れ、とある容器を取り出そうとし……。
『ピギィッ!』
「はっ?」
スライムの姿が高速で打ち出される。
反射的に頭を丸め、身を引いた。
あり得ない。どうしてこんなに、溜めが速――
その疑問が頭の中で浮かび終える前に。
スライムは轟音を震わせ着弾した。
……足元の地面へと。
「……まじ、か」
数センチ、ずれていた。あるいは僕が驚き、姿勢が崩れたおかげか。
僕の足からほんの少し離れた地面は、まるでアイスを薄く掬ったように抉れていた。
遅れて脂汗が滲み出てくる。
まさか、こいつ……。
「あ、足を狙ったのか……?」
『……』
難しい上空の頭を狙って、一撃必殺を求めるよりも。
機動力である足を。それも地面から近くて、ご丁寧に二本もある逃走のための足を狙い。
確実に、完璧に。
僕を殺そうとしているのか、こいつは……!?
「う、おおおぉぉっ!」
『ピ……ピ……!』
身を翻し、全力で走り出す。
こんなの全く、予想していなかった!
あの恐ろしいスライムが、行動を変えてくるだなんて!
いやそもそも同一個体なのか!? 駄目だ分からん! ちくしょう!
「そんなのアリかよ……! くそぉ……!」
『ピッ!』
「ひぃん!?」
鳴き声らしきものを聞き、反射的にジャンプをする。
次いで身が粟立つような風切り音。流石に走っている対象に命中させるのは難しいのか、少し離れた位置に青色の弾丸が突撃した。
その様子を見て、僕は僅かな冷静さを取り戻す。
「はっ、はっ、落ちつ、はっ、落ち着け……っ」
逃走するシミュレーションも脳内で沢山しただろう。
こういう時は我武者羅になっちゃいけないんだ。冷静に、確実に。生存の確率を上げるための努力をしなければ。
心の中で叱咤し、足に力を籠める。
先程は洞窟の真ん中を直線的に走っていたが、今度はジグザグになるように走り始めた。
結果的に扉までの距離は伸びるものの、急がば何とやらだ。これで多少は狙い辛くなるだろう。
「ふっ、はっ、ふっ、ふっ……!」
加えて走る速度にも緩急をつける。急いで走っては緩め、また急いでは緩やかに走ることを徹底した。
近所の公園で鍛えた成果を見せてやる……!
あのママさん達から「やだ、またあの人公園にいるわ……平日の昼間なのに、何されてる方なのかしら……怖い……」的な感じでひそひそ話された、僕の実力をなぁ!
『ピッ……!』
「ふっ! ……ふふ、はっはは!」
膝を折り曲げての跳躍。
ガゴン!
僕の体から二メートル程離れた地点で炸裂音が聞こえる。
バレバレなんだよ、お馬鹿さんめ!
確かに君の突進速度は運営にBANしてほしいくらいチート級だが、タイミングは簡単だ。
前回の経験も踏まえて確信した。
このスライム、突進の直前で妙に甲高い声?を発するのである。
『ピ、ィ……!』
「ほらきたここぉっ!」
またもや大きく跳躍し、僅かに遅れて僕の前をスライムが高速で過ぎ去っていく。
今回の着弾地点はおよそ一メートル。段々と突撃精度が上がっているが問題はない。
いかに速かろうと、いつ来るのかが分かっていれば恐るるに足らず。
「いけるいけるいける……!」
やばい脳内麻薬ドッパドパだわ。
ゲームで誰も知っていない裏技知ったらこんな感じなんだろうな。気持ち良すぎ!
「はっ、はっ、扉発見んんん!」
体力を消耗するので声に出す必要はないが、喜びのあまり口に出てしまった。
まさに砂漠の中のオアシス。
おお扉よ、この逃走劇に幕を下ろしてくれ。
『ピ、ピッ、……ピィッ!』
「おおおっ!」
距離的に恐らくは最後の跳躍。
兎もびっくりな大ジャンプを見せた僕は、数瞬後に訪れるであろう轟音を期待して……。
期待……。
……?
「……ぁ?」
景色が非常にスローモーションだ。
極限の集中力がそうさせたのか。自分の体がゆっくりと降下していくのが明確に分かる。
いやそうではない。何だこれ。
何でまだ、スライムが突撃してこない……?
『ピ』
「あ」
背筋に氷柱をぶち込まれたような寒気。
まずいまずいまずいまずい。
こいつワザと声を出して。いやそもそも今までのがブラフ? どうしたらいい。もう逃げれない? 考えろ。まだ間に合う。
抗え。
「ふん、ぎぃっ!」
限界まで膝を折り畳む。
もはや倒れこんでもいい。どうせ扉はすぐ近くなのだ。今はとにかく、落下時間を遅らせなければ……!
地面が緩慢に近づいてくる。
まだなのか? どうしてまだ来ない。まさか今のすら、ブラフで……。
「くっ」
ダンッ、と両足で地面を叩く。強い衝撃に足が痺れるが気にしている余裕はない。
スライムは何をしようとしているんだ。
鳴き声で突進を誤認させ、その隙に攻撃するんじゃないのか?
駄目だ、考えるな。
今は走ることだけに集中しろ。もうすぐそこなんだ。
あとちょっとで……!
ベチャ。
「……は?」
再び伸び始めた足に、膝カックンをやられたような。奇妙なほど優しく、抱き締められたような、意味不明な衝撃。
体幹のバランスが崩れ、視界が傾く最中。
僕は自分の両膝に付着している、青色の粘液を見た。
「なっ、んで!?」
『ピギュ、ピギュ……』
背中から倒れ、懐かしの地面へと再会を果たす。できれば二度と会いたくない岩肌だった。
「ぐ、ぅっ」
受け身も取れずに倒れたため、肺からくぐもった空気が抜ける。
幸いにも痛みは少なく行動は可能だ。
急げ、急げ。状況を整理しろ。今僕は何をされたんだ。こいつは今、何をしているんだ。早く理解しろ。
直感がそう言っている。
でないと死ぬぞ、と。
『ピ、ピ……』
「はぁっ、はぁっ……さっきの感触……まさか、体を広げたのか……?」
あり得るわけがない。
しかしそれ以外考えられない。
今、僕の両足でうぞうぞと蠢くスライムは信じ難いことに、飛んだ瞬間形状を変えてきたのだ。
鳴き声から着弾までが遅かったのはそれが原因で。
あの膝を覆い包むような衝撃も、より確実に僕を捕えるため、体を網のように広げたに違いない。
「だけど、何でっ?」
何故突進ではなく、このような捕縛を選択したのか。それがどうしても分からない。
今の状態でも腕を使えば扉へと近付ける。這って動くことにはなるが、扉まで一分もかからないだろう。
更に言えばスライムは核を潰すことで生命活動を終える。
スライムからすれば僕に近づく利点など、ある筈がないのだ。
「く、そ……分から、な、ぐっ」
『ピギュ、ピギュ……』
「っ、いい加減離れ、てくれっ」
引き剥がそうにも凄い力でしがみ付かれており、離すことができない。
否、離すどころか圧縮して、より堅固になってはいないか。膝を包む感触が次第に圧力を強め、足が痺れていく。
正座を長時間して立てなくなるような。
そんな感覚……。
「……待て、待て待て待て待て」
『ピギュ、ギュ……ギチ』
「っ、やばい!」
スライムの狙いに気が付いた瞬間、僕は急いで体をうつ伏せにし、ほふく前進を始めた。
両膝の圧力は依然として強まっている。
ミシミシ、ギチギチ。
最初とは比べ物にならぬ程の、圧迫感。
「ぐ、ぉおおお……!」
スライムの狙い。
それは恐らく、圧迫により血流を止め、僕の足を使い物にならなくするというものだった。




