あるじよ、我に望み給え(4)
白い外套をはためかせ、光の消えたそこに 両腕を交差し立っていたのは、どこかムニキス神の偶像に似た空気を纏う少年だった。顔だけちらりとカイラに振り返り、口の端をつり上げて 小さな牙を覗かせる。
「地上の民より思想を奪っておきながら、人間の蛮行すら咎めず世を放棄した邪神【ウレキテス】の矮小なる手先めが。聖哲にして博愛、強剛にして柔和、すべからく世を治めるに相応しき我らが主【ムニキス】に代わりこの熾位て……ふぉわっ!?」
「話が長ぇんだよ!!」
変化した御使い様と思しき少年の口上が終わるのを待てず、ジャンは大振りに剣を薙いだ。軽やかに跳び退いて躱しながらも、人ならざる耳と尻尾の生えた異形の少年は ジャンを睨め付け舌打ちする。
「空気の読めない無粋な奴だな! こちとら二十一年前から 顕現時の台詞を、一日とて欠かさず考えてたってのに」
「知ったことかよ」
ハ、と吐き捨て、剣を構えたまま ジャンは背後を窺ったようだった。妹も、妹を任せた少年も 十分に逃げ果せた頃合いか。
何とか体を起こしたカイラに視線を向けるジャンに気付き、異形の少年は間に割り込む。これ以上 手出しはさせぬと、その瞳にて突きつけた。
「……フン、このくらいで勘弁してやる。もう二度と、テスの前に出て来んな」
本当にムニキス神の使いであるかは疑わしいが、まともな人間の類でないのは確かだ。技量の知れぬ魔物と思えば、無暗に手を出すのも利口とは言えない。
命まで取らないのはせめてもの情けだ。剣を収め、ジャンはカイラに背を向けた。
――その直後に。
「あんな無礼を働いておいて、勘弁してもらえると思っているのかぁ!!」
ジャンの背中を目がけて、異形の少年は 全力の飛び蹴りを放った。
予想のしようもなかった不意打ちに、諸に食らって大柄なジャンも吹っ飛ばされる。
「ぐ、う……コレが、御使い様とやらの、やる事かよ……」
「小悪魔的でイケナイ魅力溢れる美少年だと言いたい気持ちは解せる。だが天使だ」
「んな気持ちは微塵もねぇし……」
「主に代わり与える天罰は、苛烈でなければならない」天使を自称する少年は、徐ろに右手を上げる。「猫の鉄爪」カイラが加護を要請するそれと同じように呪言を口にすると、その手には銀の光が集まり 鋭く長い手鉤が装着された。
「い、いや、ちょっと待ってくれ……俺はもう、カイラに手出しする気ねぇから! うちの妹を放っておいてくれるなら、別に何も……」
「それが駄目だって、ムニキス様が仰ってるんだよ」
邪神【ウレキテス】を庇う者は、総て我らに仇なす者であると。
情無く振りかざされる手鉤は、しかして護るべき巫女の声に止められる。
「ならば、御使い様。優先すべきは、乙女テスを見つけること、では……?」
ジャンを許した訳では無い。それよりもカイラはただ、ムニキスの都を、民を護りたいだけだ。
「そうだね」異形の少年から手鉤が消える「……でも」。ジャンに興味を失ったように くるりとカイラに向き直る。そのまま、カイラの正面にしゃがみ込んだ。
「もう、間に合わないんだ」
雷槌の落ちるようなガラガラという音。空気が低く唸りを上げる。
「《ムニキス》の都は――墜ちる」
バキン。金属とも岩石ともつかぬ 何かが砕ける音が響いた。少年の尻尾の向こう、ジャンの手前の地面にも亀裂が入る。それは見る間に地割れとなり、深く裂け開いていった。
「お、おい、まさか……嘘、だろ……?」
ようやく立ち上がったジャンの足元が、大きく傾く。よろけて体勢を崩し、為すすべなく地割れの縁まで転がっていく。ぎりぎりのところで縁を掴み留まるが、新たな亀裂が 次々にジャンの希望を砕いていった。
カイラの目の前で、天空の箱庭が崩壊していく。豊かな都であったものが、瓦礫と化して落ちていく。
つい先刻まで言葉を交わしていた相手さえ、絶叫と共に地割れの中へと消えていった。
震えるカイラの目元にそっと触れ、天使を名乗る異形の少年は呟く。
「主よ、彼の者を送り届け給え」
――こうして、千年もの時を穏やかに栄えていた夜神の箱庭、天空の都《ムニキス》は その長い歴史に幕を下ろしたのであった。
**
黒く渦巻く雲が紅い夕暮れ空をかき回し、この世の終わりめいた色を見せる。雷槌に似た音を天高く轟かせながら、黄昏の中で空の浮島の影は崩れていった。
光輝の女神【ウレキテス】の招きにより送られた地上にて、ライブはテスと手を繋ぎ ともにその光景を見つめていた。
「……本当に、崩壊してしまった……。僕らはこれから、どうすれば……」
「ライブ」繋いだ手を胸元で握り締め、傍らの少女は 自ら選んだ勇者に呼びかけた。
「この地上が、わたしたちが本当に生きる場所。ここからは、わたしがあなたを導くわ」
古の神霊どころか、かつて地上に君臨していた偉大なる光輝の女神さえ忘れ、堕落し荒廃した この大地を救いましょう。
「〈悪しき者どもを滅せ、勇者よ。今一度 人間の手に依る完全無欠の世界を、この手に取り戻しましょう〉」
幼い頃よりよく知る、淡い金髪のお下げを揺らす美しい少女。ずっと隣りで見ていたはずなのに、ライブには なんとも彼女が 神々しく映る。
「……うん。君がそれを望むなら」
二つ並んだ長い影が一つに融ける。
鈍く煌めいたそれに 気付く者は誰ひとりいなかった。
**
最後の慈悲と、ムニキス神は墜ちゆく己の箱庭を 荒涼とした砂漠へと運んだようだ。地上の姉神に散々引っ掻き回され 無惨に壊されたというに、仕返しを考えないのは いかにも彼らしい。
永らく時代の流れを停めていた天空の都の 残骸が散らばる砂丘を、頭まですっぽりマンテルを被る背の高い人影が ひとり ゆるゆると歩いていた。
「まぁまぁ、みぃんな粉々ねぇ。ヒトも、モノも、結界も。使えそうなモノとか 遺ってないのかしら……あら?」
背の高い、マンテルの人影の足が止まる。そこには比較的原型を留めて見える、若く体格の良い 金髪の男の遺体が横たわっていた。
「んー、ムニキス神前騎士団にいた顔ねぇ。良く死んでるわぁ、もらっとこ」
真っ赤な艶めかしい唇から、ぺろりと舌を覗かせる。爪の尖った長い指に、毒々しい色をした紫の光の玉が灯った。何事かを唱え、マンテルの人影は男の遺体の胸元に 光の玉をぐいと押し込む。
押し込まれた光の玉は男の遺体の中で全身に拡がり、損傷した身体を復元していった。死亡前の状態まで修復したところで、禍々しい紫の光は消える。
小さく呻いた後で、男はハッと目を見開いた。
「ど、どこだ、ここは!? 俺は、生きてんのか!?」
慌てた様子で周囲を見回し、真横で笑みを浮かべる人物に気付く。
「だっ……! 何者だ!?」
警戒し構える金髪の男に臆すること無く、マンテルの人物は手を差し出した。
「はぁい、気分は如何? ジャンク君」
強引に男の右手を握り、引っ張り起こす「これから よろしくねん」。
男とも女ともつかぬ、低くも妖し気な声は 赤い月のように嗤っていた。
**
瞼の上の感触が離れ、再び眼を開くと そこはどうやら廃墟のようだった。
かつては神殿の礼拝の場として使われていたであろう広間に、ぽつんとカイラは独り 残されている。
「ここは一体……? 御使い様、何処へ行かれたのですか……?」
立ち上がって周囲を見回しているうちに、切り裂かれた顔の傷が塞がっていることに気付く。指に伝わる感触から、痕は残ってしまうだろうが仕方ない。
それよりも。自分はどこにいて、これからどうすれば良いのだろうか。まずは御使い様を捜しに出るべきか。ムニキスの都の生き残りを助けに行くべきか。ひたすらに困惑し、大巫女である身分を忘れて カイラも泣き出したくなってしまった。
「受肉!」
目に涙がいっぱいに溜まったところで、背後から探していた声が上がる。振り返れば、カイラの危機に現れ出た姿の御使い様が 両腕を十字に交差した格好で立っていた。
「御使い様!! ああ、良かった……いろいろとお聞きしたいことが……」
「あ、ゴメン。格好良く顕現したくてすんごい練習してきたのにちゃんと出来なかったんだ。今なら急ぎじゃないから、台詞と振付 最初から全部やらせて」
「ええ……ああ、はい……」
「静穏なる夜闇を司りし【ムニキス】より命を受け……」目の前にて繰り広げられる それはそれは長い口上と見得を、膝を抱えて見守りながら カイラはいつしか冷静さを取り戻していた。
主よ、我に御使い様を、一発で良いので 殴らせ給え。
空の色は黄昏を過ぎ、神殿跡は夜闇に包まれる。ムニキス神の抱擁と思えば恐れることではないが、見知らぬ場所では不安なものだ。
最低限の灯りを点し、昂ぶる心を鎮めるため 横になる。
「今はまず 身体を休めて。日が昇ってから、ゆっくり話そう」
御使い様の言葉に頷き、カイラは両の瞼を閉じた。