あるじよ、我に望み給え(3)
新月の日没。都に仇なす花嫁を捧げる儀式は いまだ行われていない。
逃げ場など無いはずの天空の都と言うに、少女一人見つけることも出来ずにいる。当初は簡単な捜索であったのが、今や多くの障害が発生しているためだ。
人に害なす虫だけでなく、野良の獣ものが《ムニキス》の民を襲うようになった。そして新月の夜を越える頃には、襲われた者の亡骸さえ 起き上がるようになってしまっていた。
乙女テスの捜索の手は足りず、にも関わらず都の民は救けを求める。
「己が民が苦しんでいるというに、神殿は、ムニキス神は 何もして下さらないのか!?」
「花嫁など、若い娘であれば 誰でも良かろうに」
「そうよ、都王様の娘でも 捧げてしまえば良いではないか!」
ムニキスの神殿に圧し寄せる暴徒の言葉に不安を感じ、ソマド司祭が制止するのも振り払い カイラは都王の宮殿へと駆けた。
現人神とされているムニキス都王をしても、都の惨状を治めるには無力である。幸い宮殿を護る兵士は 暴徒相手には機能し、カイラの弟妹もまだ 無事ではあるようだ。
「ムニキス様に捧げる花嫁は、ムニキス様の娘であってはなりません! 理を狂わす邪霊を祓う者でならなくては――……!!」
兵士に混じって宮殿の門を守りつつ、声も嗄れよとカイラは叫んだ。どれほど叫べば民に届くのか、誰もカイラの祈りを聞いてはくれない。
「邪霊を祓える聖女でなくてはならぬと言うなら、貴方様がその身を捧げれば良いのでは?」
何処からか飛んできた嘲笑に「それもそうだ」「聖女ならここにも居るではないか」と、賛同の声が四方から上がる。
――それで済むなら、とうにやっている。
異変が起きてから早い段階で、既に試みた。自分の血で結界は再生できぬかと。結論が否であるため、カイラはここでこうしているのだ。
儀式の準備が整った祭壇にて、己が命を捧げるどころか 血の一滴も、カイラがその身に刃を当てることすら ムニキス神は許されなかった。
「……私では、駄目なのだ。ムニキス様はお望みではないと……」
今このとき それを告げても、どれほどの者が信じてくれようか。だからせめて、愛する妹ルイナ姫にだけは危害が及ばぬよう、駆けつけて来たのだ。
しかし、愛する姉妹を想っていたのは カイラだけではなかった。それが当然であることも、必死のあまり カイラは忘れてしまっていた。
「カイラお姉様!! そちらは危険です、どうぞ 中へ!!」
「姫様、なりません!!」
背に護っていた門が僅かに開き、小さな愛らしい手が覗く。
――いけない。
カイラがそう 振り返った刹那、暴徒の手により門は開け放たれた。
聞き慣れた、ずっと大切にしていた 幼い声が、悲鳴に変わる。
邪神の悪意は、幼い妹がただ 大好きな姉を助けたいというだけの善意を、いとも呆気なく踏み潰した。
宮殿の内に暴徒の群れが傾れ込んでゆくのを、遠く感じる。そんな事はもう、どうでも良かった。
「おね……さ、ま……」
――主よ。
駆け寄り、手を取ってやりたかったのに。
――主よ。
抱き上げ、すぐにでも そこから離してやりたかったのに。
――あるじよ!!
「……ルイナ姫まで、連れて行かないで……!!」
もう、宮殿を護っていても 何の意味もない。
静かに瞼を閉じたルイナ姫を抱え上げ、宮殿に背を向けたまま歩き出す。
「ルイナ姫、私のお母様のところへ参りましょう。……あすこなら、怖いものは何も 入って来ませんから、ね」
ムニキス様が自分を 愛してくださっているのは理解している。大いに期待をかけてくださっていることも、深く信頼をいただけていることも。
だから、責めてはいけない。恨んでもいけない。御許に向かう愛妹を導いて下さるよう、ただ祈るだけだ。
「私のお母様はとても優しい方ですよ。きっと、仲良くできましょう」
この怒りをぶつける先は、邪神の悪意 だけでいい。
**
ムニキスの都で荒れ狂う悪意の対処は他の者に任せ、カイラは少女テスの捜索に専念する旨を ソマド司祭に伝えた。ムニキスの神殿を離れ 一刻も早くと、カイラの大切な者を奪った元凶を 探していた。
はるかな昔に、ムニキス神は己を慕う民を逃すため 天空の浮島へと方舟を寄越して下さった。その方舟が辿り着き、繋がれた場所が この【闇神ノ門】と伝え語られている。
以前 何かの遣いで立ち寄った時には、一見して開け放たれているその門をくぐり抜ける事はできなかった。ムニキス神の結界は目に見えずとも、確かにそこに在ったのだ。
それが今や もとより何も無かったかのように、門の外 浮島の縁まで歩み寄れる。地面に屈み込み、カイラは恐る恐る 地上とやらを覗いてみる。
ただそこには、雲がある。雲海が広がるばかりだ。
この雲の海原の下、本当に人の住む場所はあるのだろうか。既に滅びてしまっているのではないか、そもそも地など存在しないのではなかろうか。カイラには 何も 見えない。
「んなう」
どれほどの間、そうしていたのだろう。聞き覚えのある声に、はっとカイラは我に返った。声の出処を辿ると カイラの真後ろに、尖った三角の耳を生やした 白と焦げ茶の毛玉生物がちんまり座っていた。
「……御使い様、いつから こちらに?」
「なう」
「今 いらしたところですか」
そっちは危ないよ、とでも言いたげに 空色の瞳はカイラをじっと見つめている。
指示を果たせぬカイラを責めにいらしたのではないようだが、御使い様の意図は読めない。事の進まぬ焦りを、つい御使い様にこぼしてしまった。
「……申し訳ございません、御使い様。御使い様に御言葉を賜っておきながら、みすみす私めは乙女テスを見失ってしまいました。……まだ、間に合いましょうか? それとも、もう……」
「んー」何とも取れぬ声を返し、御使い様はカイラに額をぶつけてきた。そのままくるりと背を向けると、門の内側へと駆けてゆく。
「御使い様!? また、そんな……」
やはりただの可愛い生き物なのだろうか。それならば、少々撫でさせてくれても良いではないか。ふと 欲望を剥き出してしまった自分に気付き、ふるふるとカイラは頭を振った。
「いけない。こんな事をしている場合ではないのに」
立ち上がり、御使い様の消えた先、都の中へ戻り向かう。
ムニキスの都が生きているうちは―――。
主よ、我に望み給え。
風に溶けてしまったかのように、御使い様の姿は何処にもない。それでも人の気配を探し、荒み果てた居住区を カイラは進んでゆく。
「―――!!」
「……――」
御使い様の導きに因るものだろうか。若い男女の声がする。
息を殺し、建物の蔭からそっと様子を窺う。――いた!
淡い金髪をお下げに結った、小柄な少女。その正面には少女と同時期に失踪していた、近所の少年の姿もある。たしか名はライブといったろうか。
「さぁ、早くこんな場所は出て行こう!」
こんな場所?
美しく穏やかなムニキス様の箱庭を、壊してしまったのは貴方たちだろうが。
きゅっと唇を噛み締めてから、蔭を出る。カイラの姿を認めた 少女テスの顔が 見る間に強張った。
「……やっと、見つけた……早く、祭壇へおいでなさい」
胸の内に燻る怒りを圧し殺し、努めて穏やかに カイラは口にした。
「このままでは、都は完全に滅びてしまう。我らが主《ムニキス》は、貴方を欲しておられる……他の、誰でもなく!」
俯いて震えるテスの口元が、小さく笑う。気付かぬライブ少年は こちらを睨めつけながら、惚れ込んだ相手の肩を抱く。
「どうして、そう言い切れる? ……たとえば、あんたじゃいけないのか?」
またそれか。何故 皆、ムニキス様のお告げを信じないのだろう。
意中の少女の前で格好をつけたい気持ちは察する。彼にとって 愛しい彼女は確かに唯一無二の聖女であろう。しかしその聖女、貴方が己の台詞に酔う姿に 笑いを堪えているようだが。
「……愚か者めが」
懐に隠し持っていた短刀を手に、ライブはカイラに飛びかかってきた。
まるで刃物を扱ったことのない者の動き。カイラでさえ楽に避けられる。
カイラだとて 徒に他人を傷付けたい訳ではない。呪言にて戒めの加護を要請し、無力化されたライブを放って テスの前に歩み寄る。
「テス。貴方だって、彼を護りたいだろう?」
器量の良い姿形ではないが、一途に貴方を想う少年だ。
テスの兄がやっていたのを真似て「行きましょう」と髪を撫ぜてやってから、少女の手を取る。警戒させぬよう慎重に表情を浮かべているのだが、カイラの嫌悪は筒抜けのようだ。
「……いや……」
お下げをふるっと揺らし、カイラの憐憫すら振り払って 少女はギンと眼光を燃やす。口の端が少女らしからぬ 邪な笑みにつり上がった。
〈流石はムニキスの愛娘。よくもまあ、心にも無い笑みを浮かべるものよ〉
神殿に呼びつけたあの日に聞いたそれと、同じ声。おそらくは『侵入者』と呼ばれるモノの。
今、彼女を捕らえなくては。大きく息を吐き、覚悟を決めて戦鎚を握る。
「主よ、彼の者を送り届け給え」
戦鎚が薄青い光を帯びる。カイラも初めて使う加護の要請ではあるが、この光に触れれば テスは瞬時に祭壇へと転移させられるはずだ。
これで、全てが収まる。悪い夢は 醒めてくれる。
カイラの祈りは、しかし 派手な金属音によってかき消された。
「二人とも、無事だったんだな!」
――ああ、やはりか。
カイラが己の望みを突っぱねたゆえに、ジャンは自ら妹を匿い護っていたのだろう。そう、自分の可愛い妹だけを。
なれば、ジャン。貴方も ムニキス神に 仇なす者だ。
「……主よ、我に彼の者を打ち据える力を」
民を護るための戦鎚を振るうのは本意ではないが、立ち塞がられては 押し通るしかあるまい。……何故その剣を、力なき民を護るために 抜いてくれなかった。そんなもの、叩き落としてくれる。
ムニキス神の御力添えにより、向けられたジャンの剣は振るった戦鎚で払い落とせそうだ。返す刀ではないが、この勢いのまま 横っ腹にでも打ち付けることが出来れば――……!!
叩き落としたはずの切っ先が、正面を薙いだ。
「っ……あああ!!」
ぱくん、と開く感覚に、思うよりも先に顔を押さえる。熱くジンと拡がる痛みを堪え、血で滑る指の間から辺りを覗う。
「あ……るじ、よ……」
「させるかよ!!」
ジャンの姿を捉える間もなく、腹部に蹴りを見舞われた。衝撃に戦鎚も手を離れ、硬い石畳に 放り出される音が響く。
「コイツは俺に任せて、お前たちは逃げろ! ライブ、テスを頼んだぞ!」
やっと見つけたのに。ひたすらに激痛に耐え 体を起こす。ふらつく膝に発破をかけ なんとか立ち上がったカイラの横っ面を、躊躇い一つなくジャンは肘で打ち据えた。
為す術なく倒れ伏すカイラを 尚もジャンは蹴りつける。
「どうして、とか言うなよなぁ?」
胸だろうが顔だろうが構わず蹴飛ばし、執拗に踏み躙ってくるジャンと会話を試みる気など、カイラはとうに失くしていた。
「ちょっと綺麗なツラしてるからって、お高くとまりやがってよ。何しても自分は許されますみてぇな顔しやがって。そもそも都王だって、ただの人間じゃねぇかよ。みーんな同じ人間だっつぅのに、何でテスだけ……」
何も返そうとせず ただ荒く息を吐くだけのカイラを、仰向けに押し倒す。
「ハン、酷ぇ顔になっちまったなぁ! こんなんじゃ誰も 抱いちゃくれねぇだろうから、責任取っておいてやろうか?」
「ふ、ふざける、な……!!」
開いた傷を慮ることもせずカイラの顔面を押さえつけ、ジャンは神官衣の帯に手をかけた。
ただこみ上げる恐怖に、痛みすら追いつかず「やめて」と呟くのがやっとであった。両目をぎゅっと瞑ると、胸元に圧がかかる。
それきり、ジャンの動きが止まった。
「あ? 何だコイツ」
興を削がれたようなジャンの声に、こわごわ片目を開く。胸元にかかっていた圧は、暴漢によるものではなかった。
「ハ―――ッ!!」
最後に見た御姿の倍にも体毛が膨れ上がっているが、見紛うはずはない。ムニキス神の御使い様だ。
愛らしい顔は大口を開けた蛇のように変化し、剥き出した牙で今にも食らいつこうと カイラの胸の上に構えている。
「み、つかい、さま……!」
こんな小さな生き物に何ができるわけでもなかろうが、ムニキス様が使いを寄越して下さった、ただそれが嬉しかった。
「チッ、これからって時だったのによ」
だが、状況が好転したかといえば そうとも言えない。
忌々しいと顔に出し、軽く握った拳で ジャンは御使い様を払い飛ばした。「ギャウ」と声を上げつつも くるりと空中で体勢を整え、御使い様は軽やかに石畳に降り立つ。
「コレが『御使い様』ねぇ。神様はブタオヤジだし その使いはちんちくりんの毛玉ってか。よくよく考えりゃ頭 可笑しいぜ、ムニキス神教ってのは」
御使い様を前にして、なんと不敬な。悔しさに唇を噛み締めるカイラに代わり、御使い様はその爪を振りかざしてジャンに躍り掛った。
この隙に逃げよと 意図されての事だろう。――こうなる事も、織り込み済みで。
腐っても神前騎士団に所属していた者である。襲い来る獣を、ジャンは造作なく両断した。
分かたれた半身はそれぞれ地に落ち、光の粒になって消えた。
「なんて、こと……なん、て、ことを……っ!!」
思うように動かない身体をそれでも引き摺り、御使い様の光が消えてしまった辺りに手を伸ばす。
「これでもまだ、ムニキスとやらを信じるのか?」
頭上にふっと影が差し、何も掴めぬ その白い指先を踏みつける。
せめて最期まで、睨めつけ呪詛を吐いてやろうと カイラが顔を上げた、その時だった。
「受肉!」
消えた光が 再び灯る。その大きさも、形も変えて。
「静穏なる夜闇を司りし【ムニキス】より命を受け、大巫女カイラの守護天使として【熾位天】ここに顕現せり」
カイラには確かに聞き覚えのある、大人になりかけの少年の声が 凛と響く。
御使い様と同じ、先が焦げ茶の耳と尻尾を持つ人影が、灯った光の中に浮かび上がった。