あるじよ、我に望み給え(1)
気温は低く風は冷たいが、心地よい陽射しは都のどこにいても感じられる。薄く波を作る雲霧をかき分けながら、涼やかに歌を口ずさみ 黒髪の美しい娘は 都の守護神【ムニキス】を祀る聖堂へと向かっていた。
穢れた地上より切り離され、悪意の届かぬ天空に漂う 静穏な夜神の箱庭。夜明ける前の闇の神と同じ名を持つ天空の都《ムニキス》は、慈愛に満ちた神の掌の上で 平和で穏やかな日々を享受していた。
「おはようございます、我が主ムニキス様」
周囲の建物群に比べれば大きいとはいえ、彼の民の苦行を嫌い 都に唯一の神殿は質素で控えめな姿をしている。裏手に建つ神職者の宿舎の方が立派なくらいだ。
聖堂に入り いの一番に主への祈りを捧げる。穏やかな日々への感謝、天空の都を照らす陽射しの優しさ、己を慕ってくれる人々の幸せ。彼女の愛する全ては、ムニキス神の恵みの許にある。
暗灰色の神官衣を纏ってなお、匂い立つ薔薇のように華やかな顔を上げ、娘はムニキス神の偶像を見上げた。
男性神ではあるが荒々しさはなく、丸く大きな顔に優しい笑みを浮かべて ふくよかなその身に全てを抱かんと両手を広げた姿で表されている。半獣の神でもあり、頭には三角に尖った耳が、手の平にはふっくらと肉球が 頬にはピンと張ったヒゲが、腰からは長い尻尾が伸びている。もしも ふかふかと毛皮の生えたその腹部に顔を埋めたなら、どれほど柔らかで暖かいだろうか。
妄想に頬を緩めていると、足首に何かふわりとした 毛布の擦れるような感覚があった。スカートの裾が当たっただけとも思ったが、毛虫が付いていて酷い目にあったこともある。念のため、足下を確認した。
「ごあーん」
初めて見る生き物が、そこにいた。いや、これは 生き物なのか?
頭には三角に尖った耳、吸引力の強い 大きく真ん丸な瞳は空と同じ色をしている。全身を柔らかく滑らかな毛で覆われ、耳の先・鼻の周囲・四肢の先・長く伸びた尻尾は焦げ茶色だ。尻にはぷりっとしたふぐりが。
これは……いや、このお方は……‼
「御使い様‼ ムニキス神の御使い様であらせらりまりますねっ‼」
少し噛んでしまったが、気にしている場合ではない。慌ててひれ伏し、その格好のまま名乗りを上げる。
「私はカイラ。ムニキス様にお仕え致しております、巫女が一人に御座います! どうぞ、よしなにお見知り置き下さいませ‼」
御使い様は何も言わず、目の前の人間のにおいを嗅いでいる。
身体も髪も清潔に保っているつもりだが、もしや変に臭っているのか? 緊張に全身を強張らせていると、何を思ったのか御使い様は ひれ伏すカイラの背中に飛び乗った。じわりと心地よい熱が伝わってくる。
「み、御使い様……これは癒やしを与えて下さっているのですか……?それとも、私めへの罰でございますか……?」
御使い様は何も言わず、ただ ぶくぶくと喉から音を出している。
どのくらいの間、その格好でそうしていたのだろうか。背中の上の物体による気持ち良さより 足の痺れる痛みの方が勝ってきた。やはり 罰であったのか。
「きゃああああっ‼ カイラ様!? 一体いかがなさったのですかっ!?」
聖堂へやって来た他の神官女の悲鳴に驚き、御使い様は逃げ出した。ようやく動けるようになったのだが、足の痺れで立ち上がれない。
「驚かせてしまってすみません。今の今まで、私は御使い様の罰を受けておりました……痛たたた」
「ああ、なんて おいたわしい……カイラ様に罰をお与えになるなんて、主は一体 何にお怒りなのでしょう? カイラ様のような清廉な方に罪があるなら、人類皆 大罪人ですわ‼」
「そんなことはありませんよ、シスターメリノ。御使い様は 同時に癒やしも与えてくださいましたから」
「目覚めてしまわれたのですか!? なんてこと‼ カイラ様が おマゾになってしまわれたわ‼」
「前言撤回しましょう。罪深きもの、シスターメリノよ。後で懺悔室においでなさい」
足の痛みもいくぶん和らぎ、立ち上がれるようになった。服の汚れを払いながら「ときにシスターメリノ」と話を戻す。
「御使い様は、何処へ向かわれましたか?」
「え?」何の事だと言わんばかりに、シスターメリノは目を丸くする。
「私が聖堂に参じた時には、カイラ様しかおられませんでしたわ」
「なんと」
あの小さな体が隠れそうな場所なら聖堂内に幾らでもあるが、それ以前にシスターメリノが叫び声を上げた時、まだ御使い様はカイラの背中に乗っていた。
愛くるしい御使い様の姿を目視できたのは、自分だけということか。
「ならば、一体 何故……」
次に顕現なさる時は、言葉を発してくだされば 良いのだけれど。
**
「御使い様が現れた? まさか。でっけーネズミでも見間違えたんじゃねぇの?」
「不信心かつ不敬な‼ あんな美しく愛らしいネズミが いてたまるか!」
午前のお務めが終わり 聖堂前の花壇の世話をしていると、顔なじみの神官騎士、ジャンに声をかけられた。最近、妹と近所の少年が急激に距離を縮めているのが気に入らないだの悔しいだのと言っている。両親を亡くして今は妹と二人きりで暮らしているというから 可愛くて仕方ないのは分かるが、少し妹離れをしても良いのではないかと カイラは内心 思っている。
ただ、テスと言う名のジャンの妹が、実を言うと カイラは少し苦手だ。
「お兄ちゃん、またここに来てたの!? 別に用事なんかないわよね!?」
彼女こそ用事など無いだろうに、ジャンがふらっと遊びに来る度に ぷりぷり腹を立てながら迎えに来る。幼なじみの 想い人はどうしたというのか。
「だって、テスがライブとばっかり仲良くしてるから、兄ちゃん寂しくってさ」
「お兄ちゃんも一緒に仲良くすればいいじゃない! 帰ろーよぉ!」
「あ、いや、まだ仕事が」
「そっかぁ、そーよね。それじゃ、職場まで一緒にレッツゴー!」
大好きな兄に腕を絡め、少女はお下げを跳ね散らかす。名残惜しそうに振り返るジャンに すっきりした笑顔でカイラが手を振って返すと、横からテスがべーっと舌を出していた。
「そんなに妬かなくても、ジャンなんか趣味でないのに」
小さく息を吐いて 花の水やり作業に戻る。ひと通り花壇が潤うと、聖堂が一望できるガゼボに移り 休憩することにした。
「お姉様ー! カイラお姉様ー!」
雲霧にゆらゆらと小さな人影が浮かぶ。幼い声がこちらに駆けてきた。
「あら、ルイナ姫。遊びにいらして下さったのですか」
まだ齢も十に満たない、可愛らしい黒髪の少女が雲霧を散らして現れる。どことなくカイラに似た面影のある少女は、都を物理的に治める『都王』の娘であり、カイラの腹違いの妹でもある。
「はい! お姉様とお話しするほうが、お茶の時間が楽しいんですもの! お兄様ってば、わたくしの話を 全然聞いてくださらないんですのよ!」
正確には練習台として若乳母に産ませた子供がカイラなのだが、詳しくない者には妾腹と呼ばれ 腹違いの弟にも疎まれている。産まれてすぐに母親ごとムニキス神殿に送られ、公にはされないながらも 都王の実子ということで大巫女の地位を保証されていた。そんな大人たちの細かい事情がよく分からないルイナ姫は、麗しく優しい姉を 心より慕っている。
「ふふ、殿方にはレディの話は退屈らしいですから」
同じ妹という肩書きでも、ルイナ姫のなんと愛らしいことか。ジャンの妹にも この子の小指の先ほどでも愛嬌があれば、もう少し仲良く出来るかもしれないのに。
はしゃぐルイナ姫とティータイムを愉しみ、またいつものように午前の残りのお務めに戻る。カイラの愛する 静かに時の流れる日々は、いつまでも続くものだと信じていた。
**
昼食後に、再び聖堂にてムニキス神に祈りを捧げる。都王の血を引く者として、カイラは他の神職者及び組織内では 少し変わった立ち位置にいた。
地上で生まれた宗教団体を元に教会が興され、聖堂に神像を祀るようになったのが始まりではある。しかし、地上での女神信仰とは相容れない 全く違った教義が この《ムニキス》の都を治めていた。
地上で広く信仰されている光輝の女神【ウレキテス】は 静穏の闇神【ムニキス】の姉である。大地と交わり四神兄弟を産んだ【原初の母】神話自体は、地上と天空の都で共通のものであった。少なくとも 光輝の女神を盲目的に崇拝する地上の民には、他の思想は許されない。
静穏の闇神の教えが相容れぬのは、そのただ一点であった。
【ウレキテス】は『人間』の神である。人間を愛し、人間の行い全てを赦した。人間に力を与え、人間のために邪なる者を滅するべく、そのまばゆい光を振りかざす。
対して【ムニキス】は『半獣』の神である。【原初の母】を知らず、【ウレキテス】の目の届かぬ場所に生きる異形の民が造り出した 小さき神たちも、その懐へと掻き抱いた。地上にて『魔の神』と呼ばれる所以である。
かつては地上にも思想の自由があり、人間族の中にもムニキス神を崇める者が 少数ながらも存在した。端的に言ってしまえば、それが現在の《ムニキス》の都に住まう人間の祖である。彼らを天空の都に逃した後で ムニキス神と当時の大巫女との間に産まれた半神の男児が、初代の『都王』であると語り継がれている。ゆえに『都王』の血筋は尊く、決してぞんざいに扱ってはならないとされている。
祈りと感謝の黙祷を終え、両目を開ける。ふと、ムニキス神像の台座前に 見覚えのある白と焦げ茶の毛玉が落ちているのに気が付いた。
「御使い様! また おいでになって下さったのですね!」
「ん〜?」
「二度も顕現なされるということは、余程 大切な言伝てがおありなのですね?」
「ごあーん」
「ご飯? 今、ご飯とおっしゃいましたか?」
「んなーう」
「違うのですか?」
「ごあーん」
「やはり、ご飯とおっしゃってますよね??」
起き上がり、一度大きく伸びをすると 御使い様はカイラの足元にすり寄ってきた。非常に可愛らしいが、もしや御使い様は ただの可愛い生き物なのでは?
そう訝しむカイラに感付いたか、御使い様は後肢で立ち上がると、前肢の爪をジャキンと出して スカートの上からカイラの太腿を握々しはじめた。
「いい痛い痛い痛い‼ お慈悲を! 不出来な私めをお許し下さい、御使い様‼」
一瞬でも疑ってしまった事を深く懺悔するカイラに、フッと鼻息をかけて御使い様はお許し下さった。「んな」と一声残し、聖堂の出入口へと歩き出す。
「んな? ……来な、とおっしゃっているのだろうか」
無理矢理に翻訳し、御使い様の道を開けるべく扉を開放する。そのまま尻尾をピンと立てて ご機嫌に外へ出て行く御使い様を、追いかけた。
昼前にルイナ姫と軽食を愉しんだガゼボを越え、御使い様は時折 振り返っては軽やかに歩き続ける。
どれほどそうやって来たのだろう、とうとう《ムニキス》の都の外れ、浮島の果てが見える場所まで 辿り着いてしまった。
ムニキス神の加護により 浮島の縁よりだいぶ内側に、通り抜けの出来ない結界が張られている。都の上空に半球状に被さり、強すぎる陽射しや大気が薄まるのを防いでくれるものらしい。その他にも 都の外から訪れる害悪から守ってくれているとの話だが、具体的にそれが何であるかは カイラも知らない。
「んなう」
結界の前まで行ってくるりと回り、ある一点を見上げて 御使い様は言った。
ある一点――裂けたような、ヒビが入ったような穴がある。
「これは……?」
「んなう」
もう一声だけ「穴(カイラ訳)」と言うと、御使い様はカイラの足首に耳の後ろを入念に擦り付け、ひと回りしてから 姿を消してしまった。
「御使い様……?……消えてしまわれた」
そうか、なるほど。御使い様は 結界の異常を伝えにいらしたのか。
「主任司祭様に報告するとしても、これはどうすれば良いのだろうか……?」
考え込むカイラの耳元に、風とは違う声が囁く。
〈侵入者は『テス』。君も知っている、あの娘を連れてきて〉
大人になりかけの少年の声に感じられた。知っている者の声ではない。強いて言えば 御使い様のそれに似た声質ではあったが、周囲を見回したところで 御使い様どころか誰の姿も見つからない。
それがムニキス神からのお告げであると理解ったのは、神殿に戻り 報告を終えてからのことであった。
新作の初回投稿なので、二部分連続で投稿させていただきました。
次回更新からは 一部分ずつ投稿になります。