汝、離るること勿れ(2)
空の天辺には辿り着いていなかったはずの太陽は、気がつけば西の側へと向かって高度をわずかに落としていた。いつの間にかできていた木陰で、ディアは猫の開きになって熟睡している。
「……なるほど、ユムラ姫様とツェムさんの絆の強さに関して、これ以上ないほどに理解できました」
今は無き天空の都《ムニキス》の民の 懺悔を聞くときのような穏やかな笑みを口元に浮かべ、キルは『糸巻きツェム』と名乗った 糸のように目の細い青年の語りに 頷いて返した。
キルの隣では、腕を組んで座り込んでいたイートがすっかり舟を漕いでいる。慌ててその脇腹を肘でつつくと、イートは悪怯れた様子もなく「話、終わった?」と欠伸を噛み殺して訊いてきた。
「おや、眠ってしまったんですね。構いませんよ、また最初から お話ししますから」
「いい! いい!! 心の耳で 全てを聞いてたから!!」
「そうですか」と、どこか残念そうに ツェム青年は立ち上がった。
彼の語るところに拠ると、トクリ山には古来より『魔蚕』という蟲の魔物が生息しているらしい。魔物と分類されるからには 魔蚕も命あるものより生気を食らう、広い意味では 人に害を為すものである。
ゆえに かつての人々は魔蚕を恐れ、麓の里でも むやみにトクリ山に踏み入ることは禁じられていた。
今でも完全に禁が解かれているわけではないが、ツェム青年だけは トクリ山への自由な出入りを許されている――魔蚕の女王、ユムラ姫に。
ツェム青年が幼少の頃、肝試しと称し 数人の友人と共にトクリの山林を探検しに入り込んだことで、魔蚕の群れと出会ったのだという。
「滅多に人の立ち入らない場所だからでしょう、魔蚕の殆どが繭すら作れぬ幼虫の姿をしていました」
大きさこそ人の子ほどもある魔蟲だが、棘も爪もなく 鳴きもしない。巨大な芋虫を気味悪がり 友人の半数は逃げ出した。もとより虫が好きだったツェム少年ともう二人だけが、その場に残っていた。
最初に魔蚕の幼蟲に触れたのが、当のツェム少年だった。
淡く黄色を帯びた巨きな芋虫は、手の平を当てるとひんやりとして柔らかく、乙女の肌のように滑らかな触り心地をしていた。思わず頬を擦り寄せれば、得も言われぬ愛おしさが 湧き上がるのを感じる。
どれほどの間、そうしていたのだろう。
共に残った友人の片方に揺さぶられ、ツェム少年は はっと 我に返った。
「ツェム!! ツェム、起きたか!? ……良かった……グナはもう駄目だ、早く帰ろう!!」
辺りを見渡せば 這っていた芋虫の姿はなく、代わりにナツメ型の卵のような物体が幾つか転がっている。自分が頬擦りしていたそれも、淡黄色の糸に絡まれた繭へと変化していた。
「駄目って、どういうこと?」
焦る友人をぼんやり眺めながら、糸の絡む指先で ツェム少年は繭を撫ぜる。腰の辺りまで糸が巻きついていることには気付いていた。ただそれは、抱きかかえられているように心地好く、自ら離れようという気はちっとも起こらなかった。
「まさか、ツェムもかよ……見りゃ分かるだろ!? グナは……っ」
面倒くさい気持ちで、友人の指差すもう一人の方に目を向ける。
無理矢理に剥がされた繭の横に、夢心地に惚けた表情で もう一人の友人は逆さまになっていた。否、背中があらぬ方向へぽっきり折れて、頭から地面に落ちていたのだ。
「おとなしくても、やっぱりコイツらは魔物だ! 早く逃げないと!!」
おそらく彼は、もう一人の友人の腕も こんなふうに引っ張ったのだろう。美しい糸に包まれた彼女らの繭に乱暴に足を掛け、煌めくそれらを引き千切り――……
〈やめて。らんぼうにしないで〉
ああ、ほら。この娘が 怯えてしまっている。
〈あと、ちょっとだけでいいの。もう、ちょっとだけ〉
ちょっとだけならいいよ。待っていてあげるよ。
〈ありがとう。ちょっとだけ……〉
タ ベ サ セ テ 。
ツェム少年を助け出そうとしていた友人の腕が、砕けて折れた。痛みと恐怖で泣きだすかと思われた友人は、虚ろな微笑みを浮かべて倒れ伏す。
優しくツェム少年を抱き締めていた繭が、ゆっくりと波打つ動きを見せた。
「……美味しかったかい?」
ささやかな音を立てて、繭の窓が開き始めた。
〈ええ、とても〉
そこに覗いた顔はヒトのようでいて、ヒトなど比べものにならぬほど 神々しかった。
多くの魔蚕は 成蟲になれるほどの生気を摂取することができずに、繭の中でその生涯を終える。必然的に羽化するまで成長できた者が女王となり、次の成蟲が育つまで卵を産み、幼蟲たちを見守っていくこととなる。通常の天蚕とは異なり 単為生殖で子を成すため、必要なのは他の生物の生気だけで良い。
木の葉に似た触角や身体を包む柔らかな被毛は とても愛らしい。穢れを知らぬ少女そのものの 人間と同じ顔立ちを持ちながら、四本の腕と厚く質の良い毛織物のような淡黄色の羽は、人間には辿り着けない美しさであった。
この美しい存在を、永らえさせたい。ずっと共に在りたいと、ツェム少年は願った。
しかし里に帰ってみると、広まっていたのは魔蚕の女王の神々しさではなく、子供の命を食らった魔蟲の悍ましさの方であった。
魔蚕の成蟲が現れてしまったとくれば、生気を求めて里に降りてくるのも 時間の問題だ。近隣の集落の力を借りてでも 討伐しなければ。
里の大人たちの出した結論に、ツェムは大いに焦った。このままでは、あの美しい魔蚕の女王が殺されてしまう。そんなことは許せない。
どうにかして 魔蚕の女王が価値ある存在であると、認めさせなければならない。
魔蚕の討伐に集った近隣集落の猛者どもに片っ端から聞き込みをし、有益な情報の欠片でもないかと ツェム少年は奔走した。
そうやって彼が見つけ出したのが、糸繰りの技術であった。
他者の命を吸えず 大きくなれないまま繭となった魔蚕を掻き集め、それらで紡いだ糸の質が極上であることを、里の大人に訴えた。
余所の集落の者からすれば、多少大きめではあるが 子供一人で回収できるような 繭を作る蟲程度で、大騒ぎするのも馬鹿げている。事実『魔蚕の女王』とかいう存在を直に目にしているのは、ツェム少年ただ一人しかいない。
魔蚕の繭を糸繰りの素材にしてしまえば、魔蟲の討伐にも繋がる。ツェム少年はそう、里の大人に提案した。そしてその繭は、自分が一人で集めてくるから と。
当初は 子供が一人でトクリ山の禁足地をうろつくことに、里の大人はいい顔をしなかった。しかし ツェム少年が熱心に糸繰りを学び、やがて 見事な絹糸を紡ぎ上げると、里の大人たちも彼の提案を突っぱねる理由がなくなった。
いつしか魔蚕の絹糸の評判は近隣の集落を越え、大きな都まで伝わることとなった。里の景気が上向くことも、はるばる遠方の商人が買い付けに来ることも、ツェム少年の目論見の内であった。
トクリの山林にひとり踏み入り、魔蚕の女王と逢瀬を重ねる。そんな日々を紡ぎ続けて、いつしかツェム少年は青年になっていた。魔蚕の女王に里の護り神として伝わっていた『ユムラ』の名を与え、彼女と互いの名を呼び合い 甘く濃密な時間を過ごしていた。
「ユムラ姫様、そろそろ お腹が減る頃じゃない?」
出逢ったあの日と変わらず美しい魔蚕の女王の頬を撫ぜ、ツェム青年は問いかける。
〈ええ。たまごをうんだばかりだから、ちょっとだけ、いのちがたべたい〉
「そうだろうと思ってね、活きの良いのを連れて来たよ」
口元に笑みを浮かべたままで、耳を澄ます。荒々しい足音と、複数の怒鳴り声がこちらへと向かって来るのが聞こえる。
「野郎、案内するとか言っておいて、どこに消えやがった」
「いやいや、はぐれててくれた方が 都合がいいっしょ。口封じの手間が省ける」
「だな。欲しいのは繭と虫だけだ。人の命なんぞ、奪ったところで金にはならんし」
儲けになると知れば、灰汁どい手段でそれを手に入れようとする者が現れるのも、ツェム青年の計算の内だ。
「ああ、やっと来てくれた! こちらですよ!」
立ち上がり、わざと大きな声で呼びつける。ぎょっとした顔の後で、密猟者たちは舌打ちした。
「なんだよ、ちゃんと来てるじゃねぇか」
「あーあ、残念。今日は汚さずに済むと思ったのに」
吐き捨てながらも、慣れた様子で密猟者は それぞれ身に付けていた凶器を抜く。少しだけ細い目を見開き、それでもツェム青年の余裕は崩れない。
訝しんでいた密猟者たちの顔色が、瞬時に変わる。
「こんなに綺麗だと思わなかったでしょう? 彼女があなた達の探していた 魔蚕の女王、ユムラ姫様です。……まあ、渡したりなんか しませんけど」
愛しい恋人に向ける顔で、ツェム青年は振り返る「さあ、お食べ」。
はなから彼女を害そうとする奴らだ、悪いことでも何でもない。
ツェム青年の台詞を聞くなり、密猟者たちは慌てふためき 我先にと踵を返す。が、逃げ出そうとするその踵からヒビが入り、次の一歩までに砕けてしまった。
倒れた密猟者どもの誰もが、気持ち良さそうに惚けた顔で 事切れている。
「……気色悪い顔で見やがって」
無造作にそれらの顔面を蹴破っていると、か細く愛しい声に 名を呼ばれた。
「何かな、ユムラ姫様。足りなかったのかい?」
〈いいえ、きょうは もう じゅうぶん。とても おいしかった〉
「それなら良かった」と破顔するツェム青年に、〈でも……〉と 長い睫毛を伏せ、遠慮がちに魔蚕の女王は呟いた〈つぎは、もうちょっとだけ、きれいないのちが たべたいの〉。
魔蚕の女王 ユムラ姫に食わせた人間の末路は伏せ、彼女の素晴らしさと二人の愛の深さを これでもかと語って聞かせた。男女の情愛について興味が無さそうな 猫目の少年には退屈だったようだが、黒髪の美しい傷顔の淑女は 熱心に聴き入っていた。我が麗しき愛しの姫の姿を、是非とも ひと目見たいと思っていることだろう。
「いやあ」黒髪の淑女が連れていた、白く毛足の長い美猫が 主人に何事かを呼びかけた。何故か主人ではなく、猫目の少年の方が「わかった」と相槌を返す。二人と一匹の旅人の関係性については 傍からはよく解らないが、そう詳しく知る必要もあるまい。
「そろそろ 新しい繭が出来上がる時期なのですが、お急ぎでなければ 繭の回収を見学していきませんか?」
「興味深くはございますが……いかが致しましょう?」
自分一人では決めかねると、黒髪の淑女は猫目の少年と白猫を交互に窺っている。猫目の少年も白猫と顔を見合わせてから、「いいんじゃない?」と 軽い調子で了承した。
「でしたら明日……今からでは日も暮れてしまいますし、明日の朝にトクリの山林へお連れしましょう。宿がお決まりでなければ、うちに泊まってもらっても構いませんよ。大したものは出せませんが」
「ああ、泊まるところは大丈夫。その辺で野営させてもらうから。明日の朝、そこの作業場を訪ねればいいのかな?」
むやみに他人の家で寝泊まりするより、野宿の方が彼らには気楽なようだ。しつこく誘うことはせず、猫目の少年の確認に頷いて返した。野営の準備を始めるという 旅人一行の背を見送ってから、ツェムも作業小屋へと戻っていった。