汝、離るること勿れ(1)
むかしむかし ある山の麓に、糸紡ぎを生業として細々と暮らしている小さな人里がありました。
里で紡がれる糸は 色合いといい艶といい、人の手によるものとは思えぬほど美しく、また その糸で織った布は羽のごとく軽く革のように丈夫でした。
ゆえに 都の高貴な人々はこぞってそれらを求め、遂には里まで使いを寄越すようになりました。金なら幾らでも出す、もっとたくさん売ってくれ、と。
それでも里の者は、それはできない と首を横に振りました。ならば製法を教えてくれ との声にも、決して頷くことはありませんでした。
なぜなら その糸を紡ぐことができるのは、里の護り神に認められた若者――人呼んで 糸巻きツェム ただ一人しかいなかったのですから。
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トクリ山の雪解け水を源とした小川は、麓の里を巡って潤し、やがては海へと注ぐ。木桶を抱えた幼い少女が 冷たく清らかな水を汲み、すぐ目と鼻の先にある掘っ立て小屋へと入っていった。
「ツェム兄ちゃん、お水 汲んできたよ!」
「ありがとう、土間に置いてくれればいいよ。これはお駄賃ね」
「わーい!」
木の実がたっぷり入った焼き菓子を受け取り、少女は小躍りで小屋を出ていく。軽く手を振って、彼女に水汲みを依頼した青年は ご機嫌なその後ろ姿を見送った。
少女の影がすっかり消えてしまうと、作業途中であった座繰機の前に戻り膝を着く。静かに握りを回すと、ゆっくり糸枠が動き始めた。
小屋の中でひとり紡ぐ糸のように目の細い その青年の名はツェムといった。トクリの山里で唯一人、ユムラ姫の繭から糸を紡げる人間である。
もうすぐ繭をもらい受ける時期だ。その御礼に、ユムラ姫様に感謝の歌を聴かせて差し上げよう。そう、胸の内に秘めながら、彼は今日も糸を繰る。
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大聖樹【ナプシュ】の森を抜け、前方にトクリという名の高い山が見える。そこから流れ来ているであろう小川の側で、黒髪の娘と白い大狼は腰を下ろしてひと息ついていた。
「とても良いフコフコ感でございますよ、ディア様。まるで質の良いソファに埋もれているようでございます……ああ、温かくて柔らかい……そしてちょっと臭い……ふあお!?」
黒髪の娘の台詞が終わるのも待たず、彼女が全身でもたれかかっていた白狼の身体が消える。唐突に支えを失った娘は、草もまばらな地面に無様に転げてしまった。
大きな白狼の頭があったその場所で、代わって毛足の長い大柄な白猫が 自身の背を念入りに手入れしている。
「ディア様、形態変化 すごく上手になられたね!」
じたばたと鈍臭く体を起こす黒髪の娘の真上から影が差す。
「受肉を挟まなくてもそんなに素早く変化出来るんだ! そろそろ 俺みたいな人型変化も出来るんじゃない?」
影の主に振り返り、黒髪の娘は「あれ?」と驚いたような声を上げた。
「イート様……で、らっしゃいますよね? 成長期ですか?」
すっかり見慣れた 先端が焦げ茶の三角耳と細長い尻尾は変わりないが、顔立ちと体格がいつもと違う。愛嬌あるやんちゃな少年のそれではなく、面影は残せども十歳ほど年を食って精悍になった 成人男性のものに変わっている。
「成長期なのはそうだけど、これは違うよ。ディア様のお手本になるかと思って変化してみた。いずれはこんな感じの 絶世の最強美男子が完成するだろうけど……」
不敵な笑みを浮かべながら、猫の耳と尻尾を持つ異形の青年は ちらりと足下に流れる小川を覗き込む。
その直後。胸元を押さえて蹲ったかと思うと、異形の青年の姿がかき消えた。
「えっ!? イート様!? ……川に、いったい何が……?」
慌てて小川に駆け寄り、黒髪の娘も水面を覗き込んだ。不安げな表情の自分の姿が映るだけで、特に危険は感じない。
後ろで我関せずと寝転がっている大柄な白猫の腹毛皮に顔を突っ込み、黒髪の娘は大きく深呼吸した。
「どうしましょう、ディア様……いい匂いですね!! イート様はどうしてしまわれたのでしょう!?」
「いやぁああ」
心底 迷惑そうな顔で白い猫は答えるが、黒髪の娘には意を解せない。
気持ちを落ち着けるべく 引っ掻かれるのも構わず深呼吸を続けていると、小川の手前で再び「受肉!」と声が上がった。
「イート様! いかがなさったのですか!?」
新鮮な生傷だらけの顔を上げ、声の出処を探す。今度は 普段通りの年頃の少年姿に戻っていた。それでもまだ荒く息を吐き、酷く深刻な表情を浮かべている。
「これはマズいな……あまりにも艶格好良すぎて 心臓が止まっちゃったよ。俺、このまま成神したら、この世の全てを堕落させてしまうんじゃ……!!」
「真っ先に堕落するの、止めていただけませんか?」
《ナプシュ》の森から更に西方、正面に聳えるトクリという山を迂回した先の海岸に、静穏の闇神【ムニキス】が力を与えた水霊神の気配を感じると、半獣の御使いであるイートは言った。
だが、海岸までの道程は人間の足ではあまりに長く、こうして幾度かの休憩を挟みつつ 一行は旅を続けていた。
「うーん……なんで人型変化は上達されないんだろう……」
先程とはまた違った方向に深刻な表情を浮かべるイートの前には、頭の天辺に三角突起を二つ付けただけの白粘土人形が立っている。イートが手本にやってみせた『超絶 艶格好良くて高貴で神々しいのに野性味と荒々しい力強さを兼ね備えて尚且つ(この辺りから面倒になって聞いていなかったので省略)な最強美男子』に変化するよう 不定形神ディアに強要した結果が この様だ。
「ディア様としては 瓜二つなのでは?」
「どこが!!」
顔に傷持つ黒髪の巫女 キルの意見に、白粘土人形のディアは肯定を イートは強い否定を示す。これ以上の技術の進展は 今の時点では望めないと悟り、イートは残念そうに頭を振った。
「まだ 半獣神形態の解像度が低いんだよね、うん、きっとそう」
イートの変化指導が終わったと見るや、ディアは瞬時に白猫形態へと戻る。ぐん、と伸びをしてから小川に歩み寄り、ぴちゃぴちゃと水を舐めはじめた。
「ディア様が水飲み終わったら、ぼちぼち進むとしますか! ……ん?」
組んだ手の平を空に伸ばして体をほぐしていたイートが、ある一点に視線を留める。小さな作業小屋のような建物の横に、小屋の半分はあろうかという巨大な釜が鎮座していた。
「何あれ?」
目を細めて凝視しても イートには理解できるものではなかったようで、難しい顔で首を傾げている。キルも何かの文献で見かけたことはあるのだが……。
「何処かの邦では、湯浴みのために湯を沸かす器具らしいですが……」
「湯浴み? 嘘でしょ? 人間って 茹でたら死ぬんじゃないの?」
「私もよくは存じませんが、湯浴みなら 沸騰するほど沸かさないのでは……?」
キルとイートのやり取りが気になったのか、水飲みに飽いたディアが振り返る。話題の本となった大釜を見つけると、迷う素振りもなく駆け出した。
連れが追いつくのも待たず、ディアはふんふん においを嗅いで 大釜を調べている。
「釜が気になるかい、繭の臭いがするのかな?」
作業小屋の中から、目が細く柔和な顔立ちの若い男が顔を出した。驚き飛び退るディアに右手を差し出し、チチチと舌を鳴らしている。
「綺麗な猫さんだね、この辺の子じゃないな。クズ繭あげるから おいで」
警戒を解かないディアを困ったように笑いながら、細目の若者は白くて丸い 卵に似た何かを手の平に載せた。
恐る恐る前足を伸ばし、ディアは白くて丸い物体を ひと息に若者の手の平から叩き落とす。落ちたそれの臭いを嗅ぎ、ものすごい勢いで叩きはじめた。
「ディア様、何やってるんだろう」白い外套に合わせた同色のシャプロンを慌てた様子で被りながら、イートもディアのもとへ駆け寄っていく。あまり深いことは考えず、キルも彼の後に続いた。
「ディア様、何もらったの?」
念の為 差し出された物の正体を確かめようとしゃがみ込むイートに気付き、ディアは白くて丸い物体を咥え込んだ。取られてたまるかとでも言うように、低く唸って威嚇の姿勢を取る。
「魔蚕のクズ繭です。毒性はないので、安全ですよ」
細目の若者は一度小屋に戻り、別のクズ繭を持ってきた。イートにもそれを手渡し、再びクズ繭を叩きはじめるディアを穏やかな眼差しで眺める。
「気に入ってくれたみたいなので、予備にどうぞ。君の猫さんですか?」
「俺じゃなくて、そっちのお姉さんのお婿さん」
顎で示した先で戸惑う黒髪の淑女を見つけ、若者の目が少しだけ見開かれる。
「連れの方もお綺麗ですね。一緒に居たら 絵になるでしょう」
「絵にはなるけど、滑稽漫画だよ」
「どういう意味ですか イート様?」
「ほら、すごい怖い顔するでしょ」
クズ繭を散々叩き潰して満足したらしく、すっかりぺしゃんこになったそれを咥えると、ディアはキルをじっと見上げた。
「キルにくださるってさ」
「なんと! ありがとうございます、ディア様! ……で、これをどうしろと?」
「のーん!」
自信に溢れたディアの返事に、意味も解らず キルは笑顔だけ返す。しかし同じ声を聞いたイートからは、すっと笑みが抜けていた。
「ね、お兄さん。これ、魔蚕のクズ繭って言ってたよね? 何でこんなの、いくつも持ってるの?」
古来より人間は、得体が知れず 人に害為すものを『魔』と呼び畏れてきた。地上の多くの人間が、『魔』に力を与える闇の神をも『魔の神』と呼び慣わし 敵視してきたはずだ。
「そうですね。旅の人からすれば『魔蚕』なんて危険な魔蟲ですからね」
瞳孔を細め、問い詰めるような視線を向けてくるイートに、細目の若者は臆する様子もない。それどころか、どこか誇らしげに 彼の作業場を仰ぎ見る。
「でも、ここでは違う。魔蚕の女王 ユムラ姫様はこの里の護り神なんです。そして僕は 人呼んで【糸巻きツェム】。この里で……いや、この世で唯一、魔蚕の――ユムラ姫の繭から糸を紡げる人間です」
愛しい女を想うがごとく うっとりと惚けた声で、細目の若者は名乗ったのであった。