僕がキミに出来たこと
0日目
僕は王川 伊月。普通の高校生だ。
今日は日曜日。学校は休みなため、恋人とデートをするために家近くの公園で待っていた。
「やっほ〜! 伊月くん、今日も早いね〜!」
彼女が手を振って、僕の元まで走ってきた。
夜川 亜希。黒いショートカットで、茶色い目の彼女は、僕と同じ高校生。
それどころか、幼稚園の頃から一緒の幼なじみだ。
付き合えたのは半年前だけど……ずっと前から思いを寄せていた。
「やっほ、亜希。今日も相変わらずだね」
亜希の服に視線を向けた。
上はダボッとした黒のパーカー、下は裏起毛の黒ズボンを履いている。
亜希はあまりおしゃれをするタイプではなかった。
「えへへ〜、いいじゃん! これが最近のファッションスタイルってこと!」
「パーカーの毛玉を取ってないのも?」
「そう! ファッションスタイル!」
「そっか」
そんなわけない。
とは思うけれど、別に言及はしない。これが亜希のスタイルであることは間違いない。
彼女が直して、この定番の会話が無くなってしまうのも寂しい気がする。
「それじゃぁ、行こっか」
彼女が出した手を握り返し、僕等は並んで歩いた。
今日の目的地はゲームセンター。
亜希はゲームが大好きで、特に銃を持ってゾンビを倒すゲームがお気に入りだった。
「わぁぁっ!?」
プレイ中、思わず素っ頓狂な声を挙げてしまった。
突然出てきたゾンビが僕のアバターを攻撃しできたのだ。
ショッキングな緑の化け物と、リアルな鮮血で驚かずにはいられなかった。
「あはは! まっかせーなさーい! そんなゾンビ、私が倒してあげる!」
プロさながらの動きで、亜希が僕の前に居るゾンビを倒した。
「ふふーん、伊月くんは守ってあげるから! 安心していいよ!」
「そんなわけには行かないよ。僕だって亜希を守る!」
守られっぱなしは悔しい。プレイスキルでは到底敵わないが、僕にだって男の維持がある。
負けるもんか。
そう息巻いたは良いものの、ボスのゾンビが出てきた瞬間に腰が引けてしまった。
結局、亜希が主軸で戦い、僕はそれを支える。そんなスタイルに収まってしまった。
ボスを倒し、ゲームをクリアした。
亜希はもう1回やろうと言い出し、僕も「えぇ……」と言いながらお金を入れる。
また驚かされ、守られを繰り返す。
散々だと思いながらも、次の休日には、またこうして遊べることを期待していた。
1日目
「え?」
僕は、学校で隣のクラスの担任に呼び出された。
そして、言われたことに耳を疑った。
「夜川さんが今日休みを取ってね。親御さんが聞いても、本人は休みたいとしか言わないみたいなんだ」
「ほ、本当ですか?」
失礼極まりないが、先生の言っていることがどうも信じられない。
亜希は普段だらけたことを言ってても、実際に休んだことは一度もない。
そもそも、昨日一緒に遊んだときには、そんな様子なんて欠片もなかった。
家の前で分かれる時だって、彼女は笑顔で手を振っていたのに……。
「信じられない気持ちはよく分かるよ。私も、夜川さんが理由もなく休むことは無いと思っている。君は何か知らないか? 家も近いし、仲が良いじゃないか」
「い、いえ。僕は何も」
「そうか」
先生は残念そうに目を下げた。
「君さえ良ければ、放課後に夜川さんの様子を見に行ってやってくれ。それと、調子が戻ればまた学校に来てほしいと伝えてくれ」
「分かりました」
話を終え、教室に戻ったあとも僕は考え事をしていた。
授業の内容なんて、まるで耳を通らない。
頭の中は、心配と疑惑でいっぱいになっていた。
10時半に時計を見た後、大分経っただろうと時計を再び見ると、3分しか過ぎていない。
やたら歯痒くて、待ち遠しい。
ようやく学校が終わった時、僕は席から発射するように立ち上がり、亜希の家に向かった。
ノックした扉は、存外早く開いた。
玄関には、乾いた笑みを浮かべている亜希が立っていた。
「やっほ〜、伊月くん」
「やっほじゃないよ! どうしたの? 昨日まであんな元気だったのに……。というか、何か、あったの?」
彼女の様子は、いつもと明らかに変わっていた。
表情は暗くどよんと沈んでおり、いつも感情を伝えてくれる腕は、だらんと下がっている。
「気にしないで。私は、大丈夫だから!」
貼り付けたような笑みを浮かべ、両腕で力のないマッスルポーズを取っている。
その様子を見て、何故だか無性に悔しくなった。
亜希に何か悩みがあるのは間違いない。
それを打ち明けてもらうことも、解決することも出来ず、無理をさせてしまっている。
その事実に、胸が締め付けられるような思いがした。
「その、大丈夫なら、良かった……。でももし、もしなにか悩みがあるなら、いつでもメールしてね」
スマホを亜希に見せながら、僕は手を振った。
「うん。ごめんね、伊月くん」
バタン
強く扉を閉める音がした。
その音で、否応なしに分かってしまった。
僕は、彼女の元に来るべきでは無かった。
その夜、僕は久しぶりにお母さんに怒られた。
ご飯に手を付けず、ずっとスマホばかりを見ていたためだ。
謝らなくちゃいけないことは分かっていても、それどころでは無かった。
説教のあと、逃げるように自室に戻る。
ずっとスマホを見ていたが、亜希から連絡が来ることは無かった。
そして日が変わる頃、僕は意識を失くしたように寝落ちした。
2日目
朝6時に目を覚まし、僕は顔を洗いに行った。
心の状態とは裏腹に、体はスムーズに動き、洗面台に行くまでそう苦労はしなかった。
しかし、そこに着いた途端に僕は固まった。
先着にお母さんが居た。
タオルで顔を拭いたあと、僕に今気付いたように視線が向いた。
「あら、おはよう伊月。待たせちゃった?」
にっこりと笑みを浮かべながら、お母さんは洗面台の前から退いた。
想像からかけ離れた母の対応に、呆然とした。
「どうしたの? この洗面台、使うんじゃないの?」
「母さん? ちょっと待って。昨日のこと、気にしてないの?」
「昨日のことって何の話よ〜。伊月が私になにかしたの?」
「いや、だって……」
声も出ず、パクパクと口だけが動いていた。
いったい何の冗談だろう。
母さんなら、昨日のことを謝るまで洗面台の前に陣取ったっておかしくない。
でも今の母さんはどうだ。
陣取るどころか、寧ろ昨日僕がしたことすら忘れていそうだ。
「もう、寝ぼけてるの? 伊月にしては珍しいわね。ほら、さっさと顔洗って、目を覚ましなさい」
母さんは後ろに回り、背中を押してきた。
僕の体が洗面台に着いた時、「じゃぁね〜」と言って、自分の部屋へと戻っていった。
……昨日のことは、夢だったんだろうか。
考えてみれば、亜希と別れた後のことはあまり覚えていない。
「いや」と否定する言葉を飲み込み、忘れることにした。
これ以上考えたって訳が分からなくなるだけだ。
自分が夢を見ていたか、母さんが忘れているだけ。そのどちらかには変わりない。
僕は洗面台で顔を洗い、軽く歯磨きをした。
近くのタオルを手に取って顔を拭いたあと、自分の部屋に戻る。
ベットの上に座り、スマホを開いた。
起きたときにも通知の確認はしたが、念のためラインも見ておこうと思った。
「え?」
目を見開き、画面を睨みつけた。
体からは、冷や汗が噴き出している。
「いったい、何の冗談だよ……」
視線の先には、亜希と僕が会話をしている画面が映っている。
日付は昨日。時間は夜の20時以降。
内容はここの授業が分からなかった。土曜にまた遊びに行こう。など、いつも交わしている他愛も無い物だった。
しかし、僕はそんなラインをした覚えはまったくない。
そもそも、昨日は亜希からの連絡が1つも来ていないのに。
それからしばらく、頭が呆然としていた。
1つの予測も考察も出来ないまま、お母さんの呼ぶ声が聞こえた。
母さんが3度辺り僕を呼んだ時に、意識はようやく現実に戻った。
リビングに行くと、母さんが腕を組んだまま佇んでいた。
「今日はやたらとぼうっとしてるわね、伊月。そんなことじゃ、亜希ちゃんに呆れられちゃうわよ!」
「う、うん。気を付けるよ……」
亜希……。
そうだ。亜希はどうだろう。調子は戻ったんだろうか。また学校で会えるんだろうか。
……昨日のことを、覚えているんだろうか。
朝食を掻き込むように食べ、箸を置く。
「ごちそうさま。学校に行ってくるね」
「どうしたんだ伊月。今日は随分と早いじゃないか」
向かい側に座っていたお父さんが、驚いたように顔を挙げた。
時間はまだ7時。このままじゃたしかに、30分も早く学校に着いてしまうだろう。
でも、今この家に居るのは、すごく気味が悪かった。自分でも、何故こんなことを思うのかは分からないが。
「今日は、ちょっと用事があるから」
「用事?」
お父さんが首を傾げている。
すると、隣に座っているお母さんが、お父さんの肩を肘で突き始めた。
「もう、察してあげなさいよ。行ってらっしゃい、伊月」
お母さんが茶化すような笑みを浮かべている。
何か勘違いしているみたいだ。でも、今この状況では、その方が好都合かな。
「うん、行ってきます。それと、昨日はごめんね、お母さん」
「んん? 朝もそんなこと言ってたわね。いったい何の話よ?」
「こっちの話。じゃぁね」
扉を開いて外に出た。
冬のこの時間帯では、陽も上りたてのようだ。
薄暗い景色が幻想的ではあるが、それが返って不気味に映る。
さっそく亜希の家に向かい、呼び鈴を鳴らした。
扉を開いたのは亜希のお父さん。
すこし驚いたように僕の方を見た。
「伊月くんじゃないか。随分と早いね。どうしたんだい?」
「亜希は元気かな、とすこし気になったので。上がってもいいですか?」
「あぁ、いいよ。でもよく知ってるね伊月くん。僕も今日の朝様子がおかしいことに気付いたんだ。もしかして、何か聞いているのかい?」
「いえ、元気が無くなった理由については、なにも……」
正直やっぱりか、と思った。
おじさんも昨日のことを知らないとなると、いよいよ不可思議だ。
かなり現実的な予知夢でも見ていたのかも知れない。
思案するまま歩いていると、あっという間に亜希の部屋の前までやって来た。
そして、おじさんがコンコンと2回ノックする。
「亜希。伊月くんが様子を見に来たらしいんだ。中に入れても良いかい?」
『伊月くんが?』
ドタドタと音がした後、扉が開いた。
亜希は、姿だけいつもと変わらなかった。
しかし、驚いたような表情の中には、どよんと暗い色が見えた。
「あはは、慌てて出てくるなんて、亜希は相変わらず伊月くんが好きだね」
おじさんは笑いながら、僕の肩にポンと手を置いた。
「それじゃ、伊月くん。亜希をよろしくね」
仕事の時間のようだ。おじさんは玄関の方に戻っていった。
その後、すこし沈黙があったあと、亜希が口を開いた。
「いいよ、伊月くん。入って」
亜希が扉を開き、中に招いてくれた。
この部屋に入るのは、中学生の時以来だ。
あの時と変わらず、いろんなゲームが散乱しているだらしない部屋。なのにすこしドキドキしてくる。
僕はふぅ、と息を吐いた。
意を決して、亜希の目を見つめた。
「ねぇ亜希。昨日は、なぜ休んだの?」
亜希が目を見開き、呆然とした様子で僕を見た。
彼女も、忘れたのかも知れない。
頭に過ぎったその考えを、亜希が否定した。
「伊月くん、なんで知ってるの?」
「え?」
「たしかに昨日は休んだよ。でも、なんで伊月くんが!」
喋るうちに、亜希の目から涙が溢れてきていた。
僕は、トントンと背中を押した。
「なんで僕が知っているのかは、分からない。でも、なにか不思議なことが起きていて、亜希はその現象について、知っているんだよね?」
亜希は、コクリと頷いた。
「じゃぁ……教えて。僕は、亜希の力になりたいんだ」
「……分かった」
亜希は顔を上げ、僕の目を見つめ返した。
「私は、何度もループしているの」
「え?」
「5日後の日曜日に私と伊月くんが死んで、月曜日に戻ってまた1週間を過ごす。もう、20回繰り返してるの」
あまりの衝撃に、口が開いて呆然とした。
嘘だと思いたかった。
しかし、納得した。20回死んでいる、そのことを納得出来るほど、亜希の様子はあまりにやつれていた。
「で、でも、それじゃぁ、お父さん達はなんで、昨日のことを覚えていないの?」
「1日経つと、その日にした出来事が無かったことになっちゃうの。月曜日に学校を休んだりしたって、次の日の火曜日には、まだループしてない時の火曜日に戻っちゃう」
「ループしていない時の火曜日。……最初の1週間ってこと?」
亜希は、コクリと頷く。
そして、歯を食いしばり、涙を流した。
「自殺したって、次の日が来る。マンションから飛び降りたはずなのに、目が覚めたらベットの上で寝転んでる。もう、訳分かんないよ」
「亜希……」
絶えず涙を流す彼女を、抱き締めた。
いつもは恥じいる亜希が、今回ばかりは反応もなく、ただ身を委ねていた。
「僕は覚えるよ。昨日のことだって、今日のことだって! だから、一緒にループを解決しよう。死ぬのを、阻止しよう」
記憶を維持出来るなんて根拠は無い。
でも、僕に出来るのは、それに賭けて亜希に協力することだけだ。
「……うん」
亜希は泣き止み、僕から離れた。
服の袖で目を拭ったあと、こちらに視線を向ける。その目には、わずかに光が戻っていた。
彼女の様子を見て、確信した。
日曜日に死ぬと言っても、どうしようもない自然現象や、ミサイルなどで死ぬわけじゃないみたいだ。
でも、日曜日か……。
「ねぇ、亜希。日曜日ってことは、バーベキューが何か関連しているの?」
お父さん達は今週の日曜に、庭でバーベキューする予定が建っている。僕と亜希は家族ぐるみの付き合いなので、こうしたことは珍しくない。
それで引火したり、などの死因に関連しているのかと思ったけど、どうやら違ったみたいだ。
否定するように、亜希は首を横に振っている。
「いつも、バーベキューをする前に殺されるよ。関係ない」
いつも日曜日に死んでしまうのは、何者かの犯行に寄るものらしい。
聞くのは躊躇われるけど、聞いておかなければ。
「殺されるって、どうやって?」
「家に放火されて死ぬのが基本かな……。家から逃げ出しても、通り魔に燃やされちゃう」
「ハハ……」と力無く笑う彼女の姿に、胸を締め付けられる思いがした。
焼け死ぬ経験を20回と繰り返してきた。
とても耐えれることじゃないのは、想像に難くない。
亜希の目は、また光を失っていた。
「たすけて、伊月くん……私は、全部教えるよ。どこから火が点くのか。殺人鬼がどう来るのか。だから、お願い……」
「分かった。任せて」
気付いたら、そう口走っていた。
断るわけにはいかなかった。亜希の目を見て、断れるわけもなかった。
すこし経って、学校の時間になったため、亜希の家から出てきた。
正直、この話を聞いた後に亜希を置いていくのは心苦しかった。
亜希にもっと詳細を聞き出し、日曜日の対策を固めたい。亜希だってその方が安心するだろう。
でも、僕は学校に向かった。
もしかしたら、昨日のことを覚えている人が学校の中に居るかも知れない。
もし居るのならば、その人に協力を要請するべきだ。2人で殺人鬼の対策をするよりも、その方がよっぽど良いだろう。
もっとも、協力してくれるかどうかは分からないけど……。
まず、先生方に片っ端から亜希について聞きに行った。
『亜希が今日休んだみたいですが、事情を知りませんか?』と。
もし昨日のことを覚えている人が居るならば、無反応では済まないはずだ。
そう思って、色んな先生に話しかけていった。でも、どの人も普通の反応だった。
隠しているようには見えなかった。
大人の先生が味方してくれるならすごく心強かったけど、駄目みたいだ。
大人は諦め、僕や亜希の友達にも同じように尋ねてみた。
どの人も、心配を口にするばかりで覚えている人は居なかった。
僕と亜希で何とかするしかない。
その結果を報告するために、彼女とのラインを開く。
すると、大量のメッセージが届いていることに気付いた。
朝に言っていた火が点く場所、強盗が突入してくる場所の詳細。
さらには、20回あったループの中で試してみたことと、その結果が綴られている。
「なるほど」
一先ず、すぐ思いつくようなことは全部やっているみたいだ。
親に相談、警察に電話、電車で逃亡、など。
親に相談したら信じてもらえず、上手く行かなかった。
警察に電話して、何とか助けを求めれても、来るのは最大でパトカー2台。それは犯人に焼かれてしまい、まるで結果は変わらなかった。
しかし電車で逃亡した件は、結果を見た瞬間、背筋が凍るような感覚が奔った。
〈逃亡先にて通り魔と出会い、焼死〉
……まさかとは思っていたけれど、やはりそうだったみたいだ。
亜希は、誰かに命を狙われている。
亜希の命を狙う人。
全く検討も付かない。
亜希が誰かに恨みを買った話は聞いてないし、恨みを買うような性格でもない。
〈亜希は、その通り魔の人に、心当たりはある?〉
〈無いよ〉
やっぱりそうだ。
念のために聞いてみたけど、そんなのあるわけない。
〈でも、お母さんの様子に関係あるのかなとは思ってるよ〉
お母さんの様子?
そう言われて思い出した。
亜希のお母さんは最近眠れていないらしい。過度のストレスが原因とは聞いているけれど、詳細は知らない。
メールを見るに、どうやら亜希も詳細については聞いてないみたいだ。
〈何があったのか聞くことは出来ないかな?〉
〈説得は何度かしたけど駄目だった〉
なるほど。
どうやらよほどのことがあったみたいだ。
それに、説得して話を聞くのも1日の間に、と考えると至難の業だ。
となると、亜希のお母さんに聞くのは諦めよう。
〈僕のお母さんに聞くよ
それほどのことなら、何か知ってると思うし〉
亜希のお母さんと僕のお母さんは親友だ。
話を聞いている可能性は、相当高い。
かと言って、僕のお母さんが話してくれるかも分からないけれど。
〈そうだね お願い〉
亜希とのラインはそこで終わった。
口で聞いたほうが確実だと思い、僕はお母さんとラインはせずに、家に帰るまで待機した。
学校が終わった。
友達の誘いを断りながら、一直線に家に帰る。
玄関の扉を開くと、僕の部屋のあたりで掃除機の音が聞こえた。
靴を脱ぎ捨てたあと、お父さんの靴が無いことを確認する。
そして、自分の部屋に向かった。
「あら、おかえりなさい。今日は早かったわね」
「ただいま母さん。今日は、話があるんだ」
僕のただならない空気を察したのか、母はすぐに掃除機の電源を切り、地面に置いた。
「改まって何よ〜?」
「亜希のお母さん、最近寝れてないんだよね? 何があったのか知らない?」
「あら、亜希ちゃんにでも頼まれたの? そう心配しなくても、日曜日には治るわよ〜。あの人肉好きなんだから」
日曜日には治るって……亜希とは関係ないのかな?
話を聞く限り、どうも亜希のお母さんがメンタルブレイクをしただけのようにも思える。
だけという言い方はよろしくないけど、それでもこの件には……。
「うーん、それでも一応聞かせてよ。ちょっと、心配だし」
「駄目よ〜。あんたに教えたら、亜希ちゃんに言っちゃうでしょ?」
「亜希に知られちゃまずいことなの? 亜希に何か関係があるの!?」
母さんに詰め寄った。
すぐさま、「まぁまぁ」と手で抑えられる。
「こういうことは大人に任せときなさい。あんたたちは気にしなくて大丈夫」
「任せてられないよッ!」
思わず大声で叫んでしまった。
母さんはビクッと驚いたように肩を跳ねさせていた。
「も〜、随分と信用ないのね。母さん傷付いちゃったわ」
「ご、ごめん」
「事が済んだら、貴方にはちゃんと話してあげるわ。だから待っててちょうだい」
「でも……」
「あんたにしては、珍しく突っかかってくるわねぇ。なにかあったの?」
もちろん大問題が起こっている。
でも、あの話を果たして信じてくれるかどうか。
……あれ?
状況を整理してみると、お母さんがこう問いかけてくる事自体が違和感だ。
亜希が学校を休んだことを知らないとしか思えない。
でなきゃ「なにかあったの?」なんて言葉が出るはずがない。
よし、物は試しだ。
「お母さん……今日、亜希が学校を休んだんだ」
母さんは、分かりやすく血相が変わった。
「なんですって? 何かの病気?」
「いや、違うよ。理由は聞いてないんだけど、なんだか、すごく怯えてた」
とっさに嘘を付いてみたけれど、想像以上の効果があった。
母さんは汗を垂らしながら、思案するように口に手の甲を当てている。
「ごめんね伊月。ちょっと用事が出来たわ!」
母さんが走りながら部屋から飛び出していく。
そして、なにやら電話を掛けるような音が聞こえてきた。誰に掛けているのかは、なんとなく想像が付く。
いそいで亜希とのラインを開き、状況を説明する。
おそらく、もうすぐおばさんが亜希の様子を見に行くだろう。上手く行けば、そのタイミングで話を聞けるはずだ。
部屋の中をウロウロとしながらしばらく待っていると、ピコンと音が鳴った。着信音だ。
反射的な速度でスマホを取り、中を確認する。
〈駄目だった
けど、ヒントは掴めたよ〉
ホッ、と一息吐いた。
一瞬気落ちしそうになったけれど、無駄骨ではないみたいだ。でも、ヒントってなんだろう。
〈ヒントってことは、断片的には何か分かったの?〉
〈聞き出す方法が分かったの
でも、詳細について分かってる訳じゃないよ〉
聞き出す方法が分かったって……充分じゃないか。
と言っても、それを今すぐ実践していないのは、日を跨がなければ駄目な方法なんだろうか。
その後、亜希に色んなことを聞いてみた。
どうやら、おばさんは亜希が休んだことを、単に調子が悪いだけか風邪か何かだと思っているようだった。
もっとも、あちらの記憶では亜希は昨晩まで元気だった。そう思うのも無理はない。
そんな中、お母さんの電話を聞いて、あわてて飛び出てきたみたいだ。
更に【人に襲われた】と亜希が試しに言ったとき、「まさか」というような表情になったらしい。
その後……いつ、どこで、などの質問を一方的にしたあと警察に電話しに行った。
結局原因については聞いても「後で教える」としか言われなかったようだ。
中々前に進めなくてもどかしい気分だ。
今は亜希の策に頼るしかない。と言っても、亜希の方も深いことは教えてくれない。
策については、明日分かるの一点張りだ。
僕に出来ることは、明日の夜、もう一度お母さんに質問することだけ。
こんな非常事態に出来ることが少なすぎる。
僕は歯痒い気持ちを抑えながら、明日が来るのを待った。
3日目
起床して、すぐにスマホを確認した。
昨日のメールは全て無くなっている。
代わりに、ループしていない頃の火曜日に交わしたであろう会話が綴られていた。
僅かに昨日のことは夢だと祈っていたのだけれど、そうも行かないみたいだ。
すこし気味が悪くなってきたため、手早くスマホの電源を切り、朝の日課を済ませた。
"いつも"と変わらない様子の両親と朝食を摂る。
昨日のことを忘れて会話しているのを見て、何故か恐怖を覚え、僕は早めに家を出た。
いつもの道を通っていると、途中で亜希を見かけた。
私服姿で電柱に凭れ掛かり、呆然としていた。
「やっほ、亜希」
声を掛けると、彼女はすこし驚いたように目を見開いていた。
「伊月くん? 偶然だね」
「うん。どうしたの、こんな所で。昨日言ってたこと?」
策について聞いたつもりだったが、亜希はあまりピンと来ていないようで、首を傾げている。
「昨日、お母さんから話を聞き出す方法を思いついたって言ってたでしょ? それの関連で待機してるのかなって」
すると、亜希は口を呆然と開けたまま、震えた目で僕の目を見てきた。
無意識に後ろへ下がろうとしたのか、靴の踵が電柱にぶつかっている。
「なんで、そのことを……」
「なんでって……昨日言ってたでしょ? もしかして、忘れちゃったの?」
亜希も、お母さんたちと同じように昨日の記憶が無くなったのかも知れない。
その考えが頭に過ぎったが、次に亜希が言ったことは、まるで予想だにしない一言だった。
「確かに、言ったよ。でもそれは、20回目の時に……」
20回目?
20回目は、おそらくループのことだろう。
それならいったい、どういうことなんだ?
「亜希は、何回ループしてるの?」
「……30回」
心臓の音が、強く鳴った。
ループの回数が、増えてる……。
「そっか。伊月くんは、20回目の記憶を持ってるっていう認識でいいよね?」
声が出ない。僕は固く頷くことで返事をした。
「……良かった。また一人になったわけじゃないんだね」
亜希が安心したように笑っている。
そんな状況では無いはずなのに、いつもと違う彼女を見て、すこしドキッとしてしまう
「あ、亜希、どういうこと?」
「ううん、こっちの話」
首を横に振って、また笑みを浮かべる。
心無しか、昨日より元気があるような気がする。
「それじゃぁ、昨日の話を聞かせて。記憶違いがあったら困るから」
「そう、だね。分かった!」
昨日の話を整理して、亜希に話した。
彼女は相槌を打つように、軽く頷いていた。
話が終わったとき、一度深くうなずいた。
「うん、おっけー。記憶通りの流れだね。……じゃぁ、伊月くんはそのまま学校に行って。夜にまた、質問してね」
「うん。行ってきます」
僕が手を振ると、彼女も振り返してくれた。
「行ってらっしゃい。それと……ごめんね」
え?
僕がその言葉に驚いている内に、亜希は去ってしまった。
追いかけようとも思ったけれど、時間が迫ってきている。
すこしの不安を抱えながら、僕は学校に向かった。
昨日とは違ってすることも無かったため、僕は授業に集中して時間を潰した。
そして、放課後。
授業も終わって、帰る準備を整えていた時にスマホが鳴った。
お母さんから電話だ。何かあったんだろうか。
「はいもしもし。どうしたの?」
「い、伊月! 早く帰ってきて! あ、あ、亜希ちゃんが……」
「亜希が、亜希がどうかしたの!?」
続く母の言葉を聞いた時、僕は携帯を閉じて、すぐに家に向かった。
その道中、パトカーが数台止まっているのが見えた。
そこには亜希の両親と、お母さんが集まっている。
侵入防止のロープを割って入ろうとする亜希の両親を、警官が必死に食い止めている。
ロープの真ん中には、血塗れで倒れている亜希が居た。
「ー、ーー!」
視界が呆然としている。
近くで声がするが、何も聞こえなかった。
よろつく足で、亜希の元に行った。
死体となった彼女を見て、目から何かが溢れてきた。
膝が地面に落ちる。手で、ロープに凭れ掛かった。
「亜希ィッ……!」
一度叫ぶと、止めどなく涙が溢れてきた。
亜希が自分で死を選んだのが分かってしまった。
お母さんから話を聞き出せるようにと、亜希は……。
その後お母さんに連れられて、自宅に戻った。
なんでも、亜希は他殺の可能性が高いから外は危ないそうだ。
遺書が無かった上に、昨晩までは元気だったため、他殺と判断されたらしい。
亜希が死んだ場所には、監視カメラが設置されていなかった。
夜になっても、ずっと呆然としていた。
動く気力が起きなかった。
もっとしつこく話を聞き出していれば、朝の時点で追いかけておけば。そんな自責の念が、止まらなかった。
「伊月」
コンコン
部屋がノックする音がした。お母さんの声だ。
扉を開き、中に入ってきた。
手には、ラップの掛かった夕食を乗せたトレイを持っている。
「気持ちは分かるけれど、すこしは食べないと体に毒よ? ここ置いとくから寝る前には食べなさい」
テーブルにトレイを置いて、お母さんが部屋から出ようとする。
お母さんの腕を掴んで、引き止めた。
「ど、どうしたの!? 伊月!」
……帰らせるわけにはいかない。
ここで聞いておかなければ、明日、また亜希が死のうとするだろう。
僕は頭を絞り、話を聞き出すための言葉を練った。
「ねぇ、亜希のお母さんが、何か心当たりのあるような顔をしていたんだ。お母さん、何か聞いてない?」
「え? あの人が……」
お母さんは暫し間を置いて、「まさか」と顔を上げた。
「知ってるんだね!? お願い! 聞かせて!」
僕はすぐさま詰め寄った。
お母さんは手で僕を抑えながら、コクコクと頷いている。
「わ、分かったわ。でも、この件は警察に任せるのよ? 関わっちゃ駄目」
「うん、分かった」
僕はうなずき、お母さんの話を聞いた。
亜希のお母さんが働いていた場所での出来事。既婚者のおばさんに、言い寄ってくる男の人が居た。どうやら上司だったらしい。
その人はしつこくおばさんに誘いを掛け、遂にはセクハラ行為にまで及んできた。
弁護士を通じてそのことを訴えると、その人は懲戒免職となり、亜希の家族と接近禁止の令が出たようだった。
しかし、話を終えて別れる寸前に「覚えていろよ」と恨めしい目で睨みを効かせられた。
セクハラ行為によるストレスと、その睨みに対する恐怖で、おばさんは不眠症になってしまったそうだ。
「警察に届け出を出せば、すぐその人に事情聴取がされるはずよ。もし黒であれば、殺人罪として、逮捕されるわ」
「分かった。最後に、その人の名前だけ聞かせてもらってもいい?」
「そんなことを聞いて、いったいどうするって言うの?」
「だって、もしニュースとかで取り上げられれば名前を見て、安心出来るな、って」
お母さんはすこし腑に落ちない様子ながらも、「まぁいいわ」と了承してくれた。
「その人の名は、化陽 良一よ」
化陽 良一……。
話を聞いて分かった。その人が、亜希を殺す犯人なんだろう。
きっと、亜希のお母さんに対する恨みを晴らすため、手始めに亜希を狙ったんだ。
絶対に、殺人を食い止めてやる。
その時、窓の隙間から煙が入ってきた。同時に、近所から燃える音が聞こえてくる。
これは、亜希の家の方角からだ。
いそいで家から飛び出し、亜希の家を確認した。
炎が全体まで燃え上がっており、亜希の家どころか隣接した場所にある僕の家にまで炎が移っていた。
僕と一緒に飛び出したお母さんは無事だった。
しかし亜希の両親はあの炎に包まれて、死んでしまった。
ふと、笑い声が聞こえた。
視線を向けると、そこには覆面の男が居た。手には、白と黒の混じった銃のような物を持っている。
間違いない。こいつが、家を燃やした張本人だ。何十回も亜希を殺した、犯人だ!
覆面の男が逃げ出した。
僕がそれを追おうとすると、後ろから手を掴まれる。
「落ち着きなさい伊月! 相手は銃を持ってるのよ!?」
腕を掴んだのはお母さんだった。今までに見たこともない剣幕で僕を睨んでいる。
「で、でも!」
どうにもならないことは分かっている。
もしかしたら、あの手に持っている物で殺されてしまうかも知れない。
だとしても、冷静で居られるような状況ではなかった。
「見なさい!」
警察官が覆面の周りを取り囲んだ。
そうか。この辺りで殺人が起こったために、パトロールをしていたんだ。
さっそく警官は拳銃を上に向け、一度発砲した。威嚇射撃だ。
「凶器を捨てて投降しなさい!」
聞いているだけでも震え上がるような怒声で、覆面を威圧していた。
しかし、覆面は素知らぬ顔で銃口を警官に向けた。即座に一人の警官が覆面の足を撃ち抜く。
奴は悶絶しながら地面に転がった。
警官が即座に覆面の腕を押さえつけ、地面で暴れていたのを止めた。
しかし、このまま連行させるわけにはいかない。
確かめなければ。
「化陽良一ッッ!」
僕は覆面に向かって叫んだ。
奴は驚いたように顔を上げている。その顔も、即座に警官に押さえつけられた。
反応を見て確信した。
放火の犯人は、化陽 良一だった。この男こそが、僕等が捕まえるべき相手だ。
その後、僕は警官から事情聴取を受けた。
お母さんが事情を詳細に説明した後、釈放された。
帰る際には警官から注意され、帰路の途中ではお母さんからも怒られた。
悪い事をしたのは分かっている。でも後悔はしていない。同じ選択を迫られれば、僕は同じことをやるだろう。
これは、必ずやるべきことだ。
夜、僕達はホテルに泊めてもらい、就寝した。
今日だけは、明日に全てが戻っていることを願った。
みんなの記憶が消えていて、燃えた家が戻っていて、何より、亜希が生きていることを願った。
4日目
ホテルのベットで眠っていたはずが、朝起きたら自宅のベットに寝転んでいる。
この奇妙な状況にも、すでに慣れた。
何も感じない自分が、少し不気味に思えてくる。
日課を済ませ、朝ご飯を食べる。
お父さんやお母さんは、ずっと笑顔だ。
ほとんど詰め込むようにしてご飯を食べ終え、僕は家を出る。
一昨日は茶化すようだったお母さんも、僕の急ぎようを見てさすがに驚いていた。
しかしそれだけで、快く僕を送り出してくれた。
改めて、亜希の家のインターホンを押す。
家の中を走る音がしたあと、素早く家の扉が開いた。
亜希が居た。嬉しそうに泣きながら僕に抱きついた。
「わぁっ!?」
僕は思わず面食らってしまった。倒れそうになる自分の体を必死に支える。
あ、亜希ってこんな積極的だったっけ。
嬉しいけど、照れるっていうか、服に当たる感触が、その……。
「えへへ。伊月くん……家に来たってことは、覚えてるんだよね?」
亜希は絶望から持ち直したような、少し嬉しげな表情で僕を見上げた。
「もちろんだよ」
僕は1つ頷いた。
「さぁ、家に入ろう。話したいことは、たくさんあるから」
「うん、そうだね」
亜希は僕の手を引っ張って、部屋まで向かった。
2人でベッドの上に座り、昨日のことについて報告した。
「化陽、良一か。うん……ありがとう、伊月くん」
「どういたしまして。と言っても、分かったのは名前だけだよ。住んでる場所とか、何も分かってない」
「大丈夫。電話帳を見れば住所は分かるから、後は私が調べるよ」
「亜希が、1人で調べるの?」
頭に、昨日の光景がフラッシュバックした。
吐き気を抑えながら、ゴクリと唾を飲む。
もう、亜希に死んでほしくない。例え、生き返るとしても。
頷く彼女を見て、僕は首を横に振った。
「僕も一緒に調べるよ。学校なんて休んじゃっても大丈夫」
「でも……」
渋る亜希の言葉を遮り、手を握った。
「お願いだよ。……亜希が死んでるところなんて、もう見たくない」
亜希の目が驚いたように見開いた後、顔がうつむいた。
「ごめんね。あの時は、伊月くんの気持ちを考えてなかった」
「……もう死のうとしないで。犯人の名前も分かったんだから、このループで全て終わらせることだって出来るんだ」
少なくとも、死なせはしない。
犯人を捕まえたら、ループを抜け出せるという確証はない。
でも、亜希が死なないようにすることは出来るはずだ。
「……そうだね」
腕の中で、少し嬉しそうな、安堵した声が聞こえた。
スマホで電話帳をインストールして、化陽という名字を探した。
この近辺で名前が当てはまる住所は1つだけ。僕等は早速、その場所へ向かった。
その住所近くの曲がり角から顔を出し、家を眺めた。
もし家の中に居るのがあの化陽だとすれば、亜希に会わせるべきじゃない。ここは僕1人で行こう。
「よし、行ってくるよ。亜希はここで待ってて」
「待って」
突然、亜希に腕を掴まれ、僕は止まった。
「ど、どうしたの?」
「私が行く。だから、伊月くんが待ってて」
「な、なんで!? それじゃ来た意味が無いよ!」
「大丈夫」
亜希が僕の手を掴んで引き寄せ、黄色い防犯ブザーを乗せた。
「もし私が襲われたらすぐにブザーを鳴らして。そしたらきっと、逃げれるから」
「そうかも、知れないけど」
僕は少し不安になりながら、手元のソレを眺めた。
「伊月くん。どんな状況になっても、私を庇おうとしないでね。もし死んじゃったら、今後記憶を持った伊月くんが出てくるかどうか分かんない」
少し、胸を締め付けられる痛みが奔った。
死自体を軽視されている、そんな気分になった。
「で、でも、亜希の方こそ、僕を庇おうとして死んじゃいやだよ?」
「うん、気を付ける」
亜希は誤魔化すように笑みを浮かべ、家の方へ向かった。
インターホンを鳴らさず、彼女は叫んだ。化陽 良一と。
ガタガタガタ
家の中から物音が響く。どうやら相当面食らっているようだ。
無理もない。殺そうとした相手が家の前に居る挙げ句、自分の名前を言い当てた。
驚かないほうが不思議なくらいだ。
突如、扉が勢いよく開き中から化陽が飛び出してきた。手にはあの白黒の銃を持っている。
「亜希ッ!」
ブザーを鳴らすよりも先に声が出た。
化陽の引き金を引く指は止まらず、銃口からは炎が噴き出した。
亜希の全身にあっという間に炎が回っていく。
炎の中から、声にならない悲鳴が聞こえる。
とっさに曲がり角から飛び出し、亜希の元に寄った。
その時、化陽があの銃口をこちらに向けているのに気付いた。
死ぬ。
意味もないのに両腕で顔を覆った。
しかし、いつまで経っても炎は来ない。
腕の隙間から前を覗くと、化陽も炎に包まれていた。
亜紀が、抱きついたんだ。
僕を殺させないために。
バタッ
2人が、地面に倒れた。
「亜希、亜希! 死なないで、亜希!」
僕は上着を脱ぎ捨て、炎に被せる。
燃える前に上着を引き上げ、また被せる。それを何度も繰り返している内に炎が消えた。
亜紀を抱き起こし、声をかけた。
全身が焼き爛れていて、否応なしにもう助からないことが分かってしまった。
「ーーーーーー」
亜希は、最後にパクパクと口を動かし、化陽の家を指差した。
指を差したその手は、事切れたように地面に落ちた。
「ふざけるなぁっ! 死ぬ時だっていうのに! なんでぇっ!」
行き場のない怒りを地面に叩きつけた。
拳の皮は剥げ、血飛沫が上がる。
亜希の伝えようとしたことが、分かってしまった。
あの時【チャンスだよ】と彼女は言った。
目の前には、化陽の家がある。
今なら、中を調べれる。そういう意味だったんだろう。
自分の死を軽視して、あるかも分からない手掛かりを重視する亜希の態度に、無性に腹が立つ。
家の中に入り、扉を閉じて鍵を占める。
急いで探索しようと思うのに、涙で前が見えなかった。
「何をやってるんだ……僕は……」
殺させないと約束した癖に、いざという時にまるで動けず、亜希に助けられるような始末。
自分が情けない。自分の無力が、憎たらしい。
「クソ! クソぉッ!」
ガァン
血が出ている拳で床を殴る。
血管を直接殴っているような、耐え難い痛みが奔る。
でも、その痛みがある間は、胸の苦しみを忘れられる気がした。
ガン
僕はその手で、もう一度床を殴った。
やがて立ち上がり、前を見た。
何度も叩きつけた手には、ジンジンと滲むような痛みがある。
これでいい。
こんな痛みでも無いかぎり、おかしくなりそうだ。
「……行こう」
言い聞かせるように呟き、玄関から中へと上がった。
求める物は犯行の計画書か、何らかの証拠。
盗聴するための機具やGPSを傍受する物などが見つかれば御の字だ。
どちらも、仕掛けているのかどうかも分からないけれど。
出て最初に差し掛かったのはリビングだった。真ん中に小さなテーブルと1つの椅子、これまた小さめの食器棚がある。
食器を投げ捨てるように引きずり出し、中を見る。この中には特に何もない。
床下なども見て、リビングには何もないことを確認した。
別の部屋に行く際、足元にある皿の破片を何ともなしに拾った。
「何をやってるんだろう……」
何故かそんな物を数秒見つめてしまった。
破片を投げ捨て、リビングを出る。
その後も、キッチンや寝室。押し入れなども調べたけれど、証拠も計画書も見つからない。
最後に残ったのは鍵の付いた部屋。大本命だ。
僕はリビングから椅子を持ってきて、部屋の扉に叩きつけた。
何度も何度も、扉が壊れるまで叩きつけた。
椅子は扉に刺さってしまい、抜けなくなった。
今度はその椅子をなんども蹴り飛ばす。
やがて、椅子は扉を貫いた。
屈んで開いた穴を通り、向こうの部屋に出た。
中は殺風景だった。奥に椅子とテーブル、その上にスマホが1つ。隅っこにはリュックサックが置かれている。
真っ先にスマホの電源をつけてみた。しかし指紋認証が要るタイプのようだ。
門の前には救急車が来てしまっている。
今から指紋を取ることは出来ない。
そもそも、燃えた指で認証出来るかも定かじゃない。
「しょうがない」
隅の方のリュックサックを開き、中を見る。
あるのはカロリーメイトなどの携帯食料と、スポーツドリンクだけ。側ポケットなども探してみたけれど、他には何もない。
ここで調べれることはもう無い。
裏口の扉から外に出て、化陽の家を離れた。
その後、薬局で睡眠薬を購入。夕方頃家に帰って、がぶ飲みする。
何も見たくなかった。救急車に運ばれた亜希の死骸も、嘆き悲しむ亜希の両親の顔も、何も見たくない。
僕は逃げるように、眠りに落ちた。
ー5日目ー
朝起きて、手を確認する。
当然のように傷痕は少しもなかった。
19時ぐらいに寝たのに、起きた時間もいつもと同じ6時付近。
この状況にも、もう慣れた。
「行ってきます」
僕は台所に居るお母さんにそう声を掛けた。
「え? どうしたのよ伊月? 随分と早すぎるんじゃなぁい? 朝ご飯も食べずに行くなんて」
「大丈夫。亜希の家で食べてくるよ」
「あら、そういうことだったのね! もう、次からは前日の夜までに言ってちょうだいね」
「うん、ごめんね。お母さん」
「いいのよ。行ってらっしゃい」
お母さんに手を振り、玄関に向かう。
扉を開くと、すぐに亜希が見えた。
家の前の電柱に凭れ、頭がうつむいている。
「亜希、お待たせ」
亜希はゆっくりと顔を上げ、口だけの笑顔を浮かべた。
「あぁ、伊月くん」
ゾクリ
一瞬、亜希が血塗れになっているように見えた。
目を擦り、再度見返すと、姿はいつもと変わらぬ亜希がしっかりとそこに居た。
いよいよイカれたらしい。
あんな幻覚を見るなんて思いもよらなかった。
亜希はゆっくりと近づき、首に腕を回してきた。
「記憶が、あるんだよね?」
ゴクリと、僅かに芽生えた恐怖を呑み込みながら、僕は一度うなずいた。
「よかった。それじゃぁ、話を聞かせて」
「……うん」
話と言っても、収穫はほとんど無い。
「寝室とか、普通の部屋には何もなかった。唯一鍵のかかった部屋に入ってみても、中には僕では開けないスマホがあるだけだったよ」
「そっか。大丈夫、元々分のいい賭けじゃないから」
「亜希、気楽だね」
「うん、そうかも。伊月くんが来るまでに、収穫があったからかな」
「収穫?」
「うん。明日の、土曜日のことなんだけどね。その日になると、何故か犯人があの家に居なくなるんだ」
犯人があの家から居なくなる……。
何故かを考えていると、頭の中にあのリュックサックが浮かんだ。
「キャンプだったり、どこかに泊まりに行ったりしてるんじゃないかな?」
そう言うと、亜希はどこか不思議そうな目で僕の目を見つめた。
「ど、どうしたの?」
「なんだか、伊月くんが納得の顔してたから。心当たりでもあったのかな、って」
「なるほど。……実は、さっき言った部屋にリュックサックもあったんだ。中にはカロリーメイトとか、スポーツドリンクが入ってるだけだったから、言う必要もないかと思ってたんだけど」
「ふむふむ」と言い、亜希はうなずいている。
「その2つを持って泊まりに行ってるのかな。でも、食料があるなら友達の家とかじゃなさそう」
僕等はしばらく「うーん」と考えていたが、途中で中断した。
どこかに泊まりに行くのであれば、スマホなどに予定を残している可能性もある。
下手に仮説を立てるよりも、今はスマホの中を見る方法を思案するほうが良い。
「スマホの中か。見れないことは無いよ。伊月くんが許してくれるのなら」
……その言葉で全て分かった。
「また、死ぬ気?」
「うん。手っ取り早いし、安全に行こうとするより確実だから」
吐き気を催す気分だ。
自分の命のことなのに、手っ取り早いや確実なんて理由で切り捨てる。
「……いい加減にしてよ」
歯を食いしばり、絞り出すように声を挙げた。
「え?」
「いい加減にしてって言ったんだ! 一昨日も昨日も今日も! 何回も何回も死を手段にするなんておかしいよ! 今までそうだったから何だよ!? 100回死んだら生き返れない、金曜の僕が記憶を持ってたら駄目。そんな可能性なんていくらでもあるんだ! 明日また生き返れる保証なんて無い!」
言い終わる頃には、息が切れていた。
睨むように亜希の目を見る。彼女はわずかに視線を反らした。
「お願い、分かって……」
……確かに、何十回と死を経験している亜希にとって1度の死がなんてことないのは分かる。
死を利用すれば、前に進めるとなれば尚更だ。
それでも、僕は……。
「伊月くん」
ゾクリ
いつもと変わらぬ呼び方なのに、何故か背筋に寒気が奔った。
亜希は、目に光が無いまま口角だけを上げた。
「私は、ループから抜け出せれば何でもいいの。その条件が、100回死ぬことでも、犯人を捕まえることでも。だから大丈夫だよ。例え生き返れなくたって、それは私の望むことなんだから」
「う、うそだ」
辛うじて絞り出した言葉も、彼女が首を振って否定する。
「嘘じゃないよ」
亜希は僕の手を掴み、首に押し当てた。
「例えば、伊月くんが私を殺せばループから抜け出せるとしたら、その時は喜んで命を差し出せるよ」
「やめろォッ!」
僕は手を精一杯引き、彼女の手を離した。
「うるさい。うるさいうるさいうるさいッ! そんな言葉なんてもう聞きたくないよ!」
目を閉じ、耳を塞いだ。
何も聞きたくなかった。見たくなかった。
「それなら、協力して。もし、明後日の日曜に犯人逮捕が出来なかったら、最悪の事態になるかも知れないんだよ?」
7日目に、犯人逮捕が出来なかったら……。
その言葉に、ハッと気付いた。
もしそうなってしまったら、僕がまた記憶を持てる保証はない。
僕が記憶を持たないまま、もし亜希が犯人逮捕を諦めてしまったら……。
今までの言動を聞けば分かる。本当に死ねる時まで自殺を試みるだろう。
「だから、お願い。ね?」
半ば脅迫のようなその言葉に、頷いてしまった。
その先はよく覚えていない。
気付いた時には、犯人の手首を持っていた。
目の前にはナイフを持った亜希と、手が欠損した化陽の焼死体が転がっている。
ポタポタ
目から雫が落ちる音を聞きながら、化陽の家に入り、鍵の付いた部屋に侵入する。
スマホの指紋認証はしっかり反応した。
ハンカチでスマホに落ちた水を拭き、中を確認する。
メモ帳のアプリを発見。開いてみると、通販サイトのパスワードや、犯行計画などが見つかった。
亜希の家近くの空き住宅に侵入し、しばらく監視。亜希の両親が出て行く時を見計らって、家と亜希を焼く。
その後1日ほど経って、亜希の両親の前に顔を出し、2人共焼死させて復讐完了。大凡の計画はこんな所だ。
土曜日の謎が解けたと同時に、使える情報が手に入った。
空き住宅の中に人が住んでいるのが見えたと警察に伝えれば、すぐに駆け付けるだろう。
問題は、その時来るパトカーで足りるかどうか。生半可な数では焼かれるらしい。
……これについて考えるのは明日にしよう。
次は通販サイト。中には火炎放射器の注文履歴と、サイトに登録されている住所がある。
このデータを署に送信すれば、警察をここに連れて来れる可能性はある。火炎放射器も持っているのが分かれば、それなりの警戒をしてくるだろう。
しかし、問題が2つある。まず1つ目は、何らかの言い訳で化陽が言い逃れる可能性があること。
2つ目は、重要になる日曜日にここに連れてきても、意味がないことだ。
空き住宅のことを知らない時にこのサイトのパスワードを知れば喜んだだろうが、今となっては扱えない。
紙に数回メモして、頭で覚えるだけのことはした。後はサイトを閉じ、その他に情報が何もないことを確認する。
僕は家を出たあと、昨日と同じように薬局に向かった。
入った途端、何故か店員さんに悲鳴を挙げられた。
何やら「手が、手が」と言っている。
あぁ……。手に血糊が付いたまま薬局に来てしまった。
洗えばよかったな。と後悔している内に、パトカーが来た。
警官が降りてきて、僕の方に向かってくる。抵抗してみたが、すぐに抑えられた。
投げ技だろうか。何が起こったかも分からないまま、僕は地面に倒れていた。
やはり凄い。
犯人の場所さえ分かっていれば火炎放射器を持っていても、取り押さえれる可能性は充分にある。
明日、試してみよう。
僕はその後、警察の事情聴取で全て正直に話してみた。亜希のことも、あの家でのことも、ループのことも。
当然信じてもらえず、精神異常者だと思われた。あれよあれよという間に明日入院することまで決まってしまう。
「ふぅ」
一息吐いて、灰色の天井を眺める。
一旦牢屋の中に入れられ、ここで夜を越すことになった。
不思議とこの中に居ると、自身がどうしようもない犯罪者のように思えてくる。
……寝ようと思って、目を閉じる。
しかしまるで眠れない。日が変わるまで、頭の中に亜希のあの笑顔が浮かんでいた。
ー6日目ー
朝、目が覚めるとすぐに違和感が奔った。
布団の質感がいつもと違う。辺りがとっ散らかっている。そして何より、横で亜希が寝転んでいる。
「え? な、なに!? なんで!?」
僕が戸惑っていると、亜希がモゾッと起き上がり、ニッコリと笑った。
「そっか、伊月くん知らないのか。落ち着いて。今日は学校が休みだから、泊まりに来てただけだよ」
あ、あぁ……。
そういうことだったんだ。蓋を開けてみればそう驚くことでも無かった。
でも、亜希の家で泊まりなんて、随分久しぶりなはず。それこそ付き合ってからは初めてかも知れない。
となると、夜にどこまで……。いや、考えるのはやめとこう。
「明日もお泊まりだよ。予定では、私の家から近くの海岸に直接向かうことになってる」
海岸でバーベキューするのか。
となると、お母さん達は準備するために先に出て、僕等はその後ラインが来るまで待機。その間に化陽が襲ってくるのかな。
「さてと、話もここまでにしよっか。さっそく聞かせて。昨日分かったことを、全部」
僕はうん、と頷き亜希に説明した。
空き住宅のことから、通販サイトの履歴について。昨日分かったことを全て語った。
亜希は少し考え事をするようにうつむき、途端に窓を眺めた。
「あれ、かな」
亜希の視線の先にある物を見てみる。それは2階建ての一軒家。この家の向かい側に位置する家で、中には誰も住んでいない。空き住宅だ。
「そうだね。化陽が居る可能性は、高いと思う」
「よし。さっそく警察を呼んでみよっか」
「も、もう? せめて、居るかどうか確認したほうが良いんじゃないかな」
「下手な確認をすると、化陽が何するか分かんないよ。違う家に潜んでるとしても、私なら何日か掛けて暴き出すことが出来る。今はともかく、試してみることが大事だよ」
確かに、そうだ。
あれこれ確認していたら、今日殺される。
あの家に住んでいなければ、次の日にはまた亜希が死ぬ。それを嫌だと思うのは、ただのわがままなんだろう。
今は、成功を祈って賭けるしかない。
僕は一度、頷いた。
「よし。それじゃぁ、さっそく呼ぶね」
そう言って、スマホを手に取ろうとした亜希を止める。
「やっぱり駄目だ。このままじゃ、成功しても亜希が死んじゃう」
「……どういうこと?」
僕は横目で向かい側の家に視線を向ける。
亜希も合わせるように、目だけを家の方に向けた。
「もし、あの家に化陽が居るなら、警官が来た時、真っ先にこっちを狙ってくると思う。警官を撃ったら自分が今居る家が燃えちゃうし、逃げることも出来ないからね」
接近禁止の家族の近くで火炎放射器を持ったまま潜んでいる。こんな状況で捕まったらどんな判決が下されるか分からない。
それは化陽自身も重々承知しているはずだ。
だから、腹いせとして撃ってくるのは間違いない。向かい側の家には、真正面からこちらを狙える窓だってある。
「そうだね。なら、伊月くんは自分の家に戻っておいて」
「嫌だよ。もう、亜希を死なせたくない」
僕は亜希の目の前に手を伸ばした。
「亜希、一緒に逃げよう。窓から火炎放射をしてくるのなら、真っ先に火が付くのは2階だ。玄関で待機していれば、1階に火が回ってくるまでには逃げれるよ」
「でも、私と一緒に逃げたら、伊月くんも狙われるよ?」
「大丈夫。きっと僕等が狙われる頃には、化陽に手錠が掛かってるよ」
「……良いの?」
理屈としてはほぼ確実であっても、危険なことには変わりない。
それが分かっているから、亜希は聞いてきたんだろう。
僕としても、分かった上で言っている。もう、亜希を見捨てたりしない。
「もちろんだよ」
精一杯の笑みを浮かべ、自信満々に頷いた。
亜希は僕の伸ばした手を掴み、わずかに涙を落とした。
「伊月くん、ありがとう」
その時ようやく、亜希が本当の笑顔を浮かべた。
僕等はその後、警察に電話をして空き住宅の件を伝えた。
その後、僕は玄関で待機し、亜希はおばさんの元に行った。流石に自分の母親が死ぬのは無視出来なかったみたいだ。
でも、彼女は1人で戻ってきた。
「駄目だったよ。出掛けようって誘っても、今は放っておいてって言われちゃった」
残念そうにうつむく亜希。しかし、ずっと手を背中に回し、何かを隠し持っている。
「亜希。背中のソレは?」
わずかに笑みを浮かべ、観念したように帽子を取り出した。
少しばかり見覚えがある。確か、おばさんが普段着けている帽子だ。
「化陽はずっと監視してるんだよね? なら、伊月くんはこれを着けて。警察が来る前に偽装して出てしまえば、化陽が家を燃やす理由は無くなるよ」
確かにそうだ。化陽だって、母親も亜希も居ない家を燃やしたいとは思わないだろう。
復讐と言っても家を燃やすだけじゃ少し弱々しいし、無駄に罪を重くするだけだ。
「でも、分かってるの? もし、家に火が付く前に出てしまったら、化陽に直接狙われる可能性があるんだよ?」
警察が来てから逃げても、窓から直接火炎放射をしてくるだろう。警察が来る前に逃げたら、こちらを追跡して、そもそも空き住宅に居なくなってしまう。
家を燃やさせてからならば、炎が死角になる上に、向こうも焦っているから、こちらが見えなくなる。
だからこそこの作戦なのに……。
「伊月くんは1つ、大事なことを忘れてるよ」
「大事なこと?」
なんだろう。
少し考えてみたが分からない。答えを求めるように、亜希の目に視線を合わせる。
「化陽は素人ってこと。家を狙ってたり、至近距離だったならともかく、2階の窓から私達を狙うなんて至難の業だよ」
「あ……そう、だね」
家を出たとき、僕等が走ったりすれば尚更だ。
狙いがブレて、見当違いな場所に火炎放射するに違いない。
「試してみようよ。きっと行けるから」
「う、ん……。いや、うん! 分かった!」
亜希の肩が少し驚いたように跳ねて、不思議そうな目でこちらを見た。
「どうしたの伊月くん? 元気になったね」
「ううん、何でもない」
なんだか、少し嬉しかった。
今までの亜希なら、こんな賭けには出ず、お母さんを放っていただろう。
それが、今や自分から提案している。
以前の亜希が、戻って来たように感じた。
パトカーのサイレンが聞こえた。
既に準備は出来ている。亜希から貰った帽子を被り、外に出た。
パトカーが空き住宅の出入り口を塞ぎ、警官が中に呼び掛けている。家の中からは音がせず、返答もない。
しかし警官が扉を開け、中に入った途端、ドタドタと音がした。
バン
窓を勢いよく開く音がした。帽子で顔を隠しながら、化陽の様子を見る。
化陽は今にも窓から飛び出さんばかりに焦っていたようだが、こちらを見た瞬間ニヤリと笑っていた。
「行こ!」
亜希が僕の手を掴み、走る。
後ろの方に炎が落ちていく。が、僕等には当たらない。
なるべく当たりにくいよう出鱈目に走っていると、10秒程度で炎は止んだ。
窓から顔を出していた化陽が居なくなっている。無事捕まったのだろう。
「ふぅぅ……」
息を吐き、地面に座り込んだ。
汗は凄いし、動悸も止まらない。走っている最中に数回は死んだと思った……。
「大丈夫?」
僕とは違って比較的落ちついた様子の亜希。心配するように僕の顔を覗き込んでいた。
「ははっ、大丈夫だよ。……成功だね」
「うん!」
化陽が手錠を掛けられ、連行されていく。
亜希も、僕も死んでいない状態で化陽は捕まった。
僕達は、勝ったんだ。
その後、警察が僕等の元に駆け付け、安否の確認をしてきた。
僕達は「大丈夫」と告げて、家に戻らせてもらった。
事情聴取などをされるかと思ったけれど、精神状態的にそれどころではないと思われたのか、すぐ釈放され、家に帰れた。
「伊月くん。ちょっと待ってて」
亜希はおばさんの部屋に入っていった。
扉の前でしばらく待っていると、おばさんのすすり泣く声が聞こえた。
もう、終わったことを告げたんだろう。
それから数分後、亜希が部屋から出てきた。
「お待たせ。お母さんも眠っちゃったし、部屋に戻ろっか」
ガシッ
亜希が僕の手を掴み、部屋の方へと歩いていく。
途中、少し不思議そうな顔で、こちらの方を振り向いた。
「伊月くん。こっちをずっと見てるけど、どうしたの?」
「あ、ごめん。その、珍しいなと思っちゃって」
「あぁ、お母さんのこと?」
「う、うん」
日曜日ならば分かるけれど、今日は土曜日だ。明日、また記憶が無くなるのにこんなことをするのは、少しらしくない気がした。
「ケジメを付けたくなったんだ。お母さんに終わったことを伝えれば、自分自身も、もう死ぬ必要が無いと感じるかなと思ったから。……それに、無駄とも限らないよ」
亜希は、いたずらっぽく笑顔を浮かべた。
「明日また、リセットされる保証なんて無いからね!」
自然と、笑みがこぼれた。
「ははっ、そうだね。その通りだよ!」
明日起きたら、化陽が逮捕されたあとの、今日の次の日になってるかも知れない。
明日どうなるかは、僕達には分からないんだ。
亜希はそのまま僕の手を引き、ベッドの上に寝そべった。
僕の体も釣られるようにベッドに乗っかった。
「明日が待ち遠しいね。どうなってるんだろう」
「それは、分からない。今はちょうど休日だし、眠ってみる?」
「うん!」
顔を見合わせ、目を閉じた。
前に居る亜希は、確かに暖かかった。
ー7日目ー
目が覚めた途端、凄い不快感が襲ってきた。
辺りがやたら暗く、煙の臭いがする。まさか、と思ったけれど違う。
火事になってはいないみたいだ。これだけの大煙なのに、炎の音がまるでしない。
頭が、痛い。
「亜希……亜希!」
何が起こってるのかも分からない。まずい。
このままでは死んでしまう。亜希と一緒に、この煙の中から出ないと……。
「……伊月くん、ごめんね」
亜希は煙の中、突然僕の体に抱きついた。
「な、何で謝るの!? いや、それより早く窓を開けて部屋から出ないと!」
動こうとする僕を、亜希は強い力で抑えつけた。
「……聞いて」
亜希の目から、涙が溢れ出した。その目を見ると、不思議と抵抗も出来なくなった。
「私達はこの日に燃やされて、死んじゃうの。そして私だけまた6日前の月曜日に目が覚める。ループしてるんだ……」
「な、なにを……」
それはもう、知っている。
亜希は何故そんなことを今更……。
「それをもう、20回以上も繰り返してるの」
「え……?」
ループ回数が、戻っている……?
「ごめんね。私はもう、焼死するのは嫌。せめて、苦しまずに死にたい……」
言われて気付いた。どんどん煙が濃くなってきている。
練炭を焚いたんだ。一酸化炭素中毒で、楽に死ぬために……。
「亜希……。待って! 待って亜希! 聞いて!」
僕を抑えていた、腕の力が失くなっている。
「大丈夫だ! 僕が必ず助けてみせるから! 亜希!」
依然、涙の落ちる音が聞こえる。
駄目だ。僕は死んだっていい。
だから、だから今、亜希を助けないと。
「亜希……」
僕は、彼女の体をギュッと抱きしめ、立ち上がった。
「気にしないで。どんな仕打ちを受けたって、僕は亜希を許す。だから、自分を責めないで」
「いつき、くん……」
裏拳で窓を割り、身を乗り出す。
僕は亜希を連れて、家から飛び降りた。
地面に背中から落下し、背骨が砕ける感触が奔った。
これでいい。今の音を聞いて、人が集まるだろう。やがて、救急車もやって来るはずだ。
化陽だって、手出しは出来ない。
「死なないことは出来る。ループから抜け出すことも、きっと出来る。だから、諦めないで……」
痛みによって意識が途切れる寸前、確かに見えた。コクリと頷く亜希の姿が。
……ようやく、分かった。
亜希を死なせる僕は、無力だと思ってた。
でも、違う。亜希を助けることは、亜希の希望になることは、出来ていたんだ。
それが、きっと……
【僕がキミに出来たこと:完】