天翔けるは白銀の鷲 第四シリーズ(最終エピソード)
第七章 選択をする馬鹿もいる
―時間は少し遡る。
あやめと楓とで、崖下の波打ち際へと続く小道を下った。
ごく小さな砂浜に降り立つ。その少し上、崖にぽっかりと洞窟が口を開けていた。
中には明かりがつき、ウェットスーツをすでに身につけたエージェントが待っているのが見えた。
「入るぞ、楓」
「うん」
うなずき合い、中に入った。洞窟はすぐに斜めに下り、ほの暗い水に沈んでいく。
「大丈夫かなあ、二人とも」
「信じるしかないよな」
何かに頭上からすごい音が響いてくるのが気になったが、二人はそれでも指示に従ってウェットスーツに着替えた。
ボンベを背負って暗い水の前に立つ。
「とにかく落ち着いて。私の指示に従ってくれれば、危険はないから」
エージェントがそう言った。ダイバーの資格を持つ彼女は、初心者が水に潜る場合パニックに陥ることが何よりも危険だということで、あらかじめ警告を発しているのだ。
「はい」
うなずいたものの、ライトはあるものの暗さの方が勝っている水の中に入っていくのだ。自分が行かないといけないことはわかっているが、怖いものは怖い。楓は口にこそ出さなかったが、湧き上がる恐怖で身を固くしていた。
その時、右手をぎゅっと握られた。
(え?)
右を向くと、あやめが左手で楓の手を握りしめていた。
―大丈夫だ。
そんな声が聞こえた気がした。
(…うん)
楓はレギュレーターをつけたままくすりと笑い、手を握り返して思いを伝えた。
それで覚悟が決まり、彼女はゆっくりと水中に足を踏み出した。あやめも続く。
泳ぐんじゃないか、と想像していたが…完全に足が水底を離れることはほとんどなく、歩くように進んでいけた。少しほっとする。
おそらく数分間しか水中にはいなかったのだろうが、楓には随分長い時間に思えた。しかしついにたぷん、と頭が水面に出る。
「うわあ…っ」
やはり洞窟の中だった。先行したエージェントがライトで照らしてはいたが、あまりにも心もとない明るさだった。が、怖いのを我慢してウェットスーツを脱いだ。
「ここで待っていてください。必ず戻りますから」
彼女にそう言い置いて、楓とあやめは防水仕様の懐中電灯を手にさらに奥へと足を踏み出した。
真っ暗な洞窟の中を、二つの懐中電灯だけがわずかに照らしている。
海が近いのだから当然だが洞窟内は湿気がこもり、天井のあちこちからぴちゃん、ぴちゃんと音を立てて水滴がしたたり落ちている。
「きゃっ!」
肩に冷たい滴を感じ、楓は悲鳴を上げた。
「何だよ、水ぐらいで…ふえっ!」
からかいかけたあやめが、飛び上がった。
「ど、どうしたの」
「だ、だって首筋に冷たいのが、ぽちょんと!」
「うぷぷ…おかしいなあ、サイキ」
「何だよー、笑うな…うぷ、でもおかしいか」
「おかしいよ、絶対…ぷっ、ははっ」
結局闇の中で、二人して大笑いしてしまった。
「あー、こんな時なのに笑っちゃったー」
おかげで緊張がほぐれた。
さらに進み、何度か角を曲がると…奥からほの白い光が差してきたのに気づいた。
「これ、前に『遺産』を取りに行った時と同じだね」
「そうだな。間違いなく、ここにもう一つの『遺産』があるんだ。行くぞ、楓」
「うん」
もう一つ、カーブを曲がると―ついに、白い光の柱が天井と床をつないでいる、広間のような空間に出た。
「やっぱり、同じなのね。とりあえず…入ってみるね、私」
「お、おう。気をつけろよ」
「うん。じゃ、お先に」
「…楓」
光の柱に入りかけた楓を、あやめの声が引き止めた。
「どうしたの?」
「俺は…」
彼(?)はしばらく悩んでいたが、やっと、言った。
「俺は、楓のことすごく大切だと思ってるぞ」
「って言うか、サイキ私がいないと何にもできないでしょ、こっちの世界じゃ特に」
軽く返して、彼女はあらためて柱に向かう。怖くはあったがなけなしの勇気を奮い起こして。
(今度は、私ががんばる番!)
そう自分にい聞かせて、楓は恐る恐る光の中に足を踏み入れた。何の抵抗もなく光は彼女の身体を受け入れる。
「そなたは『遺産』を求める者か」
やや権高な、女性のものらしい声が響いた。
「は、はい。そうです」
「ならば我が問いに答えよ」
「あ、俺が入ったりとかしなくていいのか?」
あやめが何気なく柱に手を伸ばすと、ばしっと光が走ってその手をはじいた。
「おわっ!?」
「この柱には、試練を受ける者以外誰も入れぬ」
声が響いた。
「一人きり、なんですか?」
「俺の『遺産』とは逆なのか!?」
「『力の遺産』を託される際には『協調』を問われたであろう。ここで問われるのは『自立』である。人にすがらず、自分だけで立てる者なのかどうか。かつ、自分は一人ではないと知る者かを問われることになる。知識、知恵はあっても他者にすがらねば何も出来ぬ者には『遺産』は託せぬからの。さて、我が問いに答えてもらうぞ」
「私一人で、あなたの問いに答える…それが、試練なんですね」
「そうだ。娘、そなたに問う。『知の遺産』を手に入れる覚悟はあるか。我が問いに答え、二つの世界がどうなるかを決定する義務と権利を分かち持つ覚悟が、そなたにあるのか」
「―あります」
怖くはあったが、楓は自分を信じることにして言い切った。
「覚悟は、あります。試練を受けさせてください」
「良かろう」
光の柱がさらに強く輝き、あたりを真っ白に染め上げて行く。
楓は思わず目をきつく閉じた。
「楓!楓…っ!」
あやめの声が、遠くに聞こえた。
「サイキ…!」
気がつくと、楓は白い空間に立っていた。
「ここじゃないけど、見覚えがある」
かつて、サイキとカノコとともに「遺産」を入手するために入りこんだのも、こんな空間だった。
「同じだとすると、光る球体が現れて、それで」
視線を上にやると、
「落ちついているな。―すでに『力の遺産』を託されているからか」
あの権高な女性の声とともに、海のような色彩で輝く球体が現れた。
「あなたが、私に試練を与えてくれるんですね」
「そうだ。我らの文字、そなたらが言う古代文字をどれだけ読みこなせるか、確かめさせてもらう。言っておくが、我らの時代においても完璧に読みこなせた者はそう多くはいなかったぞ」
古代では、「字の読み書き」がごくわずかの人にしか許されない特殊技能だった社会も多いのだ。…まあ、現代においてもたとえば「日本語」の理解や漢字の知識などには人によって随分と差があったりするが。…この古代文字も、深い理解に至る者は少なかったようである。
「挑戦してみます。試練を、与えてください」
「良かろう」
楓の前に、蒼白く輝く金属の板が現れた。鏡のような表面に、古代文字の列が浮かび上がってきらめく。
「さあ、問いに答えよ。読み解いていくのだ」
「試練って言うより、試験みたいね。知識を問われるんだからそうなるか」
そう言いながら、覚悟を決めて。
楓は文字の列に取り組みはじめた。
「『遺産』の担い手として認められた少年は、二重なる『黒の首領』を分かち、救いたり」
「良し。次」
「強大なる『破壊』の力を、奇略によって削ぎ、勝てり」
そう読み上げた楓の声が、止まった。まじまじと文字が浮かぶ金属面を見つめる。
「…あれ?これって」
「どうした。続けよ」
「は、はい」
続けたものの、まだ胸がどきどきしている。
「若者たちは力を尽くして、流血の事態を回避せり。白銀の光、黄金の輝きを圧倒せり…やっぱり、これって」
確信した。
「この文章、私たちが今までに経験したことだ」
そう。
浮かび上がる文章が示していたのは、彼女が異世界の住人と出会い、今までに経てきた日々に関する物事ばかりだったのだ。
「どうして、私たちのしてきたことが、ここに」
「それは、そなたたちがすでに『大きな運命の流れ』の一部だからだ」
驚く楓に、そんな言葉が返ってきた。
「私、のしたことも?」
「そうだ」
短く、返事が来た。
「どんなに小さなこととそなたが考えていても、それは歴史というタペストリーを織り成す糸の確かに一本なのだ」
「そう、ですか」
正直戸惑うが、どこかこそばゆく嬉しい。
(前に『白の大巫女』さんが言ってたのは、こういうことなんだ)
「…続けるぞ。いいな」
「はい」
何か照れくさく感じながらも、楓は文章を読み解いていった。
「かくして若者たちは、もう一つの『遺産』を求め」
「…わかった。もう、それで良かろう」
「え…?」
「そなたが、古代文字に精通していることはわかった」
球体は黙りこみ、少しの間をおいて言った。
「つまり?」
「―いいだろう。そなたを、『知識と知恵を持つ者』と認めよう、娘よ」
「あ、ありがとうございます」
ほっとしてへなへなと力が抜け、座りこみそうになったのを何とかこらえた。
「『知の遺産』の担い手として、ふさわしいと認めよう。-だが」
きつめの声音が、不意に哀しみのような響きを帯びた。
「そなたは、これからそなたらに求められる選択…『遺産』の真の力を使うことが何を意味するのか、わかっているのか」
「え…?」
「確かに、揃えることによって『遺産』は真の力を開放することが叶う。その力をもってすれば、現在近づきすぎている二つの世界を再び引き離すこともできよう。しかし、ここまで近づいてしまった世界を引き離すには、ある程度の『代償』は覚悟してもらわねばならん」
「…それって」
「異世界同士のことに通常の物理法則は意味を持たないが、理屈としては似たようなものだ。近づきつつある二つの物体を引き離そうと力をかければ、物体同士は離れて行き、引き戻して元々の距離に戻すにはまたそれなりの力をかける必要がある。それと同じことがこの場合にも起こり、真の力で引き離した二つの世界の『距離』が、巫術師の造り出す『門』が届く範囲を越えてしまう予想ができる。…かつ、引き戻して元々の『距離』に戻すのは、不可能に近いという予想が」
完全に「元に戻す」ことは、元の状態を壊すことよりはるかに困難なのだ。莫大な力を必要とし、二つの「遺産」を使っても難しいであろうと。
「それは…つまり」
膝が崩れそうだった。
「『彼方の地』と二度と行き来できなくなるってこと、ですか。…サイキと、二度と会えなくなるってこと…?」
「そうだ」
声は、重く答えた。
長い沈黙が降りた。
言葉もない楓に、球体の声もそれ以上発せられることはない。
(考えなくちゃ…考えなくちゃ…考えなくちゃ)
楓は必死に頭の中を整理しようとしたが、うまく行かない。
理性は今示された「事実」を理解し受け入れようとしているが、感情は力の限り拒絶の叫びを上げていた。
(サイキに)
心臓がきりきり痛む。
(サイキに、もう会えない)
突然出会い、ずっと側にいられると理由もなく信じていた。話し、笑い合い、共に闘い…一緒にいるのが当たり前と感じていた。
それを。
(『見ろよ、楓。これが、『草原』だ』)
ふっ、と―
少年の誇らしげな顔が浮かんだ。
はじめて「彼方の地」に自分が行った時、彼が眼前に広がる世界を示して語った言葉だった。
(サイキの属する世界。サイキの愛する世界。そして、私の世界ではない、世界)
心の中で渦巻いていたものが、次第に一つのかたちを成してくる。
(サイキという、私と異なる『別の存在』…)
考えがまとまった。光が差した。
「―覚悟します。二度と会えないことも」
ゆっくりと、しかし決然と、言葉が紡がれる。
「二つの世界が一つになったら、大破局をもたらすかもしれない。その危機を避けようと私たちはがんばってきました。…だけど」
声は震えていたが、よどみはない。
「たとえ大破局はなくても、私は二つの世界が一つになることを望みません。この世界、『果ての地』の科学文明は便利である反面危険極まりないものです。『彼方の地』と一つになれば、おそらくかの地の精霊の力を借りる文明は科学文明に呑み尽くされ、力を失うでしょう。それは、サイキの、彼の愛する社会の崩壊を意味する」
次の言葉を口にするのは辛かった。だが、言わねばならない。
「二度と会えなくなっても、彼と彼の大切な世界が在り続ける道を、私は選びます。-だから、『知の遺産』を貸してください」
「選んだか、娘よ。それで良いのだな」
「―いいわけないじゃないですか!」
一瞬、理性が吹っ飛んだ。
「でも!それでも、私が私で、サイキがサイキである限り、この道を選ぶしかないんです!そうでなけりゃ…!」
涙を見せまいと、顔をうつむけた。
「『一つになること』より『共に在ること』を、選んだか」
声が、優しくかけられた。
「『自分でないもの』に惹かれ、一つになることを望むのは間違ってはいない。ごく自然なことだ。しかし、それを乗り越えて相手と『共に在りたい』と願うこと―『自分ではないもの』をそのまま受け入れ、尊重することができる者はそういない。特に、一つではない以上別離はある、という事実が厳然と存在する故にな」
必死で嗚咽の漏れるのをこらえる楓に、さらに言葉が重ねられた。
「かつて世界を二つに『分ける』という選択に関わった記憶を持つ者として…賢者よ、その選択に心からの敬意を示そう」
再び、白い光に包まれて…楓は、元の洞窟に戻ってきた。
じりじりして待っていたらしいあやめが、光の柱の中に現れた楓に飛びつくようにして迎えてくれた。
「ああ良かったっ!いきなり消えて…心配したぜ、ほんとにっ!」
彼(?)にはそう見えていたらしい。はじけるような笑顔で抱き上げられ、振り回されて楓は赤面した。
「うん、わかったから。とりあえず、降ろして」
「お、悪い。良かった、無事で…あ、忘れてた。『知の遺産』は手に入ったのか?」
「今頃になって思い出さないでよ…くっ!」
先ほどの記憶が胸をよぎり、その痛さに彼女は顔をしかめた。
「ど、どうした楓?どっか痛いのか?」
「違うの…とにかくここを出よう、サイキ。詳しいことは、帰って…樹さんたちの前で、話すわ」
また水中を潜って、波打ち際に戻ると。
「…うまく行きましたか?」
「ユーリ先輩!」
「カノコ!」
崖を降りてきたユーリと鹿乃子が、近づいてきた。大分消耗したらしくユーリがふらつくと、鹿乃子がさっと肩を貸して支えている。
(…あれ?)
楓は、何か今までと違うものを二人に感じ取った。
(先輩とカノコさんの距離が、いろんな意味で近いような。いくら先輩が参っていたって、肩貸すほど仲が良かったっけ?)
しかし、そんな思考の糸を辿っていけないほどに、胸が痛かった。
「エリーは?どうなったんだ?」
そんなあやめの問いかけも、どこか遠くでしているようだった。
「足の裏を火傷させたんで、『大地の精霊』の力を無制限に吸収するのはしばらくできないでしょう。一応、縛っておきましたけど」
ユーリの答えも、奇妙に遠く感じた。
「足を火傷させたって…どうやって」
あやめは楓の方を向いて同意というか、驚きの共有を求めているが彼女はうまくうなずけない。
「ところで、『遺産』は?」
ためらいがちに、鹿乃子が聞いてきた。
「…ああ、これよ。ちゃんと借りてきたわ」
楓ははっと我に返り、手にしていたものを示した。
それは蒼白く輝く金属板で、一面が鏡のように磨かれてきらめき、古代文字がその周囲にぎっしりと刻みこまれている。
「これが『知の遺産』…!」
「どう使うんですか?」
「この周囲に刻まれているのが手引き…というか、取扱説明書になっていて」
楓が金属板に指を走らせると、磨かれた面に輝く文字が浮かび上がってきた。
「古代の莫大な知識が、蓄えられているデータベースってところね。古代文字に精通していれば、いくらでも情報が引き出せるそうよ」
計り知れない価値のある、まさに「古代文明の遺産」だが。
しかし。
「どうした楓。何でそんなに暗い顔してるんだよ。これで二つの『遺産』が揃って、『長』たちの目論見を引っくり返せるんだぜ?もっと嬉しそうな顔しろよー」
「…」
「どしたー?何か、あのえらそーな女の人におどかされたりしたのか?」
「違うの。おどかされたんじゃなくて…本当のことがわかっただけ」
「本当のこと?」
「今は言いたくない。やっぱり樹さんのところに戻ってから、話す」
夕闇が、舞鳥市に戻る一行に迫っていた。
ライトをつけて走るワゴン車の中で、楓は一人暗い窓を見つめていた。
今なら、どうして「長」の言葉に自分があれほど動揺したのか、はっきりわかる。
(…私、サイキと離れたくないんだ)
今になって、思い知らされた。
(ずっと離れずに、いたかったんだ。その気持ちを、指摘されて)
そして今、「事実」…離れるしかないという事実を前にして衝撃を受けている。
(私、馬鹿だ)
つくづくとそう思い、楓は唇を噛み締めた。
(サイキと出会えたこと、今一緒にいられることこそが、奇跡に近いことなのに。その『奇跡』自体を前提に物事を考えていたんだ。そんな危ういものを前提にしちゃいけないのに)
当り前のように、一緒にいたけれど。
(それが、どんなに奇跡的なことなのか、全然考えていなかったんだ…!)
彼女の思いを映すような暗い世界が、窓の外に広がっていた。
黙りこむ楓に、あやめたちもあえて話しかけようとしない。
(無意識に、二つの世界の交流がずっと続くものだと、別れることなんてないんだって、信じこんでいたんだ。『つながっている』ってことは、『つながらなくなる可能性もある』っていうことなのに!)
楓はただ、窓の外を見つめ―心の痛みと、闘っていた。
「もう一つが、『知の板』が、目覚めたか」
虚空に、呟きが流れる。
「担い手は…あの、果て人の少女か…!」
第八章 思いが渦巻く馬鹿もいる
「「「…」」」
重苦しい沈黙が、研究所のブリーフィングルームを満たしていた。
楓が、一同に二つの世界を守る方法と、そのための「代償」を語ったのだ。
「それでは、衝突を避けるためには二つの世界を引き離すしかないのか。でもそうすることで、距離が開きすぎ…もう『門』が開けなくなるまで遠ざかるだろうと、言うんだな」
樹が、やっとの思いで言葉を絞り出した。
「はい」
辛さを押し殺して楓が答える。
「それしか、方法はない…のか」
「…時間はそう残されていないと、言われました。二つの世界を引き離すにしろ、『長』に屈して世界を一つに戻すにしろ…決断は、早くしないと取り返しのつかないことになる、と」
そう語っている自分の声すら、どこか遠くに感じていた。
「…しかし、これは即座に決断できることではないな」
「でも、あと数日…とのことです」
「とにかく、今この場で決断は下せない。色々上とも相談せねばならないからな。そうだな、二十四時間後…その時僕の権限でできる判断を、発表しよう。全てはそれからだ」
「そう、ですか」
「だから、それまではみんな、休息を取ってくれ。みんな疲れているだろうし。決断したらしたで、君たちには働いてもらうだろうからね」
樹はそう言って、足早に去っていった。これから急いで文科省の上司などに連絡を取るのだろう。
ユーリと鹿乃子もショックを受けた表情でブリーフィングルームを後にする。
「…サイキ」
「楓、俺、俺…いや、一人にしてくれ、今は」
「…うん」
あやめは楓に背を向け、波打つ髪を揺らしながら部屋を出て行ってしまう。
「…サイ…っ」
この時を大切にしたい、もう会えなくなるかもしれないのに…と言葉にしようとしたが、できず。
楓は一人、胸に嵐のような感情を抱えながら、立ちつくした。
しばらく、悩んでいて。
結局何もできず、楓は一人ブリーフィングルームを出た。
(私、馬鹿だ)
つくづく、そう思う。
(サイキと一緒にいる幸せに、気づいていなかったなんて…!)
胸が、どうしようもなく痛かった。大きく息をついて、廊下を歩き出す…と。
目の前にぽつりと、光が灯った。-紅い、光が。
「…!」
『『知の板』の担い手になったようだな、娘よ』
いんいんと声が響く。
『片割れだけでも仕方がない。『知の板』だけでも我に渡せ。世界を一つに、あるべき姿に戻すために!』
紅い球から、幻影の手が伸びた。
「い…嫌っ!」
死にものぐるいで、楓は後ろに飛び退いた。
『娘、選択権を得てなお、己の心に背くか!』
「く!」
ずきずきと痛む胸を押さえながら…楓は、屈さない。
『何故だ!お主も、世界を一つにしたいと願っていないとは言わせんぞ!』
「…でも!それは、私の選ぶ道じゃない!」
「楓!」
そこに、あやめと真っ青になった鹿乃子が駆けつけてきた。
「大丈夫か、楓!―この野郎!」
怒りに燃えてあやめが割って入り、楓をかばって立った。
『駄目か…だが!このままでは二つの世界は危険なまでに接近するぞ。破壊を避けるための時間は、もはやあまり残されていない!』
その言葉を残して、紅い光はふっと消えた。
「こ、怖かった…っ」
楓はたまらずへたりこんだ。
「…こんなかたちで、楓くんが狙われるとはね」
やや遅れて駆けつけた樹とユーリが、汗をぬぐった。
「僕が弱い結界を張っておきますね。カイが脱出できたんですから、そのぐらいの対策はしておくべきでした」
「頼む、ユーリくん」
「あ、その前に少し時間をください。『彼方の地』のお師匠さまと少し話したいので」
「わかりました」
ユーリは研究所の周囲に文様を描き、いつでも「炎の精霊」の力を通せるよう準備している。
一方鹿乃子は、一人研究所の屋上に立っていた。
ぼうっ、と―
明るい茶の光が身体から立ち昇る。
光は頭上で球体となり、その中に純白の光が灯って絡み合うように動いた。
『聞こえるか、カノコよ』
しわがれた声が球体から響いた。
「はい、お師匠さま」
少女は答えた。
『…見えておるか、我が弟子よ』
「…見えています、お師匠さま」
重く、彼女は答えた。
「あの二人に、『大きな運命の流れ』が集約されていくのが、わたしには見えます」
『己が感情に惑わされず、それが『見え』るなら、お主も巫女としての第一歩を踏み出したということよ』
師匠である「白の大巫女」も、弟子が胸に抱いていたほのかな思いには気づいていた。
「…はい」
思いが実らないと知った少女に、師匠は続けた。
『もはや、儂がお主に教えることは何もない。だが、たまには顔を見せに来い。-お主は、良い弟子であったぞ』
「…ありがとうございます、お師匠さま」
一同は、研究所で二度目の夜を迎えた。
与えられた部屋で横になったのだが、楓はなかなか寝つけなかった。
「うう、眠れない」
小さく呻き、寝床を抜け出して。
そっと廊下を歩き、光が差しこんでいるのに気づいて窓から外を見た。
「…明るい…」
ほぼ満月に近い月が、こうこうと輝いていた。
研究所をはさむ谷、山肌を覆う杉林に月の光が降り注ぎ、銀色に近い輝きを放っている。
「向こうでは三日月だったのに」
しばらく、月に照らされた谷をぼーっと見つめた。
「これから、どうすればいいんだろう」
そうしていると、今日の記憶が甦ってまた胸を刺した。
「…辛い」
思わず呟く。
そこに、声がかけられた。
「楓、ここだったか」
「サイキ…」
あやめが、月明かりの中に立っていた。
「眠れなかったんだ、サイキも」
「…ああ」
ぎこちなく、話をする。
「月、けっこう明るいね」
「『彼方の地』のほどじゃないけどな」
「やっぱり空気が少し汚れてるのかな」
(何話してるんだろ、私たち)
二人して、何か言いたいことがある…のに、そこに迫れていない。
何とも微妙な沈黙が降りた。
「…あのさ」
月明かりの下で、あやめがようやく口を開いた。
「…楓」
「…何?」
彼(?)の今まで見たことのない表情に、楓は衝撃を受けた。
「楓…っ」
あやめはためらい、口ごもり…やっと、言った。
「俺は、楓と離れたく…ないよ」
「サイ…キ…」
「ずっと一緒にいたいよ。何で離れ離れにならなきゃいけない、もう一生会えないかもしれないなんてことに、なるんだよ!」
「…ひどいよ」
「楓?」
「ひどいよ!」
楓はきっと顔を上げ、叫んだ。
「私がどんな思いで離れることにしたか、全然わかってないじゃないの!それを知らないで、離れたくないなんてわがまま言わないでよ!ひどい…よ…!」
「で、でもっ」
「もういい!サイキなんて嫌い!どこにでも行っちゃったらいいのよ!」
「…楓…」
あやめの、あまりにも傷ついた表情に、楓はそれ以上何も言えなくなった。
「う、うう」
代わりに、涙があふれ出す。
「楓…っ」
「も、もういいよ!私にかまわないで!」
泣き顔を見られないように、楓は顔を覆って逃げ出した。
あやめは、立ちつくす。
「かえ…で…」
伸ばそうとした左手が、力なく降ろされた。
一晩泣き明かし…ではなく、泣き疲れて眠りこんで。
楓は朝を迎えていた。
朝飯の時も気まずくて誰とも顔を合わせられず、一人でこそこそと食べた。
その後も逃げ回るようにして過ごし。
「これじゃ、駄目だ」
お昼まで悩んだ末、彼女は樹の自室を訪れてみた。
「…失礼しまーす」
樹はここでは所長なので、広い一室を与えられていた。悲しいほど狭い青葉寮の舎監室とは雲泥の差だ。
「やあ、楓くん。何だい?」
上司とのやり取りで疲れているはずだが、彼はにこやかに楓を迎えてくれた。
「あの、相談したいことがありまして」
「珍しいね。どんな相談かな」
「あの!えーと、その」
いざとなると言い出せずに口ごもってしまう。樹はそれを、優しく見守っていた。
「…樹さんは、友達と何か好きなものについて意見が対立して、言い争いになるとか、ありますか?」
迷った挙句こんなことを聞いてしまう。
「ああ、しょっちゅうだよ。ネットで好きなTV番組とかについてコミュニケーションすれば、毎回のように意見が食い違って大論争さ」
…まあ「樹の好きな番組」と言えば、日曜朝系の子ども番組になるのだが。
「そう、ですか」
「でも、そういう論争ができる相手がいるってことが、嬉しくてね。意見が食い違って真剣に揉めるってことは、お互い心からそのものを愛しているからだからね」
「そうなんですね」
本気だから、真剣だから、喧嘩もするし泣けるのだ。
「好きだから、揉めることもあるんですね」
「そうさ」
もちろん、楓がこんなやり取りの裏で本当は何を言いたいのか、樹にもわかっているのだろう。
それでも彼は、優しく彼女が求めている答えをくれる。その心遣いが、嬉しかった。
「…わかりました。ありがとうございます、忙しいのにすみませんでした」
そう言って、楓は所長室を辞した。
「ふう」
樹はほっと息をついて椅子にもたれた。
「…言わないといけなかったかな」
一人、呟く。
「サイキくんも、同じようなことを聞きに来たことを」
しかし、午後になっても楓はまだ研究所の屋上で考えこんでいた。
(…私、馬鹿だよ)
またしても心の中で繰り返した。
(もう、一緒にいられる時間がほとんどないのに…どうして、喧嘩なんてしちゃったんだろう)
そう思っているのに、降りて行って彼(?)に謝る勇気が出ない。
言いたいのに言えてないこと。
どうしても伝えなければならないのに伝わっていない思い。
「でも、いざってなると…言えないんだ」
ただ思いだけが、身体の中で渦を巻いていた。
そんな時、スマホが着信を知らせた。
「あ、樹さん。どうしました?」
『ちょっと話したいことがあるんだ。ブリーフィングルームまで来てくれ』
「はい、すぐ行きます!でも何かあったんですか?」
状況が変わったのかもしれないと思うと怖い。
『いや、その…とにかく、大事なことなんだ。すぐ来てくれ』
「わかりました」
何か引っかかったが、楓は立ち上がった。
「入ります」
そう言ってドアを開けると。
「え?」
「へっ?」
中にいたあやめとばっちり目が合ってしまった。
「…サイキ」
「楓…っ」
しばらく顔を見合わせ、次の瞬間。
「ごめん!」
「ごめんなさい!」
二人、全く同時に謝っていた。
「「何にもわかってなくて…ごめん!」」
そして…こんな時だというのに、二人でぷっと吹き出した。
「私、樹さんにここに来るように言われて」
「俺もだ」
「気を使って、くれたんだ」
二人はお互いの顔を見て…大きく、うなずき合った。
「もう、二つの世界はそれぞれに大きく変わっているよね」
帰ってから検索してみた「蛙の丘」について、楓は思い出す。
(片方は蛙しか住まない荒地、もう一つは莫大な富と絶望的な苦難の地)
もとは同じとは言え、今は何もかもが違うのだ。
「ああ。もう一つには、戻せないよな」
あやめも、同じ結論に達していた。
「無理に一つにしようとしたら、どんなかたちにしろ混乱は避けられないだろう。困る人は、どうしても出てくる」
「なのに、今の世界を『長』は否定しようとしているのね」
「―だから俺たちは」
「「そうしなくてもいいと、伝えなくてはいけない」」
見つめ合い、胸の痛みをこらえて笑い合った。
「…あの人に、言葉を届けたい。『過去』しか見てないあの人に、『未来』を見てほしいんだ。その思いを、言葉を、私は届けたい」
「やろう、楓。俺たちで…どんなに大変でも、すべてを貫いて届けるんだ」
あやめが、その言葉に力強く応えた。
「聞いてもらうには、力いっぱいぶつかるしかないだろうけどな。闘って、決着つけて…それからでないと、何を言っても本当にはあの人の心に届かないだろうから」
一切「聞こう」としていない「長」に、言葉を届けるにはそれしかないと、決めた。
「そうだね。私も、そう思うよ」
「聞いてもらって、わかってもらって…それから俺たちは、未来へ、行こう」
「うん」
―二度と会えなくても。
それでも、「未来」を目指そうと二人は決めたのだ。
辛くない訳がない。
苦しくない訳がない。
それでも、辛いこと苦しいことを全て引き受けて、前に進む決意を、した。
そこに。
「失礼します…あっ?」
入ってきた鹿乃子が、「何か」に気づいて立ちすくんだ。
「カ、カノコさん」
「お、おう」
「あ…」
彼女は、二人の間に流れる「空気」の変化に気づいたらしい。
「そう、ですか…そうなんですね。わかりました」
「カノコ…さん」
感知能力が高すぎるというのも、辛いものである。
「いいんです、わたしのことは。それより」
「やあ。みんな、集まってるな」
この状況を作った張本人―樹が、ユーリとともに入って来てにこっと笑った。
「少し早いが、発表しよう。上とも協議した結果の、最終結論だ。-我々は、『彼方の地』との交流計画を、一旦凍結する。交流を断つことにする」
「「「―!」」」
わかってはいたが…一同、言葉もなく固まった。
「もちろん、そのためにはまず『長』を止めなくてはならない」
「『長』を止めて…世界を、引き離すんですね」
「彼を止めることは、危険だろうがサイキくんに頼みたい。スーミーさんにも『門』を開いて全ての『本体』を『彼方の地』に避難させてもらわないとな」
残して置いたら絶対に困るので。
「で、交流を―断つんですね」
「辛いだろうが、やってもらいたい。頼む」
それが、樹の下した決断だった。
「ああ。やるよ、俺。やってみせる」
あやめがきっぱりと言った。-その時。
「え?」
「何だ?」
楓がポケットに入れていた「知の遺産」が、蒼白い輝きを放った。あやめの左手からも橙の光が湧き出し混じり合って二人を包みこんだ。
『やはり、別離を選ぶか』
『かの者を止めようと、言うのだな』
それぞれに聞き覚えのある声が、した。
「『遺産』を守護していた、人たち…なんですね」
『かの者を止めようとするのは、当然のこと』
『我らは『遺産』を守護するために、宝珠にその身を封じたが』
『物事を感じ取り、考えを変えることは可能』
声は交互に響いた。
『しかし、かの者はそれを止めてしまったのだ。彼の時間ははるか昔に止まったまま。その時の思いのままに、彼は世界を元に戻そうとしている。それは、妄執以外の何物でもない』
『言うなれば、彼は既に死んだ身…我々が長年の友に情けをかけ、年月をかけて浄化していこうとしてしまったがために、この時代に禍根を残してしまったのだ』
『虫のいい願いではあるが、頼む。彼を、止めてやってくれ』
声が遠ざかり…光が、薄れていく。
「やるよ、俺たちは。止めて、みせる!」
「約束します!」
…はっと気づくと、みんな心配そうに二人を見ていた。
「どうしたんだ?君たちが、光に包まれて」
「『遺産』の守護者たちが、メッセージを送ってきたみたいです」
どうやら、あの「声」は二人にしか聞こえていなかったらしかった。
「『長』を止めてくれと、言われました」
第九章 拳で語る馬鹿もいる
「やろう。『長』を止め、近づき過ぎた二つの世界を引き離すんだ」
たとえ、そのために交流が不可能になったとしても。
「やりましょう、みんなで」
樹の決意に、皆うなずいた。
「まずは、この研究所で保護している『本体』たちを、避難させないといけないな」
決断して、樹は公務員の顔になった。てきぱきと部下たちに指示を出し、仕事を進めていく。
「今ここにいる『本体」を『彼方の地』に移さないと。もちろん『守護精霊の地』にしか送れない訳だが、緊急の場合だ…仕方ない」
「黒の組織」に連れてこられ、やむなくここで保護されている者も多いのだが。
「それはしょうがないよ。みんな、わかってくれるさ」
「…しかし、問題は」
「わかってる。巫のもとにいる『本体』だな」
あやめがうなずいた。
「そうよね。他の施設にいた『本体』は確保できたけど、『蒼の組織』のアジトにはまだ、たくさんの『本体』がいるはずだもの」
まず巫本人とエリーの「本体」がいるはずだった。
「何としても『本体』を全て『彼方の地』に戻さないと。一生『擬体』のままで過ごすことになってしまうからね」
「あいつを、何とか説得しないといけないのか」
やらなければならないことだった。
「―よし。巫を呼び出して、話をつけよう」
彼(?)が腹を決め、きっぱりと言った。
楓と鹿乃子を連れて、あやめは舞鳥市のグラウンド(前にエリーと闘った場所)に来ていた。樹が手を回し、管理人も引き上げている。
「カノコ、『放送』頼む」
「わかりました」
「よし!―巫!俺の声が聞こえるか!」
楓には全く感じ取れなかったが、その「声」は鹿乃子によって舞鳥市全体に流されているらしかった。
「巫!エリーが向こうについたってことは、事情が少しは伝わってんだろ!」
しばらく呼びかけ続けた。
「話し合う必要があるんだ。来い、巫!」
「うるさいなッ。さっきからがんがんとッ!」
声が響くのと同時に、蒼い風が吹いた。
ぐるぐると渦を巻く蒼い気流が、グラウンドの真ん中に流れこんで一しきり荒れ狂う。
蒼い竜巻が薄れて消え去ると、そこには仏頂面の巫と、ぴったりと寄り添って胸とかを押しつけているチョビがいた。
「全く、何が起こっていると言うんだッ」
絶叫調の口調にもいつもの覇気がない。
「エリーはどうなったッ?お前らがここにいるということは、倒されたんだろうなッ」
「ああ、ユーリ先輩ががんばってくれた。で、お前詳しい話は『長』から聞いてるのか?」
「いや。『遺産』が必要だ、ぐらいだなッ」
「じゃあ、何も聞いてないも同然だな。俺たちは…」
あやめは楓の助けも借りながら、これまでのことを語りはじめた。
「嘘だッ!」
巫の第一声は、それだった。
「本当なんだ。俺たち『彼方人』でこっちに来ている奴は、全員『彼方の地』に帰らないといけない。さもないと、一生水槽の中で過ごさないといけなくなるかもなんだ」
「信用できるか、そんな話ッ!」
「巫。俺をぶん殴ってくれてもいい。俺は反撃しないから、好きなだけぶっ倒してもいい」
「何だとッ!?」
あやめの申し出に、巫は明らかに動揺した声を漏らした。
「俺を負かしていいんだ。帰った後、俺に勝ったってみんなに言い触らしてもいいぜ」
「そ、そんな『勝ち』を俺が望むとでも思っているのかッ?俺は、お前と全力で闘って勝ちたいんだッ!」
「そうなのか?それにしちゃどんどん刺客ぶつけてきたけどなー」
「それでも、ラストは俺が決めるつもりだったんだッ!」
フル状態のあやめには勝てそうにないので、弱らせてから挑むつもりであったのだ。
「俺が全力で闘って倒さなければ意味がないッ!」
言動に多少の矛盾はあるが、巫のことなのでお許しいただきたい。
「わかってるけど…それで確実に負ける自信がないんだよなー」
ここまで来ても正直な男(?)だった。
「俺にできる譲歩はするから。『彼方の地』に帰ってくれ、巫。頼む。こっちに残しておく訳には行かないんだ」
「お、お前ッ…そこまでして俺を帰したいのかッ」
さすがに冗談でもはったりでもないと感じ取ったらしい。
「…本当なんだな」
「ああ」
巫の重い問いに、あやめも重く答えた。
「しかしッ」
低く呻き、視線をやった先には。
「巫…」
すがるようにこちらを見つめる、セーラー服の少女が一人。
「…ううッ」
巫はしばらく汗を垂らしながら考えこみ…やっと、言った。
「…話はわかった。全員『彼方の地』に今帰らないと一生戻れないってことだなッ」
「わかってくれたか」
「…だが!俺は納得できねえッ」
「巫!」
「俺と勝負しろ、サイキ。俺を負かせたら、俺のもとにいる『本体』を全員引き渡そうッ。俺自身も含めて」
「そんな!あなたが勝っても、みんなが困るだけじゃないの!」
「…それでもッ」
楓の叫びにも、巫は動じない。
「俺は、そうしないと納得できねえッ…!」
「―わかった」
「サイキ!?」
「闘おう、巫」
少女の姿の少年は、立ち上がった。
「こいつの全てを受け止めて、納得させる。それでしか全員を戻せないって言うんなら、受けて立つさ」
「そうかッ」
巫はにやりと笑い、グラウンドの真ん中に立った。
「この開けた場に呼び出したのも、これを覚悟してのことだろうッ?」
「まあなー」
「さあッ!勝負しようではないか、サイキッ!」
「わかった、今行く!」
そう答え、巫と正対しようとして…あやめは、振り向いて楓の顔を見つめた。
「サイキ、無事で」
「ん」
少年(外見は少女だが)の目が、優しくなった。
「大丈夫だよ、楓。俺もあいつも無事に戻るよ」
土のグラウンドで、二人は相対した。
「この広さじゃ、二人しての『憑依』は大変だな」
いくら大鷲は空中に現れるとはいっても、ぶつかり合うには狭すぎた。
「このままでやろうぜッ、サイキ」
「『精霊の力』を打ち砕かれる心配もないな。それで行こうぜっ!」
あやめの背には銀の翼が、巫の手足には熊の爪がすでに現れていた。
「行くぜっ!」
「おうッ!」
声を合図に、二人はぶつかり合った。
拳と爪が激しく交錯する。銀と蒼の光が、はじけて飛び散った。
「サイキ…!」
今までなら、楓は何でわざわざ闘わねばならないのかと腹を立てていただろう。
しかし今は、何故この二人が闘うのかはっきりわかる。
「巫、また腕を上げたな」
あやめがにやりと笑った。
「お前に追いつきたい、追い越したい…ずっとそう思ってきたからなッ!」
巫も笑みで返した。
(この二人は、闘ってわかり合えるんだ)
はらはらしながら、楓はそう思わずにいられなかった。
(闘うことで、お互いの覚悟と本心を確かめ合っているんだ)
「俺だってッ、のんべんだらりと過ごしてきた訳じゃない…ッ」
熊の爪が、あやめの胸元に迫った。
「サイキ!お前の本気を見せてみろおッ!」
「付与」のバリアで受けようとしたが、力及ばず。
「い、痛ってええっ!」
爪が抉って…そんなに深く傷がついた訳ではないが、服が破れてごくささやかな「胸」が血を流している。
「ちくしょー、今の俺だとセクハラだぜ、セクハラ!」
「何馬鹿なこと言ってるッ!」
少し赤くなった巫がわめいた。
(いつもなら、『遺産』で受け止めてる攻撃なのに)
楓のはらはらは止まらない。
「ごまかされんぞ…そこだッ!」
熊の爪が、今度は顔に迫る…ところを、ぎりぎりで銀の翼が割りこみ、わずかに軌道をそらした。
だが。
「甘いッ!」
巫の頭部に巨大な熊の頭の幻影がかぶさり、その牙で翼を一気に噛み砕いた。
「う、う…うわあああっ!」
あやめの苦痛の叫びが響き、砕けた翼が羽毛になってあたりに舞い散った。
「サイキ!」
「大丈夫だ、楓!」
幻影とはいえ砕かれれば痛みは感じるしダメージになるはずなのに、彼(?)は妙に嬉しそうに怒鳴り返す。
「何か『見えて』きたんだ!」
「何をごちゃごちゃ言っているッ!サイキ!まだ本気じゃないだろうッ!」
巫が、蒼い光を渦のように舞わせながら怒鳴った。
「そんなことねーよ!」
「では何故『遺産』を使わないッ!」
「それは、だって!」
あやめの声音には、明らかに動揺の色があった。
「ふ、不公平だろ俺だけ使うって!」
「いや!『遺産』も、すでにお前の実力の一部だッ!本気なら、全力出すなら、『遺産』も使って俺を倒してみろッ!そうでないと納得できんッ!」
「だって!下手すると怪我じゃ済まないぜ!」
「それでもッ!」
巫は絶叫した。
「お前の全力を受けない限り、負けた気にならん…ッ!」
「でも!」
思わず怒鳴り返したあやめだが…彼の言葉には、胸を衝かれたらしい。
「後悔、するなよ…!」
ゆっくりと左腕を振り上げ、拳を開いた。
「『遺産』よ!我が手に!」
叫びに応えて橙の光が爆裂し、その中からあやめは長大な槍を抜き出す。
「おおッ、それこそが…お前の全力だッ!」
歓喜の叫びを上げて、巫が飛びかかった。あやめは槍を瞬時に日本刀に変えると、一閃させて熊の爪を斬り捨てた。蒼い光がはじけ、霧消する。
「くッ!」
「全力で行くぜ、巫!」
再び槍となった「遺産」が、巫を貫かんと迫る。「付与」のバリアも一瞬で貫かれた。
「巫!」
チョビが悲鳴を上げた。
「ここまでかッ」
彼が観念して目を閉じた―が。
「絶対に、みんな…連れて帰る!」
あやめが叫び、槍を左手を支点にぐるっと回転させた。
加速のついた槍を、回すのである。腕にすさまじい負荷がかかる…のを、銀の光をまとわせて強引に耐えた。
みしり、と骨が軋む。
「巫…お前もだ!」
反転した槍の石突が、巫の胸をしたたかに突いた。
「ぐ…ッ!」
当然、その身体は吹っ飛び、グラウンドに叩きつけられた。ごろごろ転がってようやく止まる。
「巫!だいじょうぶ?」
チョビが彼に駆け寄った。
「うッ、また負けちまったッ…」
「巫、生きていてくれればそれでいいよ」
チョビは巫にすがりついて泣いている。
「サイキ…勝った、のね」
楓と鹿乃子も近づいた。
「ああ、俺の勝ちだ」
うなずいたあやめは、巫たちを見て一言添えた。
「意地を張ってるだけじゃ、なかったんだな」
「にしてもサイキ!今の動き…痛かったんじゃないの?」
「ちょっと痛い…な」
あやめはにやりと笑った…が、額には脂汗がにじんでいる。
「耐久力は『付与』で上げられても、ひねって痛いのは、な」
軋んだ骨は今も悲鳴を上げていた。
「すぐ治します!」
鹿乃子が腕に飛びついた。
「ほんとに、無茶して!」
大体、あそこで槍を反転させる必要はないのだ。「遺産」の形は彼(?)の意思で自由に変えられる…穂先を石突に変形させれば済むのだから。
しかし、あやめは苦痛を受けても、巫に見せつけなければならないと判断した。
「…でさ。負け、認めるよな巫」
胸をしたたか突かれ、吹っ飛んだ男は苦痛に呻きながら、答える。
「ああ。俺の負けだッ」
ものすごく悔しそうに、続けた。
「さすがに、あそこまで『殺せたのに、しなかった』と見せつけられては、俺も文句をつけられないッ」
闘志を完全に砕く、そのための負傷だった。
「俺が確保している各人の『本体』は全て渡そう」
顔を背け、さらに続ける。
「そして俺も『彼方の地』に帰る」
ちらっと横を見る。その視線の先には、うつむいてプリーツスカートの裾を握っているセーラー服の少女がいた。
「そうか。でも巫、お前には感謝してるんだぜ?」
「な、何だいきなりッ」
「お前のおかげで、『長』に勝つ道がちょっとだけ見えてきたってことさ」
あやめは巫に近づき、両手を握ってぶんぶんと振った。
「おいッ、ちょっと、よせッ」
体勢を立て直せずに振り回される巫であった。
「俺は、お前と闘えてよかったと思ってる」
「サ…サイキッ」
「巫は強いよ、充分。闘って、わかったんだ」
「う、う…よせッ。そんなこと言ったって何も出てこんぞッ」
「わかってる。でも、ありがとう巫」
チョビが睨んでいるが、気にせず。彼(?)は巫を引っ張り上げ、立たせた。
巫が教えた「蒼の組織」アジトの場所を樹に連絡すると、エージェントがトラックを仕立ててピストン輸送で「本体」が入っている水槽を研究所に運びこみ出した、と返事があった。
早速あやめたちは研究所に戻り、それにものすごく不本意そうな顔をしながら巫とチョビもついて来た。
戻ると、樹が「彼方の地」のスーミーと通信をしているところだった。
「…そういうことです。大変でしょうがよろしくお願いします」
何せ、「門」を開いて十数人を世界間移動させねばならないのである。
『わかった。しかし儂一人では厳しいな。助けを呼ぶか』
どこか笑みを含んだ声音が、銀の球体から漏れた。
「助け?」
まだスーミーの他には、「門」を開ける実力のある巫術師の話は聞かない。
「君たちの中では、巫くんに一番縁が深いかな」
「はッ!?」
いきなり話を振られて戸惑う巫の前に一人の職員が進み出、はっきりした声でこう唱えた。
「我、『蒼き熊』の巫術師を呼ばん。我が呼びかけに応えよ」
「な、何ッ!?」
動揺する巫の眼前に、ぽつりと蒼い光が灯った。光は膨らみ、蒼い球体となって宙に浮く。
『ぼくも『門』を開くよ。巫くん、戻って来て』
「戈!?お、お前ッ!『門』は、開けないのではなかったのかッ!?」
『できるようになったんだよ、ぼくは』
ぽそりと、蒼の球体―戈が言った。
「はあッ!?」
『だから、できるように、『門』を開けるようになったんだよっ!きみと喧嘩して、自分一人で何とかやっていこうと決めたら…できるようになったんだよ』
幼なじみへの依存心を捨て、自立した時真の実力が開花したのだ。
「お前…ッ!」
『巫くん、帰ってきて。帰りたくない理由はあるかもしれないけど、このままだと一生帰って来られなくなるかもだよ』
蒼い球体は重く語った。すがる対象としてではなく、大切な友人を思いやっての言葉だった。
「…わかってる。わかってるぜッ、戈…だがッ」
答えながら、視線が一方に向いた。
セーラー服の少女に。
「チョ…」
巫は呼びかけようとしたが。
「…」
少女は無言で、部屋を飛び出して行ってしまう。
「チョビ…ッ」
伸ばしかけていた手を、降ろして。
胸の痛みに耐えつつ、巫はまっすぐ顔を上げた。
「俺の知っている限り、『本体』はあのアジトに残っていただけのはずだッ。頼む、みんな『彼方の地』に戻してやってくれッ」
「取りこぼしはないと…信じよう、今は」
あったら大変だが…もう、どうしようもなかった。
第十章 別れを告げる馬鹿もいる
研究所は騒然としていた。
次々と運びこまれる「本体」を並べて。次々と、「本体」に意識を戻した「彼方人」たちを「門」に送りこんでいくのだ。本当の意味で故郷に帰れない者も多く、嫌がることも多かったが仕方がない。
もちろん「彼方の地」にて、「門」を開いて維持しているスーミーと戈もどんどん消耗していくのだが、向こうにいる他の巫術師や巫女が交代で力を「移し」てしのいでいるらしかった。それでも時々休憩していたが。
「あの、私たちは今何をすれば」
「今のところ、やってもらわないといけないことはないね。待機していてくれ。後でしっかり働いてもらうからね」
楓の問いに、樹はそう答えた。
「…そうですか」
今のうちに別れを惜しめと、言ってくれているのだ。
今生の別れになるだろうこの別離を、きちんと惜しめと。
「今、他の人たちを優先して戻しているが、それが済んだら君たちの番だからね」
「「「!」」」
覚悟したつもりではあったが、改めてそう言われると全員言葉を失ってしまうのをどうしようもなかった。
「辛いのはわかるが、決定事項だ。わかってくれ」
それだけ言って、樹は離れて行った。
「…サイキ」
「楓…っ」
―気づくと、まわりには誰もいなくなっていた。
「ちゃんとお別れしないとだね、サイキ」
「わかってる。わかってるけど…でもお~っ」
あやめは納得しきれていないようだ。
(もちろん、私だって…その、辛いけど)
辛い。もちろん辛い。心が引き裂かれそうに辛い。
(…でも!)
私が、しっかりしなくては。そう決意して楓は唇を噛む。
(それ…でも!)
「サイキ…お願い、わかって。二つの世界は、引き離さないと」
「うん、理解はしたよ。言いたいことはわかる…でも!でも納得はできてないよ!」
血を吐くような叫びだった。
「やっぱり、俺は楓と離れたくないって思う。この気持ちはどうしようもないよ、ほんとのことなんだから」
「それ、は」
「だって、俺…楓がいないと駄目だも~ん」
そう言われるのは…どこか、嬉しかった。
(でも…それじゃ、駄目なんだ)
このまま彼(?)に頼り頼られているのは、さぞ心地良かろう。
一緒にいたいという思いに嘘偽りはなかったが、それに甘えていては二人とも前に進めはしない、そんな気がした。
「うん、わかってる。ちゃんとわきまえてるよ。別れる覚悟はしたんだよ。でも、やっぱり嫌だなーって、思うんだ。そのぐらいは言っていいだろ、楓」
あやめがこういう風に言ってくれるから。
自分の思っていることを全て代弁してくれるから。だから、自分はそれにつっこんで、叱咤していればよかった。
(それが…甘え、なんだ)
彼(?)が自分の言いたいことを言ってくれる、それにつっこんでいればいい。その関係性は、依存している関係なのだ。
(少なくともこっちの世界じゃ、側にいて失言しないように気をつけているのが私の役割だと、側にいないとサイキは駄目なんだって、考えていたけど)
思い出してみれば、彼(?)と自分が別行動を取ったこともよくあったが、その時にとんでもないことを口走ったとかはなかったらしい。
(私が側にいないと失言するってことじゃ、ないんだ)
あやめには自分が必要、自分が支えないといけない…そう思いこんでくっついているのは、自分の方の甘えだったのだ。
「サイキ。『いないと駄目』じゃ、いけないんだ。側にいなくても、ちゃんと一人で、自分の足で立てるようにならないと。だから、離れよう。一人で生きて行けるようになって…それで、二人で生きて行こうよ」
たとえ、その時…一緒には、いなくても。
「…そうだな。二人で、生きていくんだ」
あやめは笑おうとして…うまく行かなかった。
「世界を異にしたって、『二人』なんだよ、私たちは」
やっと…ぎこちなくではあったが、二人で笑い合った。
「今、俺たちの心、一つだな」
「違う。…心が一つになったんじゃない。あなたの心と私の心があって、思いが二つの心をつないだだけ」
「うん。心が、触れあったんだ」
今は、今だけは、側にいたかった。
「離れ離れになっても、大丈夫。変わらない思いが、ここにあるから」
「『変わらない』んじゃ、嫌だなー」
「サイキ…っ」
「いろいろ変わっていく方が楽しいよ。昨日を送って、今日を生きて、明日へ進んで…どんどん変わるのが」
「そう、よね」
そう言われて、また新しく目が開いた気がした。
「昨日より今日、今日よりも明日…少しでも前よりいい自分になりたいよね」
「だから、『変わらない』んじゃなくて」
あやめは言葉を続ける。
「『育てていく』思いを、持ってたいよな」
「…サイキらしいわ、ほんとに」
楓はくすっと笑って…内心の痛みをこらえた。
「一緒には、いられないけど」
「それでも俺たちは、共にある」
「心が、一つなんじゃない。あなたと私が、共にあるだけ」
ただ生きてさえくれれば、それでいいと思う。
(生きてさえ、いてくれれば)
見上げる空は違っても、それでもいい。
そう思った。…いや、思おうとした。
「わたくしの故郷、『母なる大地の精霊の地』に渡れないのに、とにかく『彼方の地』に行けなど、とんでもありませんわっ!わたくし『守護精霊の地』には縁もゆかりも、興味もないんですのよ!それなのに!」
「まあまあ、落ちつけよエリー」
ぎゃあぎゃあ騒ぐエリーを「門」に押しこんで、ほっと一息。
「僕も行きます、皆さん。名残惜しいですが、急がないと」
ユーリが立ち上がった。
「済まないな。本当の故郷に帰してあげられなくて」
「いえ、『彼方の地』に戻してもらえるだけで充分ですよ。『守護精霊の地』には…そ、その、一度行ってみたかったんですよね」
何故かユーリはここで動揺した。
(…?)
楓はちょっと不審に感じたが…正直、それどころではなかった。
「後、僕と同郷の『騎士』ですが、彼は残りたいと言っていましたよ。こちらに呼び寄せられたときに愛馬と引き離されて…で、今の愛馬と巡り会って育て上げたので、二度大切な存在と別れることはできないって言うんです。一生『本体』は水槽の中でも悔いはない、と」
そう言い置いて、ユーリは「門」を潜った。
(そういう決断をする人もいるんだ)
楓は反射的に隣りに目をやった、が。
「…あれ?」
あたりを見回し、驚く。
(サイキが、いない)
さっきまでここにいたのに…今一番一緒にいたい相手が、いなかった。
(やっと気持ちが通じ合ったのに。一秒でも長く一緒にいたいのに)
そうは思うが、それがわがままだと自分でわかってもいた。
(サイキにはサイキの思いがあるんだから)
「次は…巫くん、だな」
「俺は…ッ」
呼びかけられた巫が何か言いかけた、その時。
「連れて来てやったぜ」
あやめが、現れた。-セーラー服の少女の手を引いて。
「…チョビを捜して、連れてきたんだ」
「がんばって説得したんだぜー」
彼(?)は笑って見せた。
「今話さないと、一生後悔するぞって」
(そうか、チョビを捜すために、いなかったんだ)
何かとても、納得できた。
(そういう奴だよね、サイキって)
「とにかく、ちゃんと言うこと言えよ、巫」
「そんなに、時間はないよ?」
「わかっているッ」
あやめと樹に答えて、巫は視線をセーラー服姿に向けた。
プリーツスカートを右手につかみ、裾を垂らしている。振らずに垂らすんなら持ってる意味ないだろーッとつっこむのは、いつもは今その前に立つ男の役割だったりするのだが、今の彼にはそんなつっこみをする余裕は欠片もなかった。
「巫…」
チョビは、いつもの彼女からは想像もつかないような弱々しい、今にも泣き出しそうな笑顔で巫を見上げ、囁いた。
「チョビは巫以外のだれとも結ばれないから」
「…」
「…チョビの子どもの父親は巫だけだから」
表情と台詞に著しく落差があるような気もするが、チョビはどこまで行ってもチョビなので仕方がない。
「うッ…!」
巫はその台詞よりもその表情に、頬を引きつらせて何とも言えない顔をした。
「チョ、チョビッ」
しばらくして。
決心した…と言うか、「観念した」と言えそうな表情で、男は言った。
「俺も…」
これもかすれた、弱々しい、彼らしくない声音で。
「『も』-?」
「うるさいっ」
脇であやめと楓が何か言っているが、二人の耳には入っていなかった。
「俺もッ!」
何かを振り払うように、絶叫する。
「チョビ以外の奴とは、子ども作らんからッ!」
一瞬、静寂。
そして―
「よく言ったー!つーかすっげーストレートだな巫!」
「うるせえッ、チョ、チョビにわかるように表現しただけだッ!」
はやし立てるあやめに語気荒く答え、巫はチョビの震える肩に手を置き…そのままぎゅっと抱きしめた。
「巫…」
すがりつくチョビを、優しくしかしきっぱりと引きはがし。
用意された台に横たわり、蒼いもやがその身体から離れる。
もやが吸いこまれた水槽から起き上がった男は、哀し気に少女を見やり、しかし視線を外して戈が開いた「門」に歩み寄った。
その時、立ち尽くして身を震わせていたチョビが彼に駆け寄りながら叫んだ。
「チョビの気持ちは変わらないから!ずっとずっと待ってるからっ!」
「…チョビ…」
一言呟いた巫は、だがもう振り返らずに「門」へと入っていく。
「待ってるから…っ!」
消え去った男に呼びかけて、少女はがっくりと膝をついて泣きじゃくりはじめた。
「後は、サイキくんとカノコくんだけか」
樹が額の汗を拭った。楓の胸が、ちくんと痛む。
「では、わたしが先に。スーミーさんには相当負担がかかっているはずですから、戻って支えたいので」
「頼む。もう少しで、全部済むから。それまでもたせてくれ」
「わかりました」
うなずいた鹿乃子は、楓に近づいた。両手を取ってぎゅっと握りしめる。
「楓さん。元気で、いてくださいね」
「カノコさんも元気で…さようなら、って言うのも変か」
無理して笑おうとするが、うまく行かなかった。
「まだ、もう少しの間通信できるんだもんね。それが途切れたら、本当にさよならだけど」
「わたしの『先読みの力』では、そう先のことは見えませんが」
彼女の表情には憂いと気遣いの色があった。
「でも、あなたとサイキの行く道が、完全に離れていくようにはどうしても見えないんです」
「…そんなこと、言わないで。余計に辛くなるじゃないの」
「楓さん…」
聞くだけで辛くて、硬い表情で顔を背ける楓に、さらに言葉がかけられた。
「あきらめる方が楽なのはわかっています。でも、それでもあきらめないで、信じ続けていてください」
それだけ言うと、少女は離れて行った。
「そんなの…ひどいよ」
やっと思いに決着をつけられた、と考えているのに。
「では皆さん。さようなら」
別れを告げて、「本体」に戻った鹿乃子―カノコは、球体の中に姿を消した。
「さよなら…カノコさん」
「…さて。俺の番、だな」
あやめが呟いた。
「サイキ…!」
まだ、まだたくさん、話したいことがあるのに。
「…そうだね。スーミーさん、待たせちゃ駄目だね」
そう、口では言い…そう言ってしまう自分を憎む。
(こんなことを、言いたいんじゃないのに)
理性が勝ってしまう自分が、ただただ悲しかった。
「そうだよな。帰らないと」
その目を見ただけで、どう彼(?)が考えているか、わかった。
(今はこんなに、近いけど)
すぐに遠くに行ってしまう。
(もう、会えない!)
しかも、その選択をしたのは、自分自身なのだ。
「サイキ…っ」
『まだ、かのう?』
黒い球体が、その輪郭を大きく波打たせた。形を崩しかかっているのを無理に保たせているような、そんな動き。
『さすがに開きっぱなしは辛いんじゃが』
「済みません、スーミーさん。もう少しだけ、待ってくれませんか」
樹はこの場の責任者としてと言うより、長きに渡って少年少女たちを見守ってきた者として、かつ「その時期」を脱してまだ間もない者として、老巫術師に要請する。
『お願いします、スーミーさん。わたしも力を尽くしますから、あとちょっとだけ』
カノコが―今、少女である時を生きる者が、そう言うのが「門」を通してかすかに聞こえた。球体に、ほのかに茶のもやがまとわりつく。
「―これを。使い方は、『守護者』さんに聞いて。本来は、古代文字の知識があれば誰にでも使えるものらしいけど。さすが、科学を奉じる地の『遺産』ってとこね」
楓は「知の遺産」を取り出し、あやめに渡した。
「『本体』に戻ったら、ペンダントにして首に吊るすことになるな。ありがとう、楓」
「ずっと一緒にいたかったね。みんなでやりたいこと、たくさんあったのに…ね…」
声が震えるのが、悔しい。
「さよなら、だね」
無理矢理、笑顔を作る。作ろうとする。
(泣き顔が、最後の思い出であってほしくない)
笑顔で覚えていてもらおうと、必死で涙をこらえた。
「…楓」
「え?」
いきなり―抱きすくめられた。胸に顔をうずめる体勢になる。
「サイ、キ?」
「あきらめないから」
あわてるその頭上から、声が降ってきた。
「俺の、ほんとの望み、絶対にあきらめないから。今、どうであっても。これから、どうなろうとも」
背中に回された手に、力がこもった。
「だから楓も、自分の望みを、あきらめるな」
それだけ言って、身を離した。
「サイキ…!」
見上げた顔に、一筋光るものが―と。
「えっ!?」
いきなり、その身体がくたくたと崩れ落ちた。
銀のもやがその身体から抜け出し、水槽の中に、「本体」へと戻っていく。
巨大な身体が、液体をかき分けて立ち上がった。
輪郭を揺らめかせる漆黒の球体に、近づく。
「じゃ、楓」
高低の差はあったが、口調は変わらない声音が、届いた。
「―また、な」
そう言い置いて、銀の光に身を包んだ彼は球体に―「門」に身体を突っこんだ。
「サイキ…!」
全身が消えるのとほぼ同時、「門」は溶け去るように消えて行った。
「…楓くん」
声も出ない楓に、樹が語りかけた。
「辛いなら辛いって言っていいんだぞ?大人ってのは、悩みを打ち明けてもらうために子どもを見守っているんだ」
「そんなこと、言わないでください!サ、サイキの前では絶対泣かないって決めてたけど…でもおっ!」
辛くない訳がない。悲しくない訳がない。
「それでも、笑って別れようって、決めたのに…!」
楓はついに、声を上げて泣きはじめた。
「今更、正直になったって」
涙があふれ、零れ落ちた。
「どうしようもないじゃない…!」
しかし。
「でも、私は」
それでも、この痛みを、自分は乗り越えられる…そう、感じていた。
(遠くても…身体は遠くても、心まで離れた訳じゃないから)
そう、思う。
それでこの、身体を引き裂かれるような痛みが消える訳ではないけれども、それでも。
「私は選んだ」
苦く、苦く、呟く。
「離れ離れになることを、自分で選んだ…っ!」
「泣くだけ泣いたら、前に進もう、楓くん」
樹が声に力をこめた。
「作戦は、最終段階に突入だ!」
第十一章 未来を見せる馬鹿もいる
「狭間の空間」に、銀の鷲が舞う。
そこは、宇宙空間のように「見えた」。
どこまでも続く、漆黒の空間。しかし、呼吸などは問題ないらしい。
振り向けば、「彼方の地」が、碧に茶や緑を交えた球体の形を取って浮かんでいた。
はるか先には、やはり球体の「果ての地」が見える。
「…何か、宇宙から見る地球みたいになってるわね」
楓はその光景を「見て」いた。
本人は研究所のブリーフィングルームに立ち、樹たちが見守る前で茶の球体に触れている。目を閉じたその脳裏に、どこまでも続く虚空の映像が広がっていた。
『見えますか、楓さん』
カノコの声が、「はるか遠くから」聞こえた。
『やっと、ここまで離れていても映像と声を送れるようになりました』
「ありがとう、カノコさん。おかげで私も、最後まで見届けることができるわ」
『見届けるだけじゃ困るぜ。一緒に『遺産』を起動させないといけないんだからなっ!』
サイキの声も、届いた。
―と言っても、かなり「遠く」からの感じで、時折声が乱れて聞こえてくる。
(今までは、他の職員の人が通信する時の負担を担っていたから、気づかなかったけど)
距離(…と言っていいのかは不明だが)によって通じにくくなるようだなと、楓は思った。
(おそらく、もっと『遠く』なったら)
そう考え、唇を噛みしめる。
別れの時から、一日が経過していた。
「彼方の地」に戻ったサイキたちは何はともあれしっかりと休み…気力体力共に万全を期して、サイキは「狭間の空間」に飛び立ったのであった。
「ほんとに宇宙空間みたいね。どうなっているのかな」
『ええ、これは…見やすいように、『翻訳』した映像なんです』
「『翻訳』?」
「『狭間の空間』は、本来…えーと、三次元?の視覚ではとらえきれないんですけど、わたしたちに理解できるイメージに置き換えるとこんな感じになるんです。こうしないと無駄に混乱するばかりなので』
カノコは「果ての地」で高校生していた時に学んだ知識などを参考に、イメージを組み立てたらしかった。
「そうなんだ」
常識では測れない世界を「見る」のも大変である。
『見てください。あの光が、世界を引き寄せているんです』
紅い光が虚空に走り、二つの世界をつないでいた。
「二つの世界が、近づいている…のね」
幻想的な光景だった。
紅い光に引き寄せられて、巨大な碧い球体がごく、ごくわずかずつ近づいていく…視覚ではなく、カノコの感覚を借りている楓にはそれが伝わっていた。
『ほら、見えてきたぜ。『長』だ』
ついに、紅い光条を双方の世界につないでいる男性が、見えてきた。
「―来たか」
両手から紅い光条を放っていた壮年の男性―「長」は、振り向いて大鷲を見、口を開いた。
「ここまで来たか、『銀の鷲の戦士』。『遺産』をどう使うか、選択したようだな」
「ああ。俺たちは、決めた」
『世界を、引き離すことを』
楓の声は、大鷲の中…サイキの身体が身につけた「知の遺産」を介して、「長」に届いていた。
「世界を再び引き離す選択をしたのか、お主たちは」
「そうだ。それが、俺たちが選んだ道だ」
サイキはきっぱりと答えた。
「それがどんなに辛い選択肢でも、俺たちは、その道を選ぶ」
「そのためには、我を倒さねばならんぞ」
「ああ。あんたを止めて、その上で世界を引き離す」
「二度と交流できなくなっても、か?」
『そうなったとしても、お互いを大切に思うからこそ、やろうって…決めたんです、私たちは』
「我と闘って、倒すと言うのか『鷲の戦士』。一度負けた身で」
「今度は、負けない。あんたを、止めて見せる!」
「大きな口を叩くな。できるかどうか証明して見せよ。戦士よ!」
『結局、闘うしかないんですね』
「勝った方が、自分の思いを貫く…ということだ、娘よ」
「わかりやすくて良し!やってやろーじゃん!」
「良かろう。我も片手間ではなく、相手をしようぞ」
「長」は手から放っていた光条を消し、大鷲に正対した。
「それじゃ、俺も…全力、やらせてもらおうかな」
『…サイキ?』
「う、う…うおおおおっ!」
サイキが吼え―同時に、大鷲の姿がゆっくりと変化していった。
やがて。
「狭間の空間」に立ち上がったのは―
巨大な、銀の人型の輪郭線。
揺らめく銀光で織り上げられた身体、その心臓部にサイキの姿が垣間見え、背後では巨大な翼が羽ばたいている。「遺産」が巨大化、日本刀の形になってその手に握られた。
「これが、俺の本気も本気、最強モードだ!」
『これ…あの時、一瞬だけ見た!』
「黄金のジャガー」との対決の折、一瞬大鷲の姿が人型に変わり、人間の脚がジャガーの身体を蹴り上げた、と見えた。
「あの時は一瞬しか保てなかったんだよなー」
「憑依」しながら「遺産」を使用できる、まさに最強形態だった。
「ほう…これはまた大した精神力だな」
守護精霊本来の姿を「憑依」時に変化させるのは、並大抵の気力では無理なのだ。
「この方が、闘いやすいんでな。さあ、さっさと決着つけようぜ、さっさと!」
笑みを含んだ口調で少年は叫んだ。
「それでは、我も全力で応えねばならんな」
「長」の身体からも紅い光が噴き出し、サイキのそれと同じほどの大きさの人型を取る。呼び出した両刃の剣も巨大化、手に握られた。
「もう負けない!俺は負ける訳には行かないんだっ!」
「そう思うなら、我に勝って強さを証明して見せよ!」
双方、武器を構えてにらみ合い、声が揃った。
「「行くぞ…!」」
「くっ!」
「遺産」の刃が、「長」に迫る。
「それでは、我は倒せぬ!」
紅い光を帯びた大剣が、刃に絡みつくように動いて斬撃をさばいていった。
ほんのわずかな手首の返しで―「遺産」の日本刀が描く軌道は、彼の身体からずらされた。
「無駄だ、『鷲の戦士』」
「うう、剣の腕自体はあっちが上か!あの剣にも『分ける』力が及ぼせない!」
紅い光が、「遺産」の干渉を防いでいるのだ。
「剣道の試合以来だぜ、こんな打ち合い!」
パワーと気迫で立ち向かっているが、剣技、使いこなす「力」…どれにおいても実力は「長」の方が上であるのは確かだった。
「お主は一度、我に負けた。もう、勝てないとわかっているだろう」
剣が一閃、サイキを吹き飛ばした。
「くっ…!」
背の翼がはじけて背後に流星群のように放たれ、その反動ではるか後ろに飛ばされるのだけは何とかこらえた。
「くっそー!」
そこへ。
『サ…キ…サイキッ!』
ぼろぼろのサイキに、よく知っている声が届いた。
『てめえサイキ!俺以外の誰にも負けるんじゃねえッ!』
巫の叫びが、確かに聞こえた。
「か、勝手なこと言うなー!こっちは大変だってのに!」
とは言え、彼の言いたいことははっきりわかる。
「そうだな。負けられないんだ、俺たちは!」
サイキは「遺産」の柄をぎゅっと握った。
『がんばってくださいぃ』
「ヒスイさん!」
『みんなの声、聞こえます…届けます!』
カノコが祈り、今までに闘ったり助けたりした者たちの思いを、闘うサイキのもとに送り届けた。
『『『サイキ…!』』』
「精霊の力」を使えるにしろ、縁がないにしろ…今までに出会った人々の思いが、力となって注がれる。
さまざまな色の光が、「遺産」の刀に絡みついて揺らめいた。
「負けられねえ!」
『サイキ!がんばって、お願い!』
楓も叫ぶ。
「それが、お主の力か」
「長」の剣からも、さまざまな「精霊の力」が揺らめき立ち昇っていた。
「ならば、こちらもそれを超える力をもってねじ伏せるのみ!」
「やろうぜ。お互い、これっきりの勝負だ!」
お互いに、譲れないものがある。
だから、闘う。
「「勝った方が、思いを貫くのみ…!」」
十数合、打ち合って。
剣技で圧倒され、何度吹き飛ばされても…サイキは、挑み続けた。その瞳からは、闘志が失われない。
「何故だ!何故折れない!絶望、しない!」
「長」が吼えた。-彼の瞳に、あるのは。
「何故、こうまでして我の前に立ちはだかる!」
「負けるもんか!過去しか見てない、あんたなんかに!今も未来も見ようとしないで、昔ばっかり振り返ってる奴になんてな!」
「遺産」の刀を握りしめ、サイキも吼えた。
「悪いが、あんたの絶望になんてつき合っていられない!俺たちは、前に進む!」
『そう!どんな未来になるとしても、私たちはそこに向かって自分の足で歩いて行くの!』
楓の声も、重なった。
「お主らも、離れ離れになるのだぞ!」
「『それでも!』」
二人の声が、揃った。
「『お互いが共にある未来を、望むんだ!』」
激しく、刃をふるいながら叫ぶ。
「『絶対に絶望なんて、するもんか!』」
その言葉に、応えるように。
「『これ…っ!』」
日本刀の形の「遺産」から、眩い輝きが噴き上がった。橙がかった黄金の輝きが、サイキの白銀の光と混じり合って揺らめく。
『絶望しない…確かに聞いたぞ、若者たちよ!その言葉に応えよう、我が存在を賭けて!』
蒼白い輝きも、また立ち昇っていた。女性の声が響く。
『『知の遺産』もまた、真の力を解放せん!受け取れ、『鷲の戦士』よ!』
橙と蒼白い光が、融合して白熱した輝きを放った。
『『今こそ、その真の力を!』』
「ありがとう!勝って、みせるさ!」
光をまとって、斬りかかった。
「虚仮脅しが!打ち砕いて、くれようぞ!」
「『長』。―あんたも一緒に、未来に行こう。どんなに辛い未来でも、それでも俺たちは、未来を選ぶ!」
『過去を取り戻すんじゃない、未来を手にするの、私たちは!』
楓の叫びが、「遺産」を介して虚空に響いた。
「それは、未来を有する者の台詞だ…!」
「『それでも!あなたにも、未来を見てほしいんだ!』」
再び、刀を構える。
「未来だと!未来など、我に何をもたらすと言うのだ!」
「長」は絶叫し、大剣を振り下ろした。
その、時。
サイキは、「遺産」の刀を手の中から消した。
大剣が、光で形作られた身体を。
「う、ぐ…あああああ!」
深々と、切り裂いていた。
『サイキ!?』
楓が思わず声を上げるが、生身の身体が斬られたのではなさそうだった。しかし、「精霊の力」が打ち砕かれかねないほどの大ダメージなのは確かだ。
切り口から、銀の光が血飛沫のように噴き出す。
「あああああ!」
(…?何か、違う…?)
その叫びに―楓は苦痛というより、サイキの決意の色を感じ取ったのだ。
血飛沫に見えた、光は。
『…!これ、羽毛だ!』
銀色の羽毛が、斬られた跡から噴き出していたのだ。
しかも、羽毛ははじけて消えない。
きらきら輝く奔流となって舞い、「長」の身体に降り注いで…絡みついた。
「身体、が!」
羽毛が、全身を絡め取っていた。彼の動きが完全に封じられた。
「馬鹿な…こんなことが!」
「馬鹿は、呼ばれつけてるんでな!」
サイキは「遺産」を再び呼び出し…白熱した輝きを放つ、巨大な槍の形を取らせた。「憑依」の巨人でも身長ほどもある、槍に。
背中の翼が、ジェットの噴出口のごとく銀の光を噴く。
「これで…終わりだ!」
槍を構えて、銀の光で加速し、突進した。紅い人型を、まっすぐに貫いた。
「うお、お、あああああ…っ!」
紅に銀を交えた光が、はじけ飛んだ。あまりの眩さに、しばらく何も見えなくなる。
光の奔流が消えた虚空に、漂って…動かなくなったのは。
「…『長』、あんたか」
『死なせちゃったの?』
「いや、『本体』には傷をつけていないはずだ」
サイキは「憑依」を解き、背に翼を生やすだけにして「長」に近づいた。背に手を回し、抱き起こす体勢になる。
「だ、大丈夫か?怪我をさせるつもりじゃ、なかったんだ」
「…見、事だ」
薄く目を開けた「長」は、言葉を絞り出した。
「斬らせておいて、動きを封じるとはな。得物を消すとは、思わなかったぞ」
「ああでもしないと、あんたに届かなかったからな」
サイキはそう答えて、彼の手を取った。
「俺は無意識に『遺産』に頼った闘い方をしていた。それを、巫の奴との闘いで痛感したんだ。強い武器に頼った闘い方じゃ勝てないと。武器としているものを捨てて、えーと、『肉を切らせて骨を断つ』だっけ、そういう闘い方でないと刃を届かせることもできないって」
「その覚悟、確かに…我に、届いたぞ」
「こうでもしないと、あんたを止められないと思ったからさ」
『そう、止めたかったんです…って?ちょっと、サイキ!』
「ど、どうした?ああっ!」
「長」の身体に…ひびが、入っている。
「元々、復活を想定しての封印では、なかったからな」
ひびは次第に大きくなり、身体の末端からさらさらと崩れて行った。
「もう…限界なのだよ」
『あなたがそう長くは生きられないんじゃないかとは、感じていました』
楓が「知の遺産」を介して、言葉を届けた。
「察していたか、賢き娘よ」
『おかしいと思ったんです。急ぎすぎだって。焦っているように刺客を送りこんでくるから』
「その通りだ。『精霊の力』を使えば使うほど、身体は崩壊していく。それは、わかっていた」
「そんな!?」
「妄執に凝り固まった亡霊は、消えていく時だ」
手が、足が…ぼろぼろと、崩れていく。サイキが握っていた左手も、その手の中で砂のように崩れて行った。
「は…はは。そうか、未来に行くのか。過去に囚われ、未来を見ようとしなかった者には、勝ち目はなかったか。はは…」
力ない笑いが、虚空に響いた。
「届いたぞ。その思いは、確かに、我に届いた」
『『長』…さん』
「さあ、行け。お主たちが望む未来を…どんなに辛かろうと選び取る未来を、見せてみろ。過去の亡霊は、その成長を喜びながら消えよう。…さらばだ、『彼方の地の勇者』、『果ての地の賢者』よ」
その言葉を残して。
「長」の身体は粉々に砕け散り、「狭間の空間」に消えて行った。
『サイキ…っ』
「さーて、やることやらないとなっ!」
思いを振り払うように、サイキは二つの「遺産」を掲げ、叫んだ。
「『力の遺産』に我、サイキが願う!二つの世界を引き離さんことを!我が名において、真の力を解放したまえ!」
『『知の遺産』の担い手、楓の名において願う!二つの世界を引き離さんことを!』
楓も担い手として呼びかけた。「知の遺産」の表面に、輝く文字列が浮かび上がる。
『サイキ!今!』
「わかった!」
サイキは、橙の輝きを放つ「力の遺産」と、蒼白く輝く「知の遺産」を、触れ合わせた。二つは融合し、虹色をひそめた白銀の輝きがあふれた。
「これで、一気に引き離せるぞ!」
もはや接近しすぎた二つの世界を引き離すには、一気に力をかけて急激に引き離すしかなかった。…引き戻すのが不可能に近いのは、覚悟の上で。
「動き出した…!」
二つの碧い球体―世界が、離れていく光景が楓の目の奥に映った。次第に加速がつき、「距離」がどんどん離れて行くのが、楓の感覚でも把握できた。
二つの「遺産」を持つサイキの存在が、遠ざかっていくのがわかる。
「じゃあ、楓。また、な」
昨日聞いた言葉を、また口にして。
サイキは、「彼方の地」に向かって舞い上がった。遠ざかる…楓から。
『サイキ…!』
碧く輝く「彼方の地」が遠くなっていき―
ぶつり、と何かが切れた感覚があり、頭の中の映像がふっと消えた。
「うっ…!」
衝撃が走り、楓はたまらず膝をつく。
「だ、大丈夫か楓くん」
目を開けると、ブリーフィングルームと…自分を支えようとして失敗している樹の姿があった。心配そうにこちらを見つめている。
「あ、はい。起こったことを説明します」
自分がそう言う声が、ひどく遠く感じられた。
涙は、出ない。目は乾ききっていた。
天野あやめ、森宮鹿乃子、ユーリ・サラマンデルの三人は「急な転校」という扱いで舞鳥学園からいなくなった処理をされた。
英語教師海原樹も、「大学に戻った」という名目ですぐに学園を後にした。
一年C組の教室からは、二組の机と椅子が運び出された。
一度に四人も学園から消えた人がいたという事態は噂になったが、それも段々と薄れて行った。
楓は、一人残された。
由布子などはいろいろ詮索してきたが、全て適当にごまかした。
野本は察しているようだったが、そちらにも何も言えず。
そのうちに冬が過ぎ去っていき―三学期が終わって、岡谷楓は二年生に進級した。
時は、四月。
帰省から戻った楓は、新一年生の入学式と自分たちの始業式の後…一人、校舎の裏手に来ていた。
冬の間中、ここには来ていない。来るのが、怖かったのだ。
見上げれば、桜がほころびかけている。
「暖冬だったもんね。去年は入学式に霙降ってたのに」
呟いても、反応して返してくれる人は誰もいない。
気の早い鳥が蜜を吸って捨てたらしく、時折丸ごとの花が地面に落ちていた。
そんな花をよけながら、一本の桜の根元に近づく。
「…どう、かな」
期待しすぎて、失望するのも怖いけど…それでも確かめたくて、楓は木の根元に目をやった。
落ちつこうとしながら、土の地面をくまなく見ていく…と。
「これ…!」
小さな、小さな、芽が土の中から伸び上がり、葉を精一杯広げていた。
場所も、葉の形も、間違いない。
「サイキ…芽が、出たよ」
黒土に、ぽたりと水滴が落ちた。
「二人で植えた、種から」
水滴は―涙は、ぽたりぽたりと落ちて若芽に降りかかる。
「忘れないから」
小さな楓の芽の前に、膝をつき。
「忘れないから…!」
楓は顔を覆い、思い切り涙を流した。
泣くだけ、泣いて。
楓は、立ち上がる。
「負けてられない…よね、サイキ」
自分に言い聞かせるように、呟いて…一度芽に視線をやって、彼女はそこから歩み去った。
「今日より明日、より良い自分であるために…!」
最終章 それでもやっぱり馬鹿は馬鹿
―東京の、ある学生街。楓は二年後、そこにいた。誰も隣にいないが、呟く。
「とうとう、ここに…来られ、たね」
この一角にある大学に、無事現役合格したのだ。
下宿を決め、通学路を確認すべく明日から通う大学に向かっているところだった。
大通りをはさんで、古本屋や食堂が並んでいる。この辺りには大学が複数存在するので、学生が(安く)利用できる店がやたらと多いのだ。
「いずれ、奨学金も返さないとね」
まあそれは大学を卒業してからの話だが。
「アルバイトもしないと。バイト先、探さないとね」
上京しての学生生活、決して楽ではないのだ。
「…浅沼教授のゼミ、入れるかなあ」
楓は、リュックの中のノート一束を揺すり上げた。
今までの、古代文字についての自分なりの研究成果が、そこには書きこまれている。
「研究…した、もんね」
受験勉強をしながら、並行して調べ続けた結果だ。浅沼教授にもメールなどで問い合わせ、時には教授がうろたえるような質問をして思索を深めて行った。
で、楓は去年度教授が移籍し、古代文字の講座を設けた大学に入ってさらに研究を続けようとしているのだった。
「…未練かな、私の」
ほろ苦く、呟く。
「それでも、つながっていたかったから、少しでも」
離れ離れになること、二度と会えないことは覚悟したが…すべて断ち切り、忘れることはしなかった。浅沼教授はもちろん、海原樹ともいまだに連絡は取り合っている。…最近、古代文字関係の問い合わせがやたらと多いのは何故だろうな、とも思うが。
「とにかく、新しい生活がはじまるんだ」
二年の歳月を経た、まだ小さな苗は学園に置いてきた。
(あの苗は、私の高校生活そのもの)
持ってくることもできたが、あえて残してきた。
「いつか、大きく育った木の陰を、後輩たちが歩けたら…いいな」
そう呟いて、目指す大学の正門に目をやり…楓は、立ち止まった。
石造りの門柱に…一人の少年、いや成長してもう青年が、もたれて立っている。
身長百九十センチはあるだろう。来慣れなさそうなスーツに身を包んでいた。
波打つ黒髪を、首の後ろで一つにくくって背中に流している。
日焼けした肌は、あまり日本人にはない赤みを帯びていた。
見覚えがあり―同時に見慣れない。
彼はこちらを見て、にこっと笑った。
そう―
思い出の中に眠る顔を、そのまま小さくしたような笑顔で。
「…サイキ?」
声が、震える。
「サイキなの…?」
「…二年ぶりだな、楓。会いたかったぜ」
少し、たくましくなった気はするが。笑顔も、まなざしも、変わってはいなかった。その笑顔のままで、続ける。
「長かったぜ。やっと、こっちの世界に来られた…大変だったぜ、ほんと」
「…でも!二つの世界は、引き離されて…もう、行き来できなくなったんじゃなかったの?」
「『元の状態に戻すのは不可能に近い』であって、『不可能』じゃなかっただろ?だから…確かにものすっごく大変だったけど、みんなでがんばってさ。何とかもとに近い『距離』まで二つの世界を近づけたんだよ。二年もかかっちまったけどー」
「そんな!?もう会えないってことを、必死で覚悟して、受け入れて、それで」
「だから、『あきらめるな』って言っただろ?」
にこっと笑って青年は返す。
「それだけで一年以上かかったけど『彼方の地』をがんばって、動かしてさ」
軽く言っているが、どれほどの「がんばり」であったかは、想像を絶した。
「やっと通信可能なところまで持ってこられたから、樹さんたちに呼びかけて。そこからもまた苦労して、ようやっと行き来ができるようにこぎつけたんだ。今、『遺産』はロープみたいな形にして、二つの世界をつないでる。つっかい棒の意味もあるんだけどね」
「そんな…!」
「『知の遺産』も、古代文字を入力して活用したりもしたぜ。樹さんも、浅沼教授も古文書を必死で研究して、協力してくれたんだ。楓のとこにも、何か来ただろ?あの手助けがなかったら、俺たちだけじゃここまでうまく行かなかったかもしれないなー」
「…!それで、樹さんが!」
今にして思えば、質問の内容は…何で気づかなかったと反省するが、さすがに予想の外だった。
「いろいろ大変だったんだぜー。『暦の精霊の地』に飛んで、『猿の書記』さんにも解読を手伝ってもらったりして。でもあのじーさん、あの地の文字はエキスパートだったけど古代文字についてはよく知らんかったな」
「でも…どうして、そのことを樹さん、私には教えてくれなかったの?」
「ぬか喜びさせたくなかったんじゃないかな。うまく行かない可能性も充分あったし。先に知らせておいて駄目だったら、一番傷つくの楓だってみんな、わかってるし」
言われてみればそうかも、と思う。まあ、男性特有のサプライズ好きもある気がしたが。
「やーっとこっちの世界に来られて、また『擬体』に入って今ここにいるって訳さ」
「でも、その身体は一体」
「ああ」
彼は自分の身体を見回して、笑った。
「やっと、こっちでも『男』のまんまで動き回れるようになったぜ。ほんとに助かったよ、良かったー」
「じゃあ、あの『あやめ』の身体は…?も、もしかして」
恐ろしい想像をしてしまい、膝から力が抜けた。さっと彼が手を出し支えてくれる。
「?同じ身体だぜー、今も」
「は?だって、性別変わってるじゃない!」
「うん、樹さんの部下の人たちが研究続けてて、『黒の組織』が作った性別変えちまった薬から、逆に『男の身体に戻れる』薬を開発してくれてたんだ。元々遺伝子レベルでは『擬体』だって男のまんまだったしさ。無事戻れたんだ」
「そう…なんだ」
「だから、今の俺は…言ってみれば、天野彩輝だな。もう『天野彩女』じゃない。彩輝って呼んでくれ、楓」
青年―彩輝は、晴れ晴れと笑った。
(『彩女』…『あやめ』って、それでだったんだ)
まあそれはともかく。
「サイキなんだ、本当に」
そうなると、話したいことが山ほどある。
「あの後、みんなどうしてるの?とりあえずは『守護精霊の地』に緊急避難してもらったけど」
「うん、いろいろだよ。『仮面の精霊の地』経由で帰った奴も多いし」
「そうなの」
「帰るのあきらめて、こっちで暮らしてる奴も多いけどな」
「…そうだ!ユーリ先輩は?帰れたの?」
「いや、その…」
珍しく(そもそも二年ぶりな訳だが)彼が口ごもった。
「…実は、先輩は…帰らなくていいって言ってる。『鹿族』に入るんだってさ」
「えっ?」
「今は、『鹿族』が住んでる森の近くに家建てて、便利屋みたく働いてる。認められたら、その、えーと、何だ…婿入りするんだってさ」
「む、婿入り!?あ!も、もしかして、カノコさん…と」
「…うん」
二人して赤面したりする。
「エリーは?帰ったの?」
「いや、さすがに『仮面の精霊の地』からも遠すぎるってんであきらめたらしくて、ぶーぶー言いながらいろんな部族に貸し出されて畑作りとかやらされてる。ってもあいつのことだから、自分の手は使わずに鞭で叩いて畝を作るぐらいだけどな。で、あの『胸』につられて野郎どもが大勢群がってるんだけど、まだナンパ男とあいつの言う『しもべ』の区別がつかないらしくってな、あちこちで揉めてるらしいぞ」
「ふーん、まあ彼女らしいかもね。で、巫は?」
ある意味一番気になっていた名前を出す。
「…がんばってるよ。『改心した』って必死にアピールしてる。俺にまで愛想いいのは正直気持ち悪いけどな。目を見ればやっぱりライバルだと思ってるのは丸わかりだし。…でもまあ、この分だと近いうちに、こっちに来られるんじゃねーの?監視つきにしろ」
「うん、まあ、監視はどうだっていいんじゃないかな、あの二人には」
自分たちとある意味「同じ」辛さを味わった二人が、幸せになることを願う。
「そのうち、ユーリ先輩やカノコたちも会いに来るよ、楓」
「うん」
じわじわと喜びが、心を浸していく。
「でも…クラスメイトのみんなに会うのは、できそうにないわね。もう『あやめ』じゃないんだし。野本くんは問題ないと思うけど、他の人たちはねえ…懐かしがってたけど、みんなで」
「うう、そりゃつまんないなー。俺もみんなに会いたいよ。何とかごまかせないかな。その時だけスカートはいて」
「ごまかせる訳ないでしょう!あなた今の自分の恰好わかって言ってるの!」
身長百九十センチ、肩幅も胸板も見事なものなのである。
「馬鹿。本当に、いつまで経っても、馬鹿…っ」
「へへへー、また楓に『馬鹿』って言われたー」
「何喜んでるのよっ!」
まあ、こちらも…嬉しくはある、が。
「で、サイキ…天野彩輝、か。あなた、この姿でこっちにいて、何するの?」
「うん、大学生になるよ。楓と同じでさ」
「ええ?大学生?」
「んー、ここの隣の体育大学に推薦が決まったんだ。樹さんがいろいろ裏で手を回してくれてさー」
高校生を一年もしていないのに大学入学…明らかに「裏」だが、そもそも舞鳥学園に入った時だって同じことなので、もう何をかいわんやである。
「相変わらずね、樹さんも」
彼らしいのは確かだが。
「言っとくけど、体育大学だって言ったって普通の授業もあるのよ?机に向かって勉強しないといけないんだから。二年もブランクあるのに大丈夫?今度は自力でやりなさいよね!」
「ちぇー」
「『ちぇー』じゃ…な…っ」
二年前と変わらぬやり取りをしようとして。不意に、涙があふれた。
「おいおい、泣くなよー楓」
「うん、わかってる。嬉しいのに、変だね…ぐしっ」
涙をぬぐう楓に、彩輝はにっこり笑って手を差し伸べた。
「これから、何だってできるぜ。やっていこう、俺たちで。二人なら、何でもできるよ。二年間開いちゃったけど、これからいろいろやって世界を変えて行こうぜ」
「…でも!その分、いろいろトラブルあるだろうし。大変だと思うけどなあ」
「大丈夫だよ、俺たちなら。きっと」
ちょっと心配になる楓に、彩輝は満面の笑みで応えた。
「楓だって、俺に会いたかったんだろ。樹さんに聞いたぜ。ずっと一人で古代文字について研究してたって。受験勉強だってしてるのに、他に古文書の解読とかして…それって、俺たちとつながっていたい、ほんとはあきらめてなんていないってことだろ」
「それは、その」
「あきらめなかった、楓の願い…その中に、俺のいる場所は、あるか?」
「サイキ…っ」
「あると思ってたけど…違う、のか?」
「…わない」
「え?」
「違わないよ!そうだよ!ずっと一緒にいたい…よ!」
涙をぽろぽろこぼしながら、腕の中に飛びこむ。
「な、泣くなよー楓。俺がいじめてるみたいじゃないかー」
「だって…!ほんとに、ほんとにサイキだ。サイキなんだ!」
二年前とはいろいろと、違うけど。
「前は女同士だったしなー」
「向こうじゃ肩に乗るサイズだったしね」
それはまあともかく。
「会いたかった!会いたかったよ、サイキ!」
「うん、俺も会いたかったよ。ほんとに会いたくて…がんばったよ」
強く、抱きしめられた。
「おい、あいつら」
…ここは学生街、大学の正門。当然大勢人がいる。
抱き合う二人に、周囲からやんやの歓声が浴びせられた。
「よっ!お二人さん!」「ひゅーひゅー」「若いっていいなあ」「おのれリア充!」「爆発しろ!」
…若干喝采でないものも混ざっている気がするが、まあいい。
とにかく、まわりの注目を集めまくっていることに気づいて楓は赤面した。しかし、この腕の中から出たいか…と考えると、まだいいかなと感じている自分に気づく。
「これからは一緒だぜ、楓。通う学校は違うけど隣だし。一緒に、生きて行こう。時々離れることもあるだろうけど、それでもきっと、俺たちは『共にある』から、さ」
「でも…私、サイキにそこまで言ってもらって、いいの?」
「へ?」
きょとんとする彩輝に、楓はさらに問いかける。
「そこまで言ってもらう理由が、思いつかなくて。どうして?」
「え、あ、ん…そっか。ちゃんと、言ってなかったよな、俺」
大きく呼吸して、覚悟を決め…彩輝は、楓をまっすぐに見て、言った。
「だって、俺は楓のこと、好きだもん」
「…!」
「好きだよ。愛してるよ、楓…」
「サイキ…」
衝撃を受けて見上げる楓に、彼は笑顔を引っこめて顔を覗きこんだ。
「何だよ、気づいてなかったのか?楓は頭がいいから、俺の気持ちなんて言わなくてもわかってるかなーって思ってたんだけど」
「言わなきゃわかんないことだってあるわよ!全くもう、やっぱ馬鹿…!」
また泣きそうになる少女を、力強い腕が抱きしめた。
「楓はどうなんだ?俺のことは…どう思ってる?」
今度は楓が黙り…やっと呼吸を整えて、言葉を絞り出した。
「…好き、だよ、サイキ。愛してる。ずっと前から」
「楓…っ」
「大好きだよ!悔しいけど、好きで好きでしょうがない…よ!」
やっと、思いが通じ合った二人は…ギャラリーがわくわくして見守る中、はじめてのキスを交わした。
「これから、一緒なんだね。大変なことは変わらないけど、一緒にやっていくんだね」
「ああ。樹さんたちもいろいろ研究してるらしいし。もしかしたら、大きい『擬体』を造って、そこに楓の心を入れることだって、できるかもしれないぜ。そしたらもっともっと一緒にいられるかもだしな」
「いずれは『彼方の地」のこと、公表することにも…なるのかな」
「公表するかもしれない。しないかもしれない。…でも」
彼の手が、ぐいと彼女を引き寄せた。
「それは、俺たちがこれから決めていくことなんだ」
「まだまだ、問題発生起こると思うけどね、二つの世界を巡って」
「うん。多分、一番大変で、一番無茶苦茶な道を、俺たちは選んだんだよ」
一つの世界に戻すより、あのまま交流を断つより、困難な未来を。
「でもその方が、挑戦し甲斐があるだろ?俺はその方がいいなー」
「変わってないわね、そういうところ」
「大変だし、辛いだろうけど。それでも、やろうって決めたんだ。楓と一緒にいるために。辛くてもしんどくても、やろうって」
「うん。どんなことになっても、二人でいるなら大丈夫だよね」
「いつか、もっと世界を見よう、楓」
「…サイ、キ」
「この広い広い世界、いっぱい見よう。俺たちには翼があるんだから。行こう、今じゃないけど」
これから、二人は。学生生活をしながら、二つの世界をめぐる課題に立ち向かって、解決していくのだ。
「でもサイキ、入るのは体育大学だよね?その髪、まずくない?『丸坊主にしろ』とか、言われたりして」
「えー、切っちまうのやだなー。この髪は男のステータスだよ。俺の故郷には丸坊主の習慣なんてないしー」
「あなた絶対『体育会系』のノリをなめてるわよ」
そんな他愛もない話をしながら、二人で歩いていく。
二人の前に、今無限の未来が広がっていた。
END