感動、驚愕、恐怖、そして決意。
手の中には小さなチョコレートが1つ。
俺はちゃんとした食料がなくても生きていける体になったんだし、貴重な食料は彼女が食べるべきだろう。
「助けたことなら外の情報で十分だ。貴重な食料はとっとけよ」
「いいって、しばらく休ませてもらうんだし。拾った物だから遠慮すんなよ」
受け取る気がないと言いたげに、彼女は向こうを向いてしまう。
と思ったらいきなり振り向き、
「まさか、食い物より体がいいのか?」
「10年早いわ馬鹿野郎」
俺はそんな趣味じゃない。……? あれ? 今何か、頭の中に引っかかったような……
「……おい、急に黙り込むなよ。まさか本当に変態なのか?」
「……そんな不安そうな顔するなら、冗談でも下手なこと言うなっての。心配するなよ。いくら健康な高校生とはいえ、小学生に欲情するわけないだろうが」
「そ、そっか」
自分でそういう話にしておきながら、俺が否定してホッとしているようだ。
「ったく。俺は情報とこのチョコを貰う。それで貸し借りなしな」
「おう。遠慮せず貰っとけ」
では早速……
「んっ!?」
ビニールの梱包を解いて、口に放り込んだ瞬間。
濃厚な甘みが口の中に広がり、ほのかなミルクの香りが鼻を抜ける。
少し前までは特に珍しくもない、ごく普通のチョコレートのはず。
だけど、舌から脳、そして全身に染み渡るように伝わる甘さ。うまみ。そして力?
これまでにない快感と衝撃が、爆発したような感覚……
「い……おい!」
「えっ? あ、何?」
「何? じゃねぇよ、急に泣き出して……話しかけても反応しねぇし、まさかアレルギーとかあったのか?」
言われて気づいた。本当に、俺の目から涙が出ている。
なんで? いや、原因は明らかだ。たった今、口にしたチョコレート。
その残り香だけでも感動の余韻に浸れそうだ。
「心配ないよ。アレルギーはないから。ただ久しぶりに食べて美味かったってだけで」
「……貴重にはなったけど、たかがチョコで泣くって、兄ちゃん普段何食ってんだよ」
「あっ」
おそらく彼女はなにげなく、思ったことを口にしたんだろう。
だけど、俺にはその言葉が心のどこかに、ピッタリはまったような気がした。
こういうことを“腑に落ちる”というのかもしれない。
スライム化ができるようになって以来、俺は一度も口を使って食事をしていない。
ちゃんとした食料もなかったし、その辺の埃や水を吸収すれば十分に生きられる。
だからそもそも、“食事をしよう”と思うことすらなくなっていた。
それに、俺がこれまで生きるために吸収してきた物の中には、腐った生ゴミもある。
吸収を行う際、味覚的には何も感じない。対象の美味い不味いは関係ない。
だとしても、自分の体に取り込むのに、忌避感や不快感までなくなるものだろうか?
先ほど、光が冗談を言った時もだ。
俺は小学生に欲情するような趣味を持っていない。
だけど、自分でも言ったが健康な高校生でもあるつもりだ。
平和だった頃は、友達とその手の話をしたり、その手の情報媒体に興味を持っていた。
もちろん1人で賢者になったこともある。
モンスターが現れてからは、そういう話を口にするのは憚られたし、行動もなかった。
とはいっても、それは自制と我慢をしているだけで、そういう欲が消えたわけではない。
……それを、今の今まで忘れていた。
食欲、性欲、そして睡眠欲も。
三大欲求と呼ばれるそれは、人間として持っていて当然。
そして人間が命を繋いでいくために重要な感情。
それらを忘れていたと再認識した瞬間、背中に冷たいものを差し込まれた気がした。
「なぁ、兄ちゃん、本当に大丈夫なのか? 顔青いけど」
「あ。ああ」
再び声をかけてきた彼女に返事をした。
しかし、出た声は無理に絞り出したようだと自分でも思ってしまった。
「大丈夫じゃないだろ! 体調悪いなら横になるかなんかしろよ! ほら、これ貸してやるから」
彼女はそう言って、脱いだジャケットを丸めて枕のようにする。
気づけば先ほどよりも肉体的な距離は近づき、警戒心を感じない。
……本当に心配してくれているんだな。
その気持ちをありがたい、と思うと同時に不安が薄れ、自分に対する情けなさも感じる。
何をやってんだ俺は。
気遣うつもりで、逆に気をつかわれてるじゃないか。
そもそもステータスに目覚め、手に入れたのは異端者とスライム化、ついでに卑怯者。
どれも生きるためには役立つが、人の輪に入るにはデメリットになりそうなものばかり。
それは分かっていたことなのだから、デメリットが1つか2つ増えたに過ぎない。
いや、1人で生きることを考えれば、デメリットにもならない事だ。
デメリットと思ってしまったのは、俺が人間であるということに固執しているから。
そして、人間であるということに固執する人間だからじゃないか?
あらゆる物事にこだわらなければ、それらに伴う苦痛もない。
人が苦痛を感じるのは多くのものにこだわりを持つからこそ。
かの有名な……ぱっと名前が思い出せないけど、とりあえず有名な人もこう言っている。
“我思う、故に我あり”と。
……よし、立ち直った。
「兄ちゃん?」
「おし! もう大丈夫だ!」
「うわっ! 何だよ急に! てか寝なくていいのかよ」
「ごめんごめん。ちょっとよくない事を思い出したっていうか、暗い気分になってたんだ」
「あ……そっか。こんなことになっちゃったし、俺も突然泣き出す大人とか何度も見てるし、変なことじゃないぜ。気にすんなよ」
トラウマと勘違いされてる気がするが、問題ないな。
「でも俺はこれでも水泳選手だったからな。スポーツ選手はフィジカルもだけどメンタルも重要。だからそこそこ立ち直りは早いのさ! 心配してくれてありがとうな」
「別に。本当に大丈夫ならいいし」
彼女はそっぽを向いて、先ほどまでいた位置に戻っていく。
それを確認してから立ち上がり、扉の方へ。
「どうしたんだ? また急に」
「ちょっと出かけてくるよ。食料探して持ってくる」
「は!? 今は危ないだろ!」
「食料の場所は見当がついてるし、八木さんが帰るにも、飲まず食わずの体じゃ辛いし危ないだろ。今ここには何もないし」
「そりゃ、そうかもしれないけど」
「大丈夫だよ。無茶をする気もないし、1ヶ月以上ここで暮らしてるんだから。そこの袋に入ってる漫画でも読んでゆっくりしてるといいよ」
「……分かった。ちゃんと戻ってこいよ」
もちろんだと返事をして、外に出る。
「やるべきことは決まったな」
八木光。彼女を親元まで送り届けよう。
少し悩んだけれど、一度は助けようとしたのだから、今更放り出すのは無責任ではないか?
今の状況下では仕方ないと言い訳もできるけど、それをやっちゃ人間としてどうなのか?
肉体的にはもうわからないけれど、せめて精神的には胸を張れる人間でいようと思う。
何よりあの子はこんな状況でも、人を気遣える良い子だと思う。
彼女には家族と生きて欲しい。そう思っている自分がいる。
あちらのコミュニティに入る気はないが、彼女を送り届けて、何があったかを証言する。
それだけなら所属する必要はないはず。
そうと決まれば、準備が必要だ。時間は多くない。その中で、できる限りの事をしよう。