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前編
9/14

act.8

 涼風の緑地アストラ。フリージアの領土のおよそ半分程の面積の、小さな島国である。今でこそ観光に訪れる者が多いが、長い歴史の中では、海を渡ってここへ辿り着く者は数少なく、また、この地に生まれ育った者の多くは、一度も外へ出た事はない。故にアストラの民は独自の文化を築き上げてきた。

 サジャもその一人だ。所変われば信ずるものが唯一ではないのを、未だ真実として受け止められずにいる。彼女にとっては、否、アストラの民にとっては、この地に降りなす“天神様”は絶対神なのだ。

 彼女は正直なところ、神を恐れていた。決して口にはしないが、初めてその姿を見た時から、彼の者への恐怖が拭えない。その時の事は、今でも鮮明に思い返せる。


 --王の間は、地下の冷え込んだ空気の中にあった。遥か過去に鼓動を失った人間を、アストラは讃えている。包帯で全身を巻かれた、王の骸だ。彼がその玉座に腰を下ろしてから何年が経過しているのか、サジャにもわからない。ただ、アストラの歴史上、王はその人たった一人だという。

 サジャを含めた十数人の代表が、玉座を中央にして円を描くように佇んでいる。彼らは片膝をつき、両の掌を合わせて、眼を閉じる。天神様の光来を請う儀式だ。言霊に呼ばれた天神様は、王の遺体に宿るのだ。

 王は、ゆっくりと頭を上げた。首を回し、その眼窩で十数人の民の姿を凝視していた。サジャと視線が合ったところで首の動きが止まった。総て吸い込んでしまいそうな闇色をしたその穴が、サジャを前にして一層暗く淀んでいた。

 選ばれた。どうして私が--とサジャは思わず落胆の表情を浮かべてしまった。それがアストラの掟である事は幼い頃から伝えられていた。もし自分が選ばれたとしても動揺はしない、とずっと昔から覚悟を決めていた。しかしサジャは拒んだ。


「今はまだ駄目です。待って頂けませんか」


 彼女は天神様に懇願した。無礼を承知で立ち上がった。少し膨れたお腹に手を添えて、言った。


「私の身は捧げます。しかし、せめてこの子が生まれるまで、どうか......」


 集まった民はサジャを責めた。天神様に拒絶の意を示した者は今までにいなかったからだ。

 王の唇が開く事は無かった。だが、その場の誰も聞いた事の無い声色が響き、全員が息を飲んだ。


「暫しの時を与えよう。いずれこの地の理を揺るがす者がやって来る。それまでその命は預けておいてやる」


 --あれからもう十数年が経った。王の間には、サジャはしばらく足を踏み入れていない。このままの時が続けば良いと願ってしまったので、王の姿を見てしまっては、それが無駄なことなのだと改めて認めてしまうと思ったからだ。

 だが、昨日ノーアは言っていた。“理を揺るがす者”が、もうじき現れるのだと。王の予言の日が近付いているのだと。

 それはまるで、彼女から別れを告げられたような気分だった。


「ノーア......」


 愛する娘の名を呟く。あと僅かな時間を残して、彼女と永遠に会えなくなってしまう。十数年の間に忘れかけていた運命への抗いの気持ちが、再びサジャを苦しめる事になったのだ。


* * *


 旅の人間に言わせれば、アストラは常春の地である。木々を覆う緑色は褪せる事無く、枯れ落ちる事も無い。一年中どの時期に訪れても変わらない、過ごしやすい気候なのだという。

 極寒のフリージアからさほど離れていない土地であるにも関わらず、気候が大幅に異なるのだ。理由としては、アストラのイースダインに在す紋章の影響が大きい。此処にはギラの紋章の力が色濃く現れている。

 生命の維持に欠かせない緑色の紋章、ギラ。ターニャがその身に宿す紋章の一つでもある。彼女が生まれ持ったその紋章の力は、自身のみならず他者をも癒す事が出来る。命さえ守られていれば、どんな傷をも完治させる。


 今、アストラの中心部カルーヌを目前にして倒れたエニシスを、山道の比較的安全な地帯で休ませている。カルーヌに到着するまでは歩かせるべきだとファンネルは急いたが、ターニャは道中で傷を負った彼の治療にあたったのだ。


「私の、せいだな......」


 ユシライヤが自らを責めていた。ここまでの道のりで何度か魔獣に出くわしたが、エニシスの負傷は、戦闘中に彼がユシライヤを庇った為のものだった。


「ユシャ、大丈夫か?」


 無意識的に紋章術を行使したあの時から口数の少なくなっていたエルスだが、船を降りてからはいつもの彼を取り戻したかのようだった。

 むしろ、その頃からはユシライヤの様子がいつもと違っていた。どこか遠くを見つめるようにぼんやりとした目で、声を掛けてもまともな返事が返ってこなかった。普段なら先導をきるユシライヤだが、ターニャに譲るかのように、自身は後を付いて来るような形をとった。魔獣との戦闘でもなかなか前に出られず、剣を握ったまま立ち竦んでいたりもした。目前に迫る敵に気付かなかったのか、後方に居たエニシスに庇われたことで攻撃をようやく避けられた。普段の戦闘では冷静である彼女が、らしくないのだ。


「ユシライヤさん、きっとお疲れなのでしょう。エニシスなら私が治しますから、大丈夫ですよ」


 横たわったエニシスの顔は、術者に委ねて安心しきっているかのように見えた。ターニャがユシライヤに休息を促すと、彼女は頷き、木々の陰へと隠れるように、一人歩いていった。

 心配を寄せるエルスの横で、ユシライヤの姿が完全に見えなくなったのを確認した後、ターニャが言った。


「エルスさん、申し訳ありませんでした」

「......え?」


 エルスには何の事だか判らなかった。


「貴方たちを、私たちの都合に巻き込んでしまいました。結果、貴方の辛そうな表情を、変わっていく貴方を......ユシライヤさんはきっと、見ていられないんだと思います。私たちは、貴方たちの日常を壊してしまった」


 それはターニャがずっと気に掛けていた事だ。オルゼとユリエの紋章。本来ならば、人間に宿してはならず、ミルティスで管理保管すべきもの。それらがエルスに宿ってから、彼の中で様々なものが崩れ落ちた事だろう。今までの認識が偽りであったかのように。現在のエルスの状況は、ガーディアンらの失態が招いたとも言えるのだ。


「謝ることじゃないよ。王都のことはターニャたちのせいじゃないし、でもターニャは頑張ってくれてるんだから」


 それでもまだ、エルスは立ち上がっていられる。彼女が、道を示すと言ってくれたから。ターニャだけではない。翻弄されるエルスに、ユシライヤもエニシスも、黙って付いて来てくれる。孤独ではないと伝えてくれる。


「はい。貴方を紋章の束縛から救い出すのは勿論ですが、それだけではありません。必ず、以前のような貴方たちを取り戻させます」


 ターニャは笑顔で宣言した。本気でそう信じているのだ。しかし、


「あいつはまた余計な責任感を......どうにもならない事にまで干渉するなと、何度言えば良いのか」


 木陰で丸くなっている獣型のファンネルは、呆れたかのような、諦めたかのような視線を、彼女に向ける他なかった。


 暖風が葉を踊らせ、鳥が木々につられて歌うように囀る。疲れが溜まっていたという訳ではないが、正直ターニャの気遣いは有り難かった。今のユシライヤには、優しげな自然の諧調すらも煩わしく思えた。

 仲間から離れたところで、木陰に隠れるようにして、苦しむ胸を押さえる。幼い頃から耐えてきた苦痛だが、ここ最近は発作の頻度が高い。悟られまいとしてきたが、もう限界だろうか。武器に手を掛ける。震えた手では、思うように剣を握れなかった。このような身体で、エルスの護衛はおろか、今後彼らとの同行が許されるのか。


『エルスさん、私はそんな貴方に道を示していきたい。もし貴方がそれを拒否しようと、私は手助けをしたい......それが、本当の意味で、貴方を護るという事だと思ったんです』


 何故だか、ターニャがそう言ったのがふと蘇ってきた。ユシライヤは彼女の決意を目の当たりにした瞬間、言いようの無い衝撃を受けたのだった。それは、自分には考えられない覚悟だったから。


「私には......出来ない」


 身体が弱っているせいか、心までもが脆くなっている。


「もし、エルス様に不要とされたら......拒まれてしまったら、私は--」

「ユシライヤさん」


 背後からの呼び掛けに、言葉を途切れさせて振り返る。


「ごめんなさい。ターニャさんは止めたんですけど、気になって来てしまいました」


 それはエニシスだった。顔色からは、先程までの創傷に苦しむ様子は見られない。


「もう大丈夫なのか」

「はい。ターニャさんのお陰で」

「......そうか。彼女はやっぱり凄いな」

「ユシライヤさんこそ、大丈夫なんですか? 以前も同じように苦しんでいましたよね」


 エニシスには感付かれているだろうと思っていた。ミルティスでアシュアに傷を看てもらっていた時、彼も側に付いていた。エルスにも知られていない背中の証を、あの時エニシスには見せたのだった。


「それって......レデの紋章が、不完全だからなんですか?」


 彼女に宿る紋章を目にした時は、自分と同じだとエニシスも思った。だがエニシスは、ユシライヤのような発作に襲われた事はない。だから疑問だった。

 ユシライヤもそれを悟った為に、今まで言わずにいた。彼と自分が、同じではないという証明になってしまうと思ったから。


「......ああ」


 躊躇いがちに、ユシライヤはついに認めた。これでは、エニシスの苦悩をより深くしてしまう。彼に近付いたつもりが、遠ざかってしまった。

 後悔したはずなのに、また過去と同じ経験をしてしまうのか。何故、自分は周囲と同じ歩幅で歩けないのか。共に居たいと思えた人物とすらも。

 だが、その後に少年が浮かべた表情は、ユシライヤの想定とは少し違っていた。


「それを、ずっと一人で抱えてきたんですね」


 そう言ったエニシスは、そっとユシライヤの手をとる。


「僕なんかが言ったところで、何にもならないかもしれません。でも、あなたが前に言ってくれた言葉は嬉しかった。だから僕も--」


 その先は、風に掻き消されてしまう程の小声だったか、そもそも言えなかったのか。


「……何?」


 ユシライヤが聞き返した。だがエニシスは首を振って、


「……戻りましょう。エルスさんもとても心配していました」


 とだけ言った。


 二人が戻ると、仲間は確かに安心した顔を見せてくれた。苦痛は一時的に消え去っていた。だが依然として、彼の紋章の正体も、彼女が痛みから逃れる術も、自らが導き出すべき答えも、わからないままだ。


* * *


 随分と標高の高い所まで来たが、それでもやはり快適な気温を保っている。草花は生き生きと芽吹き、野生の動物の声が響いている。そんな自然豊かな場所に、大人の身長を超える高さがある木製の柵が立ち並んでいる。扉らしき物も設置してあり、その先がカルーヌの村である事が判った。

 一行がその中へ一歩踏み入れれば、周囲の視線は一斉に彼らに集中し、あっという間にエルスらは十数人の村人に囲まれてしまった。決して、取り押さえようとかそんな意図は無いだろう、その者たちは輝きに満ちた瞳で関心を向けてきている。だが、急に押し寄せてきた人々に圧倒されてしまうのも事実だ。

 その時、身動きの取れないエルスたちから人々を退けたのは、村の奥から歩いてきた男性の一声だった。


「皆の者。御使い様がお困りであろう」


 男性は隣に女性を連れていた。村人が道を開けるように二手に分かれ、二人はエルスらと対面した。


「ご無礼を詫びさせて下さい。申し遅れましたが、私はこのカルーヌの長を務めておりますニクスです」

「私はその妻、サジャと申します」


 ニクスとサジャは地に片膝をつけ、両の拳を胸の前で合わせ、一礼した。それがアストラでは初対面の人物に使われる挨拶のようだ。エルスは同じようにするべきか、とあたふたしたが、夫婦は笑って立ち上がり、そのままで良いように言った。


「アストラの地へ、ようこそおいで下さいました。我々は御使いターニャ様と、お連れ様を歓迎致します。まずはごゆっくりお休み下さい。サジャ、案内をして差し上げろ」


 サジャは頷いて、宿への道まで彼女が先行してくれる事になった。


 道中、エルスは故郷とはまったく雰囲気の異なるアストラを堪能するかのように、あちこちを見渡していた。地上は石畳などが敷かれておらず草地のままで、人が歩いたところが道となっている。製材されていない樹木の幹が、そのまま組み上げられて建てられた家屋。所々に佇んでいる、柱状の木の彫刻。目を奪われるものばかりだったが、一番にエルスの興味を引いたのは人々だった。

 カルーヌの人間は皆、褐色の肌に黒曜の髪を持っている。エルスは王都で騎士ロアールを初めて見た時、彼の黒色の髪は珍しいと思っていたのだが、此処の者の目には、自分たちの方が類い稀なものに映るのかもしれない。


「みんな、僕たちを不思議に思ってるのかな」

「それだけではありません。私たちは御使い様に期待を向けているのです」


 エルスの呟きに、サジャが答えた。すると、


「あの……先程から気になっていたのですが、御使いとは私の事なのでしょうか」


 おそらく自身に対してのものであろう、聞き慣れない単語を聞き流していたターニャだったが、ここでようやく疑問を呈した。


「それに、まるで私達が此処へ訪れるのを事前に判っていたかのようですよね。私、まだ名乗ってもいなかったのに」


 そう、ニクスは初めて顔を見せたターニャの名前を、その場で言い当てたのだった。


「ああ、それは……驚かせてしまって申し訳ありません。ここカルーヌには、予言の出来る者がいるんです」


 予言。サジャの回答を耳にして不快になったのはファンネルだ。獣の姿でなければ、あからさまに態度で示してしまっていただろう。そもそも、ガーディアンの行動が他の者によって多くの人間に知れ渡っている事態が、あるまじき事なのだ。


「では、私が何故ここへ訪れたかも、皆さんご存知だという事ですね」

「……ええ」


 御使いへの返答に、今まで笑顔を崩さなかったサジャの表情が曇った。


「あー! サジャずるーい! 御使い様と楽しそうに話してるー!」


 案内を忘れ、いつの間にか立ち止まってしまっていたサジャの元に、駆け寄ってくる者がいた。


「……ノーア」


 サジャにそう呼ばれたのは、歳の頃は十代前半と思われる、この地では初めて目にする亜麻色の髪の少女だ。


「もー、どうしてニクスもサジャも、約束守ってくれないの? 御使い様が来たらノーアに教えて、って言ったのに!」


 頬を膨らませながら、ノーアが抗議する。しかし、ターニャの姿を改めて確認すれば、すぐに表情を綻ばせて彼女へと近付いた。


「ノーアが宿まで案内する! 良いよねサジャ」

「え、ええ……すぐ近くだし」


 そうと決まると、ノーアは嬉しそうに飛び跳ね、戸惑うターニャの手を引っ張った。


「えへへ、御使い様、とっても良い香りがするの! 海の匂い、草の匂い。不思議な香りなの」


 少女が示したのは、偶然にもターニャの宿す紋章、ルビとギラの色を象徴しているものだった。エルスは思わずその匂いを確かめたくなった。ターニャに近付くも、本人の拒絶よりも先にノーアに阻まれてしまった。


「宿までは御使い様はノーア専用だよー!」


 と、ターニャの意思とは関係なく、ノーアは『御使い様』の隣を占領した。少し遅れて続く三人と一匹は、呆気にとられたままで。


「す、すごい……。あいつがいると、ターニャが全然しゃべれない」

「他人事のように言って。まるで最初にターニャさんを見た時の、貴方みたいですよ」


 前を歩く二人の背中を見て、エルスとその護衛騎士はそんな事を思った。


* * *


 カルーヌの夜はとても静かだ。日中、あんなに賑やかだった生命のすべてが、休息を得る時間なのだ。

 他の仲間も寝静まった頃。ターニャはずっと訝しげであったファンネルと、陰に身を落とすようにして言葉を交わしていた。

 予言とは真実に存在するのか。それとも事情を知る何者かが伝達したのか。この旅の発端はミルティスの者にしか伝わっていないはずだ。しかし、ガーディアンがファンネルの許可を得ずしてまで他に広める理由も、それに応ずる利益も見付からない。敢えて挙げるならば、未だ音沙汰の無い、一人の女性のガーディアンがファンネルの意志に逆らいそうではあるが。


「……そういえば、マスターは今、何をしているのでしょうか」

「リナゼか。相変わらず一切の連絡も無いな」

「まだ信じられません。何故マスターが、私の元を離れてしまったのかが」

「お前の、ではない。ガーディアンそのものが、自分の運命が、あいつには受け入れられなかっただけだ。……それはともかくとしてだ。リナゼには俺たちの現在の動向が伝わってはいない。この村との関わりは無いだろう」


 そう、ターニャに呼応術を教えたガーディアンであるリナゼは、百年もの間ミルティスに姿を現していない。エルスに紋章が宿った事実すらも、彼女は知り得ない。


「それに、あいつとお前との契約は断たれている。誰とも繋がらないあいつには大した事は出来ん。何を考えていようが脅威にはならんだろう。現に警戒すべきは、リナゼよりもあの黒装束だ」


 ユリエ教。アストラへの船路を阻んだ術師は、それに属する者だとファンネルは見ている。彼はその教団に旧友の存在があった事を知ったばかりだ。ゼノンが何を企んでいたのかは解らない。知らないという事が、何よりも恐ろしい。


「まあ、そのゼノンも紋章に喰われた。主導者を失った集団に何が出来るかと言えば、底は知れているがな。俺が居るんだ。何より、こちらには適格な紋章の宿主が居る。警戒はしても、恐れる事はない」


 ファンネルはそう言うと、欠伸をして身体を丸めてしまった。彼はユリエ教に関しても脅威とは考えていないようだった。彼が同行しているなら、ターニャにとってもそれ以上の助力は無いだろう。だが、


「あの、創始者様。もしも……」


 ターニャに過ぎった不安は、ファンネルの耳に届かなかった。よほど疲労が溜まっていたのか、彼は寝息をたてていた。


 ゼノンは紋章に心身を奪われた。それならば、その紋章を宿しているエルスだって、現在その可能性は決して皆無ではない。急がなければ、彼も同じように--


 一行がカルーヌで初めて迎えた朝。身支度を終え宿から出た四人を待ち構えていたのは、昨日の少女だ。


「おっそーい、御使い様とその他もろもろー! ノーアずーっと待ってたんだよー」


 覚醒しきらない寝起きの脳に響くような声。その場で飛び跳ねたり、身体をくねらせたりして意思を主張するノーアの姿は、穏やかな空気とはどうも一致しない。

 アストラの地にとっては--否、ノーアにとっては、ターニャは特別だ。彼女以外を『その他』で済ませてしまう。その扱いに不服そうなファンネルが、いつノーアに飛び掛かっていくだろうか。


「あ、あのね、ノーア。ずっと思っていたんだけど、その呼び方でないと駄目なの?」


 ターニャ自身も、カルーヌの人間にそう呼ばれる理由が解らない。だから自分には不相応な気がするのだ。


「御使い様はイヤなの?」

「ええと……何だかくすぐったくて。ターニャで良いんだよ」

「そうなの? えへへ、じゃあターニャ! 嬉しいなー」


 ノーアは感情がそのまま表情や行動に出る性格らしい。ターニャ、ターニャと連呼しながら、彼女の周りをくるくると動き回る。


「ターニャ、今日はね、踊りで使う衣装を見に行くの! みんなにも、一緒に選んでほしいの!」


 ノーアの提案には、ターニャは頷くことは出来なかった。彼女らがアストラへ足を運んだ理由は、観光や遊びなどではない。身体を休めたらすぐにでもイースダインへ向かうつもりだった。そもそも予言か何かで、それが伝わっているのではなかったのか。


「ノーア、私たちは--」

「知ってるよー。だから、その為に必要な儀式があって、その時の踊りに使うの」


 少女はターニャを遮った。まるで彼女の次の言葉を知っていたかのように。

 だが、イースダインとガーディアンの契約にそのような儀式が本当に必要なのか、ターニャには解らない。ファンネルにもだ。実際、フリージアでは石版に祈りを捧げれば成功した。やはりこの村の認識には食い違いがあるのだろうか。


「アストラはね、ちょっと特別なの。ほらほら、早く行こー!」


 またしても、先を予測するかのようなノーアの返答。その為だろうか、ターニャは彼女に引かれる腕を振りほどけないまま、言われるがままに、彼女が示す道の上をなぞり行く事しか出来なかった。


* * *


 ノーアに案内されたのは、店ではなく民家だった。一行の来訪を扉の鈴が報せると、朗らかな笑顔で迎えてくれたのはサジャだった。彼女は用件を判っていたようで、ノーアらの姿を確認すると、すぐに奥から幾つかの衣装を持ち出してきた。


「御使い様のお好きなお色が判らなかったので、何枚かご用意しました。どうぞお選び下さい」

「私の、好きな?」


 赤、青、黄--その他にも数種類の衣装は、そのすべてに鮮やかな刺繍が施されている。植物や動物、大地と大空、自然の豊かさが表現されているようだ。この日の為にサジャが縫った物だ。それらを一挙に目の前に差し出されて、ターニャは困惑した。


「ノーア、踊りの儀式って……」

「うん。ターニャが踊るんだよー!」

「私が!?」


 ノーアが踊るのだと思っていた。ターニャは思わずファンネルに助けを請うような視線を送るが、獣は興味も無さそうに、外方を向いてしまうだけだった。

 踊るとは何か。音楽に合わせて身体を動かすという事は解るが、その位の知識があるだけで彼女自身の経験ではなく、想像すら出来ない。

 唖然とするターニャに対して、


「ノーアがずっと一緒にいるんだから、大丈夫だよー!」


 と笑う少女からは、ほんの僅かな陰りさえも感じさせなかった。


 衣装を選び終えて家を出れば、次の瞬間にはターニャはノーアに腕を引かれ、何処かへと行ってしまった。儀式が始まるのは、夜を迎える第三リフの刻だという。それまでの間、踊りの練習をするらしい。

 二人の姿が見えなくなってから、ユシライヤが口を開いた。


「サジャさん。あの子が予言者ですね」


 サジャは黙したまま頷く。予言--という言葉を耳にすると、彼女はどこか悲しみのこもった面持ちになる。


「ノーアは、天神様--アストラの信仰する神から生まれました。その時、神の予言の力を受け継いだのです」

「神さまから生まれるのか!?」


 一行が同じく抱いた驚きは、エルスによって言葉になる。ノーアは肌や髪の色が少し周りと異なるくらいで、普通の少女に見える。“天神様”がどういったものかわからないが、親が人間ではないという状況が、エルスには想像がつかない。


「特別な存在のあの子は、ずっと孤独なんです。でも、いつもあんなに明るく振る舞って……。私も、勇気を貰えるんです」


 サジャはそう言っていた。


 ベルダートとフリージアでは異なる文化が築き上げられていたが、ここアストラではまた違った衝撃がエルスらを待ち望んでいた。その場に足を踏み入れる事で初めて知り得るものは、多く存在するのだ。


 夜まではだいぶ時間がある。一行は、それぞれ自由行動をとることにした。普段なら「無駄な時間だ」と憤りを見せるファンネルだが、真偽を見極める時間に充てると言い、単独で動き始めた。

 エルスは「この村のすみっこからすみっこまで、見て歩こうよ!」と駆け出した。そんな彼の背中を追おうとして、ユシライヤとエニシスは互いに顔を見合わせて笑った。最初の頃の彼が、戻ってきてくれた気がしたのだった。


* * *


 カルーヌの空が闇色に染まった。満天の星と満月は、ベルダートで見るよりも少しだけ近くにあるように感じる。天に願いを届けるには、この場所からが良いのかもしれない。


 天幕からターニャが姿を現す。彼女が纏うは、決めあぐねていた彼女の代わりにエルスが選んだものだ。夜に映える白色の装衣。首の後ろで左右に分けられて編まれた長髪は、胸の上で一つに束ねられている。手首や足首の装飾には鈴が付いていた。彼女が舞えば、それぞれの音色が夜を彩るだろう。


「ほら、僕の言った通りじゃん! ターニャにはその服が似合うよ!」

「そうなのですか? 自分ではよく判らなくて」


 ターニャは今まで服装に気を遣うという事がなかった。その必要が無かったからだ。それでも、エルスが褒めてくれるので、悪い気分にはならない。


「うん。ターニャすごくキレイだよ!」


 恥ずかしさのあまり、縮こまってしまいたくなる。彼女は今、不思議な気持ちだ。普段と違う召し物を身に付けただけなのに、心までをも着飾ったかのような。


「解っているな、ターニャ。警戒は怠るなよ」


 ファンネルの一言によって、ターニャは姿勢を正した。彼女は何よりも第一に、使命を果たす事を考えなければならない。その為には、いつだって現実を見据えなければならない。美しさに潜む穢れを、探し当てるかのように。


「創始者様。予言について、何かわかりましたか」

「……いいや。今のところ、リナゼやユリエ教が関わっていそうな様子も見えないな」

「そうですか……」


 本当に、天神様とやらは、ノーアを生み予言をも生むのか。その正体が判らないまま、儀式の時間が訪れてしまった。


「あー! ターニャ、すっごく似合ってるー!」


 そう言いながら駆け寄ってきたのは、言わずもがなノーアだ。彼女は腰あたりまである長い髪を両の耳の上で二つに括っており、偶然にも--いや、彼女にしてみれば必然なのかもしれないが--ターニャとは正反対の黒色の衣装を纏っていた。


「準備できたみたいだから、村の真ん中に行こー! たっくさん、美味しいもの用意してるからね!」


 サジャが孤独だと言ったその少女は、そうは見えない程に笑顔を振りまき、またしてもターニャの手を引き、駆け出していった。


 太鼓、笛、鈴などの旋律と律動が、規則正しく刻まれるのが聴こえてくる。軽快な楽の音に吸い込まれるようにして、ノーアとターニャそしてエルスらは、村の中心へと辿り着いた。


 集まっていた人々は、待ち望んでいた御使いの登場に歓喜の声を上げ、道を開いた。一行の目の前には木製の食卓があり、既にその上には豪華な食事が並べられている。椅子と食器は四人分と、一匹用の小さなものまで用意されていた。

 ノーアに促されるままに着席する。そこから見えるのは、どうやら儀式の舞台となる場所だ。大きな円の形に土が盛り上げられており、周囲には六本の燭台が立てられている。絢爛な衣装の女性が数人、その上で踊りを披露していた。彼女たちを見ながら、ターニャは同じように出来るのかと不安げな顔をしたが、ファンネルの視線が突き刺さるのがわかると、危惧すべきは別のことにある、と意識を改めた。


 ノーアはいつの間にか何処かへ行ってしまっていた。ターニャとファンネルは食事にまったく手を付けていなかったが、料理は次々と運ばれてくる。エルスが美味しいと言って食べるので、続いてエニシスとユシライヤも手を伸ばし、瞬く間に料理が減っていくのだ。


「お前ら、もっと警戒心というものをだな……」


 その様子を呆れた目で見ながら、ファンネルが言う。


「それは充分、貴方が持っているようなので。何かあったら今は貴方に任せます。私は空腹に耐えられない」

「これ……食べたことない味で、美味しいです」


 ユシライヤとエニシスの言葉に、エルスも嬉しそうに頷く。


「それに、こういうふうに食べるのひさしぶりなんだもん。なんかさ、城のこと思い出して、帰りたくなっちゃうな」


 彼がそう呟くと、二人の手が止まった。その間も音楽と踊りは続いていたが、まるでその場だけ、瞬間的に静寂が訪れたかのようだった。


「あ……ご、ごめん!」


 エルスは咄嗟に謝ると、


「えっと……たくさん食べたから、踊りに混じってきちゃおっかなー!」


 そう言って席を立ち、中央の舞台へと駆けていってしまった。仲間たちはそれを追うことは出来ず、背中を見つめたまま。

 沈黙を破ったのはターニャだった。


「ノーアが言っていたんです。ノーアは一人だけど、御使い様が来たから平気なんだ--って。私、ノーアを見ていてずっとエルスさんと重ねていました。寂しいはずなのに、何故……あんな風に笑える事が出来るんでしょうか」


 それは、誰も答える事の出来ない問い掛けだった。


 結局、その後エルスは何もせずに食卓へ戻って来た。「アストラの民以外で、この場所に立ち入る事が出来るのは御使い様だけです」と言われたらしい。それ以降、彼らの食の手は進まなかった。

 ちょうどその時、食事を終えただろうと頃合いを見て、ノーアがやって来た。


「ほらほらターニャ! ノーアたちの出番だよっ!」


 ノーアがターニャを連れて舞台へ上がると、一斉に拍手が起き、楽器隊の奏でる曲調が変わった。まるで彼ら自身の心の高鳴りを表すかのような。

 対して、ターニャは緊張と不安とで、胸が押し潰されそうだ。村人も、エルスたちも、視線を彼女ただ一人に集めている。見かねたノーアが、ターニャに耳打ちした。


「大丈夫。空を見てターニャ。ターニャが知ってる場所、落ち着く場所を思い出して。そしたら目を閉じて、お祈りするの」


 言われた通り、ターニャは空を見上げた。丸い月。黒色に染まった、終わりの見えない空間に、白く煌めく星が無数に浮かんでいる。どこか懐かしい光景。ミルティスで見る景色に似ているのだ。

 ターニャは静かに目を閉じた。その瞼の裏に、映像が映し出される。紋章を求め歩いた日々。エルスと出会ってからここまでの道のりを、思い返した。

 そして、再び彼女の双眸に夜空が戻って来た。そこはミルティスではない。彼女が様々な思いを浮かべた場所だ。


 ターニャが、ノーアの手をとった。


 蝋燭に灯された微かな六つの炎の中心で、光と影が舞う。どれだけ近付いても、混ざり合う事のない二色。相反する存在は手を繋いだまま、まるで鏡に映った自身を見つめるかのように、互いに同じ動きをした。対称的でありながら、対照的でもある。太鼓の音は生命の鼓動にも似ている。笛の音は言葉であり感情を表す。それらに合わせて彼女らの鈴の音も響き渡った。動物や虫たちも踊りに魅入られているのか鳴き声は無く、風も止んでいる。そこにある音は太鼓と笛と鈴と、二人が大地を踏む足取りだけだ。

 そんな僅かな音すら、もはやエルスの耳には入らなくなっていた。踊りが終わったらターニャに何と声を掛けようか、考えていた。だが言葉は見つからない。


 揺れ動くままのエルスを置き去りに、儀式は転換を迎えた。二人が舞いをやめ、片膝をつき、両の掌を合わせて、眼を閉じる。周囲を見やれば、村人たちもそうしていた。何も聞いていないエルスたちだったが、見よう見まねで同じ体勢をとった。

 すると、舞台上に光の陣が描かれた。紋章術の行使の際に現れるものに似ている。瞼を閉じていても眩しく感じられたので、エルスはその光に気付いて思わず立ち上がった。中央の二人も、仲間も、村人も、次々と起立する。

 風が吹いた。獣が哮った。虫が鳴いた。すべての音が戻ってきた。まるで止まっていた生命が、その瞬間に息を吹き返したかのように。村人たちも騒然となる。けたたましい中、空だけは静かだった。その空から--否、何処からともなく声がした。


「天上に渡る呼び声により参った。我の救いを必要とする者よ。其方らの願いを聞き入れたぞ」


 重く、低く響き渡る声色。村人たちはその声を聞き、「天神様」「天神様が降臨なさった」と立て続けに歓呼する。姿は何処にも見えないが、その声の主がアストラの神だというのだ。

 声のする方向を探しながら、エルスは呆気にとられている。まさか神を降臨させる為の儀式だったとは。神は願いを聞き入れたと言った。それはやはり、自分たちの目的を知っているという事なのか。


「大地の安寧をもたらす力を、我に捧げよ。さすれば、始まりの地への扉を開かん」


 神の言辞は、光の消失と共に、それ以降は届かなかった。


 村に歓声が沸き起こった。

 男たちが数人がかりで大きな樽を担いできて、その中の液体をすくって四方に撒いた。成功を祝う酒だ。それが衣服や肌を濡らしても、村人たちは喜びの美酒に酔いしれていた。


「よかったぁ……。ほらターニャ! ちゃーんとできたでしょ?」


 ノーアが言った。ターニャは未だに胸の高鳴りを抑えられずにいた。どっと疲れが出て、その場にへたり込む。


「私……成功したの?」

「うん! 天神様が、ノーアたちの--ううん、ターニャの踊りを気に入ってくれたんだよ!」


 そこへ、エルスたちが駆けつけてきた。アストラの人間ではない彼らは、酒に濡れることを少し煩わしく思いながら。ファンネルも濡れた毛並みを整えるのに必死だ。


「ターニャ、すごくキレイだった!」


 考えに考えて、結局はそんな言葉しかエルスには浮かんでこなかった。彼女の衣装を見た時とまったく同じになってしまった。だがそんな普段通りの飾り気の無い彼の台詞が、ターニャにとっては何よりも嬉しい。


「はい。私……貴方の事を思いながら踊ったのです」

「え? 僕?」


 少しの沈黙の後、


「エニシス、ファム。あとノーア。私たちは邪魔なようだから、向こうに行っていよう」

「お……お前がファムと呼ぶな小娘! 許可していない! それに俺を粗雑に扱うな!」


 ユシライヤがファンネルの首根っこを掴んで、踵を返した。エニシスは黙ってついて行こうとする。だが、ノーアがそれを止めた。


「待ってよーみんな! 儀式、まだ終わってないよー」


 一行を引き止めたノーアは言う。


「天神様、力を捧げよって言ってたでしょ? それで初めて、イースダインへの道が開くの」


 エルスらは驚きを隠せなかった。イースダイン。その言葉が出てくるとは。ノーアはやはりこちらの目的をわかっていたのだ。尤も、そうでなければ何の意味も無い儀式に付き合わされた事になっていた訳なのだが。

 しかし、力を捧げるとは具体的に何を示しているのか。正直なところ、ターニャは踊りで頭がいっぱいになってしまっていた。勿論、イースダインとの契約の事は常に意識しているが、この先の事は想像がつかない。


「戦って実力を示せ--とかなら、わかりやすいんですけどねぇ」


 ユシライヤはどこか楽しそうである。昨日の彼女とは違う。いつもの調子が戻ってきたようだ。

 それを聞いたノーアは、伏せ目がちに笑った。


「ううん。もっと簡単なことだよ」


 アストラの民は、この日を、この時を待っていた。今宵は宴だ。村人たちの分も食事が運ばれてきて、歌や踊りも続いている。

 歓喜に包まれる村で、二人の影--ニクスとサジャは、輝かしい場所から隠れていた。この地に生を受けてから二十年。その後、天神様に選ばれてから十数年。この国を愛して生きてきた。誰かが背負わなければいけない役目が、たまたま巡ってきただけだ。二人は、眼差しを決意の色に染めた。


 月が、別れの方角に傾き始めた頃。村人たちは食事を終えたようだ。踊り子が舞いを止め、舞台から降りた。

 彼女らの代わりに、ニクスとサジャが円上に立った。東側にはニクス、西にはサジャが佇む。二人は、何やら身長ほどもある木の杖を持っている。それを天上に掲げた。蝋燭は溶けて、灯火は消えた。闇の中の僅かな光が去った。

 先程までの賑やかな空気は、息を潜めた。二人の杖は空中を舞い、円の中心に頭を垂れた。すると、地鳴りが響いて、その場所に大きな丸い穴が空いた。エルスは驚き、近付いた。見れば、どうやらその先は人が通れるようになっているらしい。下へ続く階段がある。


 静寂を切り開いたのはニクスだ。


「予言者ノーア、そして御使い様御一行。私たちに続いて下さい」


 エルスは気が引けてしまった。何が起こっているのか、これから何が起こるのかわからない状態で、見知らぬ場所へと呼ばれたのだ。しかしそんなエルスの恐れをよそに、村人たちは皆一様に、胸の前で手を合わせて、祈るように彼らを見ていた。

 ターニャを見れば、彼女はしっかりと前を見据えていた。


「貴方を救う為です。私は何も恐れません。だから、大丈夫ですよ」


 ノーアが彼女にそうしたように、ターニャはエルスに道を示すべく微笑んだ。

 初めてエルスが王都を出ると決めた時とは、まるで立場が逆になってしまったようだ。無知ゆえに世界に飛び込むことを憧れとしていたのに、無知であることを恐れるとは。


「……あの、一応言っておきますけど、自分も居ますからね」


 二人の背後から声を掛けたのはユシライヤだ。彼女は、


「まあ、邪魔かもしれませんけど」


 とすぐに付け加えた。エルスらはその言葉の真意がわからなかったが、彼女は教えてくれなかった。


 御使いの意思を確認したニクス、そしてサジャが階段を降り始めた。ノーアがそれに続く。

 そこはとても狭く一列にならなければ通れなさそうで、先頭はターニャに任せ、次にファンネル、エルスとエニシスを挟んで、ユシライヤが後方に回った。

 村人たちの視線が、望みが、彼らを突き刺すようにして、離さなかった。


 長い、長い階段だ。そこは暗く冷たい。螺旋状に続く通路を降りて行けば、空気もどんどん冷えてくる。人工的に造られた場所には、他の生き物は芽生えない。響くのは、彼らの足音だけだ。

 エルスは怖くなってきてしまった。震える肩が、恐れの為か寒さのせいかわからない。「大丈夫ですか」とエニシスが心配すると、ニクスが振り返って言った。


「申し訳ありません。あと半分ほどですので、辛抱なさって下さい」


 まだ半分もあるのか、とエルスは落胆する。見かねたユシライヤが荷物の中から簡易的な上衣を出し、彼に掛けてやった。だが、エルスの悪寒はおさまらない。彼は懸念を抱いているのだ。この先で起こる事に、嫌な予感がする。


「本当に申し訳ありません。でも、御使い様と皆さんには、見届けて頂きたいのです」


 サジャはそう言うと、静かなままよりは良いだろうと、アストラに根付く神の知識について話し始めた。


 --今向かっているのは、王の間と呼ばれる所。アストラの歴史上、たった一人の王が眠る場所。その名は今や忘れ去られ、誰もが彼を「天神様」と呼ぶ。それは、王の身体に天神様が宿るとずっと信じられてきたから。天神様は、天上の世界から我々をずっと見ておられる。天と地が互いに手を取り合い、均衡で平和な世界を保つ為に、遥か昔、天神様はアストラの大地に翠色の紋章を留まらせた。その紋章はこの地に生けるものの源となる。今、命を授かって大地を踏みしめる現実があるならば、翠の紋章に感謝せよと、天神様は仰せられた--


 神の存在に、紋章が関わっている。それはアストラだけでなくフリージアでもそうだった。二つの国は天上界という存在を受け入れている。紋章を持つ者を異端とするのは、ベルダートだけなのだろうか。

 エルスがそんな疑問を抱いているうちに、どうやら目的地に辿り着いたらしい。石段は終わりを迎え、開けた場所に出た。床は、幾何学的な模様に色分けされている。中央には大きな円形の模様があった。まるで、ターニャらが踊った舞台のような。


「この先に、王が眠っています」


 ニクスに言われて視線を奥に見やると、大きな扉があった。複雑な絵様が描かれた鉄製の開き戸。そこに明かりは無い。荘厳と言うよりは、恐ろしささえ感じさせる。扉の前には木製の台座があり、布に包まれた何かが置かれている。


「選ばれし者が参りました。我らが王に、我らが天神様に、献上の意を示します」


 ニクスが扉の先に向かって言った。その言葉を誘因とするように、文様が反応を示した。扉と床の文様は、命を注ぎ込まれたかのように光り輝いた。

 サジャは台座の物をニクスから受け取った。彼女は歩を進め、扉の前に立った。そして、布を剥ぎ取る。隠されていたのは短剣だった。


 物騒な物を目にしたエルスは、思わずサジャを止めに、彼女の肩に掴みかかった。


「ちょっと待てよ、何するつもり……」

「邪魔をしないで!」


 サジャはもの凄い剣幕で、エルスを振り切る。


「転生の儀式なの。少しずつ弱っていく翠色の紋章を維持する為に、天神様にこの身を捧げるのよ」

「それって……」


 エルスは解っていても、その先を口にしなかった。

 転生。死んでしまった者が、別の者として生まれ変わり、それを永遠と続けるというもの。サジャは転生の為に、自ら死へ歩もうとしているのだ。

 驚いたのはエルスだけではない。ここまで付いてきた仲間はみな、言葉を紡げずにいる。特に不快を露わにしたのはファンネルだ。サジャは紋章を維持する為の転生だと言った。彼にはとても真実とは思えなかった。アストラの地の伝承に嫌悪感を抱いたのだ。


「何年も……決意と葛藤を繰り返してきたわ。ようやく意思を固めて、ここまで来たの。そんな風にされたら、私はまた揺らいでしまう」


 ひび割れたサジャの決心が、雫となって彼女の頬を伝った。


 彼女とて、心から死を望んでいる訳ではないのだ。だが、選ばれたのは彼女だ。アストラがギラの紋章の恩恵を受けると同時に続いてきた儀式。これまで命を捧げた者たちの後を追う役目なのだ。


「じゃあ、生きればいいじゃん! そんなの間違ってるよ! 自分から死ににいくなんて、絶対ダメだ!」


 エルスは声を荒げる。サジャの揺らいだ気持ちが元の場所へ戻って来てくれるようにと、必死で。彼には、もっと生きて欲しかった人間がいる。だからこそ許せなかった。

 彼に続くように、ターニャが歩み出る。


「お言葉ですが、私も彼と同じ意見です。納得出来る理由が見当たりません。命を犠牲にする必要性があるとは思えません」


 そんな二人を後方から宥めに入ったのは、エルスにとって意外な人物だった。


「……ユシャ」

「無理ですよ。こんなしきたりは自分も不愉快です。でも、長年この国の人々が信じてきたものを、外から来た自分たちの都合で否定出来ますか」

「……そっか。じゃあ、ユシャはこれからどんどんアストラの人たちが死んでいっても、どうでもいいって言うんだな!」

「そうではありません!」


 言い合う二人には、エニシスは何も言えない。剣呑な雰囲気の間に、ニクスが割り入る。


「おやめ下さい。お心遣いを戴いたところ申し訳ないのですが……彼女の言うように、我々の--アストラの意思は変わりません」


 と、言い切った。続いてサジャも、


「ええ。選ばれし者の誇りを、故郷を愛するがゆえの誇りを、この国の歴史を……私たちから奪わないで下さい」


 と。彼女は覚悟を決めたようだった。

 

 人は選択を迫られた時、互いの重みを量る。たとえ他者と同じ物を受け皿に置いたとしても、天秤が傾く方向までもが同じとは限らない。エルスが命を、サジャが誇りを選んだように。

 エルスは、もう何も言えなかった。ターニャはまだ抗議しているが、エルスの耳には入らない。自分は正しい事を言ったつもりだった。それがここでは伝わらなかったのだ。


「サジャ、そろそろ。天神様を待たせてはいけない」


 愛し連れ添った妻の最期に向ける言葉にしては、端的だった。それでもサジャは頷く。二人は村人と同じように、この時を待ち望んでいた。時には溜め込んでいた想いを溢れさせ、互いに受け止め合いながら。


 サジャが改めて扉へと歩を進める。

 本当に止められないのか--エルスが唇を噛んだ、その時。今まで口を噤んでいたノーアが、サジャに声を掛けた。


「サジャ、通して。それをノーアにちょうだい」


 全員の視線が、ノーアに集中した。サジャも振り返る。彼女は再び、運命から目を背けてしまう事になった。


「ノーア……? 何を言っているの?」

「ごめんね、サジャ。ううん……お母さん。ノーア、知ってて黙ってたの」


 サジャは言葉を失った。

 

「お母さんは、自分がいなくなってもノーアが寂しい思いをしないように、ノーアは天神様から生まれたんだって、言ったんだよね」


 ノーアはすべて理解していた。母親はその場に崩れ落ちる。真実を隠す事で、かえって娘に寂しさを与えてしまっていた。「ごめんなさい」と何度も繰り返す。抑えられない思いは嗚咽に変わる。


「謝るのはノーアだよ。だって、全部知ってるんだもん」

「……何の事だ?」


 サジャは泣き崩れ、声は言葉にならない。代わりに聞き返したのはニクスだ。


「お父さん。ニエに選ばれたのは、ノーアなの」


 それが、彼女が短剣を自分に渡せと言った理由。元々、役目を背負っていたのはサジャではなく、彼女自身だと言うのだ。


「嘘よ……嘘でしょ、ノーア」


 あの時。天神様が、サジャに向けたあの眼。それは自分ではなく、お腹に宿っていたノーアを視ていたと言うのか。

 そんな訳がない。選ばれたのは自分だーーサジャはそう信じたかったが、本心では解っていた。天神様の予言をそのまま引き継ぐ少女。未来の見える少女。そんなノーアの言葉には、真実しか無いということが。


「お母さん。ノーアは生まれ変わるために行くの。ターニャと同じになれるの! そしたら、ターニャのお手伝いが出来るんだよ」


 ノーアはまるで何も恐れていないように、そう言った。

 ターニャと“同じ”になれる--それが何を意味しているか。アストラの人間に、どこまで転生の仕組について正しい理解があるかは定かではない。いや、むしろそれはガーディアンのみが知り得るべき知識なのだ。

 だがターニャはそれを聞いて、居ても立っても居られなくなった。


「ノーア、転生というのは本当は……」


 ファンネルが止めに入った事で、ターニャの言葉はそこで途切れた。でなければ、ターニャはつい話してしまうところだった。


「ターニャ。心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ。ずっと一緒にいるってノーアは言ったよ」


 それは、二人で舞台に立った時の事だ。少女は自身の運命を知りながら、ターニャにそう言っていたのだ。

 お揃いの衣装を纏う二人。しかし色調は真逆だ。ターニャは光へと留まり、ノーアは闇へ歩んで行く。


「ターニャはノーアの初めての友だち。ノーアはターニャを信じてる。だから、ターニャもノーアを信じて」


 ノーアはその言葉を残して、背を向けてしまった。

 未だに立ち上がる事の出来ないサジャが落としていた、手元の短剣を拾い上げて、求められた場所へと向かって行く。


「ノーア!」


 娘の名を叫ぶサジャ。彼女は喪心のあまり動けなくなっている。手を伸ばすも届かない。代わりにニクスが駆け出した。エルスらも続く。だが、扉の前に立ったノーアには不思議と誰一人触れられなかった。まるで、捕らえた獲物を外敵から守る為の見えない壁が、そこに存在するかのように。


 待ち望んでいた存在が目前に現れたのを歓迎するように、扉は少女に反応して口を開いた。

 ノーアは振り返る。


「これはね、ノーアだけの運命じゃないの。ノーアはみんなよりちょっと早くその時が来ただけ。でも、みんなは、長く生きてね」


 その言葉を最後に、ノーアは天神様の待つ場所へと吸い込まれていった。扉の奥にその影が完全に消えてしまうまで、彼女はずっと笑顔を絶やさなかった。扉は、堅く閉ざされた。


 文様からは光が失われ、空間を再び闇が支配する。その瞬間、壁は取り払われた。扉の向こうへと急ぐニクスとサジャ。放心し、立ち尽くすエルスたち。

 選ばれた者しか進入を許さないというその扉は、開かない。


 サジャは扉に身体を預けるようにして倒れ込んだ。


「ノーア……天神様……。どうして、どうして私じゃなかったの……」


 誰に、何処に、悲しみを向ければ良いのか。エルスが言ったように、アストラの文化そのものが間違いなのか。


 だが、天の計らいは、彼女が嘆く時間さえ許さない。

 真っ先にその危険を感知したのは、ターニャの呼応石だ。急に辺りを照らすのは、何色も混在した不可思議な眩さ。この反応には記憶がある。アストラへ来るまでの船が襲われた時のものと酷似している。


「もしかして、これは……」


 ターニャは仮定する。黒装束の仲間か何かが、この近くまで来ているという事を。

 彼女がそれを口にする前に、ニクスは石の輝きを見て、言った。


「ついに……この地の理を揺るがす者が、訪れたと言うのか……」


 彼はサジャの元へ急ぐ。その手を差し出されても、妻は立ち上がるつもりは無いようだ。


「あなた、まだノーアがここに……」

「そのノーアが言っていたのだ! 私たちは生きねばならない! その為には、ここに留まっていてはいけない。前を向くんだ」


 サジャの頬を涙が伝う。もう何度目だろうか、彼に手を引かれて歩むのは。

 予言は終わりではない。地の理を揺るがす者--その存在が目前にある限り、アストラに平穏は訪れない。ノーアの犠牲を無下にしない為にも、立ち上がらなければならないのだ。


「俺たちも急ぐぞ」


 ファンネルの言葉によって、エルスらもこの場から離れる事にした。


 扉に背を向けたターニャは、一度だけ振り返る。ノーアの朗らかな声が、聴こえた気がしたのだった。

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