act.7
「私がお前の何処を気に食わないか解るか?」
親しかったはずの叔父の声が、エルスの耳に届いた。それは闇の中で響いてきて、相手は決して顔をエルスに見せてはくれない。
「お前は今まで守られてきただけだ。お前にとってそれが当然の事だった。あまりにもその居心地に慣れ過ぎて、其処を出ようと行動をしなかった人間だ」
それは違う、とエルスは答えた。いつだって自由を望んでいて、それでも叶わなかったのは、母の規制があったからだ。従者のユシライヤだって、いつも心配をしていた。わざわざ危険を冒してまで、彼女らを悲しませる事はしたくなかった。
「そうやって、お前自身の責任を他人が被ってくれると思い込んでいる事、孤独を自由と履き違える事、そしてその自覚の無いところだ」
孤独。そんなものは望んだ覚えは無かった。たまには、一人で気持ちを整理したくなる時だって、エルスにもある。だが、彼は置き去りにされる悲しさを知っている。シェルグのあの時の言葉だって、偽りである事を望んでいる。
「お前は傲りの塊だ。見えていないものが多過ぎる。一歩だけでも、其処から抜け出してみろ。きっとお前は絶望するだけだ。その存在は、理から見放されただけだという事実に」
彼は、これ以上苦しみを味わえと言うのだろうか。見えないものを、知ろうとする度に傷付く。未来には、そんな悲しみしか待っていないのだろうか。何故、彼はそう言い切れるのか。彼との過去は今となっては羨ましい位に輝いていたのに。実はそれすらも、偽りであったのだろうか。
何かを叫んだかもしれない。エルスはそこで目を覚ました。隣の寝台では、エニシスが静かな寝息を立てている。
そこでようやく、彼自身が今居るのがシェリルの街の宿だと思い出し、ベルダートに背を向けたのを思い出した。彼はもう戻らないと決めたはずだった。だから、シェルグの言葉を真実として受け止める勇気は無く、過る思いを振り切った。
* * *
一行は、シェリルで一晩休息した後、そこから幾らか北東に進み、フリージア港で船を待っていた。待合室は旅の者で満員になっていた。なんでも、厳しい寒さのフリージアから船が出航するのは、春の訪れを待つまで、この日が最後なのだという。
エルスは初めての船旅に興奮が冷めきらない様子で、船が来るのを今か今かと待ち受けていたが、ターニャはそんな彼に違和感を抱いた。王妃の危篤を聞いた時の彼はとても見ていられない程だったが、再会して以来、以前のように笑顔を見せて、悲しみを一切表さないのが、逆に不自然に思えた。
エルスとユシライヤが王都から歩いてきたのを確認した時、ターニャは二人に詰め寄ったのだ。
『エルスさん、大丈夫でしたか!? 一度、呼応石が貴方の術に反応したのです。何があったのですか?』
しかし、エルスは決して何も起こらなかったかのように振る舞い、先を急ごうと促したのだった。ファンネルはそれに同意したし、ユシライヤも何も言わなかった。だから、ターニャもそれ以上は追求できなかったのだ。
寒空に帆を揺らし、今季最後の船が港に到着した。エルスはその姿を一番に間近で見たいと、駆け足で待合室を出ていった。呆れ顔でユシライヤが後を追い、慌ててエニシスも続いた。ターニャはすぐには追い掛けず、しばらくその様子を見ていた。
「私は……彼の事を、本当の意味で救えていると言えるのでしょうか」
独り言であったのか、それとも籠の中で丸くなるファンネルに向けて発したのか、そのターニャの問いには、答える者は誰も居なかった。
ベルダートは海に面している国であるにも関わらず、他国との干渉を望まなかったせいだろう、外交の為の港が存在しなかった。その為か、国民の大半は海を生活の一部と考える事は無かった。国外どころか城外に出た経験に乏しいエルスも、無論その例に漏れない。
大きな船体が波の上を進むのが楽しくて、甲板に出て景色を堪能していたエルスだったが、寒さに耐えきれなかったのと、気持ち悪くなってきたのとで、時間のあまり過ぎないうちに客室に戻ってきた。今は片隅の方で、毛布を掛けられて横になっている。
他の乗客は彼らに気を遣ってか、その周囲には近寄らなかった。それをある意味での好機だと受け取ったファンネルが、ようやく口を開く。もし獣が人間に通じる言葉を話すと知られたら、周りはどんな反応をしただろうか。
「これから向かうのは、アストラという大陸。ギラの紋章を司るイースダインだ」
彼の言う場所を皆に示すべく、ユシライヤが地図を開いた。アストラはフリージアの北北西に位置する緑に囲まれた地で、一年中過ごしやすい気候の国である。フリージアからは、船で数日の距離がある。
地図に示されるアストラの大陸の場所を指差しながら、ユシライヤはエルスに向けて言った。
「先はまだ長いですよ。こんな所でくたばってたら、これからは耐えきれなくなるかもしれませんよ?」
ファンネルは珍しく彼女の言い分に同意し、頷いた。
穏やかに進行していた船内に、突如、海をも穿つような轟音が鳴り響いた。船体が大きな揺れを起こし、乗客が悲鳴を上げながら一気にエルスらの居る端の方へと流れ込んできた。エルスは身体を押し出され、嫌でも目を覚まさなければならなかった。
船は波の上で不安定に揺れ、しばらくして停止した。異変を感じた乗客のうち何人かが、急いで甲板に出ていった。エルスらもそれに続いた。
彼らを待ち受けていたのは、黒色の一隻の艦と、それによって進行を妨げられているという悲観的な現実だった。
「あれは……まさか」
と、ターニャが耐えきれず恐怖を口にした。相手の正体は判らなかったが、彼女の持つ呼応石が一番に反応していたのだ。紋章術の行使によって輝きを示す石。しかし、その色彩までをはっきりと識別出来るようなものではなく、鈍い光を放ち続けるのみだった。
訝しむべき反応だ。本来、天上人や魔獣と呼ばれ恐れられるオルゼンには、六種のうち一色の特性の紋章しか持たない。例外となるのは、ミルティスで生を受けた者か、あるいは--
ターニャが考えを巡らせている猶予は無かった。相手の次の攻撃が、またしても彼女らの船を襲った。相手の詠唱は聞こえないが、おそらくそれに呼び出されて、空から球のような形状の炎が無数に降ってきた。乗客は後退し、しかし逃げ道は無く、皆が姿勢を低くし、咄嗟に腕で頭を覆った。
ファンネルが舌打ちをして、甲板の中央に移動した。彼が詠唱を紡ぐと、船の上に覆い被さるようにして、弧を描いた壁が張られた。炎の球はそれを突き抜ける事は出来ず、海へと落ちて消えていった。
思わぬ防衛に、相手は一瞬攻撃の手を休めた。しかし、それほど時間が経たないうちに、再びその唇からは別の詠唱の言語が紡ぎ出されていた。すると、静かだった海は不自然に渦を巻き、エルスらの乗る船をその中に巻き込んで、波の上を踊らせたのだ。
乗客たちの悲鳴が、黒き装衣を纏った少女の耳に心地よく響いている。その中に紛れ込んだ、狙う者の悲痛な顔を想像して、彼女は思わず笑みをこぼした。
「決して逃がさない、ユリエ様の器。絶対にあなたを捕らえる……」
自然に起こったとは思えない現象に、乗客のほとんどが身の危険を感じ甲板に出てきた。しかし、そこから脱出しようにも、荒れ狂う海の中に飛び込む訳にもいかず、揺れの激しい船上で、立ち往生した。中には、抗えずに海へ投げ出されてしまった者もいた。その者を助けようと、自ら絶望の渦へと身を預けようとする者もいた。
その事態を引き起こした少女は、甲高い笑い声を響かせながら、その様子を愛おしそうに眺めていた。
術者を抑えれば事態は収束する。ターニャが黒き船を標的として術を唱え始めるが、不安定な船上では誰もが自身の身体を支えるのに精一杯で、彼女も思うように詠唱を続けられずにいた。 ファンネルは甲板の中央で、未だ繰り返し空から呼び出される炎から船を守るための壁を維持し続けていた。
海に投げ飛ばされまい、と乗客たちが必死に耐える中、刹那、掴まるものを失ったエニシスの手が空を泳ぎ、すんでのところで彼の腕をユシライヤが掴んだ。混乱の船上に、冬の冷たい海水が次々と押し入ってきた。
「みんな死んじゃえば良いんだわ。ユリエ様の器だって、どうせ不死身だし。傷付いた者がより多ければ多いほど、あなたは完全になれるのよ……!」
ユリエの器--そう呼ばれたエルスは、正体不明の船の上に術者の姿を確認した。はっきりとは見えず、その言葉の全貌までは届かなかったが、この状況が人為的にもたらされたものだという事が判るだけで、悲しみや怒り、悔しさが込み上げ、彼の感情はそれらに支配されていった。その視線は唯一黒き船を見据えていて、そこに感情を向けようと思えば思うほど、彼は周囲の状況にも、自らに降りかかる状況にさえも、どこか隔たりを感じた。
あいつを止めないと--彼は思った--みんなは、僕のような身体じゃない。だから僕が、みんなを守らないと--と。
唯の夢だったかもしれない。それも、自分自身が思い詰めた事で、彼の言葉として脳裏に聞こえてきただけかもしれない。それでも、エルスにとっては真実だった。『お前は今まで守られてきただけだ』と、その言葉が。
何者かの咆哮が響き渡った。否、そう思われる程の鳴動だった。空が幾つかに切り裂かれていた。ターニャらがそれを確認出来たのは、海と、彼らの乗る船が安定し始めたからだ。彼らに混乱を与えていた術者の少女も、詠唱を忘れ、呆然と上空を見上げていた。
エルスが自分自身の意識を再び確認出来たのは、この瞬間だった。いつ我を忘れたのかが解らなかった。腕は未だ怒りに震えていた。周りを見るとまるで時が止まったかのように思えて、倣うように彼もまた空を見上げた。引き裂かれた複数の空間から、黒い獣のような姿が見えた。それは生きているかのように空中を舞い、標的を見付けると、まるで放たれた矢のように、一斉にそれに向かっていった。
「そんな……。どうして、ユリエ様--お父様!」
空から呼び出された魔獣は、いつの間にか数も増えていて、雨のように黒き船を打ち付けた。術者の少女は何かを叫んでいたが、彼女に向けられる慈悲は、今となっては皆無であった。黒き船は形を留める事すら最早叶わず、静かに沈んでいった。
しばらく経っても静寂が続き、一人が安堵の声を上げた。それに続くように、乗客たちは身を寄せあって、互いに無事であることを喜んだ。
空から獣が現れた時、ターニャは僅かに呼応石が反応していたのを見た。黒色の輝きの反応。あれは紛れもなく紋章術なのだった。それも、過去に見覚えがある。フリージアの聖都シェリルの大聖堂で待ち構えていた黒装束の男--ファンネルが言うには、彼の旧友ゼノン。その男の放った術と酷く似ていた。尤も、術を行使した当人は、その自覚が無いようではあったが。
「よくやった……と言うべきか。宿主、それがお前の紋章術だ」
ファンネルの言葉が、寒空に響いた。
船体への被害は簡単な修復で済む程度で、アストラへの到着までは問題が無いだろうという事だった。それはファンネルが結界を張っていてくれたお陰なのだが、恐慌に陥った船上では、黒き船を沈めた術はおろか、結界に気を向けていた乗客は居なかったらしく、事態を引き起こしたのは自然の気まぐれで、いつの間にか助かっていた、誰もがその認識でいた。黒い船の存在すら、彼らの記憶には残っていなかった。尤も、その方が余計な説明をせずに済んだと、ファンネル自身は安堵していたのだが。
安全確認の為に船が波の上に停留していると、救助隊がやって来た。海へ転落した者を捜索するも、行方がわからないか、変わり果てた姿で発見されるかだった。犠牲者の知人であろう女性が、悲痛な声を響かせた。船員と他の乗客は揃って黙祷を捧げた。エルスらもそれに倣った。のし掛かる空気は重いものだったが、長時間の航海は不可能であった為に、すぐにでも発たなければならなかった。
何故このような悲劇が起こったのか。行き場の無い懸念、恐怖、怒りは、無事生きていることの喜びを押し潰してしまうかのように、乗客たちの間に広がっていく。
「考えを巡らせるまでもなく、狙いはお前だっただろうな」
獣の姿のままのファンネルが、周囲には聞こえないようにして、エルスに言った。
「奴の言葉を聞いたか? あれはユリエを知る者だ。奴が現れた時、呼応石も不自然な反応を示している。そこらに蔓延るオルゼンとは違う。どうやら、お前がユリエとオルゼの宿主である事を知る存在が、俺たちの他にもいるらしいな」
心当たりが無いとは言えなかった。黒き紋章ユリエを神とする、ユリエ教。フレイロッドが捕らわれていたその聖堂に一行を導いた教徒モニカ。エルスがユリエをその身に宿した瞬間は、ゼノンがその場から消えたのと同等だ。教徒はゼノンを--ユリエの紋章の行方を探し求めただろう。その先でエルスという答えに容易に辿り着いたとしても、不自然ではない。もし、始めからそこにエルスらを導くことが、目的だったとしたなら--。
ユリエ教の意図するところは不明瞭だ。しかしファンネルは、然して問題にはならないと言うふうで、相手の詳細に関して、現状ではそれ以上探ろうとはしなかった。
「宿主。お前と紋章の適性も申し分ないようだ。あと僅かに安定させる事が出来れば、あの程度の奴がもし何度現れたとて、お前の相手にはならない」
紋章の適格者。望んだ訳ではなかったが、エルスにはその素質が有るのだと、彼は言ったのだ。
「……でも」
エルスは言いかけた--助からなかった人だっているじゃないか--と。しかし、それを口にする事は自分自身を、そして周囲をも責める事にも繋がった。だから堪えて、その先を別の言葉に言い換えたのだ。
「信じられないよ。あんなのが、僕が放ったものだったなんて。どうやったのかもわからないのに」
無論、それも真実ではあったのだが。
「いずれ慣れる」
とだけ、ファンネルは答えた。
その後、すぐに丸くなってしまった獣の姿を見て、彼が以前『この姿でいるうちは手を煩わせるな』と言っていた事を思い出す。もし、彼の助けが無かったら--その先の事は考えたくなかったが、これから訪れる未来に、その場合の想定が必要な時が訪れる。そんな気がしてならなかった。
気温の低下と空の暗がりが、時の経過を告げていた。
また数えきれない程に時が流れれば、いつか悲しみにも慣れるのだろうか。事実はいつか、記憶から消え去るのだろうか。
今、そして未来に、彼らが進んでいる場所は、過ぎゆくものに覆い隠された悲劇の上なのかもしれない。
* * *
仲間が寝静まったと思われる時間、エルスは一人、甲板に出て夜風を浴びた。
眠るのが怖かった。恐ろしい夢でも見てしまったら、現実との区別が付かなくなってしまいそうだったから。仲間の側に居るのが怖かった。今までの自分とは全く違う人間になってしまったようで、受け入れてくれるかが判らなくなったから。
空気は冷えたが、それが却って彼の心を落ち着かせてくれるような優しさにも感じた。
「こんな所に居たんですね。風邪をひいてしまいますよ」
今ではもう聞き慣れた声にエルスが振り向くと、そこにはいつの間にかターニャが居た。誰の足音も聞こえなかったので、驚いた。
「気温の変化は私たちにとっては平気ですけど、特に貴方は、今は休まなくてはいけませんよ」
ターニャが手を差し出す。僅かに触れられた事で、咄嗟にエルスはその手を振り払ってしまった。
「ご、ごめん。そんなつもりじゃ」
「……こんなに寒くても、貴方の手はいつも暖かいのですね」
エルスの頬が微かに染まった。
「さあ、中に入りましょう」
しかし、彼は手を握り返す事はせず、その場から離れるのを頑なに拒んだ。
「今は……一人になりたくて」
「どうしました? 悩みが有るのなら仰ってください。私では力不足でしょうか?」
「僕のことなんだ。僕が自分で、何とかしないと」
彼は意外にも強情な時がある。そういう時は決まって自ら孤独を選んでいるのだが、出会って間もないターニャには、それは未だ理解出来なかった。故に、彼を塞ぐ脆い壁を、いとも簡単に破ってしまう。
「やはり、ユシライヤさんでなければいけませんか」
エルスは言葉に詰まった。
確かに、いつだって従者は彼の力になろうとした。しかし、他の人間にそれを感じさせるまでに、自分は彼女を頼っていたのかと考えると、エルスは突然恥ずかしくなったのだ。
「そうじゃないんだ、今は誰も……」
「私は……貴方を救う為に来たのだと、言いましたね」
ベルダートの王城で、エルスの目の前に初めてターニャが現れた時の事だ。母や叔父、そして従者も、警戒するようにと日頃言っていた--どんな書物を読んでも、地上人とは分かり合えない、卑劣で暴力的な存在なのだと書かれていた--そんな“天上人”なのだと、ターニャは名乗った。しかし初めて目にするその相手に、エルスは心を許したのだった。それは、彼女の瞳が真っ直ぐで、嘘をついているようには見えなかったからだ。
今も変わらない。その双眸は透き通る海のようで、何にも侵されていない。彼女は自らに不利な状況になろうと、決して偽ろうとはせず、言葉を続ける。
「救うというのは、貴方を紋章から遠ざける事。創始者様から与えられた唯一の使命なのだと感じていました。でも今は……貴方のそんな表情を見ているのが、何だか辛いのです」
それは、ターニャ自身も、自らの口から出た言葉だとは思えなかった。
「……エルスさん。もし貴方が、ご自分を信じられない時があろうとも、貴方を救いたいと思う私の事を、信じていただけませんか?」
言い切ると、返答を待たずしてターニャは後退し、一人で戻っていった。
彼女をすぐに追えず、エルスは再び広い孤独の海の上に身を預けた。
エルスの記憶の中では、救われるという事は、暖かいもののはずだった。しかし今の彼には、どこか胸に突き刺さる言葉でもあった。
間も無く浮かび上がった疑問は、自ら得たものなのか、誰か他人に植え付けられたのか、それすら判らなかったが--いつだって自分だけが、救われる存在でいて良いのだろうか。そもそも、自分は救われるべき人間なのか--と。
翌朝。エルスは、寝付けなかった割にはいつもと同じ時間に目を覚ました。明らかに寝足りなかったが、普段通りに、まるで義務のように身体を起こした。エニシスが隣の寝台で寝ているのにももう慣れたものだ。彼にはまだ早い時間だろう、と無理に起こすことはせず、おもむろに身支度をし始める。
すると、ふと彼の脳裏に過去の記憶が映し出された。身なりを整えるのだって、初めは従者のユシライヤが付き添いでしてくれていたが、いつしか一人でしなければいけなくなった。単に甘えてばかりではいられないからだと思ったこともあったが、彼女が異性だからという理由があるのも、誰に教えられるでもなく理解していった。だからエルス自身も、今になってそれを求めようとは思わなくなったのだ。
時が経てば変わりゆくものは数知れず、そして意外にもすんなりと受け入れていたりするものも多い。それでも今のエルスには、自分を覆う霧が晴れる時が訪れるとは思えなかったが。
決まった順番で着替えを済ませていき、最後にすべき動作で、彼の手が止まった。無い。いつも寝る前には畳んだ服の下に、覆い隠すかのように置いているはずの物が。昨晩のことを思い返して、そういえば昨日に限ってそれをしなかったかもしれない、と左耳に触れた。しかしそこにもそれは無かった。
エルスは自分の寝ていた場所から寝具を引き剥がして、何度も確かめた。着ている服に紛れていないかと、再び着替え直したりもした。荷物の中もすべて調べた。昨晩からの行動を思い返しながら、一つ一つの場所を丁寧に捜した。しかし彼の捜し物は見付からないのだった。
あまりにも慌てたエルスの動きで起こしてしまったのか、いつの間にか目覚めていたエニシスが上体を起こして、ぼんやりとした目で彼を見つめていた。
「エルスさん……どうしたんですか?」
「あ、ごめん。いや……いつもしてる耳飾りが、無いなぁと思って」
エルスは片側の耳にだけ、いつも同じ耳飾りをしていた。逆十字型の銀細工。微かにではあるが、エニシスにも見覚えのある物だった。
「そうなんですか。僕も一緒に捜しますよ」
「ううん。もういいんだ」
起き上がったエニシスの心配をよそに、エルスの応えはあっさりとしたものだった。だが、
「本当に良いんですか? 僕には……そう見えませんでした」
エニシスは彼がそれを捜している様子を見ていたのだ。そう言われるともうエルスは何も返せなくなり、言われるがままに捜すのを手伝ってもらった。
しかし、二人で部屋中を捜しても何処にも見付からないまま、ついにターニャらと合流する時間になってしまった。
「ターニャさんたちにも相談しましょう」
エニシスが言った。
エルスは、もう充分だから、とその提案を拒もうとした。しかし、晴れない顔をしているのが自分よりもエニシスの方であるのに気付き、出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「……大切なものを失くしてしまって焦る気持ちは、よく解ります。僕はずっと、それでしか生きられなかったから」
エニシスの記憶は未だ戻っていない。ミルティスで自分の紋章を調べれば僅かにでも蘇るかもしれない、と一縷の望みを懸けたが、普通とは違うと言われてしまっただけだった。その事で余計に自分の正体が判らなくなってしまった。
彼の過去と、自分の捜し物。エルスはそれを同じ秤に掛けるには気が引けたが、少なくともエニシスの方はその重みを分かち合おうとしていたのだ。
「……ごめん」
自分本意だった、とエルスは咄嗟に謝った。しかし、そうされる理由の無いエニシスは首を横に振る。
「同じような苦しみを抱えている人を見て、良い気分にはなりません。だから貴方はせめて、僕よりも先に見付けてください」
それはまるで、彼が自身の失ったものを取り戻すことを諦めたかのように、エルスには聞こえた。
ターニャらと合流しようと船内を歩いていると、彼女たちの方もこちらに向かってきているのが見えた。エルスは一瞬ターニャと眼が合ったが、彼女は隠れるように視線を逸らした。
「昨晩、何か変わった事は有りましたか? 特に何も無いなら、このまま朝食に向かいますけど」
ユシライヤがいつものように訊ねる。そこでエルスが口を開こうとしないので、エニシスが前に進み出た。
「あの……実は、皆さんにも手伝ってほしい事があるんです」
* * *
エルスの失せ物についてエニシスから知らされると、ターニャらも一旦客室に戻り、部屋の隅から隅まで、各々の荷物の中も調べる事にした。しかし未だ何処にも、見当たらない。
エルスは誰よりも早く諦めたようで、途中で手を休めた。寝台に腰掛け、俯いたまま話し始める。
ベルダートで母を看取った後、自分の名が刻まれた墓石を見た事。信頼していたシェルグに刃を向けられた事。王都の民がエルスを認識していなかった事。
それを今まで口にしなかったのは、つまるところ認めたくなかったのだ。そのすべてを吐き出した後、
「……実はあれ、兄上から貰ったんだ」
エルスの告白に、瞬間的に周囲の音が止んだ。仲間の視線が、彼に集中した。
「元々、兄上が付けてて、それが凄くかっこよく見えてさ。僕にとって兄上は憧れで、でもずっと届かないところにいる人だった」
エルスは幼い頃、シェルグが居ない間を見計らって、こっそり彼の自室に入った事がある。叔父が気に入って、いつも片側にだけ提げている耳飾り。そのもう片方が棚の中に仕舞ってあるのを見付けた時、エルスはそれを勝手に持ち出してしまった。
お揃いの物が欲しかった。近くて遠い存在の彼に追い付ける為の、何かが欲しかったのだ。
「すぐにバレちゃったんだけどさ。でも兄上は怒らなかった。逆に……」
『これはリオが--父王が私たちに残した物だ。もっと早くにお前にも渡すべきだったな。私が悪かった』
と、シェルグはそのままエルスに耳飾りを譲ったのだ。
父親から--もしくは叔父から何かを譲り受けたのは、それが最初で最後だ。特にリオ王に関してはエルスが僅か二歳の時に行方知れずとなっていた為、その銀細工は彼の想像の中で、父親の像を形作る切っ掛けとなり得た。
それから歳を重ねてきたエルスにとって、それは良い思い出でもあり、記憶の中の優しい叔父自身でもあり、初めて触れた父親の温もりでもあり続けた。
母が亡くなってからは、それが唯一の故郷との繋がりであるかのようにも思えた。だから、シェルグがその耳飾りを付けなくなってしまって大分時が経った今でも、エルスはそれを大切にしてきたのだった。
「でも、もういいんだ。兄上も……他の誰も、あそこには、僕を必要としてる人はいなかったから」
つい、枷が外れて、溜め込まれていたものが滑り落ちてしまった。三人は言葉を失った。彼が手放そうとしているものの本質を知ってしまったから。
ただ一匹--獣の姿のファンネルだけは、彼の言葉に構わず、なに食わぬ顔でその場を離れた。
「……貴方のお気持ち、理解しました」
静寂を破ったのはターニャだ。彼女はそれだけ言って、ファンネルに続くかのように退室した。
「まだ、手を付けていない箇所があります」
と、再び訪れた沈黙の中、最初に手を動かしたのはエニシスだった。
朝食と言うには遅すぎる時刻となってしまった頃。結局彼らは食堂には向かわなかった。エルスはその事を詫びながら、二人を連れて甲板に出た。自然の空気を欲したというところだろうか。
幸いなことに、段々とアストラの地に近付いている為に、気候も比較的安定してきていた。暖かな陽射しが与える朗らかさは、他の余計なものが混じらない分、随分と穏やかに身に染み渡るものだ。
だが、彼らの目前に待ち受けていたのは、想定とは違っていた。
そこに居た乗客が、ある者は肘と膝を下に付けた体勢で、ある者は走り回りながら、互いに情報を交換し、辺りを見回し動き回っていた。こぞってエルスの失くし物を捜索していたのだ。
その中に紛れて、ファンネルに周囲の匂いを嗅がせながら探し回るターニャの姿もあった。彼女は仲間がようやく訪れた事に気付いて、笑顔を向けた。
しかしエルスには、そんな彼女に返せるものを、持ち合わせていないのだった。
「見付かるわけない……。だって、本当はいつ失くしたのかもわからないんだ。もしかしたらあの時、海に落ちちゃったのかも」
彼らが何故、名前すら知らない他人の為に必死になれるのか、エルスには疑問だった。それも、あんな恐怖に襲われた直後だというのに。
この船が狙われた理由が自分に有るのだとしたら、自分のせいで彼らを苦しめたのと同じなのに--。
「あれ……何年も前のやつなんだ。ボロボロになってたし。きっと、もう僕には要らない物だったんだよ」
自身にしか聞こえない程度の声量で、エルスは呟いた。
失くし物を探る人らの手が、彼の過去の記憶の欠片を、一つ一つ拾い集めてくれているかのように見えた。傷口に沁みるようで、痛かった。
エルスは目を逸らした。いっそのこと、捨ててしまった方が良いのかもしれない、今がその機会なのかもしれない--そう思いかけたのを、偽りの決意だろうと周囲に見透かされるようで、彼らを見ているのが辛かった。
「どうして……もっと早く、気付けなかったのかな」
エルスは言葉の続きを飲み込んだ。僕のほうが捨てられていた事に--と。
「お、おい! あれじゃないか!?」
乗客の一人の声で、エルスは意識をそちらに向けた。中年の男性が指差す先には、手摺にとまり羽を休める一羽の鳥がいた。他の乗客たちも彼の示す方向に視線を向けていた。その鳥は、何か光る物を嘴に咥えていたのだった。
そこまでは大人の身長三人分くらいの距離があった。もっと近くで確認しなければ、確かにそれだとは判らない。男性に言われるがままにエルスが恐る恐る近付くも、鳥は警戒して羽ばたき、既に自らのものにしてしまった宝物を放す事なく、飛び上がってしまった。
そして、為す術の無い人間たちにまるで見せびらかすかのように、上空を円を描くようにして飛び回る。男性がエニシスの持つ弓に気付いて、あの鳥を仕留める事は出来ないか、等と問うたが、エニシスは無闇に命を奪うことを躊躇った。しかし、いつまでもあの鳥がそうしている訳は無く、持ち去られてしまっては二度とエルスの手元には戻らない。
エルスはその様子を呆然と眺めていた。不思議と彼の表情に焦りは無く、ただ、上空を飛び回る鳥の姿を、見惚れるかのように見ていた。羨ましい--と彼は思った。手にしたものを自分の物だと言える事が。それを手放さず、自由に羽ばたいていける事が。
しかしその思考は、ふと途切れてしまった。
突如、鳥の自由は奪われたかのように見えた。強い風に吹き飛ばされたか、もしくは見えない壁に行く手を阻まれたか、鳥は均衡を崩し、思わぬ方向転換をせざるを得なくなっていた。左右に大きく揺れる身体を支えるのに精一杯で、遂には自ら咥えていた物を放してしまった。
「わぁっ」と、その場に居る者の声が重なった。しかし彼らの悪い想像とは裏腹に、それは丁度その下に立っていたターニャの手の平の上に落とされた。
素知らぬ顔で、ターニャはエルスへとそれを差し出す。銀色で逆十字型の耳飾り。間違いなくエルスの失くし物だった。
偶然に訪れた幸運に周囲は歓喜の声をあげていたが、エルスには判った。鳥が何かに阻まれたかのように見えたその瞬間、ターニャの足元で光の円陣が浮かび上がっていたのを見逃さなかった。決して偶然などではなく、彼女の詠唱によるものだったと。
受け取った物は、エルスが知っているよりも重く感じた。
「……ごめん」
エルスの、咄嗟に出た言葉だった。本来なら礼を述べるべきところだと後から気付いた。それでもターニャは彼に向ける笑顔を崩さず、首を横に振った。
「何かを探すには、前の見えない暗闇の中を歩かなければなりません。それは長い道程かもしれませんし、枝分かれしているかもしれません。また、これからもその機会は訪れるでしょう。エルスさん、私はそんな貴方に道を示していきたい。もし貴方がそれを拒否しようと、私は手助けをしたい......それが、本当の意味で、貴方を護るという事だと思ったんです」
つい先程まで一緒になって探しものを手伝っていた乗客達も、安堵した為か自分達の事は棚に上げ、ターニャの言い分はあまりに大袈裟だろう、と笑った。
和やかな船上で、たった数人だけが、その言葉から彼女の覚悟を垣間見たのだ。
徐々に近付く入港の合図として、汽笛が鳴らされた。アストラの大陸から流れた暖かい風が、エルスの頬を撫でた。
* * *
破壊された外壁、崩れ落ちる家屋、響き渡る悲鳴。逃げ惑う人々は、何処が此処以上に安全であるかは知らなかった為に右往左往した。備えるべきであるはずの騎士団員でさえ、混乱を未だ鎮められずにいる。実のところ、こんな平穏な場所に自分達のような人間が必要なのか、と日頃から疑っていた者も少なくはなかった。
平和に慣れていた者たちの思い過ごしだった。危険な森が近くにあるにはあったが、とにかく王都の中にさえ居れば安全だと信じきっていた。
王都ベルダートは魔獣の襲撃に遭っていたのだ。忌まわしき存在だと幼い頃から植えつけられてはいたが、そいつらが突如として大量に発生する--何も無い所からいつの間にか現れ、文字通り発生したかのようだった--とは、誰も思いもしなかったであろう。
その人々の間を縫い歩く少女が居た。ユリエ教が崩壊した事で、初めて彼女は年齢相応の普段着というものを着用するようになった。そもそも、フリージアの同盟国でありながらユリエ教に感心していないベルダートの地では、その特徴的な黒き装衣は纏わないつもりではあったが。
偶然にもこの場に居合わせた彼女--モニカは、事態を引き起こした人物を確かめなければ気が済まなかった。
王都を見晴らせる高台に辿り着いたモニカは、遂にその人物を見つけ出したのだ。
「そういえばこんな目立たない場所もあったと思って来たけど、やっぱり此処にもあいつは居ないか」
木陰に身を隠したモニカには気付かないのか、背を向けたままそう言ったのは長身の女性。寒い季節だというのに露出の高い服装で、浅黒い肌を晒している。彼女は錯綜した王都を見下ろし、残念そうに肩を落とす。そして彼女が何か呟くと同時、王都をのさばっていた魔獣の姿は一斉に消えた。
そこで初めて、女性は背後を振り返る。
「ところであんた、何者だい? そこいらの奴とは雰囲気が違うようだけど」
女性はモニカの存在に気が付いていた。それならばもう隠れる必要は無い。モニカは自ら姿を見せて、言葉を返した。
「......貴女こそ」
「探してる奴がいてねぇ。そいつが普通じゃないんで、こうでもしないと出てこないと思ったのさ」
口の軽い人だ、とモニカは思った。無論その方が都合が良い。相手の素性は明らかである。先程モニカは彼女の詠唱の様子を見ていた。やはり、此処へ来たのも無駄足ではなかった。
「ゲートを開通し、異世界の者を瞬時に喚び出す。還す事も出来る。それが呼応術。貴女、ガーディアンですね」
モニカの指摘に、女性はぴくり、と眉を動かす。
「へえ、その胸くそ悪い単語を久方ぶりに聞くことになるとはね」
「呼応術で相手を呼び寄せようと仰るならば、貴女が捜しているその人物もガーディアン......もしくは、それに関連しているという事ですね」
「見知らぬあんたに、どうして話さなきゃなんないのかねぇ」
女性は明らかに敵意を向けている。そもそも、自らがガーディアンだと言い当てられただけで不愉快なのだ。
「いえ......不覚にも、私もガーディアンならば良かったと思ってしまいました」
「へえ。あんたも似たようなもんって事かい」
モニカは一考した。ここで彼女と対峙するのは賢明ではない。姿を見せ合った以上、隠せる所はそのままに、彼女の不信感を取り除いておくべきだ。
「そうです。私が追っているのは、紋章ユリエとオルゼを宿した人物」
「......なんだって?」
「しかし、此処には居ないようですね」
そう、その事実をモニカはつい先程知ってしまった。ベルダート一帯を探し回る手間は省けたのだが、決して喜ばしい訳ではない。
妹達とは定期的に交信を取り続けているが、フリージアへ送ったパウラからの応答が途絶えていた。彼女は--消失しただろうか。予めパウラには例の紋章の宿主以外とは戦闘を交えないように伝えてあった。モニカは、彼女がフリージアの地で宿主と接触し敗れたのではないか、と推測したのだ。
宿主が此方へ向かってくる可能性は、皆無ではないが著しく低い。フリージアには港がある。もし追われているのが自分ならば、出来るだけ遠き地へ逃げようと別の大陸に渡ってしまうだろう。
「......私は彼の後を追わなければ」
既に、周辺国のイスカにはフランを、アストラにはヘレナをそれぞれ派遣してあるが、パウラの件があるので、自分も足を急がなければとモニカは思った。もし、宿主の少年が紋章を使いこなせているのならば、取り戻すのは容易ではない。
目の前のガーディアンの存在も見過ごせないが、彼女の相手は後に回せば良い。モニカは惜しい気持ちを抑えながらも、踵を返した。
しかしモニカの歩みを停止させたのは、皮肉にもそのガーディアンだった。
「ねぇ、あたしもあんたの人探しに協力させな」
背後からの提案は、さすがにモニカも予測出来なかった。一旦このまま去るつもりだった。幸いにも敵視されている訳ではないようだが、仲間意識を持たれる覚えは無い。
「......何を仰ってるんです?」
「そのままの意味さ。あんたとあたし。同じ奴を探してるようだからねぇ」
黄昏に染まるガーディアンの笑みからは、モニカは彼女の目論見など、推し量る事が出来なかった。
* * *
祝いの場にそぐわない響きで、肩で息をする騎士の口から突然の報告が入った。シェルグが初めて襲撃の事実を知らされたのは、不遇にも彼とフィオナーサの婚礼式の最中だったのだ。
参列者は皆、式を中断せざるを得ない状況に心を痛めた。そして怯えながら、即位したばかりの王に助けを求めた。
しかし当のシェルグは、
「奇しくもこの機会を見計らったような事態だ」
と、笑みを浮かべながら、その場に居合わせた者が耳を疑うような言葉を零した。
彼に忠実である騎士ロアールは、シェルグが手持ち無沙汰な利き腕を頭上に掲げて合図をすれば、すぐに彼の元へと長剣を手渡す。武器を受け取ったシェルグが駆ければ、問い掛ける事はおろか彼の意思を確認する事もせず、ただ彼の後について行く。そして、「お前らもだ」と短い言葉で、部下に指示を下すのだ。
残されたフィオナーサは、つい先程その薬指に嵌められた白金の輝きを見つめながら、訪れる未来が明るいものであるようにと、声に出さずに願った。そして彼女も、その場を後にしたのだった。
* * *
シェルグが騎士らと共に駆け付けた時には、魔獣の姿は一切見当たらなかった。だが、負傷した住人のうち重症である者も少なくはなく、その傷跡は確かに人間の持てる武器で受けたものではないように見えた。
事態に遭遇した者の話では、ほんの一瞬の出来事だったらしい。大熊に似たもの、頭部が二つある鳥のようなもの、人間の赤児ほどの大きさがある虫のようなもの、様々な種類の魔獣がいたる所から次々と現れて、建物を破壊し、人々を襲った。騒動が収束に近付いたのもまた一瞬の事だった。突然、魔獣がそれぞれ不思議な光に包まれたかと思うと、次の瞬間には一斉にその姿が消えていたと言うのだ。これを目撃したと言う人間が十数人もいるのだから、でまかせでも幻でもないだろう。
実情を把握し武器を納めたシェルグに、人々の視線が集まる。どんなに最悪な状況に置かれたとしても、重くのしかかる不安を民から振り払ってくれる。それこそが国王の言葉だと信じているからだ。
「安心しろ。我が妻フィオナーサは、母国フリージアでは名医として名を馳せていた。建造物の損壊は彼女ではどうにもならんが、命さえ守られていればどんな傷をも完治させる」
シェルグはそう告げた後、フィオナーサを怪我人の元へ連れて来るようにと騎士へ指示した。そして間を置かずに、
「次の襲撃に備えるべきだ。復旧作業にあたる者、監視をする者、魔獣に立ち向かう者、現段階では人手が圧倒的に不足している。王都内護衛の騎士を増員する為には--リオ前国王の捜索を打ち切り、未だ何一つ情報すら手にしてこない無能な者共を、全員呼び戻す」
と続けた。
これには表情を曇らせる者も多かった。中には反対を訴える者もいた。
しかしシェルグは、決断を覆すつもりは無い。それこそが彼が長い間蓄積させてきた思いだからだ。
「お前たちはリオに理想を抱き過ぎだ。不在の王に国が守れるものか。今は私が王だ。私に従え」
現状をリオ前国王が打開してくれない以上、民はシェルグの意向に、従うしかない。ベルダートの人間は、上に従って敬う事しか知らない。
リオがまだ何処かで生きていると強く信じたシャルアーネは、もう居ない。王城の外さえ、自らの真実さえも知らない、目障りな甥は、もう居ない。シェルグの歩みを引き止める人間は、ベルダートには存在しないのだ。