act.6
四人と一匹は、かつての森の中を駆けていた。あるいは焦りの中を駆けていたかもしれない。周囲を森が囲む王都へ辿り着くには、どうしても木々が行く手を阻む。
転移術というのは万能ではなく、移動しようとする者全員が、一度は自らの足で訪れている場所にしか瞬間的な転移は出来ない。そうそう都合良くはないものだ。
四人を囲んだ円陣は、王都ベルダートへの転移を拒んだ。出身のエルスやユシライヤは言わずもがな、ターニャもエルスを探し王城へ足を踏み入れたし、ファンネルに至っては、例外的にどの場所にも降り立つ事が出来るらしい。つまり、たった一人エニシスだけがベルダートに訪れていない事になる。エニシスは自らが足を引っ張ったかのようにすら感じたが、
「少なくともベルダートには関わっていないと、記憶の手掛かりが一つ見付かったじゃないか」
とユシライヤが言ったのに続き、誰もエニシスを責めるような事はなかった。
彼らの目前に光が現れた。日の光だ。木々が負い目を感じ後退するかのように、生い茂る森は終わりを迎えようとしていた。
迷いの森という通称が嘘であるかのように、一行はすんなりと森を抜ける事が出来た。人が通れるような道は、枝分かれの一切無い一本道だった。何故あの時はさ迷い続けたのか、過去の自分達に問いたいくらいだ。
聳え立つ王城。その威厳に従うように広がる城下町。それらを囲む石壁は、言わずもがな、外界との隔たりである。
エルスは足を止めた。懐かしいと思うよりも、まるで新しい景色を見ているかのように錯覚した。そこは孤独に見えた。その中に籠っていた彼自身を含めて。
孤城で苦しむ母の姿が、エルスの脳裏に浮かび上がる。
今では獣の姿になって籠の中で寝息を立てているファンネルは、王都へ戻ることを快く思っていないようだった。家族というものを形成しない彼らには、事の重要性が理解できなかった。それはターニャも同じだが、以前エルスが母への思いを語ったのを聞いていたせいで、彼の急く気持ちも伝わってきたのだった。だから、「先を急ぐべきだろう」といい顔をしなかったファンネルを説得したのは、ターニャだった。
「急いで下さいエルスさん。きっと……いえ、必ず間に合いますよ」
この地で異端であるという認識を持たれているターニャ達は、面倒事になってはいけないからと、王都の外で待っている事にした。エルスはユシライヤだけを側に、母のもとへ向かった。
混乱に乗じた王都では、他人の目をすり抜けるのは容易いものだった。大通りでは人が溢れ、王妃への謁見を懇願した。せめて一目だけでもと。そう、王都の人間は誰もが皆、口にさえしなかったが、王妃の最期を悟っていたのである。
そんな状況に耳を塞ぎ目を背けたくなるエルスに、壁のようにして寄り添う従者。支えられてもなお倒れそうになるエルスだが、目指す場所へと駆ける脚だけは、止めなかった。
「母上は、僕の前ではいつだって元気だったんだ。僕のことばかり心配してた。みんなが言うような状態じゃないんだって思ってた。……でも」
絞り出すような彼のか細い声は、空気に触れては消えていった。
* * *
騎士の制止を振り切り、シャルアーネは寝台から自らの身を引きずり出そうとしていた。
自分の身体の事は自分が一番良く解っている。これを最期の力だと言うのだろう。幼い頃から付き合ってきたその脆弱な身体に、起き上がれと命じた。こうしてただ、寝ているわけにはいかなかった。
「迎えてあげなければ……。わかるの……あの子が、帰ってきているのよ。いいえ……そうじゃないわ。ああ……リオ、そんな所に居たのね……」
その日に何が起ころうとも、時は平等で、同時に無慈悲に流れる。ベルダートに今日訪れた朝は清々しいものだった。始まりを告げる鳥の声と、暖かい日射し。冬の季節となった第二リフの月にも、天の気まぐれでこんな一日が訪れる。
フィオナーサは、まるで現実から逃れるように、友人とは壁一枚を隔てた所に居た。その瞬間を見てはならないと、シェルグに言われて隣の部屋に通された。
彼女は自らに与えられた力に疑問を抱いていた。神に命じられ連れられた地で、無垢な白い肌に緑色の紋章を刻まれて、彼女は癒しの力を手に入れた。医師として名を馳せる彼女の治療が、痛みや傷跡を残さないとされている理由がそれだ。
しかし、シャルアーネは紋章による治療を受けることを、最期まで拒絶した。
『私はあの時に決めたわ。異端の力を、決してベルダートには持ち込まないと。それが、フリージアとの同盟に必要な条件だったのよ』
久方振りに再会を果たした幼馴染みは、かつての弱々しかったその相貌を変え、フィオにそう言っていた。
しかし、守るべき者を守れないというなら、何の為の力だ。フィオナーサが医師を目指そうとしたのも、シャルアーネという友の存在があったからこそだ。
それが今、皮肉にも、二度と叶えることの出来ない夢になったのだと、時の流れが伝えようとしていた。
第二リフの月、11の日、午前長時9短時20、ベルダート王国王妃シャルアーネ=フェル=ベルダートは、息を引き取った。
生に執着したか、直前まで自らの身体を恨んでいたようだったが、死の間際には何かを悟るように、笑顔を見せたという。
扉を開ける音が乱暴に響いた。
そこには肩で息をするエルスの姿があった。後方には護衛のユシライヤが立つ。彼らは、どうやら城を巡回する騎士たちの制止を振り切って来たようだった。
エルスの眼に映ったのは、横たわる母親と、うなだれる初老の医師の男性、見守るように立つ騎士団長ロアール、そして叔父シェルグの姿だった。
「今更帰ってきたか。朦朧とした意識の中で、義姉上がお前の名を何度呼んだかわかるか? 義姉上はずっとお前を待っていた」
シェルグの言葉をただの音の羅列のように聞いて、エルスは寝台へと脚を伸ばした。
遠目には判らない。近付けば彼女の鼓動を感じられると思い、母の顔を覗き込んだ。
彼女は眠りに就いているだけのように見えた。数時間すれば、エルスの存在に気付いてくれて、「おかえり」と言ってくれて、きっと抱き締めて喜んでくれるだろうと。
しかし、仰向けになっている彼女の腹部は、上下に動くことはなかった。顔を近付けても、息遣いも聞こえない。
「残念だが、間に合わなかったようだな」
シェルグが言った。扉の前でエルスの様子をただ見守るしか出来なかったユシライヤが、彼に掴み掛かった。
「私に怒りを向けるのか? 義姉上の病気を知っていながら、何も言わず国を出ていったお前が」
王妃は息子を妄愛していた。エルスの姿が見えない時には、病状が悪化したとも言われている。それを知りながら、ユシライヤはエルスの外出を止めなかった。従者として、エルスの望みを叶えることを優先した。エルスの命が危ういと言われ、彼の生命を優先した。
「……私の、責任……」
「違うよ」
ユシライヤの言葉を、遮るようにエルスが言った。
「誰も悪くなんかない。母上は今までずっと頑張ってたんだ。……休みたくなっただけだよ」
無論、彼にも母の死を理解できない訳ではなかった。悲しくない訳ではなかった。怒りをどこかに向けられたら、楽になれるかもしれない。
しかし、シャルアーネ自身がそれを許さなかった。彼女は、自らの運命を受け入れるような、安らかな顔をしていたから。
--世界を形作るのは、不可視的な神ではなく、日常に存在するすべてのものだ--歴史の浅い小国ではあるが、かつての王が民に向けたその言葉は、ベルダートの人々に多大な影響を与えた。
フリージアとは異なり、オルゼやユリエといった固定の神を信仰しないベルダートは、祈りを捧げる対象は唯一つのそれではない。苦しい時、飢えを感じた時には、神に乞うのではない。自らを立ち上がらせている大地、無限の希望を抱かせてくれる蒼空、間違いを正してくれる人間たち、数えきれない程の存在が一人一人の人間を支えている。それらすべてに感謝せよと。
孤独で閉鎖的なベルダート王国だが、民はその名を胸に抱く事を誇りに思った。王妃自身は身体の事で国を救えないと嘆いていたものだが、その存在があるだけで彼らの心は癒えたものだ。国民は王妃を心から愛していたのだ。
王城に程近い森の高台。王が治めるべき国の景観を一望する場所。
歴代の王に見守られるようにして、王妃の葬儀は、厳かに、静かに行われていた。棺が運ばれてくると、参列者--希望する者は多く居たが、この狭い丘へ登って来られたのはほんの一握りだ--のすすり泣きがより響いた。
王族の代表としてシェルグが、国民の代表として一人の男性が、それぞれ棺の前へ出て王妃への感謝と愛を告げると、その場に居合わせた者は、こぼれ落ちるものを堪えながら祈りを捧げた。エルスは他の国民に紛れ込むようにして立っていた。彼だけではない。王とその妃の他の血縁者も、ユシライヤや騎士団長ロアールも、位などは関係なく一人の人間として祈りを捧げている。それこそが、争いの無い平等な世界を望んだ、ベルダートへの敬意でもあるのだ。
哀悼の意を示され、王妃はまた別の場所へ運ばれようとしていた。ここから少し下った所に、王の墓がある。彼女の身体は、ついに地の下へと葬られる事になるのだ。
民は再び涙を流し、その場を去っていく。王の墓には、王族しか足を踏み入ることが出来ないとされているのだった。エルスの知らない顔の王族が、ぞろぞろと棺と共に歩いた。しかし何故だかエルスはその後ろに付いていく事が出来なかった。
呆然と立ち尽くすエルスを、後方から叔父が横切る。その時、彼の声がエルスの耳に微かに届いた。
「後で、二人きりで王の墓へ足を運ぼう」
エルスが返事をしないうちに、彼も行ってしまった。王妃の棺も人々の姿もそこからは見えなくなり、エルスとユシライヤだけが残った。
しかし、従者ですら彼に声を掛けるのは躊躇われた。どんな慰めの言葉も、彼を癒すものにはならないだろう。
「どうしてだろう」
沈黙を破ったのはエルスだった。その時にようやく、ユシライヤは彼の顔を見る覚悟ができた。視線の先には、彼の後ろ姿しか映らなかったが。
「みんなのように泣けないんだ。悲しいんだけど、寂しいんだけど、でももっとそれよりも、違うことばかり頭に浮かんでくる感じでさ」
従者は黙って聞いていた。それは何なのですか、という質問もせずに。
ふと、エルスが振り返る。
「ユシャは……僕の護衛だ。だから、ずっと一緒にいてくれるもんな」
彼はいつものような笑顔だった。頬には涙の跡も無い。ユシライヤには、それが余計に悲しく見えた。しかし、沈黙のままでいる訳にもいかなかった。彼に言葉を返さなければ。
「それは質問のつもりですか? もしそうなら、今更何なんですかって答えますけど」
--と。
* * *
久しぶりに自室へ帰ってきたエルスは、先程は自分からあんな事を言ったにも関わらず、ユシライヤを部屋には入れずに、「一人にしてほしい」と訴えた。そうすれば我慢していた感情が溢れ出すのではないかと思ったからだ。しかし、結局シェルグが迎えに来るまでの間にも、エルスの頬に伝うものは無かった。
叔父と二人で外を歩くのは、あの日以来だ。エルスは今でも鮮明に思い返せる。恐ろしい魔獣と目が合ったこと。シェルグがそいつに深い傷を負わされたこと。エルスは恐怖と心苦しさとで、居たたまれない気持ちになった。
「以前、あの煩い護衛騎士に何も言わず、二人でこの森を歩いた事を思い出すな」
と、シェルグの方も当時の出来事を重ねていたらしく、そう言った。彼があまりにも優しい眼差しを浮かべて話すので、エルスは自分の悲しい顔を彼に向けるのを申し訳なく思った。
「まあ、お前は覚えていないかもしれないが、実はその時が初めてでは--」
「ねえ、兄上」
既にシェルグの言葉はまともに耳に入らず、彼を遮るようにエルスが顔を上げた。当時、何も出来ず怯えるだけだった自分を守ってもらった事を、謝ろうとした。
しかし、シェルグ自身はそれに関して何も覚えていないとでも言うような、朗らかな表情をエルスに向けた。だからエルスは、わざわざその笑顔を崩す事は出来なかった。
「ううん。ごめん、何でもない」
王の墓は、初めて訪れる者にも一目でそれと判るように、大理石で出来た門が構えていた。それはベルダート王国の歴史よりも、遥かに古さを感じさせた。荘厳と言うよりは、湿っていて少し暗く、薄気味悪いとさえエルスには感じられる場所だった。
「義姉上が眠っているのは、一番奥だ」
並ぶ墓石を前にしてシェルグが示す。エルスが思わず目を背けたくなるような場景を、シェルグが先行し、エルスはその後ろを付いていく事になった。ふと傍らを見ると、手入れされた墓石のすべてに、美しい花が手向けられていた。
しばらく歩いたところで叔父の足取りが止まり、習うようにエルスも脚を止めた。
砂岩で出来た墓碑には、第十三ベルダート王国王妃シャルアーネ=フェル=ベルダート、ここに眠る--と書かれていた。その名を囲むように常緑樹、王冠、飛び立つ鳥の姿が彫られていた。鳥が翼を拡げる様は、ベルダートの国章に似ている。
周囲の墓碑には、必ずしもそういった装飾が施されている訳ではなかった。シェルグが言うには、ここはベルダートだけの王の墓ではないらしい。
「手を合わせろ。そして彼女に安らかな眠りを祈れ」
シェルグに言われる前から、エルスは心の中で実行していた。苦しみの中を生きてきた母には、せめてゆっくりと休んでいてほしいと。彼女の手を煩わせるような、心配させるような生き方を、これからの自分はしてはいけないのだと。
エルスは目を閉じて記憶をたどる。母と交わした言葉の数々。それらは彼の心に傷を抉らせてゆく。
母に最後の別れを告げ、再び歩み出そうと、エルスが目蓋を開けた瞬間だった。偶然かそれとも必然だったのか、彼の瞳に信じられないものが映ってしまった。
一番奥と言われていたはずのシャルアーネの墓石の隣に、寄り添うようにしてもう一つ墓が建てられていた。ベルダートの国章を表すかのような鳥と、折れた柱の装飾。そこに記されていたのは、
「……ぼ、僕の……」
見間違いではない。エルス=ベルダート、そう彫られていたのだ。
エルスは思わず、傍らに立つ叔父の腕を、助けを乞うかのように掴んだ。シェルグは弱々しい甥の頭を撫で、「さあ、帰ろう」と促した。
「怖がる事はない。全ては誤りなのだ。真実は隠されてきただけだ。……そうだ、お前が生きているという事実はな」
エルスが叔父の語調の変化を感じ取り、立ち止まった時には、慕っている彼の腕に握られた短剣が、閃いていた。
短剣を振りかざしたその時、背後から何かが駆けてくるのに気付いて、シェルグはそちらに振り向いた。呆然とするエルスをそのままにして、標的を変える。視線の先には、彼が最も自分の思い通りにならないと感じる人物の姿があった。
「ユシャっ!」
護衛騎士の存在を見て取ると、エルスは幾らか我を取り戻したようだ。
しかし彼の前では、既に望まない争いが繰り広げられていた。シェルグは短剣を利き手ではない方に持ち替え、腰の長剣を抜き、ユシライヤの攻撃を受け止める。二人の剣撃が何度か甲高い音を立てた後、ふとシェルグの剣が、ユシライヤの頬を掠める。そしてユシライヤの剣が、シェルグの利き手を掠める。互いに一旦退いて、次の行動に備えた。
「すみません、エルス様。一人にしてほしいと言われたのに、心配で……付いてきてしまいました」
視線をシェルグに向けたまま、従者がそう言ったのを、エルスは責めようとも思わなかった。ただ、今起こっている事が真実なのか、それを問い質したかった。
しかし、その必要は無いとでも言うように、シェルグはさも楽しそうに言い放つ。
「心配……か。それは私への疑念か?」
「まあ、そんなところです」
「残念だな。ああ、実に残念だ。貴様に真実を見抜ける程の器量が備わっていないとは」
エルスには理解出来なかった。城内でも度々くだらない事で言い争いをしていた二人だったが、それは冗談の通じる者同士のふざけ合いなのだと思っていた。しかし、彼らは互いに切っ先を向けている。言葉だけでなく、相手を傷付ける事の出来る武器を。
先に動いたのはシェルグだった。彼は対象に素早く斬り掛かる。ユシライヤはいとも簡単にそれを回避したが、次の攻めの一手が加えられるのは、彼女の予想よりも速かった。ユシライヤが右に避ければ、予測されていたかのように右に剣撃がやってくる。ユシライヤがしゃがみ込めば、足元を狙って剣は地面の上を踊った。シェルグは両腕の武器を器用に使いこなし、ユシライヤに攻撃の隙を与えなかった。
息の上がったユシライヤの防御が僅かに遅れ、シェルグがついに彼女の左肩に傷を負わせた。ユシライヤは、微かに苦痛の声をあげ、その場に崩れ落ちた。シェルグの方は、彼女への追撃を一旦止め、剣に付いた相手の血を振り払い、笑みを浮かべた。
大地の上に点々と描かれた赤色と、対照的な二人を見つめ、エルスは叔父に掴み掛かった。
「やめてよ、兄上! どうして、こんなこと……」
しかしそれは、迂闊であった。邪魔者が入り込んでさえ来なければ、シェルグの狙いは初めからこちらだったからだ。
「何故、こんな事をするのか……だと?」
シェルグの声色が風に響いて聞こえた時、ユシライヤは立ち上がろうとしたが、遅かった。
エルスは悲鳴を上げた。短剣が彼の胸を刺し貫いていた。その切っ先が血で濡れているのが、ユシライヤにも見えた。
護るべき者の名を呼ぼうとして、ユシライヤは言葉に詰まった。正しくは、声を出せない程の痛みが彼女を襲った。武器を落とした手で、みぞおちの辺りを押さえる。「こんな時に」と、ユシライヤは思った。彼女には、創傷とは別の苦しさが纏わりついていた。
短剣が引き抜かれると、エルスの身体はそのまま仰向けに倒れた。硬直した甥の姿を見下し、シェルグは彼が抱いた疑問への回答を紡いでいった。
「まず、先程も言ったように、お前は生きているべき人間ではない。義姉上亡き今、お前はこの国に存在していないのだ」
慕う者への嘲笑だけが響く空間に耐えきれず、ユシライヤは怒りに震わせた手を、落とした剣へと伸ばした。
それに気付いている様子も無く、シェルグは続ける。
「それと……単純な理由がもう一つある。私が、お前を気に入らないからだ」
シェルグの嘲りがエルスの耳に届いているのかは、ユシライヤには判らなかった。だが何れにしろ、あの男の口を自由にさせておけないと確信した。普段通りの握力は出なかったが、彼女はなんとか武器を手に取り戻し、シェルグに斬り掛かっていった。
しかし、彼はユシライヤに戦い方を教えた人間でもあった。教授通りの剣術を繰り出す騎士は、シェルグにとって愚かにすら見えた。あっさりとユシライヤの攻撃を躱し、肘をその利き手に打ち当て、武器を放らせた。
一方のユシライヤは苦痛と戦っていた。剣を握るべき手が、痛む胸に向かう。意識も朦朧とし始めた。だが、蒼白の顔で倒れているエルスを見ると、「前を向かなければ」と、決意するのだ。霞んだ目で、なおもシェルグに立ち向かおうとしては、こちらから一撃も与えられないまま、反撃が加えられ、緑の大地に身体を打ち付けられる。
それが幾度続いただろうか。起き上がるのも困難になったユシライヤの耳に、もしくは脳裏に、響くものがあった。
『大丈夫だよ。だって……僕の身体、平気じゃないか』
と。声の主だと思われる者を、かろうじて見据えて、ユシライヤは安堵した。
エルスは、まるで寝台で眠りから目覚めたかのように、目蓋を擦りながら上体を起こした。そして辺りを見回し、従者が横たわっているのを、何よりもまず心配した。
「ユシャ……どうして」
彼の記憶は、叔父と従者が対峙していて、それを自分が止めようとしたところまでが鮮明なものだった。その先の事は、覚えているようで、思い出したくないものでもあった。
「やはり、か」
シェルグがエルスの元へ近付いてくる。手には血に塗れた短剣を携えて。エルスは思わず後退したが、その脚が滑り、後ろに倒れ込んでしまった。下を見ると、草地は赤く染まっていた。
エルスは恐怖を抱いた。慕っている叔父に対して。
「お前の身体は普通ではないな。決して死を知る事は無い。お前はそれを、幸福だと思えるのか?」
シェルグは吐き捨てるように言い、その場を立ち去った。返答を求めない問い掛けだったのだ。
殺されるのかもしれない、という最悪の予感は外れた。だが心は決して平穏ではなかった。
エルスは立ち上がって、従者の無事を確認した。まだ自力で歩くのは不可能のようだが、苦渋からは解放された表情をしていた。彼女を担いで、一人の時よりも遥かに重い一歩を踏み出した。
しかし、彼は何処へ向かうのか。いずれ帰ろうと心を寄せていた王城には、母はもう居ない。帰りを待つ叔父も、もう居ない。
耐え難い孤独が、彼を立ち止まらせる。これでは、理由も名前も忘れ去られてしまった、ただの一人の少年だった。
* * *
ターニャの呼応石が、どこか近辺で使役された紋章術に反応を示した。尤も、それは白色の光であったので、出処は判りきっている。
「エルスさんの、オルゼの紋章が……!」
宿主の傷病を僅かな時間で完全な治癒へと導くのが、オルゼの紋章術だ。度合いは判らないにせよ、エルスの身に何かが起こったという事実だけは明らかだ。
「でも、ターニャさん。僕たちがベルダートに入ったりなんかしたら……」
駆け出そうとするターニャを、エニシスが止めた。万が一存在が怪しまれてしまったら、エルスらとの合流も困難になるであろう。特にエニシスに関しては、紋章を宿しながらも紋章術の正しい使い方を知らない。身に危険が迫れば、うまく逃げられるかどうか判らない。かつての森での出来事も繰り返したくない。
ターニャは堪えた。今は祈る事しかない。守るべき者に、せめてこれ以上の苦しみが訪れないようにと。
* * *
傷付いたユシライヤを抱えエルスが駆け込んだのは、王城の医務室でもなく、街の診療所でもなかった。普段からエルスの世話で王城に籠りがちなユシライヤにも、唯一外に出て顔を見せる場所があると言っていたのを、思い出したのだった。
それは貴族街と呼ばれる、上流階級の者たちの居住区にあった。外壁は白で統一され、屋根は薄い青色で、周囲の煌びやかな建物に比べると、落ち着きのある佇まいの屋敷だ。
エルスが敷地に足を踏み入れると、すぐ扉が開いた。出迎えたのは白髪の男性。少年の背中に抱えられているユシライヤを見ると、
「ユシライヤ様ぁっ! どうなされましたか!」
と、血相を変え近付いてきた。
「あ……あの、倒れているのを、見付けて……」
嘘である事がばれてしまわないかと、しどろもどろでエルスは答える。男性はそれに関しては気にしていない様子で、ユシライヤを預かると、思っていた程の重傷では無さそうな事に胸を撫で下ろした。
「ふむ、事情はよく存じませんが、ユシライヤ様を助けて下さったこと、感謝いたします。ところで、貴方は……」
「ええと……友だち、だよ」
自分の顔を知られていない事に、今更エルスが驚くことは無かった。ここへ歩いてくるまでもそうだった。エルスが屋敷への道を尋ねた人物は、途中までユシライヤを代わりに抱えてくれた親切な若い男性だったが、ユシライヤを騎士団の人間だとは知っていても、エルスの事は判らないようだった。また、王妃の崩御について立ち話をしている女性達からは、エルスが歩いているその横で、『王子エルス様に続いて、王妃様が逝去なされるなんて』と嘆きの声も聞こえた。
それが民の認識だと、エルスは確信に近いものを得た。この国では、自分はもう死んでいるものとして扱われているのだ、と。
屋敷の主だろうか、男性はレーヴと名乗り、エルスをユシライヤの命の恩人だと敬い、もてなしてくれた。外傷は少なく、レーヴ自身にでも出来る手当てで済んだと言うのだから、エルスはそう呼ばれるのが大げさだとは思った。
「本当に、何物にも変え難い幸せでございますよ。ユシライヤ様は、この屋敷にはたまにしか、顔を見せては下さらないものですから」
「そうなんだ」
と、エルスは知らないふりをした。
「ええ。なんでも、王国と王城に仕える事を誇りに思っていらっしゃるのだとか。護りたいと思える人が出来た、と仰ってましたな。……いや、こんな事を申すと、ユシライヤ様がもし聞いておったら、恥ずかしさのあまり、火を吹いてしまうでしょうなあ」
レーヴは笑った。彼の言葉の一つ一つが、エルスには突き刺さるかのように感じた。
ふと、エルスは部屋の奥の方に見えたものを、レーヴに知らせた。別室で休ませておいたユシライヤが、驚異の回復力を発揮して、無言で立っていたのだ。
「レーヴのじいさん。誰が火を吹くって?」
「ユシライヤ様、お目覚めになられましたかあ!」
恥ずかしがるというよりは、怒っているというようにエルスには見えたが、ユシライヤが感情を露に元気でいる様子は、見ていて嬉しかった。
ユシライヤは、その部屋の中にいつもは居ないはずの存在を認めて、驚くようにその名前を口にした。
「……エルス様」
名を呼ばれた少年は、慌ててユシライヤの口を手で塞ぎ、首を横に振ってみせた。
従者は状況が理解できないまま、しかし彼に従うようにした。幸いにも--と言って良いのだろうか、レーヴには何も聴こえていないようだった。
「彼が、ユシライヤ様をここまで運んで下さったんですよ。しかしユシライヤ様、あなた様にお友達が出来る日が来ようとは。このレーヴ、感激で涙が……前が見えませんぞ」
レーヴの眼からは本当に雫がこぼれていたが、彼は何故だか、ユシライヤの怒りを助長させる言葉しか言えないようだった。
日も暮れてきたので、エルスらは今晩、この屋敷で休むことになった。レーヴは豪華な夕食を用意してくれた。彼はあれ以来、感激のあまり泣き疲れて、食後すぐに眠ってしまっていた。
朝の陽気が嘘であったかのように、今宵は冷え込むので、二人はもう寝具の中に入り込んでいた。だが、すぐには寝られそうにもなく、仕切り越しに言葉を交わした。
「ここは、私の父が生まれた家なんです」
ユシライヤが言った。
「レーヴは父の世話役をしていたそうです。王都護衛軍騎士団員として父が名を馳せるのを、夢見ていたのだと言っていました。でも父は、自由な暮らしをしたいとかで、王都を出たそうです。父が亡くなったという知らせを受け取るまで、レーヴは父がどんな生活をしていたか、まったく知らなかったのだと言います」
レーヴにとっては、ユシライヤは彼が遺した形見のような存在だった。
「いい人だよな」
「ちょっと表現が誇大過ぎますけどね。まあそれでも、彼の言葉は大抵がその通りだったりするんですよ」
その口振りから、ユシライヤ自身もレーヴを信用しているんだな、とエルスは感じた。
「……でも、エルス様がまさかこの屋敷を選ぶなんて」
エルスは息の詰まるような気持ちになった。この場所のことを覚えていたから良かった。でなければ、何処へ行っただろう。遠くには行けないのだとしても、王城にだけは帰りたいと思えなかった。
何も答えないエルスの心情を読み取ったのかもしれない、ユシライヤは言葉を続けた。
「そういえば、さっきレーヴの言った事はほぼ真実だと言いましたが、これだけは訂正しないと、と思ったのですが」
仕切りの向こうで、ユシライヤが寝台から身を起こした様子が、エルスにも判った。何やら荷物を漁る音が聴こえる。それどころか、彼女は仕切りを越え、エルスの目の前までやって来たのだった。
寝間着姿を恥じらいの欠片もなく晒す彼女に、唖然とするエルス。しかしユシライヤが彼に見せたいのは勿論それではない。彼女の右手には、ベルダート王国騎士団員の証である、鳥の翼と剣が描かれた記章、左手には剣があった。彼女はわざと記章を床に落として、剣の柄頭で力いっぱい押し潰してやった。ユシライヤが剣を退けると、脆い素材で造られた記章は、粉々になっていた。
「彼は、自分が王国や王城に仕えているのを誇りに思っていると言いました。でももうこれで、自分にはその理由や権利が無くなりました」
エルスは不安げにユシライヤを見つめる。彼女ですら、自分の従者という立場ではなくなってしまったら、ベルダートで生まれ育ってきた今までのすべてを、失ってしまうかのように思えた。
ユシライヤは怯えるエルスの手を取った。
「貴方がたとえ、ベルダートの王位に戻る事はないのだとしても。自分が王国の騎士ではなくなったとしても。自分は、貴方の護衛役である事に変わりはありません」
最初の誓いの時にそうしたように、改めて従者は、主の手の甲に、そっと唇を落とした。
エルスは思わず、その手を勢いよく引っ込めて、頭まで掛け布団の中にくるまってしまった。今更こんなことをされるとは思わなかった。--今更。そう、彼自身も、無意識のうちにユシライヤが側に居ることを当たり前であるかのように感じていた。しかしそれは思えば我が儘だった。自分を守ろうとしてくれる人、自分を仲間だと言ってくれる人。それらはエルスから孤独感を拭い去ってくれる、数少ない存在だった。
「さあ、ゆっくり休んだら、命令でも何でもしてくれれば良いんですよ」
ユシライヤはそう言って、仕切りの向こうへ戻っていった。
翌日。朝と言うには少し遅れて起床した二人を引き留めるかのように、屋敷にある物が届けられたとレーヴが言った。
「兄君様より、贈り物ですよ」
それは、ユシライヤの眉を潜めさせるに充分すぎる言葉だった。それを聞いたエルスが尋ねる。
「へえ、ユシャって兄弟いたんだ」
長く共に居たというのに初耳だった。兄、という単語にはエルスの心に引っ掛かるものがあったが、彼は内心を悟られないように努めた。
「自分は別にそう思ってなんかいませんけどね」
ユシライヤはぶっきらぼうに言って、レーヴが持つ木箱を渋々と受け取った。それは想定よりも細長く、重みがあった。
そこには片手で扱う長剣が納められていた。何か紙切れが挟まれているのに気付き、ユシライヤが取り出して読んでみると、これは本来ならば自分が受け取るべきものではなかったと知った。宛て名が兄になっていて、送り主は父だった。
「こちらは、騎士になりたいと言い出した兄君様に、父君様がお贈りしたものらしいですな」
レーヴが説明した。しかし、剣を見る限り、使い古されているという感じではなかった。むしろ一度も触れられなかったかのように、柄も剣身も、傷や汚れ一つ無かった。
何故、兄はこの剣を持たなかったのか。ユシライヤは疑問に思ったが、実際にそれに触れてみて、ある事に気付いた。鍔の裏側に、家名の『ロイアット』が刻まれていた。これでは、今の彼は持ちたがらないだろう、とユシライヤは納得した。
「しかし、妹君には何も告げぬまま箱を寄越してこられるとは。ユシライヤ様もそうですが、照れ屋さんでございますなあ、兄のロアール様も」
再び感激の涙を流すレーヴだが、ユシライヤは顔を強張らせた。
「兄の……ロアール?」
彼女が反応を示した部分に、エルスも聞き流す事が出来なかった。
ロアールという名前の騎士を、エルスも知っている。まともに会話をした事すら無いが、王都護衛軍の総指揮官として、そしてシェルグの側近として、騎士団の中心に居る存在だ。彼がユシライヤの兄なのか。しかし、家名はそれぞれ違ったはずだ。ロアールは確か『イスナーグ』を名乗っている。人違いだろうか。
「……だから自分は、あの人を兄だとは思っていない、と言ったでしょう」
エルスの声無き疑問に、ユシライヤは答えたかのようだった。
彼女は剣を取り出すと、木箱をレーヴに預け、その場で何度か剣を振った。そして満足そうに頷き、鞘に入っていた安物の剣を捨て、新たな剣を納めた。
レーヴには「世話になった」と告げ、彼女はそのまま歩き出す。エルスが慌ててその後を追った。
「さあ、これから何処へ行きますか?」
従者が振り向いたので、エルスは迷いも無く答える。
「ここを出よう。ターニャとエニシスが待ってるから」
「……それで、良いんですね?」
まるで、彼が故郷と永遠の別れとなるかのように、ユシライヤは尋ねた。エルスの答えは変わらなかった。
エルスが苦渋の決断をしたので、従者も同じく、決意を改めなければならなかった。
「私は覚悟を決めました。それで、良いんですよね……兄さん」
その響きは、懐かしいというよりは記憶に新しく、ユシライヤの中で谺した。