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前編
6/14

act.5

 自由に外へ出られる時が来ますように、と少女が願いを懸けたのは、白色の神オルゼだ。

 その姿は明確にされておらず、美しい翼を持つ女性であったり、厳格そうな初老の男性であったり、彼女が目にした本の中には、様々な形のものが神として描かれていた。

 外見すらあやふやなものを、何故信じられたのか。簡単なことだ、彼女が信じたいと思える存在が、そのくらいしかなかったのだ。両親は他の兄弟にかまけて、末っ子の彼女には「放っておかれている」という気さえした。生まれながらに丈夫でない体は、自由には動いてくれない。だから友人もいなかった。


 彼女の日常を変えたのは、窓から外を見ている時に偶然目が合った、これもまた偶然にも同い年の、金髪の少女だった。

 その少女は、他人と接する機会など無かった怯える少女を、珍しいものでも見るかのように覗いてきた。


「あなた一人? こっちへ来なさいよ、明るくて楽しいわよ」

「……いいえ。私、出られないの」

「じゃあ、私が毎日遊びに来るわ。そうしたら寂しくないでしょう?」


 哀れむような瞳ではなかった。名をフィオと名乗った少女は、言葉通りに毎日訪れた。

 孤独な少女シャルに初めて出来た、友人という存在だった。


 しかし二人が共に居られるのは、長くは続かなかった。

 アスカームから遠く離れたシェリルの民であるフィオは、両親の教えを信じていたので、倣うように黒色の神ユリエを信じていた。ユリエから何かのお告げがあれば、従わなければならなかった。だから、彼女は自分の意思とは反して、この地を離れる事を決意したのだ。


「シャルちゃん。実は今日が、お別れの日なの」

「フィオ。あなたがいなくなってしまったら、私はまた一人で、寂しい時間を過ごさなくちゃいけないわ」


 シャルは勢いよく上体を起こし、友人の身体を掴んだ。咳き込む彼女の体を支えて、フィオは諭した。


「何の目的も無く行くんじゃない。あなたの病気だって、きっと治るわ。だって私は奇跡の力を得られるんだもの。一番最初に、あなたを治すのよ。それがシャルちゃんと私の約束」


 --それは、寝台に横たわるベルダート王妃の、長い夢の一部。そして、蘇る過去の記憶だった。



 フリージアの名医であり、弱っていく幼馴染みを見守ってきたフィオナーサは、訪れようとするその時を静かに待っていた。

 手を握っても、シャルアーネは反応を示さない。改めてその姿を見ると、随分と時が経ったとフィオナーサは思った。彼女自身の方はと言えば、紋章を宿した時から容姿は変わらない。まるで時間に置き去りにされてしまったかのように。


「シャルちゃん。あなたがベルダートに嫁ぐ事が決まってから、シェリルはアスカームを裏切りの民だとなじったのだそうよ。北部と南部は、未だに解り合えない。だから、フリージアとベルダートも昔と同じままなのね。でも、安心しなさいね。あなたには出来なくとも、きっと私たちが叶えるわ。お互いが協力しあう、理想の親交国同士という関係をね」


 言い終えると、すぐ後ろに立つシェルグも、同意するように頷いた。これから共に歩む者との決意だ。

 彼はフィオナーサを残し部屋を出て、扉の前に佇む騎士に命じた。


「もうその時は近い。報せを出しておけ。国内全域と、フリージアにもだ」


 命令を受けたロアールは敬礼をし、すぐに駆けていった。

 その姿に、シェルグは満足そうに笑む。口数は少なくとも、ロアールの振る舞いは確固としている。たとえ他の者が従わずとも、彼だけは自分に忠実な騎士であり続けるだろうとシェルグは思う。


 規則的な秒針の音が響く。時は等しく無慈悲に流れるものだ。


「一番大事な約束を、守れないみたい。ごめんなさい……シャルちゃん」


* * *


 心地よい光に包まれて、しかし到底理解の出来ない古代の言語が周囲を飛び交うと、エルスは浮遊感に襲われた。今、手を離されてしまったら、このままどこかへ飛んでいってしまいそうな感覚さえあった。

 彼がふと自身の両脚を見れば、確かにそれは地を踏み締めてはいなかった。両脚は透けて、その向こうの黒い地面が見えていた。


 エルスが恐怖に声をあげた事で、彼を囲む術者達の詠唱は止まった。

 同時に、ターニャも掴んでいた彼の手を離してしまったが、エルスの予感は幸いにも当たらず、消えかかっていた脚も元の感覚を取り戻した。


「これ以上は無理だ」


 と、創始者が言うと、エルスの足元の光の円陣は消え失せた。

 空間に闇が落ちて、十数人の術者は散り散りにその場を離れていった。


「ターニャ、フレイロッド。お前達は残れ」


 創始者に呼ばれた二人は顔を見合わせる。次の指示は想像に難くなかった。


 紋章オルゼを失ってからおよそ100年。その間にミルティスという空間はだいぶ空気の色を変えてしまった。雲の無い白昼の色が、今では月の無い黒夜の色だ。その空間に灯る数少ない明かりは、辺りを飛び回っている、握りこぶし程度の大きさの、無数の光の玉によるものだ。


 ミルティスとは、“ガーディアン”と呼ばれる術者を育て教導する組織だ。ターニャもその一人である。彼女の言う“呼応術”とはガーディアン独自のもので、異端と呼ばれる魔獣や天上人にも扱う事が出来ない。つまりターニャは“天上人ではない”のだ。ガーディアンはその存在を他に明かす事はなく、身を潜めている。エルスがわざわざミルティスに赴かなければならなかった理由もそこにある。


 ターニャがオルゼの宿主を発見したと聞いた時、創始者は不安など何一つ抱いていなかった。ターニャは彼の期待通りの存在で、期待通りの動きを見せた。

 しかし、事態は最悪だと彼は言ったのだ。

 ガーディアン全員が協力し呼応術を行えば、エルスは紋章から解放される--かつてターニャはそう言っていた。

 しかし、術の行使は失敗に終わった。エルスを襲った先程の不思議な感覚も、ターニャの浮かない顔も、その現実を見せつけるかのようだった。


「お前達はこの結果を予測出来たのだろう。話せ。状況を理解する為だ。責める為ではない」


 創始者の言葉が突き刺さると、ターニャとフレイロッドは順に説明を始めた。

 二人は、別の場所で同じ人物と対峙したのだ。黒き僧衣と術を纏う男。彼の口からユリエという名が出てきたのも、オルゼの宿主がエルスである事を知っていたかのような発言があったのも、ガーディアンや創始者の存在はおろか詳細にまで知識があった事も、漏らさず伝えた。


「その人物は、突然苦しみを訴え、消えてしまいました。恐らく転移術ではありません。消えたのです。しかし、何を切っ掛けとしたのかは……わかりません」


 そう言った後、思い出したかのように、ターニャはその時に拾った石を差し出す。

 それを受け取った創始者は、暫く口を噤んで、何かに納得したように頷き、それ以上は追求しなかった。


「これ以上、お前たちを問い詰める理由は今の俺には無い。すべて俺の……責任だ」


 彼のそんな言葉を、ターニャもフレイロッドも初めて耳にしただろう。表情にこそ表れないが、普段からの彼の威厳は、その時ばかりは剥がれ落ちてしまっていた。


「オルゼの宿主。これだけは先に言うが、今のお前の状態は悲観的だ。後に説明をする。先ずは身体を休めておけ」


 そうして創始者が背中を向けてしまうと、エルスは一つ気になっていた事を彼に尋ねる。


「あのさ、ユシャは……」


 立ち止まり、しかし振り向かずに応じた創始者の答えは、冷たく響いた。


「……あの小娘の事か。いいや、まだ目を覚まさない」


* * *


 瑠璃色の硬い寝台に横たわる彼女は、未だ目覚めない。横に腰掛けるのはエニシスだ。ユシライヤがここに運ばれてきてから、彼はずっとそうしている。

 自分にでも出来るような、ごく限られた方法は既に尽きてしまった。それでも反応を返さないユシライヤに、そこに居る意味と自信を彼が失いかけた頃。初めに彼女を看てくれた女性が、外での用事を終えて戻ってきた。


「アシュアさん。エルスさんへの……術は」


 少年の問いに、アシュアと呼ばれたそのガーディアンは首を振る。

 エニシスには、事態を悲観する癖がついてしまっていた。加えて、「あまり期待しない方が良いかもしれない」と事前に彼女が言っていたので、容易に想像は出来ていた。

 ミルティスの者は殆どが厳格な、あるいは感情に乏しい人形かのように見えたが、彼女は別で、物腰の柔らかい人物だ。エニシスにとっては、それがせめてもの救いだった。


「……その子のほうも、まだ安定していないみたいね」


 治療は済ませた。傷も塞がっている。しかし、ユシライヤは目を覚まさない。悪い夢でも見ているかのように、うなされる事がある。まるで創傷とは別の苦しみが彼女を襲っているようだった。

 目の前で苦しむ者を救えないこと程、彼が理不尽と感じるものは無いだろう。エニシスが自らの弱さを責めても、今更悔やんでも、立場が変わる訳でもなく、状況に変化が訪れることは、無い。


「それじゃあ、今度はあなたの事も調べてみなくっちゃ」


 そんな時にアシュアが放った言葉は、エニシスの想定とはかけ離れていた。目まぐるしく移ろいゆく周囲に圧され、自分の事など気にする余裕が無かったのだ。


「い、いいんです。僕なんか、大した怪我とかしてないですし」

「そうじゃなくてね。ターニャちゃんから聞いているの。あなた、自由に紋章の力を扱えないのでしょう? それって、とても危険な事なのよぉ」


 紋章--と聞き、エニシスの表情が強張る。

 記憶と共に失ってしまった自身の存在の意味。そして願わくは、そんな自分を受け入れてくれる場所を探したい。それこそが、彼がエルスらと行動を共にしてきた理由だ。

 しかし何故だか、真実が近付くことにエニシスは恐怖さえ感じた。


 アシュアは少年の前髪を掻き分けて、紋章を露にする。エニシスが拒絶する間もなく、その額には彼女の手が添えられた。

 そこは微かに熱を帯びる。アシュアは瞼を閉じて、何かを感じ取るようにしばらく沈黙した後、そっと手を離した。


「……あなたは、きっとこの紋章の本来の持ち主ではないのね」

「……え?」


 それは、あまりにも受け入れ難い言葉で、エニシスは思わず聞き返してしまった。

 しかし、彼女の答えは変わらない。


「この紋章は、ほぼ力を発揮出来ずにいる。在るべきところから離れたせいね。……そういえばね、ターニャちゃん達と出会った時の事も聞いたわ。我を失う程の怒りであなたが放ったものは、その紋章の能力ではないのよ」

「どういう……意味ですか」

「レデの紋章の本質はね、自分自身が眠らせている本来の力を呼び覚ました上で、増強させるというものなの。他の何かを操ったりするのは、不可能なのよ」


 どう説明をされようと、エニシスには理解できなかった。まるで、自分が自分ではないのだと、否定されてしまったかのようだった。


 アシュアは「それ以上の事は現時点ではわからない」と謝った。

 せめて記憶が戻れば何か解るかもしれない。だが、真実が判明したところで、それを受け入れられる覚悟があるかといえば、また別の問題だった。


 アシュアが再び創始者の指示でその場を離れてから、しばらくの時が経っていた。

 微かな光が灯るだけの闇色の壁に囲まれて、エニシスは慕う者の姿すら今は視界から外し、与えられた沈黙に従っていた。彼は口数すら少ないが、黙している間は何も考えていないという訳ではなかった。長く一人であったが故に、様々な感情を内に秘め、処理するのに慣れていた。


「エニシス」


 名前を呼ばれて初めて、少年は彼女が目覚めたのに気付いた。


 ユシライヤは上体を起こして辺りを見回す。彼女の衣服は、王城から自ら持ち出した着慣れた物ではなく、質素な寝間着に替えられていた。

 状況を理解できないであろう彼女に、問われるよりも先にエニシスは告げる。


「エルスさんは、ターニャさんと一緒に、創始者様のところへ行っています」

「……そうか。それでお前は? 付いていかなかったのか。どうして私のところなんかに」


 彼女の疑問に少年は過剰なまでに驚く。


「だ、だって、僕は……」


 ようやく声に出したが、答えにならない。それ以上は説明する素振りを見せず、彼は縮こまるように顔を伏せた。ユシライヤが覗き込んでも、決して視線を合わせようとしない。

 室内は再び沈黙に返った。


 そのまま闇に溶け込んでしまいそうな弱々しい姿に、ユシライヤは瞬きを忘れてしばらくの間見入っていた。そして、自身も闇に身体を預けるかのように、寝台の上に俯せた。


「来てくれ。私の背中、どうなってる? お前に見て欲しいんだ」


 幾度も同じ箇所を繰り返し抉るような魔獣の攻撃に耐えた背中。長い間彼女の意識を奪っていた創傷。

 アシュアは完全に傷は塞がったと言っていたが、エニシスがそれを直接確認した訳ではなかった。少年は躊躇った。何故なら、彼女を異性だと意識していたから。

 しかし、彼女の方はそうではなかった。遠慮がちに一歩も動かないエニシスの腕を、自ら引き寄せる。

 そうなれば、エニシスはもう断れなかった。言われるがままに彼女の真横に立った。その背中を覆う薄い一枚の布を、掴む手が震えた。


 目前でユシライヤの素肌は露になり、ほんの一瞬、傷が残っているのかとエニシスは見紛えた。だが複雑な形状のそれはあまりにも不自然で、それでいて見覚えのあるものだった。

 少年はすぐに理解した。彼女が何故、それを自分に見せようとしたのかを。一度それだと判れば、確信に変わる他なかった。


「これは……僕のと、同じ……」


 この地上で異端と蔑まれる存在の証、緋色の紋章。彼の場合は額にあるそれと同じものが、ユシライヤの背中に刻まれていた。厳密に言えば、エニシスのものよりも発色は弱く、不鮮明だった。


 エニシスが黙したままでいると、ユシライヤはその静けさに耐えきれなくなり、口を開いた。


「……お前を見ていると、不思議な気持ちになる。過去の自分を思い出すんだ。あの頃に抱いていた感情が蘇るようで、どうしたら良いのか……わからなくなる」


 悲しみのような、喜びのような、彼女のそんな顔を、エニシスはかつて見たことが無かった。否、彼だけではない。ユシライヤは他の誰にも、自分自身にも見せたことの無い表情をしたのだ。


「もしかしたら私達は近い存在なのかもしれない。だからお前は、一人じゃないんだ。そして、私も……」


 彼女の瞳は、孤独な少年の心を見透かすかのようだった。


* * *


 光の射し込む窓も無い部屋に、まるで一人置き去りにされたかのようだ。そもそもこのミルティスでは、ここが屋内なのかも疑わしく、また時間経過の感覚すら奪われている。

 城での生活とは違う。硬い寝台の上では眠気に誘われることは無く、エルスは休息を諦めていた。


 彼は王城に縛られた日常を嫌っていたはずだった。外の世界への憧れは尽きないものだった。しかし、檻を抜け出してからは、ふと自由であることに孤独を感じる瞬間がある。

 母上は心配しているだろうなと、兄上は僕を叱るだろうかと、もう誰も追ってこないのかなと、身近だった人間の顔が次々と浮かんでくる。まるで失ってしまったものを追い求めるかのように、その影は脳裏を過っては消えることはない。


 そんな彼の孤独を不意に断ち切ったのは、慌てて部屋に入り込んできた仲間の声だった。


「エルスさん。ユシライヤさんが、意識を取り戻されたそうです」


 エルスがターニャと共にその場に駆け付けた時には、彼の従者は普段通りの姿で佇んでいた。

 心配して一人ユシライヤの元に残ったエニシスも、今では彼女の隣で安心しきった様子を見せている。


 ユシライヤは、黙って立ち尽くすエルスに近付いていった。


「ここ。寝癖酷いですよ。目の下の隈も。あと……その表情も」


 跳ね上がった前髪の一部を指先でつままれて、エルスは頬を紅潮させる。


「それ以外にさ……先に言うことあるだろ」


 従者はその言葉に微笑みで返した。

 彼女が目覚めたことで、エルスもいつもの調子を取り戻したようだ。ターニャにもすぐにそれが判った。あの二人は長い間共に過ごした存在なのだと、改めて感じた。


「揃ったようだな」


 と、後方から足音も立てずに創始者が現れる。すぐ後ろにはアシュアとフレイロッドも付いていた。

 急に姿を現した彼に、エルスは思わず一歩後退するという、間の抜けた反応をしてしまった。「話が長くなるから覚悟をしておけ」と、創始者らは四人を横切って前進した。付いてこい、という事らしい。

 近付く未来が、こちらから近付くことを躊躇われるほどに、エルスの上に重くのし掛かる。

 無論、創始者の言動がそうさせるのだ。



 捻れた空間が穴をあけ、人間の通り道を造ると、そこから創始者を先頭にエルスらも姿を現した。ミルティスの中では何処に居ても同じ闇が広がる。しかしその場所は景観が少々違った。

 そこは白い壁に囲まれて、一つの部屋として周囲とは完全に区切られていた。

 中央には、大人一人が通れるであろう半透明の管が、限りの見えない闇色の空の上から地上へと続いている。途中には大きな球体が幾つか繋がっていて、硝子のような透明な板張りの球体の中では、無数の白い光の玉が泳ぐように動き回っている。その光は、辺りを浮遊するものと同じだろうか。


「こいつら、なんか生きてるみたいに動くよな」


 飛び交う光の玉を目で追いながら、エルスが言った。


「その通りだ。それは生きている。正しくは、生きていた存在であり、再び生を得られるものだ」


 創始者はそう応えると、その意味を理解できないエルスには構わず、中央の管へと歩を進めた。

 すると、球体の中を彷徨う光の玉は、彼が近付いてきた事を認識したかのように、創始者の立つ方向へと一斉に集まっていく。


「こいつらには意思がある。しかし完全ではない。然るべき時が訪れれば、ミルティスから解放され、自由な身体を得られる。そして、いずれその身体が朽ちた時、再び此処へと戻ってくる。俺達--ガーディアンとは、その輪廻転生を正しく管理する為の存在だ」


 輪廻転生と言えば、エルスにも理解は出来た。昔、本で読んだ記憶があるのだ。死んでしまった命は、記憶を受け継いでいずれまた別の命として生まれ変わる。それを繰り返す。決して、消えてしまうことはないのだと。

 あくまでも書物の中でのお伽噺という認識だった。しかし目の前の青年は、それを現実として認めさせようとしている。


「自分には、自分より前の人間の記憶なんて全然残ってないですけどね。まったく、胡散臭い」


 ユシライヤも同じものを思い起こしたようだ。疑り深い彼女は、信用ならない相手--というよりは、殆どの相手に対して否定で返す。

 しかし創始者は、それを想定していたのだろう、まったく表情を崩さなかった。


「必ずしも記憶を受け継ぐというものではないからな。……まあ、その話は後だ。それよりも先に問い詰めたい事があるだろう」


 彼の視線が自身に向けられ、エルスはおもむろに自らの“異常”な部分へと手を伸ばした。


「俺達が扱う呼応術は、六種の紋章--レデ、ジオ、イー、ギラ、ルビ、リフ、すべてに対応できる。分類すらされてはいなかったが、これらは遥か昔から存在していたと思われている。俺の想定では、生命のすべてが、この六種のいずれかを宿していた。しかし、その小僧に宿っているものはその中のどれでもない。エルスとかいったか、お前自身も解っているだろう」


 オルゼの紋章。ミルティスで管理されるべきものとして、ターニャが求めていたもの。

 その紋章を切っ掛けとしてエルスはターニャと出会い、王城を飛び出してきたのだ。知らない訳がない。ただし、それはいつから宿っているのか、と聞かれれば、答えられなかったが。


 エルスは左腕の裾を捲って見せた。肘より少し上に、白色の紋様が刻まれている。

 否--鮮明な白ではない。曇りがかった空のような色。僅かに混ざった黒色を汚れと言うのなら、そこにある証は既に汚れてしまっていた。


「最早そこにはオルゼの紋章の他に、もうひとつの存在が宿っている」


 創始者が言うと、ターニャとフレイロッドは顔を見合わせ、想定が確信に変わった事に絶望を抱いた。

 彼らは何かを知っているのだ、と思うと、ユシライヤの中に怒りにも似た感情が沸き起こる。それを制止すると、腕が震えた。


「分断されている二つの世界--お前達は、自身が生活する大地を地上とし、お前達を脅かすものが天上に棲息するのだと認識しているようだが、それは誤りだ。天と地に分かれている訳ではない。正式な名称として、お前達が天上界と呼ぶ世界をオルゼ=イース、地上界と呼ぶ世界をユリエ=イースと、俺は名付けた。ここまで言えば、幾ら頭の回らないお前達でも、聞き覚えくらいはあるだろう」


 エルスの腕に宿る白色の紋章オルゼ。そして、ターニャが言うにはその対となる存在である黒色の紋章ユリエ。世界にはその名が付けられているという。それは、青年が創始者と呼ばれるに至った契機。彼自身も数えるのも止めてしまった程、過去に遡る。


「俺は一人の男と共に紋章の研究をしていた。男の名はゼノン。熱心な奴で、自身が望む結果が導かれるまで、寝食を忘れ研究に打ち込む男だった。

俺達は、周知されていた六種の他に、新たな紋章を発見する。勿論、名は未だ無かった。正体不明のその紋章に、俺達は幾つかの可能性を見出だした。中でも俺達に期待を抱かせたのは、既存の六種の紋章の特性をすべて併せ持っていたことだ。

……もう解るか。その正体不明の紋章を二つに分けた結果が、オルゼとユリエだ。以来俺とゼノンは、それぞれオルゼとユリエを片側ずつ担当し始めた。--俺達は殆どの時間を研究に費やし、長い時を経て、やがて世界にある変化が起きていた事に気付く。新たに生まれる生命の中に、力を持たぬ者が現れたのだ。

必然的に強きものは弱きものを搾取する。そして支配を望むであろう。このままではいけない。力を持つもの、持たぬもの、それぞれが別に棲息出来る場所をと、俺達は世界を二つに分断した。それが、オルゼ=イースとユリエ=イースだ」


 力、とは紋章のことだろう。彼の言い分では、紋章を持たぬ者--つまり地上人は、天上人よりも後に、そして紋章の影響によって生まれたという事になる。彼が語る歴史のほんの僅かな時を生きたに過ぎないのだ。


「そして……ある時、ゼノンは紋章の脅威に敗れた。暴走したユリエがその身に宿り、心身を奪われてしまった。

見境無く周囲を破壊し、現在に絶望し、荒れ狂う狂気の狭間で、奴は言った。このまま自分ごと、空間の外へと追い出してくれても構わないと。だからそいつの言う通りにした。奴を犠牲にして、被害を最少に留めようとしたんだ。俺は、長年行動を共にした友人ともいえる男を、ここではない別の空間へ、ユリエの紋章ごと封印した。

……尤も、今になって思えば、それも奴自身の意思であったのかもしれない。俺の知らないところで、奴はこの世界に甦っていた。しかも、ユリエを意のままに操ることを可能にして」


 彼が話したのは、世界の創始に至る経緯でもあった。エルスらにとっては規模が大きすぎて、半ば付いていけないところがあった。

 一方、それを事実だと認めているガーディアン達は、やはり無知の者達よりも冷静でいられるのだ。


「創始者様、もしかして私達がフリージアの地で遭遇した彼が……」

「ああ。間違いなくゼノンだろう」


 ターニャが問うた人物は、ユリエを神として崇めていた黒衣の聖職者。彼が創始者の旧友なのだとしたら、創始者やミルティスについて詳しい知識があったのも合点がいく。

 創始者は自らを責めていた。いつになく感情を露にして。


「しかし、彼はこの呼応石を残し、何処かへ消えてしまいましたが」


 ターニャの手元に残る指輪を示してフレイロッドが言ったが、事態を理解している創始者には、真実を揺るがす切っ掛けにもならず、また一時の慰めにもならない。


「消えたのではない。在るべき場所へ戻ったんだ。ユリエとオルゼ--元々、一つであった紋章の真の姿に戻る為に」


 創始者が答えると、皆の視線はエルスに集中した。

 しかし、彼は言葉を紡ぐことは出来なかった。話を聞いていなかった訳ではない、理解できなかった訳ではない、ただ認められなかっただけで。

 創始者はそんな彼に構わず、無慈悲にも事実を告げるのみだ。


「オルゼと共に、そしてゼノンも共に--そこにはユリエが宿っている」


 真実から目を背けるように視線を反らすガーディアン達。張り詰めた空気は、僅かな刺激ですら許されないように。

 しかしその空を切り裂くように、ユシライヤが言い放った。


「それで? 何が問題なのですか? 元々自分達は紋章とやらからエルス様を救うためにここに来ました。その何とか術を使ったら済むことじゃないんですか」

「いや。オルゼとユリエは元々が一つであった紋章。分かれていた時には本来の力は発揮できずにいたが、今は完全体となってしまった。六種すべての紋章の集合体と言ってもいい。そんな強大な存在が相手では、呼応術の精神力では不充分過ぎる。故に--」


 続く答えは、想像したくはないものであったが、


「今の俺達では、そいつから紋章の脅威を取り除くことが不可能なんだ」


 件の紋章の宿主は、浅はかな思い違いをしていた。オルゼという紋章の存在に気が付いてからは、どんなに深傷を負おうとも、痛みや傷口を残さない。ミルティスに留まらせなければいけないという理由が無ければ、自身に都合の良いものだと思い込んでいたのだ。

 しかし先程創始者は言っていた。ゼノンは紋章に心身を奪われたと。彼が友人の犠牲を決断しなければならなかった程、紋章とは危うく、恐れるべきものなのだ。

 思い返せば、ターニャも初めに出会った時に、似たような事を言っていた。正常な状態ではない、命の危険を伴う--と。


 悲観的な現実を告げられた後、エルスらに与えられたのは、人数分に相応しくない程の広い空間だった。しかし休めるような心境でもなかった。

 事態を進展させるべくガーディアンらは集会を行うとのことで、ターニャとフレイロッドは創始者に連れられていった。ターニャは去り際に、「貴方を助ける為にここまで来たと、前に言ったはずです」と、エルスに対し改めて使命感を口にしていた。

 残る三人は沈黙したまま--最初の頃こそ、ユシライヤだけは創始者への不満をさらけ出していたが、後に無意味だと気付いたようだ--、彼女らの導き出す答えを待っていた。このままの時間が続けば、漂う空気は淀み、息苦しくなってしまいそうだ。


 そんな三人の憂いは、待ち望んでいた者の帰りで断ち切られた。


「お待たせしてしまってすみません。今後どうするか決まりました。たった一つだけ、まだ方法が残されていました。しかし……すぐに出来るものではありませんが」


 と、発したのはターニャだ。


「へえ。以前も似たような事を、聞いた覚えがあるんですけどね」


 暗渠へと射し込む一抹の光といったところだが、ユシライヤは苛立ちを抑えきれない様子で、皮肉で返した。


「そいつを責めるな。今すべき事を違えれば解決が遠退く。それは俺にとっても望むことではないからな。そこで、こちらも多大な危険を覚悟で、禁忌としてきた術に臨む事にした」


 そう言ったのはターニャの後方から現れた創始者だ。

 禁忌という言葉の響きで、ユシライヤ含めた三人の表情が多少なりとも強張る。


「呼応術は、界の狭間に存在するゲートに干渉する術です。強固な扉を無理矢理こじ開けるという想像をして頂いて、ほぼ間違いありません。普通であれば、瞬間的にしかゲートは開きません。禁忌の術ではそのゲートを開放し続け、在るべきではない場所に宿る紋章を空間の狭間へと吸い込ませます。……それこそミルティスの存続が絶望的だと言える程の力を、呼応術に込めることによって」


 ターニャが繋げた言葉に、創始者も同ずるように頷く。


「しかし、容易ではない。まず、ゲートの先の通路を自在に操るべく、ガーディアンとゲートとの使用契約が必要になる」


 創始者が何やら空を切るように手を動かすと、そこに長方形型の穴が空いた。間もなくしてその穴は無数の光の点を生み出し、点繋ぎのようにして自然と何かを描き出していく。最後には、エルスらには馴染み深いものが出来上がった。

 地上界、ユリエ=イースの世界地図が現れたのだった。

 契約すべきゲートは、フリージア、アストラ、イスカ、それぞれ三つの国の大地に点在しているという。地図上でもその三点が周りとは別の色に輝いている。それを更に線で繋ぐと、正三角形が出来上がる。


「その中心が、メインゲート。今は未だ姿を現さないが、そこにはミルティスとユリエ=イースを繋ぎ止めている楔が存在する。こちらの準備が整い次第、その楔を破壊するんだ」


 それによって空間に歪んだ狭間を形成し、呼応術を行い、紋章だけを閉じ込めてしまうのだ。


 実はそれこそが、創始者がかつてゼノンを狭間に追いやった方法なのだ。彼は端的に告げてはいるものの、相応の覚悟があるからこそだ。当時は彼一人だったが、多くのガーディアンが生まれ育った今ならば、安定して術に臨めるだろうと、創始者は決断を下したのだった。

 ガーディアンの扱う術に関してエルスらは詳しく知り得ないが、話を聞いているだけで、彼らにかかる負担の大きさが想像出来た。ミルティスへ向かう道中では、ここですべてが無事に終わり、王都へ帰れるものだと信じてきた、しかし現実はそれ以上に、途方のないものに思えた。


「そこで、紋章の宿主。お前の保護も兼ね、しばらく俺も同行させてもらう」

「ぼ、僕たちも? お前たちだけでやるんじゃないのか?」

「お前がいつ何時、紋章に心身を奪われるか判らない。だがお前をミルティスに置いておく訳にもいかん。そこの関係ない二人は、せいぜい邪魔にならないように付いてくればいい」


 創始者の視線が向けられ、腰の鞘に手を添えたユシライヤを、咄嗟にエニシスが抑える。しかし本来その必要もなかった。ユシライヤの剣は、先日の魔獣の攻撃により使い物にならなくなっていたのだから。


「そっか……じゃあ、また皆と一緒に旅が出来るんだ」

「エルス様……!」


 創始者に否定的な従者とは違い、エルスは期待すら持ち合わせているようだった。


「今までは何とかなりました。でも、これからはいくらなんでも危険すぎます。大体、彼らを信じるんですか? 何かに利用されているだけかもしれません。自分は反対です」

「大丈夫だよ。このままでいるのもいやだし。ユシャは、僕が行くなら来てくれるだろ? エニシスのこともあるしさ。それに……僕の身体、平気じゃないか」


 エルスにそう言われると、ユシライヤはもう反論しなかった。しかし彼を護ろうという決意に満ちていた訳でもなかった。そうしなくても平気だと言われているようで。

 彼女が反らした目線の先には、不安げに見つめてくるエニシスがいた。そう、彼もまだ、救われてはいないのだ。


「話は纏まったか? 早速、ユリエ=イースに降りるぞ」


 背中を向け歩き始めた創始者に、「なあ」とエルスが呼び止める。


「ソーシシャって、名前じゃないよな? 呼びにくいからさ、教えてくれないかな」


 後方からの質問に、創始者は振り返らず、立ち止まった。


「無理ですよエルスさん。創始者様は、個体名は意味をなさないものと仰って--」

「ファンネル=ベルグムント」

「え?」


 思わぬ答えに驚き、聞き返したのはターニャだった。何故なら、彼女も初めて彼の名を知ったから。彼女だけではない。ガーディアン全員が創始者に名を伝えられたことは無いはずだ。


「……昔、そう呼ばれていた」


 それだけ言って、創始者--ファンネルは再び歩き出す。


「ファン……ベルム……? うーん。じゃあ、長いからファムって呼ぶからな!」


 エルスが勝手に付けたあだ名では、彼は応えなかった。

 同じ理由で呼び名を縮められたユシライヤの小さな溜め息は、彼の代わりにこぼしたものだろうか。


* * *


 アシュアとフレイロッドに見送られ、一行はミルティスを発とうとしていた。


「必ず、無事に帰ってくるのよぉ。未知の世界ほど、警戒すべきものはないんだから」


 友人の忠告に、ターニャは「勿論」と約束した。

 ファンネルの詠唱で、一ヶ所に集まった五人の足元に円陣が浮かび上がる。身体が透けて、消えていくような感覚に襲われた後、彼らはほんの数秒後にミルティスを後にした。


 その背中を見送ったフレイロッドが、ようやく口を開く。


「……はぁ。何も創始者様がご同行される必要はないのに。なんで俺じゃ駄目だったんだ」

「うふふ。貴方には貴方の、役目があるからよぉ」


 アシュアは、彼の本意には触れずにそう言った。


* * *


 降り立ったのは、フリージアのイースダインだ。ミルティスへと転移してきた、無数の魔獣に襲われたあの場所である。

 静閑としていて、その事が嘘のようだ。その頃より積雪は増えていて、風も冷たい。快適な環境だったミルティスとの急激な変化に、エルスは寒さを訴えた。しかしガーディアン二人には、この気温を不快とは感じていないようだ。


「ターニャ。先ずは此処のゲートとの契約を済ませろ。一度だけ俺が方法を教えてやる」


 エルスら三人を後方で待機させ、ファンネルはターニャを先導し数歩先へ進んだ。彼の指示を受け、ターニャは手元に杖を形成した。その杖で、自らの足元に円を描いていく。

 すると、彼女の前に石板が現れた。転移術の呪文が碑石に刻まれている。


「そこにお前の名を刻め」


 と、ファンネルが言った。ターニャは一瞬戸惑いを見せたが、意を決し、儀式に集中する事にした。周囲との接触を絶つ為に瞼を閉じた。そして、自らの意識を碑石一点に集中させるように祈り始めた。

 空気を遮っていた薄壁が破れるかのような音が聞こえた。それでも祈りを捧げ続けていると、ターニャは全身に刹那的な痛みを感じた。


「あ……っ!」


 集中させていた意識が、ばらばらに飛び散っていくような感覚だった。ターニャは力なくその場に崩れ落ちた。失敗した--そう思った。しかし、


「まあまあ早いな。確認してみろ。これをあと二ヶ所続ければいい」


 ファンネルに言われて見てみれば、確かにそこには彼女の名が、古代文字で刻まれていたのだ。


「お、終わったのか?」


 呆気にとられていたエルスが、未だ立ち上がれないターニャに近寄った。差し伸べられた手を握って、彼女はようやく両足の均衡を取り戻す。


「な、なんかよくわかんないけど、大丈夫みたいだな。ターニャ凄いじゃん!」


 無事に成功したのか、ターニャにはそう言い切れる自信が無かった。彼女自身も、何が起こったのか説明できなかった。だから得体の知れない恐怖を感じた。忘れてはならない、自分達が成そうとしているのは、長年の間、禁忌としてきた術なのだ。


「……ここは冷えます。街で休みましょう」


 彼女の戦慄を、寒さゆえのものだと受け取ったのか、ユシライヤはターニャの体を支えてそう言った。

 ターニャにとってそれは有り難い申し出だった。ほんの瞬間的な出来事だったのに、重くのし掛かるような疲労感がある。


「それなら、しばらく俺も休ませてもらう」


 疲れを表情からは感じさせなかったファンネルが、そんな事を言った。ターニャもそれを意外に思った。四人の視線が彼に集まる。


「この姿でいるうちは、俺の手を煩わせるなよ」


 ファンネルが何か小さく唱えて、彼の身体は眩い光に覆われた。目が開けられない程の強い光で、四人は思わず顔をそむける。そして、光が弱まったのを感じ、おもむろに瞼を開いた。

 すると、彼らの目の前にはファンネルの姿は無かった。光で出来た霧のようなものがまだ空気に混じっていて、視界ははっきりとしないが、人間一人が立っていたなら、微かにでも影を感じ取れるはずなのだ。


「創始者様、どこにおられるのですか!?」


 ターニャは辺りを見回した。

 だが、返答を聞かないうちに、彼の居場所を四人は知った。彼は、そこから一歩も動いてはいなかったのだ。


「まったく。大したこともない事で、騒ぎ立てる。先が思いやられるというものだ」


 彼が声を発したのだ。その、目の前の小さな動物の姿で。


「……そ、創始者様?」

「なんだ。ふ、触れるなっ! 毛が抜けるだろ!」


 彼の髪の毛を思わせる、白銀の毛並み。兎のような長い耳を持つが、どちらかというと猫に近い体つきである。ターニャがしゃがみこんでそれに触れると、小さな前足が彼女の手の甲を叩いた。肉球が柔らかい。

 ターニャは抑えきれなかった。


「創始者様、か……可愛いです……!」


 その後、ターニャは頬に傷を作っていた。猫のような爪で引っ掛かれてしまった。彼女は失言をファンネルに戒められたのだ。彼が言うには、


「立場をわきまえろ。それを理解できているなら、自ずと俺にそぐわない言葉を回避できるはずだ」


 との事だが、彼の変化はターニャの想定外の事であったので、無理はなかった。

 ファンネルは今、ターニャの腕の中で丸くなり、寝息をたてている。ずっとこのままでいてくれれば確かに可愛いものだ。



 イースダインから程なくして辿り着いたのは、白銀の聖都シェリルだ。ユリエ教の件があり、エルスらにとって正直あまり近付きたくない場所ではあるが、厳しい気候の中で短い間でも休息をとれるなら、それに越したことはない。それにユシライヤも、剣を新たに調達しなければならなかった。

 無垢な雪の白さは人々の心を洗い流すかのように降り続ける。だが、不相応な黒き紋章を奉る聖堂もまた、この街の象徴の一つであった。そのユリエ教は、指導者を失ったことで崩壊したと街の人間が言っていた。教会やその周辺は立ち入りを禁じられ、フリージアの兵士が数人で見回りをしている。


 だが、シェリルでの変化はそれだけではなかった。静かな街だったのに、外を歩く人の多さが、前とは比べ物にならないのだ。


「何かあったんでしょうか」


 武器屋から戻ったユシライヤが、周囲に目を配る。道行く人々は皆、焦りや憂いの表情を浮かべているように見える。どうやら華めかしい賑わいの様子ではないのだ。


「あの、ユシライヤさん、あれ……」


 ふと、エニシスが彼らの持っている共通のものに気付いた。何やら人物の絵が描かれた紙を持っているのだ。

 手配書か。ユシライヤはそう思った。以前配られた物はロアールが偽物だと見破って事なきを得たが、外出の制限がされている第二王子を勝手に連れ回し、行方を眩ませているのだから、王国が彼女を反逆者だと手配したとしても不思議ではない。

 無論、エルスにとっては必要だと判断した上での行動なのでユシライヤに後悔はない。だが、もし捕らえられれば--彼女は自分がどんな罰を与えられるか、知っているのだ。だからこそ、もう国に屈する気は無かった。


 今更か、と思いながら、ユシライヤは自身の目立つ髪色を腕で隠しながら周囲を見渡した。すると、人々の視線を集めるそれとおそらく同じであろうものが、建物の外壁にも貼られていたのだった。

 すぐさま近付き確かめる。それは、ユシライヤが恐れたようなものではなかった。だが、


「エルス様……大変です。今すぐ、王都に戻りましょう」


 エルスの抱いた疑問は、驚きで声にならなかった。従者の方からそういう提案をしてくるとは思わなかった。彼女がそう言うなら、そうしなければならない切実な理由があるはずだから。

 ユシライヤが一歩後退し、エルスに歩むべき場所を作る。彼はその事実を確認した。


 --同盟国であるベルダート王国の王妃、シャルアーネ=フェル=ベルダート妃殿下、危篤状態である--と。


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