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TRUE SEEDS  作者:
前編
4/14

act.3

 馬車に揺られると、蹄が土を蹴る律動が心地よくて、思わず欠伸が出てしまう。しかし、エルスはとても眠る気にはなれなかった。

 隣に腰掛けるのは物静かな女性だった。彼女は顔を隠すように深く頭巾を被っているので、表情が読み取りにくい。最初にエルスが握手を求めても、「宜しく」と短く一言頭を下げるだけで、応じてくれなかった。しかし口元は微笑んでいるように見えた。

 馭者が彼女を紹介する時には、「高貴な方だから、くれぐれも粗相の無いように」と言っていたので、エルスはなるべく口を噤むようにしていた。ユシライヤは元々自ら他人と関わろうとはしないし、エニシスもそうだろう。ターニャはそれに倣うように黙していた。

 目的地までの道程は長いものだった。日覆いを僅かに開けた隙間から覗く景色を見つめながら、それまでの時間を過ごしていた。


「もうすぐヴェルムに到着するよ」


 と、馭者の男性が言った。


 ベルダートから隣国フリージアへ向かうまでには、トアの村から北東の方角に位置する国境の街ヴェルムが通過点に有る。トアからヴェルムへは、王都からトアまでのおよそ数倍の距離がある。

 それを聞いたエルスは疲弊した顔付きを見せた。尤も、天上界へは更に距離がある訳なのだが、彼が真に理解しているのかは定かでない。人間一人がほんの小さな存在に思える程に、世界は広すぎる。


 馬車に乗りたいと提案したのはエルスだった。必要な物を買いに四人でトアの村中を回っていた時、偶然にも馬車が通っているのを見掛けた。以前、シェルグが何処からかそれに乗って帰ってきたのを見た時から、馬車への憧れがあった。


「かっこいいよな! ターニャもエニシスも、乗ってみたいと思うだろ?」


 名指しされた二人は、エルスの勢いに乗せられて頷いた。森の中を彷徨ったせいか、思っていた以上に彼らは疲労していた。長距離を歩くよりは馬車に身を隠した方が都合も良いだろうし、ユシライヤには彼の些細な願いを叶えてやりたい気持ちもあった。


「そりゃあ、かっこいいですけど。正直に言いますが、手持ちに余裕が有りません」


 旅に必要な財源はユシライヤの財布から工面されてきた。王都に戻れば給金を受け取れるが、黙って出てきた身、身柄を拘束されて終いだ。実のところ、ユシライヤもエルスの言ったように、天上人であるターニャの力でどうにか出来ると思い込んでいた節がある。だから、ろくに準備をしなかった。


「ただ……彼らの要望を叶えれば、無償で乗せてくれるかもしれません」


 ユシライヤがそう言ったので、エルスはすぐさま条件をのむ事を決めたのだ。その条件が何であるか、わからないまま。


 馬鞭を握る男性は、いわば依頼人でもある。彼は既に女性を一人乗せていたが、偶然にも彼女の目的地こそヴェルムであった。彼女の方から相乗りにしましょうと提案されて、一行は承諾したのだ。


 馬車は山道を進んでいた。慣れない気圧の変化で耳が塞がれてしまう感覚にエルスは辟易していたが、下りの道が続いているので、そろそろその苦痛とも別れの時が来るだろう。馭者の言うように、もうヴェルムの近くまで来ているのだと想像する。

 そう思った矢先。

 突如、馬の嘶きと共に、馬車は均衡を崩した。石にでも躓いたのかという想像は、次いで聞こえてきた馭者の男性の悲鳴で、悪い意味で打ち砕かれた。何の指示も出されないまま、馬車は動きを止めてしまった。

 様子を見ようと、端に座っていたユシライヤが視線を外に移した。すると、馭者は馬車を降りてしまっている。酷く怯えた様子だ。誰かに刃物のような物で脅されているように見えた。


 悪い予感ほど的中してしまうのは何故だろうか。その時、エルスは多少なりとも自分の決断を後悔しただろう。

 もし、危険が迫るような状況になった時には、女性の無事を何よりも優先する。必要であれば戦いに身を投じて欲しい--それこそが、馭者に差し出された条件。つまり、彼女の護衛役としての同行でもあったのだ。


 しばらく様子を窺っていると、馭者がこちらを気にするように見ていた。彼を脅すような、数人の男の声。「じゃあ、そいつはそこに居るんだな」と言っていたのが、エルスらにもはっきりと聞こえた。

 それを合図にしたかのように、武器を携えた者がどこからか次々と姿を現した。エルスらの馬車は僅かな時間のうちに囲まれてしまった。

 狙われているのは“彼女”だろうか。しかしその女性は平静を保っていて、一切取り乱さない。


「ユシライヤさん。私が彼らの相手をします。貴女はエルスさん達と共に、彼女を連れて何処か安全な場所へ逃げてください」


 そう指示を出したターニャに、先に応えたのはエルスだった。


「ターニャ一人じゃ無理だよ!」

「私は平気です。貴方を危険に晒さないと約束しました。早く行ってください」


 しかしユシライヤは、ターニャの指示を払い退けるように、その場を動こうとはしない。


「駄目だな。お前は一人で背負い込んだつもりだろうけど、その逆だ。この状況で、私達が無事に逃げられるとは思えない。この場で奴等とけりをつける」


 彼女は、ここに残りターニャと共に戦う意思を伝えたのだった。


「ぼ、僕も戦えます」


 彼女に続くように名乗りを挙げたのはエニシスだった。


「紋章の術は上手く扱えないかもしれません。でも、僕には……これも有るから」


 彼はそう言って、トアの村で調達した武器に手をかけた。


 彼らはまず、馬車を安全な所へ退避させようと考えた。その為に対象を自分達に向けられればと、自主的に姿を見せる事にした。それは挑発であった。

 剣を構えたユシライヤが一人、馬車を降りる。ざっと十数人。その男達を相手に、彼女は言い放つ。


「退いてもらおうか。この中に居る人間を、お前達の汚い手で触れさせる訳にはいかない」


 彼女を見て、何やらこそこそと話し合いをしていた賊は、怯える馭者には見向きもせず、ユシライヤ一人を狙ってきた。

 ただ一点しか見えていない、その単純な攻撃を避けるのは彼女には容易いものだった。立ち向かってくる敵を、次々と薙ぎ払う。

 とは言え、数では明らかに劣勢だ。その差はユシライヤの想像を越えていた。大勢に囲まれ、すんでのところで反撃が間に合わなかった。生じた隙に群がる男達の進攻。背後をとられ、受けた背中への衝撃が、ユシライヤの表情を歪ませた。

 動きを封じ込めた男は、抵抗を見せる彼女の相貌を、舐め回すように凝視する。


「一致しすぎてるんだよな、変装すらしてねえなんて、舐められたもんだぜ」


 目の前に近付いてきた別の男がそう言って、手にしている紙を広げて見せた。それはただの紙切れなどではない。彼らはわざとらしく、ユシライヤの顔とそれを見比べてはほくそ笑む。

 描かれているのはユシライヤに似せた絵、その下には金額を表す数字、およそ民間人の年収にあたるであろう額が提示されている。最下部には依頼主の--そこには、国王代理としてシェルグ=ベルダートの名が記載されていた。

 王都から行方を眩ました反乱者として、ユシライヤには賞金がかけられていたのだった。


 金に目が眩んだ、ならず者の集団だ。手配書とも言えるそれを、楽しむように見せびらかして、ユシライヤの首筋を撫でるように、短剣をあてがわせる。

 男達は誰一人として、自身を狙う別の視線に気付けずにいた。

 風を薙いだ何かが、ユシライヤを捕らえる男の右手を掠めて、行き場を無くした短剣が地の上に落ちる。手の甲を傷付けたものが何であるかが判らないうちに、二度目が彼の頭部を掠めた。

 飛来してきたものが着地するのを確認すると、それは矢だった。何処から放たれているのか、男達は辺りを見回す。

 すると、その内の一人が、木陰に隠れて弓を構える少年の姿があるのに気付いた。いつの間に陣取られたのか、その理由は思い返すまでもない。赤髪のお尋ね者に気をとられ過ぎて、その仲間の存在を視野に入れなかったのだ。

 滴る血と悔しさに頬を滲ませながら、負傷の男は若き射手のほうへと向かっていく。近接戦では弓を武器にする小柄な相手など恐ろしくはない。

 しかし、もう一人の仲間がそれを許すはずが無かった。

 エニシスに意識を向けた男の腕が、まるで固い金属を叩いて跳ね返ったかのように押し戻される。何も見えないのに、確実に何かがそこに張られていて、攻撃は幾度も弾き返されてしまう。

 その理由が解ると、男はたじろいだ。エニシスの後方で、ターニャが術を唱えているのが見えたのだ。彼の周囲に結界を張られたのだろう。常人には成し得ない術の行使に、男は「天上人が居るなんて聞いてねえ」と、情けない声で叫んだ。

 その男が後退すると、同じく他の者も前進を躊躇した。正しくは“天上人”という言葉に恐怖を抱いた。

 ターニャがその場に姿を現し、詠唱を始めた彼女の足元に紋章術の円陣が描かれた瞬間、彼らは「敵う訳が無い」、「あの金額では割に合わない」といった事をそれぞれ口にしながら、散り散りに退却していった。


 程なくして、辺りは静閑を取り戻した。

 ターニャが真っ先にユシライヤへと駆け付け、治療すべきところは無いかと聞いてくる。ユシライヤが拒否したので、「何事も無くて良かったです」と、ターニャは安心したように微笑んだ。


 安全を確認して、エルスも馬車から降りてくる。どうやら馬車にも危害は加えられていないようだ。


「ターニャもエニシスも凄いんだな! ユシャが捕まっちゃった時はびっくりしたけど、二人のおかげで助かったんだ。なあ、ユシャ」


 彼が同意を求めるように顔を覗き込むので、従者は渋々と肯定するしかなかった。


 そこに、同行者の女性が彼らに近付いてくる。隠れてしまった馭者の姿は、そこからでは見えない。


「彼、もうあなたたちを乗せたくないって言ってるわ。犯罪者になりたくないからって。王都へ連れていけば良いのに、何故そうしないのかしらね」


 女性は愉しそうに笑みを浮かべながら言った。エルスは何か言い返そうとしたが、従者に止められてしまった。自分達がした事の危うさは理解していたはずだが、それでもエルスは悔しくて、言葉を飲み込むのに精一杯だった。


「私はね、実はあなたたちみたいな子は嫌いではないの。でも確かにその髪色は目立つわね」


 女性は鎖骨の辺りの留め具を外して、自身の頭部から肩までを覆う頭巾を脱いだ。隠れていた素顔が露になる。波がかった金髪と美しい白肌の、どこか雪の冷たさを感じさせるような女性だった。

 彼女はそれをユシライヤに差し出して、「じゃあ、またね」と、陽気に手を振って、馬車へと乗り込んだ。


 まるで先程逃走した男達のように、馬車は走り出す。その姿が遠目に小さくなっていくのを黙って見つめた後、エルスは飲み込んでいた言葉を口にした。


「自由になりたいってだけなのに、それがどうして罪になっちゃうのかな」


* * *


 そこから数十分歩いたところで、景色が変わり始めた。国境を意味する、高く聳え立つ石壁。円型に拡がるそれに囲まれているのが、ヴェルムの街だ。


 この街の入口ではまず出国証明書を渡される。ベルダート側からこの街に入ったので、その証明書はフリージア側への入国証明書にもなる。

 ヴェルムがどちらの国にも属さない独立した街となったのは、今から二十数年前。領地を奪い合う関係にあったベルダートとフリージアが、この地で終戦を迎える事となった。 現在のベルダート王妃シャルアーネは元々フリージアの貴族だったが、この時にリオに見初められたという。


 ユシライヤは、香水の匂いがするから嫌だと言いつつも、女性から預かった頭巾を身に付けていた。男達が落としていった手配書の絵が、彼女の特徴を捉えていて、とても良く似ていたからだ。

 検問を何とか回避出来たのは奇跡だろう。「いつも何かを睨んでるような眼が特に似ている」とエルスが言うと、まさに彼女のその視線が鋭く突き刺さって、彼は失言を謝った。


 街を見回せば、至る所にそれと同じ物が貼られていた。ユシライヤという一人の人間に、大衆の瞳孔が向けられる事になる。厄介な事になったものだが、一つ疑問があった。何故対象がユシライヤなのか。王都としては、エルスの捜索を第一に優先させるべきではないのか。

 しかしそれは彼らにとって、ある意味では好都合でもある。


「自分一人が捕まれば済むと言うなら、その方が良いでしょう」


 ユシライヤはそう言った。


「別行動をとれば良いんです。こちらに眼を向けさせれば、あなたの出国が人目に付かないかもしれません」

「でも……!」

「自分とて捕まりたい訳ではありません。すぐに追い掛けます。ですから、ターニャさん達と先にフリージアへ向かってください」


 彼女自らエルスの元を離れる意思を見せたのは、今までに無かった。名前を呼べば何時だって側に来て、従ってくれていた。それは従者というだけでなく、自分を慕ってくれているからだとエルスは思っている。

 だからこそ、今の状況で彼女の決断を拒否するのは裏切りになると思った。不安が残りつつも、彼は頷くしかなかった。



 彼女を一人残して、三人は街道を北へと進んだ。国境の街に相応しく、様々な人間が行き交い、雑踏に紛れて溶け込んでしまえば、案外目立たないものだった。

 しかしエルスの足取りは重く、何度も立ち止まってしまう彼に、いたたまれなくなったターニャが声を掛ける。


「やはりあの時、報告をするべきではなかったのですか?」


 彼女が言うのは、紛れもなく王城を黙って出た時の事だ。


「あなたたちが信用して下さったように、王都の方にも事情を理解して頂ければ、隠れる必要など無いのです」

「無理だよ。それが母上に許されるんだったら、僕は今まで、何度だって外に出られてるはずなんだ」


 エルスが産まれてから間もなく下したという王妃の決断は、彼が成人を迎える十八の齢が訪れようとするこの年まで、一度も揺るがない。たとえエルスの身に命の危険が迫っていると言おうが、それを提示したのが天上人だとすれば、彼女は聞く耳を持たないだろう。それ程までにベルダート王国は--いや、王妃は異端の者を拒絶しているのだと、王城に仕える者は熟知している。

 エルスに会うまでに、ターニャを警戒の目で見る者など幾らでもいた。しかし、彼女に争いの意思が無いと解ると、彼らは抱いていた嫌悪を露にする事は無くなった。だから彼女は信じてほしいと願った。それでもエルスがそこまで言うなら、彼の母親はどこか特別なのだろう。


「では、あなたにとって彼女という存在は、私達よりも、あなた自身よりも、あなたの行動において大きな意味を持つお方なのですか?」


 ターニャのその発言が、エルスの歩みを停止させた。


「私達ミルティスに所属する者からしてみれば、例えば創始者様のような、絶対的服従を誓う関係なのでしょうか」

「そういう訳じゃないよ。でも」

「オルゼンは、あなた達ユリエスとは異なり、家族というものを形成しません。生まれた子は直後、独立します。ですから、申し訳ないのですが、そういった感情が、私には正直……理解できないのです」


 そう言われてしまえば、もはやエルスには返すべき言葉が無かった。


 数年前、城内を駆け回っていた時、侍女達が仕事の合間にこそこそと話しているのを聞いた事がある。一人目を喪った数年後に、王妃が二人目を身籠ったということ。しかし、その誕生は反対されていたこと。継承者にはシェルグが居るのだから、病身に更なる追い打ちをかけるような必要は無いのだ、と。

 だが、周囲の反対を押し切って、シャルアーネはエルスの命をこの世に迎えた。彼女の経過を医師が付きっきりで看なければならなかった為に、生まれたばかりのエルスは侍女達の手で育てられた。故にエルスが彼女を母だと認識したのは、幾つかの言葉を覚えた後、暫く経ってからの事だった。

 その頃、父のリオの姿は既に無かった。実は何度か言葉を交わしていたらしいが、あまりにも幼い頃の事なので、エルス自身は覚えていない。

 言うなれば、両親の手の温もりをエルスは知らない。それでも、その話を聞いてからは、母を家族として特別な存在だと感じるようになった。当時自分の誕生を望んでくれていた、唯一の人間だったから。


「あ、あの……」


 黙して立ち止まってしまっていたエルスは、呼び掛けられて我に返る。


「向こうに、ベルダートの騎士さんが居ます」


 進行方向を指して、エニシスがそう言った。森で遭遇した騎士と同じ団服を身に付けた人間が見えたのだ。

 しかし、二人にはその姿が確認できない。


「隠れるん、ですよね?」


 エルスはすぐには答えなかったが、エニシスが彼の手を引いて、三人は細い路地裏へと入り込んだ。


 暫しの間、人の流れに紛れながら身を潜めていた。すると確かに、ベルダートの騎士団員が一人、エルスらには気付かないままにその場を横切っていった。

 その姿はほぼ一瞬しか捉える事が出来なかったが、長身の彼は雑踏の中でも目立っていた。後ろで束ねた漆黒の長髪、右目を覆う眼帯。エルスにはそれが誰であるかが、すぐに判った。

 ベルダート騎士団王都護衛軍指揮官、ロアール=イスナーグ。まるでエルスにとってのユシライヤのように、常にシェルグの側に身を置くが、最近は彼の姿を見掛けないと思っていたところだ。

 ロアールとはあまり話した事が無い。彼の持つ独特な威圧感は、エルスにとっても近寄りがたい雰囲気を纏っている。


 間もなくして、同じ方向からもう一人の騎士がそこを通った。彼は一帯に貼られた手配書を隈無く回収しながら、足早にロアールを追い掛けた。

 慌ただしい騎士の様子に、周囲も疑問を抱いたようだ。彼が駆けていく方向へと皆の視線が集中する。どよめきが起こる中、誰もエルスらを気にしている様子など見受けられない。

 今こそが逃げ出すには契機だと言える。

 しかし、エルスは他の人間と同じように、騎士が向かった南側へと眼を向けたまま、反対側へは動こうとしない。

 きっとユシライヤの存在が暴かれてしまったのだ。そう思ったら、もう抑えきれなくなっていた。


「ごめん。やっぱり駄目だよ」


 無謀にも騎士が向かったその方向へと駆け出した彼の背中を、二人は止めなかった。


* * *


 お尋ね者が一人の男によって捕らえられたらしい、という誰かの噂は、瞬く間に他へ伝っていって、多くの人間をその場に寄せ集めた。

 円を描くように民衆が囲むのは、派手な服に身を包んだ柄の悪い男と、彼に背を捕らえられたユシライヤ、彼女と対面するように立つベルダートの騎士団長ロアール、そのすぐ後方で従う彼の部下だ。


「抵抗の意思を見せない事だ。これを使わずに済む事を……俺も望もう」


 淡々と忠告をするロアールが手を掛けるのは、腰の長剣。未だ鞘に納められてはいるが、牽制の為であればたとえ相手が部下とはいえ、剣を向けるのに躊躇いは無いだろう。

 まさか聞こえていない訳ではないだろうが、ユシライヤはさも面倒臭そうに舌打ちして、自らを縛り付けようとする男の鳩尾に肘打ちした。

 崩れ落ちる男を心配し民衆が集まるが、ロアールの視線はユシライヤから片時も離れない。


「使えば良いじゃないですか、こんなに一般の民が集まるこの場所で」

「ならば……その前に一つだけ伝えておこう。あの御方の慈悲であると」


 その言葉にユシライヤは一瞬驚きの表情を見せたが、間を置かずに「馬鹿馬鹿しい」と苦笑した。


「その自信過剰な気取り野郎に、余計なお世話だ、って伝えておいて貰えませんか」

「……戻るつもりは無いという事だな」


 その空気に呑まれてしまったのだろう、部下は指揮官の後方で立ち竦んで、瞬きも忘れてしまっていた。彼が回収した手配書を差し出すと、ロアールは眼瞼をすぼめた。

 一陣の風が吹いたかと思われたその刹那。宙を舞った数十枚の紙、その内の一枚の中央に描かれたユシライヤの顔の絵を、ロアールの持つ剣先が貫いていた。


「これは紛い物だ。陛下の筆跡とは異なる。すべて処分しろ」


 振り払われて、その紙切れは破れて舞い落ちた。

 彼の部下は、思わぬ一閃に恐怖を覚え、手を震わせる。彼の目には署名が偽物かどうか判別が付かなかったが、指揮官に短く敬礼をして、地上に散らばった紙をすべて回収した後、街のあちこちを見渡しながら南側へと向かっていった。


「おい、どういう事だ……偽物だって?」


 苦痛に顔を歪めながら、男はロアールに問う。


「言葉通りだ。陛下の許可を得た正式な物ではない。名を騙った者こそ罰せられるべきだ。或いは……それがお前か」

「じょ、冗談じゃねぇっ!」


 ロアールは男に視線を移しただけだが、まるで剣でも向けられたかのように、彼は怖れおののいてその場から逃げ出した。


 すると、次第に民衆も興味をよそに向けて、それぞれがまた別の目的へと散っていく。

 ついに二人の他には誰の姿も見えなくなった。


「貴方も同じですか」


 と、静まり返ったその場所で、ふとロアールが問う。

 ユシライヤは周囲を見回す。それが自分に向けられたものではないのは確かだが、他には誰も居ないものだと思っていたからだ。

 すると、建物の陰から、問われた方の人間が恐る恐る姿を現した。ユシライヤは思わず、そこに居るべきではない彼の名を呼んだ。


「エルス様……どうして」


 エルスはまずユシライヤに視線だけで謝って、すぐさまロアールに返答した。


「ごめん、ロアール。今だけは戻れないんだ。でも、絶対に帰るから」

「……そうですか」


 暫しの沈黙の後、ロアールが言葉を続けた。


「ならば、陛下と妃殿下にそう伝えておきましょう。くれぐれもお気を付けて」


 そう言うと、あまりにもあっさりと、ロアールはその場を去っていった。


 その影が完全に見えなくなると、エルスと同じ所で隠れていたターニャとエニシスも現れ、ユシライヤの無事を確認しては安堵する。


「放っとけなかったんだ。だってユシャは僕の護衛騎士だから」


 エルスがそう言うと、ユシライヤはようやく緊張から解かれた顔を見せて、「意味が解りません。逆ですよね、本来は」と呟いた。


* * *


 扉を開けると、からん、という鈴の音と、「いらっしゃい」と店主である中年男性の声が彼の耳に届いた。

 しかしロアールは物を購入しに来た訳ではない。店主の男性は、何も言われず姿を見ただけで、彼がベルダートの騎士団長だという事と、彼がここに来た目的を理解した。「ちょいとだけお待ちください」とその場を離れ、ほんの数分で彼は人を連れ戻ってきた。

 連れられてきたその女性は、ロアールが待ち合わせていた人物である。とても容姿端麗な女性だ。彼女の出身が雪国フリージアである関係もあるのか、美しさの中にどこか氷の冷たさを感じさせる。

 ロアールと女性は店主に一礼を済ませ、店を後にした。


「ご挨拶が遅れました。私がベルダート王都護衛軍を指揮しております、ロアール=イスナーグと申します。フィオナーサ妃殿下、お迎えにあがりました」

「あら、妃殿下だなんて。気が早いわね。でも私、そういう男の人は嫌いじゃないわよ」


 からかうように彼の頬に指を押し当てて、フィオナーサは愉しそうに笑った。

 そういう対応に慣れていないロアールは、その手を払い除ける訳にもいかず、ただ頬を染めながら耐えていた。


「あの……彼らの事ですが」


 ロアールがそれを口にすると、その続きも聞かないうちに、フィオナーサは彼の頬に当てた指を、そのまま彼の口許へと滑らせる。


「ええ。しばらく自由にさせてあげましょう。そのほうがきっと、あの子達の為にもなるから」


 彼女の笑顔は、何かを含んでいるようにも、純粋なものにも見える。彼女の感情を汲めるようになるには時間がかかりそうだ、とロアールは思った。


* * *


 エルスが王城から消えたその日から、幾つかの週が時を巡っても、シャルアーネはずっと寝台の上に臥せったままだ。

 医師によれば、うなされた後に必ずと言って良いほど、息子の名前をうわ言のように繰り返すのだという。

 先程シェルグが彼女の手を握っても何も応えなかった。その時は近いだろう、と彼は悟った。


「エルス様のお姿をご覧になられれば、あるいは……」


 直属の医師はそう言った。彼は何年も彼女を看てきている。その経験から、不安定になりがちな彼女の心身の安定を、エルスの存在で保てている--彼がシャルアーネの命を長引かせているという気がするのだ。


「しかし義姉上も、奴の身体の事は把握しているだろうに。何をそんなに不安がるのか、理解できんな」

「恐れながら、そういう意味で申し上げたのでは……」

「解っている。奴がここに戻るかどうかという話だろう? だが、それこそ杞憂に過ぎないと言っている。奴らが他に留まる場所など存在すると思うか?」


 医師が何も言い返さないので、シェルグは満足したように笑みを浮かべる。


「まあ、それも……ごく僅かな間であろうがな」


 あと数日も経てば、自分に忠実な騎士が戻ってきてくれるだろう。自分を慕ってくれる人間と、自分に従わずにはいられない人間を連れて。

 そうなれば、こんな些細な気遣いなど不要になるのだ。城の最上階がこの部屋であるべきだと、誰が決めただろうか。


 彼が部屋を出ていった直後、シャルアーネは虚ろな記憶の中で、精一杯の声を振り絞って言葉を発した。ここ最近で医師が耳にした中で、一番長い言葉だった。


「エルス……あの子が、あなたを……連れて、いったのね……やはり、あの子は……あの場所に……」


* * *


 二国を南北の直線で繋ぐ大きな街道を進むと、街の中心には円型の広場が存在した。中央には、いわゆる国境線を意味する為に造られたもので、ベルダート側を示す位置に半円型の噴水がある。立派なもので、ある程度離れた場所から見てもその位置が判る位には、高いところまで水が噴出されている。

 この街の構造は複雑にも思えたが、あらゆる方角から放射線状に細道が繋がっていて、噴水を目印としてこの広場に辿り着けるようになっているようだ。


 その道の一つに、野次馬が出来ていた。何人もの男達がその場を取り締まっている。制服がベルダートのものではないので、恐らくフリージア側の兵士であろう。

 見れば、先程ユシライヤを捕らえていた男が、彼らに拘束されている。

 ユシライヤの姿を見て、警戒にあたっていた一人の兵士が近付いてきた。彼は、「偽の手配書を見抜けなかった」、「民衆の認識に誤解を生じさせてしまった、そして何よりも貴女に迷惑をかけた」と詫びた。

 国王を騙り、侮辱し、無実の者を犯罪者に捲し立てる、という卑劣な手段で金銭を得ようとしたとして、男には制裁が加えられるそうだ。

 もがきながら無実を訴える男は、喧騒の中、為す術もなく連れていかれた。


 たとえ自分に賞金を懸けられたのが正式ではないとはいえ、許可を得ずに王城を出たのも事実。責務を放棄したとしてユシライヤにも罰を受ける覚悟はあったので、今の状況は思いがけないものだった。哀れにも思える男の背中が視界から消えるまで、彼女はじっと見つめていた。


 ふと、彼らの真上から、冷たいものがふわり、と落ちてくる。

 雪だ。ベルダートでは見られない光景に、エルスの心は踊った。フリージアでは年中これが積もるのだと、本に書いてあったのを思い出す。ベルダートとは殆ど境界など無いのに、ここまで気候が異なるとは不思議なものだ。


「本当に、国境まで来たんだ」


 今更なのかもしれないが、エルスはそれを改めて実感する。


「はい。フリージアへ入国したら、先ずは聖都シェリルへ向かいましょう」


 ターニャが言うには、最終的な目的地ミルティスへ転移が可能な特別な場所の事を、『イースダイン』と呼ぶらしい。遥か過去に使われていた古い言語で、現在の言葉に訳すと『大地の始まり』を意味するとの事だ。

 フリージアに存在するイースダインに一番近い街が、その聖都シェリルなのだ。


「昔の人って、今とは全然違う言葉を使ってたんだな。なんで変わっちゃったんだろうな」


 エルスが疑問を抱けば、まるで待ち構えていたかのように、ターニャは立ち止まり嬉々として話し始めた。


「使用言語の変化については詳しく解っていません。ただ、実は現在でも日常的に使用されている言葉も存在するのです。例えば、日時を表す際に用いる色の呼び方は、レデ、ジオ、イー、ギラ、ルビ、リフの六種ですよね。これはまさにミルティスの創始と共に創られた言葉で、紋章が初めて区別化された事によって……」

「あ、あのさ。とりあえずその話は後にして、先に進んじゃわないか? さ、寒いし」


 自分から聞いたにも関わらず、それでもエルスはなるべく彼女を傷付けない言葉を選んだつもりだ。つい先程まで雪景色を想像して楽しみにしていた者が発したにしては、相応しくない台詞ではあるのだが。

 しかし、白く染まる吐息が、気温の低下を改めて感じさせる。ターニャは説明を遮られた事に肩を落とすも、「確かにそうですね」とエルスの意見を肯定した。


 彼らが次に目指すのは、白銀の聖都シェリル。穢れなど無いように思えるその色は、様々な足跡が刻まれてゆく為のものなのかもしれない。


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