act.2
最初の頃こそ、見るものすべてが新しく、綺麗な色の花、飛び回る小さな虫、鳥や動物、初めてのものを捉えては、沸き上がった喜びを抑えきれずに、恐れも抱かず飛び付いていった。
しかし、長い時間を歩いた経験に乏しいエルスは、繁みの中を進むにつれて、度々疲れを訴えた。距離をおかないうちに、少し開いた所に出ると、四度目の休息をとる事になった。
エルスは年輪の上に腰を下ろして、ターニャは自らが造り出した、浮かんだ光の玉の上に座った。ユシライヤは立ったまま、辺りを気にするように目配せした。
先の見えない程に覆い繁った木々。見回りの騎士団員に見付からないようにと正規の道を歩いてこなかったので、この森を抜けるのにはまだ時間がかかりそうだ。
「空を飛べたらいいのにな。お前が僕の部屋に入ってきた時みたいに、ぱーって移動するとか」
「それは……不可能です」
天上人の少女ターニャに誘われて目指すのは、ベルダート王国の東、陸続きの隣国フリージアだ。ミルティスへ戻るには、数える位しか存在しない特定の場所から転移するしか、方法は無いのだと言う。ここからはフリージアに現存するものが一番近いとの事だった。どうやら、彼女の転移術も万能ではないらしい。
「まさかフリージアまで行く事になるなんて。天上界からまた王都に戻ってくるのは、かなり先になりますね」
と、地図を眺めながらユシライヤが言った。
エルスが城の外を経験していないのならば、その護衛として付き従うユシライヤもまた、王都を出た事は滅多に無い。フリージアに関する知識は、机上で拡げた紙の中でしか得られなかった。実際に歩いてみれば、その距離は途方のないものだとわかる。
彼の思いに従ったとはいえ、思い切った決断をしたものだ。
「厳密に言えば、ミルティスは天上界ではなく、二つの界の狭間にあります。そもそも世界は天と地に分かれているわけではないので、天上界という言葉自体が誤りです。正しくは……」
「ちょ、ちょっと待って。もう、頭ぱんぱんだよ」
ターニャの口調は、まるで教本に敷き詰められた文字のようで、エルスは頭を抱える。ただでさえ急な出来事が起こりすぎて整理がつかない。
「申し訳ありません。私達の都合に、貴方を巻き込んでしまいましたよね」
「いいんだけどさ。だって、疲れてるけど、今楽しいから」
エルスがそう言うと、ターニャは安心して微笑んだ。そんな二人の和やかな空気を裂くように、ユシライヤが発する。
「それでも、少なくとも城の中よりは危険である事には変わりないんですけどね。さあ、急ぎましょう」
彼女は二人が立ち上がるのを待たずに、自らを先頭にそそくさと先へ進んでいってしまう。エルスは後を付いていこうとして、後方で立ち止まり俯くターニャに気付いた。
「私はやはり彼女に嫌われていますね。信用されるには、どうしたら良いのでしょう」
この森をさ迷う間、ユシライヤとは一度も視線が合わない事に、彼女は憂いを感じていた。
「嫌いとか、そんなんじゃないよ。どうしたらいいか、ユシャにもわからないだけだと思う。最初は僕にもこんな感じだったよ」
「そうなのですか?」
「あいつもきっとターニャを信じてくれるよ。だって僕がそう思うから」
そう言うと、彼は数歩進んだ先でターニャを手招きする。
たとえ彼の足跡をなぞるように付いていこうとも、今までまったく同じ道を歩いてきた訳ではない。だから、ターニャには彼の理屈を理解できなくて、少し羨ましくもあった。
* * *
青年グランドルは、この森に配備されたベルダート騎士団員の一人だ。騎士を代々受け継いできた家系で、本人は剣を握るのも、民の安全を守るための警備も、進んでやりたかった訳ではなかった。
最近、彼の周りでは、ここを迷いの森と呼ぶようになった。入り組んだ道でもないのに、森に入ったきり何故か出てこられず、未だ見付からない人間が何人かいると言う。ここを無事に通過した者によると、天上人を見ただとかいう噂もある。
グランドルは訓練をさぼった為に剣を上手く扱えないので、その噂は嘘であってほしい、と願うばかりだった。
そんな考えが過る中、彼は木々に射し込む光を見出だした。トアの村のほうへ抜ける出口だ。
何事も無かった、と胸をほっと撫で下ろし、そちらへ向かう。
しかしそれも束の間、彼が油断したその瞬間、隠れていたであろう何かが、背後から姿を現したのだった。
* * *
とある一本の大木を見て、ユシライヤは立ち止まった。後方の二人も脚を止める。
「さっきから同じところを回っていますね」
似たような景色に出ると、なるべく別の方向を選んで歩いてきたはずだ。だが、目印として付けた傷のあるその大木を、彼女は既に何度も目にしている。まるで何かに操られるように、その場所に誘導されているような感覚だ。
それを聞くと、流石にエルスの表情にも疲労が現れ始めた。「もう歩けないよ」と、その場に座り込んでしまう。
先の長い道程。無駄に体力を浪費する訳にいかず、ユシライヤも彼の手を無理矢理引いたりはしなかった。
三人が途方に暮れていると、どこからか落葉の踏まれる音が聞こえてくる。それは人の足取り。
森を見回る騎士かもしれない。これだけ近付けば、最早逃げる事も叶わず、姿を見られずにやり過ごすのは不可能だろう。やむを得ずユシライヤは構えた。 怖じ気付かせ、口封じをさせようと考えたのだ。
しかし、剣が鞘から抜かれる事は無かった。
彼らの目前に現れたのは、一人の少年。年の頃は十代前半と思われる。たった一人でこんな場所を歩くには相応しくない軽装で、何も手にしていない。額には包帯が巻かれている。
少年に最初に近付いたのはターニャだった。
「きみ、大丈夫? どこか他に痛む箇所は……」
治療を施そうとターニャが額に触れると、少年はあからさまに拒絶した。彼の手に押されて、ターニャは姿勢を崩して地面に打ち付けられたのだ。
しかし、間もなくして少年は我に返ったように、自らターニャに手を差し伸べる。
「ごめん、なさい……そんなつもりは」
「私は大丈夫。驚かせちゃったね」
「いえ、こちらこそ。これは……怪我とかじゃなくて」
その様子を見たユシライヤは、武器に添えていた手を離す。
「誰かとはぐれたのか、それとも迷い込んだのか。可哀想だとは思うが、あいにく私達もお前を助けられるような状況じゃないんだ」
冷たい事を言ったかもしれないが、少年は哀しむ顔は見せなかった。
「いえ。僕は、ずっとこの森に居るんです」
少年の意外な返答に、エルスが割り入ってくる。
「ずっとって、住んでるって事か?」
「そう、なりますね。迷い人さんが、ここのところ多いから……僕は道案内をしているんです」
「じゃあ、ちょうどよかったじゃん! 僕たち迷ってるんだ。案内たのむよ」
すっかりエルスはその気になって、疲れが吹き飛んでしまったように嬉々として少年に近付いた。快く頷いた少年が歩を進めると、そのまま彼に付いていく。
後方では、不安そうにターニャが疑問を投げ掛ける。
「あの、ユシライヤ……さん。私達、付いていって良いのでしょうか」
それにユシライヤは応えなかったが、少年の背中へ向ける彼女の鋭い視線に、ターニャはそれ以上何も言えなかった。
彼を先頭にして歩いてからは、森はまるで景色を変えたかのようだった。暫くぶりに、動物たちの姿を見掛け、鳥の囀りを聴いた。見た事の無い植物も生息していて、エルスの足取りは軽くなった。
「なあ、何で森に住んでるんだ?」
不意に辺りを見渡しながら聞いたので、少年が立ち止まったのに気付かず、彼と衝突してしまった。エルスはすぐに謝るが、少年はそのまま立ちすくみ、下を向いて何も言わなかった。
「変な事言っちゃったかな? ここって確かに楽しいけど、寝るとことか無いし、料理とか出てこないし、不便だろ?」
エルスにとって、生活する上での当たり前のものがここには存在しない。故にそれは単純な疑問だった。
「僕は不便とは感じていないですよ。ここしか……知らないんです」
そう言って、陰りの道を少年はまた歩き出す。
エルスも城の中の生活しか知らない。不自由だとすら感じていた。自分がもし、この森から出られないとしたらどうだろうか。彼と同じように答えただろうか。
それから間も無く歩いたところで、眼前の世界に光が射し込んだ。エルスがそちらへ向かおうとするも、背後から従者に止められる。
「誰かいます。恐らくは騎士でしょう」
葉陰に隠れて様子をうかがう。銀の甲冑と青色の装衣に身を包むのは、確かにベルダート騎士団員のグランドルという男だ。こちらには気付かない。むしろ一点を見据えて、そちらへ剣を向けている。どうやら何かと対峙しているようだ。
その相手が彼に襲い掛かった。猫に似た小さな獣だ。騎士はそれを避けたが、警戒と威嚇で毛は逆立ち、獣の方も唯一人の男を標的として鋭い眼を向けている。グランドルは剣を当てもなく振り回すだけだ。
ユシライヤはそれを彼の隙と見た。
「今のうち、彼の意識がこちらへ向く前に行きましょうか」
「でも、あいつ大丈夫かな。助けてあげられないかな」
どこか怯えたようにも見える騎士にかつての自分を重ねたのか、エルスはそんな事を言った。
「自分は貴方の護衛です。今の貴方にとって不利になるものは、なるべく回避したいんです」
「だって、同じベルダートの騎士だから仲間じゃないか」
仲間、という表現に束の間の沈黙を経て、ユシライヤは一度飲み込んだ言葉を口にする。
「相手からそう思われていなくても、ですか?」
彼女が閉ざす心には、まるで入り込む余地が無かった。それに対する答えをエルスが紡ぎ出す事は出来なかった。
その間も、獣は怒りを忘れる事なく、騎士に威嚇を続けていた。少年はその様子を茫然と見ていた。しかし耐えきれなくなり、その対峙する方へと駆けていく。
「キュピィ、もう止めるんだ」
不意に姿を現した少年。近付いてくる彼に気付いた獣は、名を呼ばれて一瞬すくんだ。
その隙を逃さなかったグランドルが、武器を握る腕に神経を集中させる。追い詰めた獣に、一閃を浴びせた。
たとえ魔獣であろうとも赤い血は流れる。裂かれた表皮から飛散したそれが自身の顔に付着すると、グランドルは手を震わせた。動かなくなった獣を斬り付けたのは、その手に持った剣なのだ。自分が恐ろしくなった。一つの命を奪ったという事に。思わず剣を捨て置き、絶叫し、後退した。
「ねえ、キュピィ……どうしたの?」
少年は獣に呼び掛ける。返事が返ってこなくとも、相手の身体を揺さぶって、何度も彼はその名を呼んだ。もう一度抱き上げれば、きっと応えてくれて、また自分と一緒に歩いてくれると思った。
しかし、認めたくはなかっただけで、本当は彼も既に理解していたのだ。赤く染まった地の上に、雫が落ちた。
涙で視界がぼやけても、影像は次々と頭の中を過っていく。少年の記憶は、この森で拾われたところから始まる。それ以前の事は覚えていない。自分を最初に発見した人間には結局受け入れてはもらえず、この森を一人でさ迷う事になった。
ある時、一匹の獣が他の獣に襲われているのを見掛けた。助け出した獣は眼の色が緋色で、他とは違っていた。恐れられるその外見とは裏腹に、大人しく怖がりで、その後も決して他の獣と戯れる事は無かった。
少年は、その愛らしい鳴き声から、獣にキュピィと名付けた。キュピィは孤独な少年にとって、唯一の友であった。
突然の強風に木々がざわめく。急に夜が訪れたかのように、辺りが暗く染まった。鳥や動物といった、他の生命の気配が消えた。
同時に、ターニャの胸に提げられた透明色の石が、僅かながら光を放った。ほのかに赤色を帯びた光は、ほんの数秒でその輝きを失う。
「レデの……紋章術の反応? まさか、あの子は……」
ターニャが少年に見向いた時には、もう遅かった。
大地が轟き、あらゆる所から何かが地中から勢いよく突き出した。それは木の根。姿を現したかと思うと、瞬時に成長し、まるで蜘蛛の巣のように地上を張り巡らせる。
蔓延る根から逃れる事が出来ず、その場の人間は全員が--否、獣の死体を抱きかかえて踞る少年を除いて--木の根に脚を絡め取られてしまった。尚も成長を続けるそれは、対象の全身の動きをも封じ込めて締め付ける。
騎士グランドルは、この森の噂を仲間と話した事を思い出す。犠牲になったであろう人間の話をして、自分ならそんなへまはしない、と笑っていた。苦しみにもがく姿から、その時に張られた虚勢が一気に崩れた。
少年が、男の目の前に佇んだ。抵抗出来ない彼にその視線が突き刺さる。魔獣が受けた痛みをそのまま返すかのように、地中から新たに現れた木の根が、その身体をも突き刺した。
しかし、少年の怒りの矛先はあらゆる方向へと向いていた。抑えきれない感情を放出すると、共鳴するかのように木々が蠢く。
「何が悪いんだ。他とは違う事が、弱い事が、生きている事が」
誰に問い掛けるでもなく、少年はエルスらのほうに近付いてくる。見境の無くなっている彼を、どうやって止められるだろう。
腕の自由を奪われているターニャは、防ぐにも術の発動が出来ずにいた。彼の正体にいち早く気付けなかったのを悔やむ。
「彼は、オルゼン--あなた達の言うところの、天上人です」
異端と呼ばれる存在は、潜むように暮らすものだ。その少年が森を出なかったのも、そういう理由からなのだろうとエルスは思った。
「あの子の怒り、悲しみといった感情が、この森を暴走させているのかもしれません」
彼が森の中で生きていくうちに蓄積してきたもの。そのすべてが解き放たれているような、黒い風が覆う。
「じゃあ、あいつを止めれば治まるんだな」
そう言ったのはユシライヤだった。彼女は自らの力で、まとわりつく木の根を引きちぎる。
答えを聞くまでもなく、武器を携え、ただ一点に少年を見据えて、荒ぶる森の怒りを薙ぎ払い、駆けていった。
拘束を解かれた事に動揺し、少年は脚を止める。自分に向かってくるのが敵意だと理解した。しかし、既にその時には彼女が目前に迫っていた。もはや対抗する術は無い。
その先の光景を想像し、見たくはないと思ったエルスは、一歩も動けず何も出来ない自分を悔やみながら、思わず「やめてくれ」と叫んだ。
力を失った剣撃は、少年の眼下から頬をかすって頭上までの、短い斜線を描くに過ぎなかった。
はらり、と彼の頭部を覆う白い布が裂かれて落ちた。露になった少年の額には、彼の頬を伝うものと同じく赤色の、文字のような模様が刻まれていた。
隠されていた異端者の紋章。それを目にしたユシライヤは一歩後退する。その腕は少し震えていて、次の一手を下そうとはしなかった。
少年のほうも思わぬ一撃に我を取り戻したのか、彼の気が緩んだと同時、エルスらを縛る木の根も力を失って、地中へと戻っていく。霧が晴れたかのように周囲が明るくなった。
解放されたターニャは、倒れているグランドルのほうへと急いだ。彼は意識を失っていたが、幸いにもまだ息があった。彼女が手を翳すと、みるみると傷が塞がれてゆく。
その様子を見た少年が、ターニャも自分と同じ天上人と呼ばれる存在である事に気付いた。
少し遅れて、エルスが従者と少年の元へと駆け付ける。
「良かった、みんなが無事で」
彼が少年の頬を掠めた傷を拭ってやろうとするも、差し出した手は拒絶された。
少年は、ユシライヤの攻撃から身を呈して庇うかのように抱いていた魔獣の亡骸を、今もずっと離さない。しかし、彼らがしてやれる事はもう何も無かった。ターニャの治癒術をもってしても、亡くなったものを甦らせる事は出来ないのだ。
エルスが「ごめんな」と言ったのを、少年が自分に向けられたものであると気付いたのは、少しの間を置いてからの事だった。
「あ……あなたが謝る事じゃない、です」
「そいつ、大切だったんだな」
そう言われて、ようやく少年は獣を両腕の束縛から解放させる。横たわる姿は、永遠の安らぎを求めているかのように見えた。もう苦しまなくて良いのならと、少年はその上に土を被せてやって、死を現実として受け止めた。
すると彼は、覚えている限りの過去を語りだした。
初めにこの森で少年を見付けたのは、幸いにも同族だった。しかし彼は、思うように能力を操る事が出来ない少年を、自らの集落へ受け入れようとはしなかった。森に迷いこんだ他の人間は、少年の額の証を見るだけで恐れたり、襲い掛かったりした。
同族からも、異種族からも、迫害される存在だ。少年は森で一人生きる事を選んだのだった。
「キュピィは、僕の唯一の友だちでした。僕の居場所なんて無い。受け入れてくれる人はもういないから」
「なんで? 森の外には、いるかもしれないだろ」
エルスは事もなげにそんな事を言う。怪訝な表情を浮かべる少年に、エルスは自らの左腕の袖を捲り上げて見せた。彼の二の腕に、うっすらと浮かび上がる白色の複雑な模様。傷跡ではない。少年には、それが何であるか、すぐに解った。
つい最近までエルス自身も気付けずにいたオルゼの紋章は、ターニャにその存在を指摘されてから、そこに現れ始めていた。
「最初の一人、僕がそうだよ。僕とお前って似てるのかもな」
嘆くでもなく、自ら孤独を選ぶでもなく、エルスはそう言って笑った。少年が隠し通そうとしたものを、彼は自ら明かしてきたのだ。
対する少年は何かを言おうとしたが、そのまま力が抜けたように崩れ落ちる。エルスがなんとか身体を支えると、彼が寝息をたてている事に気付いた。
少年を抱えたまま戸惑うエルスに近付いて、口を開いたのはターニャだった。
「やはり、レデ族の子だったんですね」
「れで族?」
「赤色の紋章の持ち主の事です。オルゼンの中でも、狂暴性の強い種族だと言われています」
少年が示した力は狂気的なものだった。しかし、彼自身がそれを望んだ訳ではない。
穏やかに眠る少年に、ターニャは憐れみのような感情を抱いたのかもしれない。
「その子を同行させましょう。力の扱い方を理解していないようでした。もしかしたら、私達ミルティスの創始者様にも、お力添えを戴けるかもしれません」
エルスはその提案を歓迎した。放っておけないという理由で、何より自分がそう願っていたから。
しかし彼女はどうだろうか。その不安を向けられた従者が、溜め息を一つこぼした後で答えた。
「あなたが決めた事に、自分は従うだけです」
「……え?」
ユシライヤが思いの外あっさりと認めたので、エルスは思わず驚いてしまう程だった。
「あなたが城を出ると決めた時にも言いましたが、自分がすべき事は唯一つです。誰が居ようと、それが何人増えようと変わりません」
彼女は、エルスに凭れ掛かる少年の身体を、自ら抱え込んだ。そのまま歩き出したのを、エルスはしばらく呆然と見つめて、その背中を慌てて追い掛けた。その後方にターニャも続いた。
「ユシライヤさん。有難うございます」
「別に、お前に礼を言われるような事はしていないけど」
その言葉は邪険なものだったが、ユシライヤが振り返って応えたので、ターニャは嬉しかった。彼女と初めて目が合ったのだ。
エルスは嬉々とした足取りでユシライヤを追い越して、木々の縁取りから外の世界へと一歩を踏み出した。地平線に近付き始めた太陽。それが隠れてしまう前に、追い掛けてみたいと彼は思った。
ここから先、少しの距離を歩けば、人々が築いてきた暮らしが彩る、トアの村が見えてくる。
彼は未だ、世界のほんの僅かな一片を知るに過ぎない。
規則的な彼女の歩調は、鼓動を刻む音に似ていた。
魂の律動を感じながら、少年は夢の中を彷徨っていた。あるいは取り戻した記憶の断片かもしれない。しかし、夢であって欲しいと願ったのは、呼び起こしたものが悲痛なものだったからだ。
赤い惨劇。小さな村が燃えている。逃げ惑う人々。降りしきる雨。
自身はただ、茫然と佇んでいた。そうしているうちに、村人が恐れ、離れようとしているのは、自分だと解った。自分の掌は、赤く染まっていた。
こちらに近付いてくるのは、腰まで伸びる美しい赤髪の女性。その顔は朧気にしか映らない。彼女が必死で自分に話し掛けているのだが、よく聞き取れない。それに応える事が出来ないまま、彼女が泣き崩れる様を認識した。
自分は何かを奪ったのかもしれない。本当は、何かを守りたかったのかもしれない。
自身が宿す額の紋章は何故、悲劇を連想させるような、血や炎と同じ色をしているのだろう。
「リーベ、リュス……」
ユシライヤの背中に揺られながら、少年はそんな寝言を言った。
* * *
穏やかな風に揺られて落ちた一枚の葉が頬に触れて、グランドルは目覚めた。
自分は何故倒れていたのか思い出そうとして、甦る記憶を振り払う。それに反して自分のどこにも外傷は無かったからだ。
夕空から射し込んでくる光はとても美しくて、考えるのが馬鹿馬鹿しくなった。噂を気にし過ぎて、きっと長くて恐ろしい現実感のある夢を見ていただけなのだ、と。
* * *
暫くの間感じていなかった強い眠気と食欲が、森の外に出た少年を襲った。
エルスらに連れて来られたトアの村で目覚めると、空腹を満たしに訪れた大衆食堂で、周囲の者が唖然とする程の量を彼は欲した。その後は少年の服を新しく見繕う為に様々な所を回った。あまり目立ちたくないと少年が言ったので、派手な物を好むエルスの意見は一切受け入れられず、ターニャとユシライヤで彼の物をすべて選んだ。
四人となった一行の列の最後尾で、ユシライヤが財布の中を確認しては溜め息をついた。
「お前、ちっちゃいのによく食べるんだな」
先程まで少年の向かい側に着席していたエルスが言う。彼が食べ終えても、その何倍もの量の皿が、少年の目の前に積み重なっていた。
エルスは誉めたつもりだったが、その言葉は少年の気に障ったようで、彼の歩行が止まった。
「きっとお腹が空いてたんでしょう。ねえ君、それ、ぴったりだね。似合ってるよ」
ターニャが指したのは、少年の帽子だ。ベルダートの領地において紋章を露にするのは、自ら危険に飛び込むようなものである。額のそれを、「包帯なんかで隠すよりは良いだろ」と、ユシライヤが彼に買い与えた物だった。
彼らは優しく接してくれる。しかし少年にとっては、失った記憶の中にしか存在しない世界が広がっている訳で、そこに容易に入り込む事など出来なかった。笑顔は刹那のうちに消えていく。常に何かに怯えるように、そして疑うように、彼は視線を下ろして、訝しげに周囲を見回すのだ。
少年が目覚めても、彼の大切なものは目覚めない。彼の喪失の悲しみを、時の流れは解決してはくれなかった。
「そういえばさ、お前のこと何て呼べばいいんだ?」
「名前……ですか」
エルスに尋ねられて、少年は悩んだ。自身の名前すら彼の記憶には残っていないが、今まで困ることは無かった。必要のないものだったからだ。
「だって呼びづらいからさ。考えておいてくれよ。明日の朝までに!」
少年がうろたえても彼は構わず、「出来るだけ短くて覚えやすいのにしてくれよ」と付け足して、駆け出した。その後ろで、「勝手に何処へ行くんですか」と、ターニャとユシライヤが慌てて追従する。
似たような境遇だとエルスは言った。しかし、彼は少年には無い何かを持っている。名前を忘れてしまった少年は、その中で唯一、彼に追い付こうと走り出す事すらしなかった。
森を隔ててはいるが王都からさほど距離が無いにも関わらず、トアはのどかな村だ。比較的歴史の浅い村であるせいか、騎士団の干渉が弱く、警備が甘いとも言える。この村の住人には、騎士の存在は珍しいものとしか映らない。むしろ、自分達の生活とは無縁だとすら思われている。
故に、エルスが王族である事はおろか、ユシライヤが王都の騎士である事も村人には気付かれていないようだった。異質な彼女の赤髪は彼らの目を引いたが、遠方からの旅人だろうと思われたに違いない。エルスらにとっては、都合の良い他にはなかった。
身を隠さずとも宿を借りる事は容易いものだった。男女それぞれに分かれて二つの部屋をとった。ユシライヤは「四人で一部屋で良い」とか、「エルス様と自分は同じ部屋が良い」と言い張ったが、エルスが彼女を止めたのだった。
さすがに歩き疲れて、エルスは寝台の上に寝転がると、間もなくして寝息をたてる。
しかし少年の方は、月が雲に隠れても、じっと窓から外を眺めていた。彼の目線は、王都の方角、つまり森のほうを向いていた。
眠れない少年の足取りは、自然と外へと向かっていた。戻ろうとも逃げようとも思っていない。特に何を目的とした訳でもなく、秋の虫の声だけが響く静謐な夜の世界に溶け込んだ。
偶然にも知っている人間がそこに居たので、うろ覚えの彼女の名前を呼んでみる。
「ユシライヤ、さん」
じっとその場にしゃがみ込んでいた彼女は、慌てて少年に振り返った。
「どうした、眠れないのか」
「あなたこそ、そんな所で何をしていたんですか?」
ユシライヤは答えない。少年が黙って近付こうと数歩踏み込んだ所で、彼女に歩みを止められる。その足元には、小さな花が一輪、静かに佇むように咲いていた。少年は知らずのうちに踏んでしまうところだったのだ。
「私の好きな花なんだ」
顔を綻ばせてユシライヤが言った。今までの彼女を見る限り、そんな風に笑うとは思わなかったので、少年は思わず言葉に詰まった。
彼女の隣に少年もしゃがみ込んで、その花を眺める。彼の居た森では見掛けた事が無いものだ。
「というより、私の両親が好きだった。不思議な事に、夜にしか花弁が開かない。他とは違うし、小さくて目立たないだろう?」
「ユシライヤさんの、ご両親って……」
「父は私が生まれる前に亡くなったと聞いた。母が今どうしているかはわからない。何処に居るのか、そもそも生きてくれているのかも。それでも、この花を見ると、どこかで二人に見守られている気がする」
強風に煽られれば、折れてしまいそうな細い茎だ。その存在にすら気付かない者もいるだろう。その命はあまりにも儚い。しかし、種子が蒔かれれば何処にでも花を咲かせる事が出来るのだという。
少年は、心の底から思ったことを口にした。
「生きてる、絶対に生きてますよ。その花があるなら、きっと、この近くに居ると思います」
ユシライヤはしばらく黙っていたが、冷たい風が頬に触れて、宿に帰ろうと促した。そして、二人の足音に紛れ込ませるような、彼に聴こえたかどうかわからない位の小さな声で、「ありがとうな」とようやく返した。
朝日が昇る頃には、身を隠すかのように、その花は自らを閉ざしてしまうだろう。
* * *
「名前! 決まったか!?」
翌朝、挨拶もろくに済ませないままのエルスの少年への第一声は、それだった。
対する少年は、期待に満ちた視線に萎縮しながらも、たどたどしく応じた。
「き、決まりました。あの……エニシス、です」
提示されたその名前を、唸りながらエルスは何度も繰り返し口にする。
「うーん、なんか僕の名前とちょっと似てるけど、まあ長くないし、忘れないだろうし……それでいっか!」
「素敵な名前だね。宜しくね、エニシス」
エルスの許可が下りて、ターニャも喜んでくれた。その様子を、壁に背中を預けて無愛想にして眺めるユシライヤに、エニシスは近付いていった。
「ユシライヤさん。あなたも、そう呼んでくれますか?」
「まあ、別に何でも良いけど」
誰かが側に居てこそ、呼ばれてこその名前だ。だからエニシスは今後その名を名乗る為の自信がついた。自分と境遇の似た、小さな花の名を。
彼は今まで、思い返す事の出来ない過去の記憶を辿ろうとしてきた。それはすぐに叶うものではないだろう。しかし、彼は別の道を選んで辿る事も出来るのだ。たとえその先に繋がる終着の地が、何処であるかがわからなくとも。