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前編
2/14

act.1

 昼食を終えると、いつものようにユシライヤはエルスを迎えに来て、自室へ戻りましょうか、と促してきた。

 彼女の両腕には分厚い教本が積まれるように抱えられている。数時間その本に囲まれて過ごさなければいけない日なのだ。


「ごめん、今日はそんな気分じゃないんだ!」


 エルスはそれだけ言うと、自室とは真逆の方向へ脚を進める。

 無論ユシライヤは納得がいかない様子で眉をひそめたが、止める間もなくエルスが駆けて行ってしまうので、渋々と彼を見送るしかなかった。

 どうせいつもそんな気分にはならないくせに、とユシライヤは心の中で思った。


 自分の護衛として長い間付き添ってくれているユシライヤには、秘密なんてものは無い。だが今日ばかりは彼女にも言えない用事がある。

 叔父にあたるシェルグに誘われ、彼が同行するという条件付きで、少しの間なら城の外へ出ても良いと言うのだ。


 叔父と二人、顔を合わせて話をするのはとても久しい。彼は日夜執務に追われているようでいつも忙しないという印象が強い。

 だから、位の継承権が彼よりも自分が優先されるというのがエルスには理解できない。彼のほうが相応しいとエルスも思うし、彼自身がそう思っているであろう事は明らかだった。


 昔とはまるで遠い存在になってしまったようだ。そんな彼とまともに話が出来るだろうか。

 不安になったエルスの足取りは、少しだけ重くなった。


* * *


 待ち合わせたのは見晴らしの良い張り出し台だ。

 そこには既にシェルグが来ていて、エルスを見ると微笑んでくれた。

 それだけでエルスの不安は消え去り、自然と昔のように接する事が出来た。


「兄上、待たせちゃったかな」

「いや。外を眺めていた。お前もここから見てみろ。この頃は近付かなかっただろう」


 シェルグに招かれ、彼の隣に身を寄せる。その感覚は照れくさいものだったが、懐かしくもあった。

 幼い頃、この場所に彼に連れられ、同じように二人で外を眺めた事がある。その時に見た景色があまりにも美しくて、以来エルスは外界に憧れを抱くようになった。

 城の中には無い数多の色がそこに存在しているのだ。

 あと一月もすれば次の季節が訪れる。空気の冷える時期にもなると、風の匂いも変化する。


「歳を重ねるのは惨いものだな。かつて大きく見えたものが、途端に儚く思える時が訪れる。いずれお前もここでの景色など霞んで見える程になるかもしれんな」


 一回り歳の離れた叔父は、風に吹かれる木々を見てそう言う。エルスにとっては父の代わりというよりは兄のような存在だ。自分もいつか彼のようになるのだろうかと、背中を見て育ってきた。

 未知のものへの好奇心が溢れているエルスには彼の言う惨さというものは理解できなかった。きっと、彼に近い人間になるのはまだずっと先の事なのだろう。


 そろそろ行くか、とシェルグが踵を返すので、エルスは付いていく事にした。

 しかし、彼が向かう先はエルスが思っていた方向とは違っていた。


「あれ? 城門のほうじゃないの?」

「城の出口は一つではないさ。遠回りにはなるがな。普通ではないほうが、程よい緊張感があって楽しいと思わんか」


 エルスと同じ目線で道程を選ぶなら、確かにその通りなのだ。彼の自分に対する接し方はやはり昔のままだった、とエルスは嬉しくなった。


* * *


 ベルダート王国は長い間他国との干渉を控えてきた小さな国だ。陸続きのフリージア国とも近年に共和同盟を締結したばかりで、それまでは対立関係とも言える間柄だった。

 遡ること十数年、“異端者”は凶暴な獣を大勢連れてフリージアの地に舞い降りた。それらは圧倒的な力で人間を襲い、街を破壊し、多くもの人間がその犠牲となった。

 戦いは長期に渡ったが、ベルダート王国国王であるリオも討伐に参戦した事もあり、国は危機から救われた。

 しかし、それから僅か数日後、国王リオは行方知れずとなる。

 その事件以来、王の代わりに国政を執り行う事となったベルダート王妃は、異国との親交を深めるべきだとフリージアとの同盟締結を提唱する。二国間に交わされた同盟文には、様々な内容が記される中、以下の記載が何よりも強調されていた。


 異端者である天上人とは、如何なる理由があれ手を取り合ってはならない--


 王都は騎士団によって守られている為に安心だというが、一歩外に出てしまえば天上人や獰猛な獣が隠れ住んでいる。王妃は息子に対し何度もそれを口にした。だから城の外に出てはいけないのだと。

 だが、どうにも腑に落ちない思いをエルスは幼い頃から抱えている。


「兄上もユシャも他のみんなも自由に外へ行けるのに、なんで僕だけ駄目なんだろう」


 独り言のつもりが、彼が思っていたよりも声が響いたようだ。先導するシェルグが反応し、歩みを止めて振り返る。


「義姉上にとってお前が特別だからだろう」

「そうなのかな。僕はみんなと同じような事をして過ごせるほうが嬉しいのに」


 例えば、シェルグの腰に提げられた長剣。それは自身を護る為のものだ。彼のほうが騎士団員に剣術を指南する事もあると言うから、相当な腕前なのだろう。

 エルスのほうはと言うと、その術を教わる事はおろか剣を持たせてもらった事すら無い。

 護衛役のユシライヤに言わせれば、エルス自身が手を汚さずに済むように自分が居るのだ、という事らしい。

 しかしエルスには、そういう扱い方をされるべき人間だという自覚が無い。


「いずれ理解できる。お前にはその時がまだ訪れていないだけだ」


 自分はまだ幼いという事だろうか。それがいつまで続くのか、エルスはわからないまま、先に進んでいってしまうシェルグを追い掛けた。



 いつものこの時間なら、城内を見回る騎士はエルスが自室以外の場所に居るのを見掛けると、彼を捕らえようと追い掛けてくる。そしていつの間にかエルスが脱走したという通告がユシライヤに伝わっていて、呆気なく部屋に帰されるのだ。

 しかし今日は叔父が側に居るので、居合わせた騎士は皆一様、シェルグに敬礼を済ませた後で、珍しいものでも見るかのようにしてエルスに視線を向けるだけだ。邪魔をしてくる者はいない。


 シェルグが立ち止まった扉の前でエルスも同じく立ち止まる。連れてこられた彼にもその場所には心当たりがあった。

 装飾など一切施されていない重厚な扉。その先に地下へ繋がる階段があるのをエルスも知っているが、立ち入りを禁じられてからは一度も近付かなかった。

 シェルグは幾つもの種類の鍵の中から、一つだけ赤みを帯びた鉄鍵を扉の錠前に挿し込んだ。

 鍵を回すその手をエルスが止めたのは、彼自身も無意識のうちであった。


「どうした? 怖くなったのか」


 そう言われると、首を横に振り、掴んでいた手を下ろす。

 怯えて俯いてしまった甥の頭の上に優しく手を置いて、シェルグは鍵を開けた。



 現在では立ち入る者がごく限られている地下通路は、領地争いがあった頃は要人の逃走経路として使われていた。だからこそ、敵勢から発見されにくいようにと、木々に覆われた場所へと繋がるように造られたのかもしれない。


 湿気た通路から抜け出してきた二人は、澄んだ空気を自身の中に取り込んだ。

 見渡す限りに広がる深緑は世界の広さを物語る。エルスにとってこの先は未知そのものであり、先が見えないのは不安でもあり期待でもある。

 その不安を拭い去るのは彼の叔父で、彼はエルスの一歩先を進み、先導してくれた。その右手は腰に提げた剣に添えられたまま離れない。


「耳障りだと思う程に聞いている事だろうが、既にこの近辺にも魔獣が棲息している可能性はある。私から決して離れるんじゃないぞ」

「うん。全然怖くないよ。兄上がいるから」


 そうは言ったものの、現にもし背後から襲われたらと思うと、エルスは自分の後ろばかりが気になっていた。

 普段は人が通らない為に整備などされてはおらず、二人は道ならぬ道を進んだ。暫く歩いても獣などに襲われる事は無かったが、エルスは結局のところ景色を楽しむ余裕が無いままに、叔父に付いていく事しか出来ずにいた。


 やがて開けた所に辿り着き、二人は足を止める。エルスは思わず「わあっ」と感嘆の声を上げてその先へと駆けていった。


 そこからは王都が一望出来る。随分高いところまで登ってきていたようだ。

 先程までの不安は嘘であったかのように、エルスは嬉々としてその景色を眺めている。足場が崩れたら危険だからあまりはしゃぐな、と叔父から戒められる程だ。

 しかし当のエルスは、一緒に眺めたいからと言って彼を自身の隣に招いた。


 歴代の王は、位を継承する直前になると、ここから見える自国の景観を目に焼き付けてきた。善意で守られてきた大地の自然を肌で感じ、生活の中に潜む悪意を想像しながら、上に立つ者としての責務、その誓約を揺るがないものにするのだと言う。


「お前が産まれるより少し前の事だ。リオに連れられて私もここへ来た。国というものは、人間一人が抱え込むには大き過ぎると思ったものだ」


 僅か十歳の頃から背負ってきた思いを、シェルグは初めて他人に話した。

 彼にすら大きく感じるものは、城の中しか知らないエルスにとってはどれ程のものになるのだろう。


 王城を出てどれだけの時間が経った事だろうか。暫くそうしていたが、話の途中でふとシェルグのほうが口を噤む。

 彼は何やら背後を気にし始めた。


「兄上、どうしたの?」


 エルスの問いに視線だけで応えると、シェルグは静かに武器に手を添えた。


「声を出すな。相手に無防備だと報せるようなものだぞ」


 相手--と言うからには、彼は何かの気配を感じ取っていたのだった。

 それを聞いたエルスはきょろきょろと辺りを見回すが、何も捉える事は出来ない。しかしシェルグのほうはその相手を目で追っていた。彼の視線の先は、まさに二人が辿ってきた方角だ。

 茂みの中を進んでくる影を捉え、エルスには下がっているように言うと、そのままシェルグは剣を抜き、対象へと向かっていった。


 陽の光に反射して閃いたシェルグの剣が、相手の身体を斬りつけた。

 シェルグが対峙するのは、彼程の背丈がある獣だ。熊に近いようだが、緋色の眼、逆立った銀色の毛並み、そして何より異様に長く伸びた鉤爪が、普通の獣ではない事を示している。

 異端の獣は創傷に呻き声を上げながら、尚も攻撃の意志を緩めない。


 エルスは言われたままに離れたところでその様子を見ていた。怯えは震えとして表れる。

 今、彼の目の前で繰り広げられているのは、互いに情けなどかけてはいられない、生命の行方を二分する戦いなのだ。


* * *


 彼が座学を嫌うのは昔からで、逃げて回るのも珍しい事ではなかった。だから暫くの間ユシライヤは彼の部屋の前でエルスが戻るのを待っていた。しかし、何もせずじっとしている時間は彼女自身を苛立たせ、結局いつものように城内を探し回ることになったのだ。彼が普段逃げ回るところを何周かして、他に足を踏み入れそうな場所は無いかと到るところに行った。

 だが、他の騎士が報告してくる様子も無く、彼の大好きな間食の時間が訪れようとしてもエルスは姿を現す事はなかった。

 こんなに探して見付からない事は今までには無かった。もしかすると城の外に出られてしまったのではないか。彼女の不安は悪い方向の予測へと変わっていき、あの時すぐにでも彼を追い掛けなかった事を後悔した。


 城門前で見張り役をしていたのは、彼女と同い年の騎士であるティリーだった。ユシライヤにとっては正直あまり顔を合わせたくない人間のうちの一人だ。


「おい、どうしたオトコオンナ。ついに愛しのエルス様に用無しって言われちまったのか?」


 こんなふうに、いちいち嫌味を含んだ言い回しをしてくるので面倒なのである。


「そのエルス様だけど、こっちには来ていないのか」

「はあ? 来てねえよ。見付かんねぇのはてめーの責任だろうが。あの王子のお守りなんて、一番楽な仕事だと思うけどな」


 自分の事よりも彼を悪く言われるのは気に入らない。だが、今のユシライヤにはどんなに悪態をつかれようと言い返す気は無かった。

 もうその場に用は無いと判断し、肩で息をしながら、少しでも可能性のある別の場所へと駆けていく。

 城内でもまだ一ヵ所だけ確認に訪れていない所があったのを彼女は思い出した。


* * *


 シェルグは切っ先に滴る血を振り払い、相手の次の動きに備えた。

 何度か傷を負わせたが、獣の猛攻は止まらない。むしろその勢いは増し、長い鉤爪を振り上げて、怒りに狂ったかのように襲い掛かってくる。

 相手の攻撃をすべて避けるも、シェルグは反撃の態勢には移れない。長期戦で彼のほうが体力を奪われていた。


 ふと、シェルグが一呼吸を置いた時だった。張り詰めていた気が緩んでしまった、ほんの刹那の事。彼は敵に対抗する唯一の手段であるその剣を、誤って落としてしまった。

 標的から片時も外れる事の無かった緋色の視線が、その隙を逃すはずは無かった。剣に意識を向けられたシェルグは、相手への反応が一拍遅れてしまったのだ。


「兄上っ!」


 そう叫ぶだけでエルスは精一杯だった。

 次の瞬間に彼の眼に映ったのは、慕う叔父が獣の攻撃を受けて倒れ込む姿。飛沫を上げた赤色は、碧々と繁った森の中に自然と溶け込むはずは無かった。


 獣は動かなくなった獲物を放置し、声を発した人間--新たな標的の方へと眼を向けた。


 恐ろしい魔獣が、凶器に鮮血を残したままに、今度は自分へと向かってくる。

 その状況がエルスにとって何故か客観的、そして現実感からかけ離れているかのように思えたのは、恐怖に捕らわれた自分の体が不思議と動かないことに気付いたからだ。

 後方は崖、逃げるのは困難だ。しかしそれ以上に彼を悲観させたのは、彼が自分を護る手段を何一つ持ち合わせていない事だった。


 猛る獣の咆哮と、降り下ろされる脅威。

 ようやくエルスは両脚を動かす事が出来たが、契機となる時は既に越えてしまっていた。

 そして、彼の視界は闇に染まった。


 まるで時が止まっていたかのような静寂に包まれた森に、悲痛な叫び声が響き渡った。

 それを耳にして意識を取り戻したシェルグは、現在置かれている自らの状況を瞬時に理解する。頬を撫でていたのは、愛しい人の手だ。


「ごめんなさい、遅れてしまったわ。どこも痛まない?」


 負傷した胸部を気遣うように立ち上がると、彼の視線の先、絶命した魔獣が俯せているのが確認できた。奴を相手に思わぬ失策だったが、辛うじて致命傷を回避した事と、彼女の施術のおかげで、受けた傷はほぼ完治したようだ。


 血溜まりの上に横たわる獣の遺体に近付き、周囲を確認する。

 もう一人の姿は、無い。


「ああ。何一つ問題など無い」


* * *


 目蓋が開いた時に世界がその眼に映るのを、エルスは「奇跡だ」と思った。彼は自室の寝台の上に仰向けになっていた。

 彼が目覚めたのに気付いて、従者が衝立の奥から姿を現す。


「ユシャ……どうして、ここにいるんだ?」


 訊ねられたほうは首を傾げる。


「自分がですか? 貴方の護衛騎士である他に、どんな理由がありますか」

「そうじゃなくて、なんで僕はここにいるんだろう」


 思い返せば恐ろしい記憶しか蘇らない。

 確かにあの時、魔獣に襲われたのだった。黒の鉤爪が突き刺さると、今までに感じた事のない凄まじい熱さが込み上げてきた。後方に均衡を崩した脚が、崖の上から滑り落ちてしまった。受けた傷のことも、重力に逆らえず身体が空を落下したのも、鮮明に思い出せる。

 だからこそ自分が何故無事でいるのか、どんな感情よりも、信じられないという気持ちが先立った。


「そうだ、兄上は……」


 勢いよく起き上がろうとするエルスを、まだ安静にしているように、とユシライヤが制止する。


「シェルグ様ならさっき女の人とほっつき歩いているのを見ましたけど。あの人が何か?」

「一緒にいたんだ。凄い傷を負って……。あれ、無事なのか?」


 二人の会話にはどこか食い違う部分がある。ユシライヤが説明を求めると、何から話したら良いのかと、エルスは自分に起こった事をすべて順を追ってユシライヤに明かした。

 叔父と二人、彼女に黙って外へ出たこと。魔獣との対峙のこと。シェルグに守られるだけで自分は何も出来なかったこと。


 それは彼女の想像を越えていた事実であり、とても受け入れ難いものだったが、ユシライヤには自分の見た真実を話す事しか言葉を返す方法は無かった。


「自分が見付けた時には、貴方は平地に倒れていました。特に外傷も無くて、眠っているだけのようだったので、ここまで運びましたけど」


 傷を受けたはずの胸部を、服の上からそっと触れてみる。痛みも傷跡もまったく残ってはいない。

 エルスにとっては彼女の言葉こそ真実味に欠けるとさえ思えたが、今の自分の状態を鑑みれば、それは虚偽ではないのだろう。そもそも彼女がエルスを相手に嘘をつく理由など無いはずだ。


 夢を見ていたのだろうか。戸惑いを見せるエルスに、「それにしても」と、彼女は言葉を続けた。


「自分という存在がありながら、貴方をそこまでの危険と恐怖に晒してしまうなんて。本当に……すみません」


 それを聞くまで、彼女が信じるかどうかもわからなかった。むしろ自分のほうが咎められると思い込んでいたエルスには、彼女の謝罪は意外なものだった。

 だから、逆に素直に謝ったのかもしれない。


「僕のほうこそごめん。兄上は一緒だったけど、本当は怖かった。僕は一人だったんだ」



 ユシライヤはエルスを連れて、彼が無事に目覚めた事を報告しに王妃シャルアーネの元へ向かった。

 空席の間--と揶揄される謁見の間への入り口を横切って、上階へと階段を昇る。その階の一番奥にあるのが王妃の部屋だ。


 扉の前に立つ騎士から入室の許可を得ると、こん、とあまり音を立てずにエルスが扉を叩く。


「母上、入るね」


 天蓋付きの寝台の上に王妃は身を置いていた。 彼女は息子の姿を見て顔を綻ばせる。付き添いの医師の男性に耳打ちし、彼には一時退室してもらった。


「今日は元気そうだね」

「ええ。貴方が無事だと聞いたから。弱っているところなんて見せられないじゃない」


 幼い頃から虚弱な体質であるシャルアーネの病状は、国王リオが行方知れずとなってから悪化の一途を辿っている。玉座の上が長期不在な状態であるのも、彼女が国政を担う体制が限界を越えている事を示す。

 エルスが言うように、シャルアーネの顔色は普段に比べて大分善い状態のようだ。

 それでもほんの短い間の面会だった。王妃は護衛騎士のほうにまだ話があるからと、自分の息子には先に廊下で待っているように言った。


 エルスが部屋を出ると、まるでユシライヤは取り残されたかのような気分に陥る。入室はしたものの、それまで扉の前で黙する事しか出来なかった彼女は、シャルアーネと視線が合って、重い口をようやく開いた。


「私が至らなかったせいで、エルス様を危険な目に遭わせてしまいました。申し訳ありません」

「何も無かったから良かったわ。もし、今度あの子の生命が脅かされるようであれば」


 途中で咳き込んだ王妃は、棚の上に常備してある冠水瓶から注いだ水を含んだ後で、途切れてしまった言葉を紡ぎ出す。


「貴女……あの場所に戻る覚悟をしておいたほうがよいかもしれないわ」



 待っていたエルスは、退室したユシライヤを急かすように彼女の手を引いた。


「ちょっと早いけど、食事行こうよ。今日はおやつ抜いちゃったから、すごくお腹空いてるんだ」


 何の話を母としたのかなどと気にする様子は見せなかった。ユシライヤの憂いをよそに、彼は少し強引にでも自分の側に呼び寄せる。それは初めて会った時から変わらない。

 彼が無事である事に安堵したのは母のシャルアーネだけではない。ユシライヤも同様である。

 出来る事ならば、その手を離したくはないと彼女は思った。



 繰り返される時針の周回を経て、一日がまた終わろうとしていた。エルスは従者が整えてくれた寝具の上に寝転がって、呆然と天井を見上げていた。振り返ってみれば、とても長い一日だったと思う。


 叔父とはあれ以来会っていない。今夜に限った事ではないが、夕食にも顔を出さなかった。

 ユシライヤに言わせれば「もっとおとなしくなってほしい位に元気」だそうだが、実際に会ってみない事には容態はわからない。本当なら今日中にでも彼に謝っておきたかった。


 何度目かの欠伸が出たので、枕元の照明を消し、就寝に努めた。

 しかし、眼を閉じると、今日起こった様々な出来事が頭の中に次々と蘇ってくる。

 ふと、鼓動を確かめるかのように自身の胸に手を当てた。

 もしかしたら、自分はまだ気を失っていて、夢でも見ているんじゃないか。次に目覚めた時は、やはりまだあの魔獣の側にいて、生と死の境を彷徨っているんじゃないだろうか。そんな良くない想像ばかりが廻ってきて、眠りにつくのが段々と恐ろしく思えてきた。


 突如、彼の背中に揺れが伝わってくる。その震動は、やがて彼の日常を形作るすべてのものを引きずり込むかのように大きくなっていく。それは、大地が蓄積してきた歪みというよりは、彼自身に起こったもののように感じられた。

 恐怖に耐えられず、エルスは悲鳴を上げた。


「エルス様、どうしました? 何があったんですか!?」


 扉の向こうから呼び掛けるのは護衛のユシライヤだ。部屋の内側から掛けられた鍵が開かない。返答が無いので、執拗に拳を打ち付ける。


 ふと、鍵が開くと同時、ユシライヤは扉のすぐ手前で立ち上がれずにいるエルスの姿を確認する。

 エルスは片脚に怪我を負っていた。寝台から離れ部屋を出ようとしたところ、棚上から花瓶が落ちてきたのだ。様々な恐怖が重なって、動けずに踞っていたのだという。

 ただ、傷口そのものは浅く済んだようだ。このくらいの傷であれば、彼女にも適切な処置は出来る。


「必要な物を取ってきます。すぐに戻りますから」


 エルスには安静にしているように言い、従者がその場を離れようとした時だった。

 外界からの強い閃光。

 日覆いで遮られた室内をも、瞬間的に白い光で覆うような閃き。


 ユシライヤは窓の外を確かめようと周囲を見渡す。暗闇の中でざわめくのは風に揺られる葉擦れの音。光を発するような何かの正体は掴めない。

 怪しんで暫く外を見ていたが、「ユシャ。ちょっと来てくれないかな」とエルスが呼んだので、そちらに振り返る。彼は訴えるように従者を見ていた。


「あのさ、傷……治ったんだ」


 まさか、とユシライヤがすぐさま近付いて確かめると、確かに彼の言う通り、傷口は跡形も無く消えていたのだ。


 しかし、それよりも彼らを驚かせたのは、間もなくして訪れた二度目の閃光にあった。

 窓の外から放たれた、刹那の眩い光。二人は思わず視界を覆ってしまう。次に彼らが目にしたのは、まるで生きているかのように外界から部屋へと進入してきた光の球体だった。それは、白から青や黄、赤といった様々な色に染まりながら、その形状をも変化させてゆく。弾け四散したかと思うと、再度融合し大きくなり、次第に人型を模した。

 細かな光線の波長が彼らの目の前で彩られると、それはもはや光ではなく生きている人間そのものだった。

 窓際に佇むのは、見知らぬ少女。朝焼けの空のような不思議な色の長髪が、彼女をより現実から程遠い存在に思わせた。

 彼女が開いた瞳は、揺らぐことなくエルスを凝視する。


「やっと見付けました。オルゼの加護を、その身に受ける貴方を」


 少女が歩を進めた先は真っ直ぐエルスの元だったが、先に反応したのは従者のほうだった。武器に掛ける手は、相手への反抗の意思を示す。


「何者でも構わない。だが、それ以上近付くようなら黙ってはいない」

「戦う理由は有りません。詳しい事は話せませんが、私は彼を助ける為に此処へ来ました」

「私達が天上人を易々と受け入れると思うのか」


 剣先を向けられようとも少女は怯まない。面倒な相手だ、とユシライヤは舌打ちした。


「そちらがそのつもりなら、私は退きません」


 牽制はむしろ少女を煽る事になってしまったようだ。彼女の手元に、何も無かったはずの空間から光が現れ、次第にそれは杖のような物を形成した。握られたそれが彼女の武器だろうか。


「天上人って?」


 と、二人の間に張り詰めていた糸を断ち切るように、ユシライヤの背後に隠れていたエルスが、率直な疑問をぶつけた。

 エルスが少女に興味を向けて、初めて彼女と視線が合った。従者が止めるのにも構わず、自ら対象へと近付いていく。


「理解して下さったのですね。私は貴方をその紋章から」

「本当に天上人!? 初めて見たっ!」


 少女の言葉をも遮って、エルスはその好奇心を、思うがままに口にした。


 戸惑う少女をよそに、物珍しげに彼女の周りをぐるぐると周る。エルスの表情は、つい先程まで恐怖に怯えていた様子とは全く異なる。

 天上人は異端である、と教わってきた。しかし、目の前の少女はあの狂暴な獣とは全く似つかわしくない。むしろ自分達とさほど変わりない外見が、彼の想像とは違っていた。更に言えば、言葉が通じるとすら思っていなかった。

 だから、エルスは喜びにも似た感情を彼女に抱いていたのだった。


「さっきの光、何だったんだ? 天上人って凄いんだな、みんな出来るのか? 何で僕たちには出来ないんだろう。練習したら出来るように……」

「あ、あの、話を聞いてください!」


 気圧されて何も言えずにいた少女が口を開いた。何一つ説明出来ないままだった自らの目的を、彼女は再び話し始める。


「実は、貴方に宿る紋章を取り戻しに来ました。白色のオルゼの紋章、それは私達にとって必要不可欠なものなのです」


 紋章--という単語は、地上人でありベルダートの民である人間には、不信感を煽るには充分すぎる要素だった。護衛騎士は眉を潜め、彼の身を少女から引き離す。


「そんなもの、エルス様には存在しない」


 天上人。そして--彼らが引き連れてきた事で、棲息区域が広まったという--魔獣。それらをベルダートでは異端と呼ぶ。地上人を圧倒する特殊な能力を持つという彼らの身体のどこかに、必ず“紋章”が刻まれている。いわば異端である事の印である。

 地上人の両親の元で生まれ育ったエルスの身に、紋章などというものは存在するはずが無いのだ。


「先程、私の呼応石が貴方に反応を示しました。紋章の恩恵を受けていたはずです。本当に、何も覚えが有りませんか?」


 彼女にそう問われれば、心当たりが唯一存在する。地上人であれば、それは考えられない出来事。二人がそれを口にしなくとも、まるで見ていたかのように、少女はそれを指摘した。


「例えば、傷病が僅かな時間で治癒した、とか」


 彼自身も、護衛騎士も、その瞬間を目の当たりにしている。負った傷があんな短時間で跡形もなく治るなんて事は有り得ない。

 しかしエルスの記憶が呼び起こしたのは、何よりも魔獣に襲われた時の事だ。紛れもなくあれは現実で、たとえ重傷であっても、紋章の力だからこそ完治したというのならば、あの時ユシライヤと交わした会話のすれ違いにも合点がいくのだ。


「それはオルゼの紋章がもたらしたものです。紋章というものは、実は何等かの原因で貴方達にも宿る可能性があります。しかし、それはやはり正常な状態ではありません。命の危険をも伴います。ですから私は、貴方をその紋章という繋縛から救いたいのです」


 まるで散らばった欠片を嵌め込んでいく作業のように、記憶の断片が目まぐるしく頭の中を駆け巡る。エルスが護衛騎士に向けたのは、助けを請うような目だった。ユシライヤは暫く考えた後で、異端者に向けていた剣を鞘に収めた。


「じゃあ、手っ取り早くその紋章とやらを、どうにかしてくれれば良い」


 慕う者の命の危機。それは少なからずユシライヤを動揺させた。相手を信用するかどうかは既に問題ではなかった。それで解決するのなら、もうこれ以上関わる必要は無いのだから。


「それが……実は、此処ですぐには出来ないのです。私一人では紋章を外す事は不可能です。多くの仲間の協力が無ければいけません」

「それはどういう事だ」


 ユシライヤが威圧的な視線を送るも、少女は怯む事はなかった。


「つまり……私と共に、来て頂きたいのです」



 彼女の説明によれば、特殊な術でなければ、宿った紋章を身体から引き離す事は出来ない。その術の行使は、どんなに優れた術士であれ、一人の力では成す事は不可能だという。更に、エルスが宿しているという紋章は、元々彼女らが有していた物であり、とある場所に留まらせなければいけないのだと言う。この二つの理由から、彼女の所属する機関『ミルティス』へ、こちらから赴かなければならないとの事だった。

 見知らぬ少女が突如として申し入れた要求。選択の余地を与えない程に、その道筋は狭く、一つの方向にしか切り開かれてはいなかった。

 信用に足らない相手、それも天上人。そして話の規模の大きさ。容易に受け入れられるものの範疇を越えている。

 しかしエルスは違った。


「じゃあ、城の外に出ても良いんだ!」


 嬉々としてその天上人の手を握り締める。少女のほうは、思わずそれを振り払ってしまった。何を意味する行為なのかが理解できなかったのだ。


「また調子の良いことを言って。危険な目に遇ったばかりなのに。怖いんじゃないんですか」

「怖くないよ! ユシャもいるし。天上界に行けるんだ、それって凄い事じゃないか」


 城の外に出られる、という微かな願いの為の、良い口実が出来たようだ。彼の護衛騎士は、呆れながらも、意思確認をされないまま同行する事になっていた事には反論しない。


「では……来てくださるのですね」


 エルスは「当たり前じゃん」と言い、「彼に危険が及ばないのなら」と不本意そうにユシライヤが続ける。

 二人に返されたのは、それまで一つも表情を崩して見せる事のなかった少女の、初めての笑顔だった。


「有難うございます。では、こちらの皆様に許可を頂かないと」


 律儀にも、少女が王城の者に報告したいと言い出したので、ユシライヤは目を丸くする。


「そんなもの、下りる訳無いだろう」

「きょうこうとっぱ、だよ。こそっと出ていっちゃえば良いんだ」


 そう言って、エルスは少女の手を引いた。故郷から彼を離れさせ、遠き地へ引き連れようとしている者の手を。少女は、自分を受け入れてもらえるのが、温かい事だとは知らなかった。

 彼女を映したエルスの瞳は、微かにも疑いの色には染まらない。こんな考えは軽忽であろうが、オルゼの紋章の宿主が彼で良かった、と少女は思った。


「言っておくけど、私はお前を信用した訳じゃない。この人に付いていくだけ。もしお前が彼に危害を加えようとしたなら、その時は容赦しない」

「はい。どれだけ私を信用できなくとも、それに関しては信用して頂いて構いません」


 少女は今までも異端として扱われてきただろう。だが、ユシライヤに向けたその眼にも、濁りは無かった。


「じゃあ、名前聞いて良いかな? 僕はエルス、こいつはユシャだよ」

「ユシライヤ、です」


 エルスの言葉を訂正すると、ユシライヤはその後、少女をあまり見ようとしなかった。そのくらいの反応がむしろ普通なのだと少女は理解している。だから彼女を悪くは思わなかった。

 ミルティスに所属する者以外の誰かには名乗ることが無かった名前を、少女は二人に明かした。


「私は、ターニャと申します。ほんの僅かな間かもしれませんが、宜しくお願いします」


 天と地が狭間を分かち合ったのは、この瞬間からだろうか。

 三つの針が天を向いて重なる夜には、鐘音は鳴らない。影の中に身を落とし、彷徨し、陽の訪れを待ちわびる。四度目の紫の刻の訪れは、同時に第一の刻をも告げている。


* * *


 翌朝になると、二人の姿が見えなかったので、城内は錯綜した。

 王妃は体調が優れないと言い、部屋に籠ってしまった。彼女の命令で騎士団は二人の捜索にあたるが、統率に欠けた彼らの行動は、非合理的なものだった。


 シェルグの部屋には鍵が掛けられていて、扉の外から呼び掛けてくる騎士には、彼は応じなかった。

 紅茶に浮かべた蒼薔薇の花弁。シェルグは馳走の品を一口啜ると、隣席する女に声を掛ける。


「怖じ気付くかと思いきや、まさか自分から消えるとはな」


 隣国フリージアでは名の知れた女医、フィオナーサ。美しい白い肌に、雪のような冷たさを持った女性だ。


「本当にそう思うの? そういう機会を与えたのかと思ってたわ」


 フィオナーサはおもむろに彼に近付き、その服の上から患部に触れる。シェルグは痛みを訴える事はなかった。


「あなたの具合も善いようだし、私は一旦戻るわ。あの子--名前、何て言ったかしら、あなたに忠実な騎士団長さんが、痺れを切らしているかもね」

「あいつは待つ事を苦にしない」

「違うわ。長い間あなたの隣に居られなかったからよ」


 フィオナーサは、彼をからかうような笑みを浮かべた後、「じゃあ、またね」と手を振った。窓から身を乗り出し、そのまま外へと身体を預けるように飛び出した。

 彼女を導くかのように、風に吹かれた葉緑が、その身体を包み込む。まるで花弁が舞うように、フィオナーサは空に身体を浮かせながら遠ざかっていった。


 彼女の姿が見えなくなった景色を、シェルグは見ていた。だが、時を移さず飽きがきて、すぐに目を反らす。窓枠に収まるような小さな世界では、彼は満足しない。かつて兄に誓った思いは、揺らぐことは無いのだ。彼に恥じない為にシェルグは生きてきた。


 彼はようやく扉に手を掛けた。

 諦めてその場を離れようとしていた騎士は、慌ててシェルグの前に戻ってきて、彼の命令を聞き入れる。


「既にここに存在しない者に、懸ける時間は無い。だが、あいつのほうは捜し出して捕らえろ。万が一でも、忠実な部下を失いたくはないからな」


 騎士は早速動いてくれたようだ。自らに従う者の背中を見るのは心地が良いことだ。

 王都の騎士団員が全員そうであるべきだ、とシェルグは思う。姿を消した一人の騎士に向けて、彼は問う。

 本当にその選択は正しかったのか。お前は従う人間を誤ったのだ--と。


 この国は変わらなければならない。王が玉座に腰掛ける瞬間は、じきに訪れるであろう。


* * *


 二人の一歩後ろを歩いていたユシライヤが、ふと立ち止まる。

 エルスはすぐに気付いて振り返った。


「どうしたんだ?」


 状況への実感が湧かないせいか、心の奥底で、誰かに疑問を投げ掛けられた気がしたのだ。


「何でもありません」


 しかし、エルスの顔を見れば、それは消し去るべき思いだと気付かされる。自分はこの人に従うと決めたのだから。


 王城を背にして、彼らは歩き出す。まるで誰かに用意された軌道の上をなぞるかのように。

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