act.12
静かな進行だ。取り決めた訳でもないが、誰もが口を噤み歩いている。金砂の上には、辿ってきた足跡が描かれては、風に吹かれて消えていく。
日も落ちて冷え込んできた頃、ようやくファンネルが休憩を促した。
かつてのヴァストークに倣って、一行は砂地に幕を張る。そして内部には、彼に貰った青石を掲げる。この石を中心とした、ある程度の範囲に魔獣の敵視を引き寄せない作用があるらしく、この辺りでは旅に欠かせない物なのだという。ターニャにはルビの紋章の作用だと判った。マーディンの水汲み場でもそうだったように、イスカの国では紋章の力が日常的に使用されているようだ。
歩き疲れた脚を伸ばして、エルスは大きな欠伸をした。これだけ眠いと、城の自室でのふかふかの寝台が恋しくなる。重い瞼を擦りながら、横目にユシライヤが幕屋を出ようとしているのが見えた。
「どこ行くんだ?」
エルスが尋ねると、彼女は気まずそうに応えた。
「……ただ、じっとしてられないだけです」
まるで逃げ場を探すように、視線を泳がせる。
「小娘。そのような状態では紋章の修練など無理だな」
ファンネルの言葉に、ユシライヤは眼の色を変えた。
「……無理じゃありません」
「紋章の制御は感情の制御だ。その焦りが失態を招く」
「でも、私には時間がないんだ。何も出来ないままなんて……」
「俺の言うことが理解出来ないようだな。今のお前が闇雲に動き回ろうとも、術の会得は不可能だと言っているんだ」
「……じゃあ、どうやって落ち着いたら良いんですか」
その問いには、ファンネルは何も答えずに、じっと見ていた。俯いたままの彼女の拳が微かに震えている。
「……すみません、やっぱり今は一人にさせてください」
言い捨てるかのように、ユシライヤは外へ出て行った。心配そうにその背中を追うエルスを、ファンネルが遮った。
* * *
空を斬るのは、あまりにも手応えが無さすぎた。それでも、何かをしていなければならないという理由で、ユシライヤは剣を振り続ける。ファンネルの言っている意味が解らない訳ではない。ただ、いつ止むか判らない鼓動が、彼女を急き立てる。
標的の居ない切っ先が、風を受けて空しく鳴いた。
「お前の場合、力の放出よりもいかに抑制できるかが要となる」
「……!」
己の両腕にのみ意識を集中させていたユシライヤは、背後にファンネルが立っていたことに、気付くのが遅れた。
「レデの紋章は焦燥や悲嘆、憤激といった強い感情によって暴走し易い。六種の紋章の中で随一の威力を持つが、その分扱い辛いという訳だな。先程も言ったが、術を巧みに扱うには冷静でいなければならない。つまりお前の単純な性格が生まれつきの紋章と相性が悪い、絶望的な状況だ。正直お前には期待出来ない」
黙って聞いていれば、無遠慮に言いくるめられる。ならば何故、彼はあの時、自分に声を掛けたのか。ユシライヤは思わず眉をひそめる。
「この程度のことで動揺するならば先はないぞ。単に紋章術の行使にのみ意識を向けるのが修業ではない」
彼の瞳から、何故かユシライヤはしばらく目を反らせなかった。心の内をすべて見透かされているような気にさえなったというのに。
いかにファンネルといえど、彼女に残された時間など計る術は持ち得ない。しかし彼は彼女のすべてを見据えようとしていた。
「……お前の気にしている小僧だが。よもや死んだものだと思っている訳じゃないだろうな」
「え……?」
「死した魂は漏れることなくミルティスに貯蔵される。だがアシュアはあの小僧の魂を未だ感知していない。あの時点でそうしないんだ、恐らく黒装束は小僧を無闇に殺すことはないだろう」
「……助けられるかもしれない、ということですか?」
「確証は無い。だが可能性は皆無でもない」
その言葉を聞いて、まるで箍が外れたかのように、ユシライヤは声を上げて泣いた。
ファンネルには理解出来なかった。彼は僅かな可能性を話したに過ぎない。本来なら、余計な感情を排せと言っているところだ。しかし抑制されていたものが溢れ出しているというのに、彼女の紋章はむしろ落ち着き始めている。
わからない--だが、自分たちガーディアンとは違う、生きている人間なら、そういうこともあり得るのかもしれない。
しばらくの間子供のように泣きじゃくっていたユシライヤは、表情を変えずに佇んでいるファンネルを見て、嗚咽を残しながら微かに笑った。
「ファンネル。あなたは私たちのことを、ちゃんと見てくれていたんですね。私なんて……ずっとあなた達を、心の底からは信用しきれないままだったのに……」
「今更、何を言うかと思えば。元よりそんなものを俺は望んでなどいない。お前がどれだけ付いて来られるかだけだ」
* * *
ファンネルに遮られたその先へ、彼は踏み込まなかった。まるで、自分に出来ることは無いと言われたかのようだったから。
狭い空間にターニャと二人だけの、気まずい沈黙が支配する。
「エルスさん、先に休んでおいてください。お二人が戻るのを、私が待っていますから」
ターニャが気遣ったので、エルスは従うことにした。しかし先程あれだけ襲ってきていた睡魔が、いざ横になって目蓋を閉じると、どこかへ行ってしまう。
結局彼は上体を起こして、青石を見つめながら言った。
「ターニャ。僕は、わからないんだ」
ファンネルは何故、紋章の制御方法をユシライヤに教え、自分には教えてくれないのだろうか。
かつて彼は、エルスを『適格者』だと言っていた。反してモニカは『本領を発揮出来ていない』と言った。板挟みの状態のエルスが、自身の紋章に関して何も理解していない。
「いつから……どうして、自分に紋章があるのか、わからない。紋章がなくなって、もし元の生活に戻れるんだとしたら、僕はいつの頃まで戻るのかな」
ヴァストークがそうであったというように、紋章を宿せば、その時点で身体の成長が止まるのであれば--
「相手との何の接触も無しに、紋章が宿るとは考えられません。エルスさんの場合は、私と出会う少し前にオルゼの紋章を宿したということになるのだと思いますが……」
ターニャの示す仮定には、エルスは漠然と思い至っていた。
疑わしいのは、座学を怠け、従者にも何も言わずに叔父と城の外へ出たあの日のことだ。魔獣と対峙した後の記憶はうやむやで、ユシライヤの説明とも食い違うところがあった。恐らくその時に、自分は死んだと見做された--それ程までの重傷を負って。他所の目が行き渡らないうちに、オルゼの力によって生き長らえたのかもしれない。エルスはその直後に初めて、紋章の存在に気付いたのだ。
それでも腑に落ちないのは、その紋章が一体どこから来たのかということだった。
『真実は隠されてきただけだ。お前が生きているという事実はな』
叔父は何かを知っているようだった。今のエルスは、故郷へ帰るのには後ろめたい感情しか持ち合わせてはいない。だがシェルグには会いたいと思っていた。彼とは話したいことが沢山ある。
「僕は……いつまで僕だったんだろう」
顔を伏せてしまったエルスの表情は、ターニャには読み取れない。
何があっても宿主を救う。創始者から言い渡された使命としての目的は、初めてエルスと出会ったその時からずっと、偽りのない感情として、形を変えながらターニャに刻まれ続けている。
だからこそ、理屈の通らないことを、責任の持てないことを言う訳にはいかなかった。せめて、彼の零した不安を拭い去る為に差し出した手だけは、許されるだろうか。
* * *
日の出と共に歩み出す。先行するのはターニャだ。空と大地を切り分けるかのように、くっきりとした地平線が遠目に描かれているのが分かる。陽が昇れば、茫洋な砂地は次第に金朱に輝き、彼らの歩む道筋をもその色に染め上げた。
昨晩、エルスは自分の知らない間に床に就いていた。ターニャが言うには、結局二人が幕屋に戻ってきたのは、出発の直前だったらしい。術を習っていたのだろう、ユシライヤからは疲労の色が見てとれる。休息の出来ていない彼女をそのまま連れて行くのは、エルスには気が引けた。しかし彼女自身は早く進みたいようだった。話し合おうにも、エルスとはまともに視線を合わせてはくれない。
ファンネルによると、目的のイースダインはすぐ先にあるらしい。それだけが今のエルスにとっての救いだ。
刹那、胸に提げた呼応石が反応を示したので、ターニャは脚を止めた。ふと過ぎる違和感。石は深紫の色に染まっていた。皆に警戒を促そうと、ターニャは振り返る。しかしそこには、彼女以外の者の姿は無かった。
「え……!?」
つい先程まで共に居たというのに、エルスは、ユシライヤは、ファンネルは何処へ行ったのか。辺りを見渡すも、人の影一つ見当たらない。そもそもこの広大な金砂の上には、隠れられる場所など無い。初めから彼女以外に誰一人として存在していなかったかのように、そこには仲間の足跡さえ残されていなかった。
「これは、もしかして……」
石は微かに鈍い輝きを放ち続けている。ターニャはようやく悟った。既に自分が、何らかの術式の中に捕らわれていたということを。
状況が把握出来ると同時、ターニャの視界に変化が起きた。それまでの景色が霞み、歪曲したかと思えば、天地左右、見渡す限りの無彩色の世界に、彼女は立っていた。歩を踏み出すも、前進したという感覚は無い。何しろそこには、何も無いのだから。
ターニャは先ず、創始者との通信を試みた。しかし反応は無い。他との接触が遮断されている。まるで別の空間に居るかのようだ。だとしたら、自らが捕らわれたのは転移術の一種なのかもしれないと彼女は察した。術者に関しても想像に難くない。黒装束の連中だ。かつてヘレナは、『ここに来たことを姉に伝えた』と言っていた。彼女らはどこまでも追ってくるつもりなのだろう。
しかし引っ掛かるのは、彼女の時と同様、イースダインに辿り着く直前で黒装束に行く手を阻まれるということだ。ガーディアンでなければイースダインの存在、ましてや詳細な位置など認識出来るはずがないのに、まるで待ち伏せていたかのようにそこに存在する。
ターニャに嫌な予感が過ぎった。自分たちには、置き去りにしていた問題があった--
ふとターニャは、遠目から何かが近付いてくるのに気付いた。黒装束だろうか。たった一人、たとえ勝算が薄くとも、立ち向かわなければならない。手元に杖を生成し、抗戦に臨む。
しかしその姿が段々と鮮明に見えてきて、彼女は腕を下ろした。自身の見知った人物だと判ったからだ。だが、彼を見つめる瞳に含んだ、疑いの色は隠せない。何故なら、ターニャの目前に現れたのは、
「……エニシス!? どうして……」
「ターニャさん。また会えるなんて思いませんでした」
ターニャも同じ気持ちだった。あの時のことが虚偽であったかのように、エニシスは立っている。彼がここに居るはずはない。いや、そもそもここが何処だかも解らないのだから、ターニャの認識が誤っている可能性もあるのだが。
動揺して固まってしまったターニャに、エニシスは言った。
「そんなに驚かないでくださいよ。あなたがあの時……間に合わなかったせいで、こんな場所をさまよう羽目になっただけです」
真実に背は向けられない。だからターニャは、思わず後退る。
あの時--リクリスでユシライヤとエニシスと離れてから、眠れない夜を過ごしていた時。呼応石が不審な反応を示したので、ターニャは迷わず駆けていた。しかし彼の元に辿り着いた時には既に、手の施しようのない状態となっていた。
それは果たして避けられない運命だったのだろうか。本当に、出来ることは無かったのだろうか。自分が、もう少し早く異変に気付けていれば。そもそも二人と離れたのがいけなかった。拒まれようと、対立しようと、彼らの側に居れば、あるいは--。一体どこまで遡れば償えるのか。記憶を巻き戻しながら、ターニャは蹲る。
「あなたが……最初に言ったんじゃないですか。僕を連れて行ってくれるって。僕の居場所を見つける手助けをしてくれるんだって。無責任なあなたは……僕には何もしてくれなかった」
彼の力になりたい思いは嘘ではなかった。放っておけなかった。ガーディアンとして未熟だった頃、救えなかった命を目にしてきた彼女にとっては。だから、それが自身の容量を超えていると予測出来たとしても、手を差し伸べた。それは間違いだったのだろうか。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい、エニシス……私、私は……」
「幾ら謝られても、もう僕には何の言葉も届かないですよ。だって死んじゃったんですから」
顔を上げれば、突き刺すような視線がエニシスから向けられていた。
「短くて寂しい人生でした。可哀想でしょう? そんな僕に、あなたはどう責任をとるんですか? こんなことなら、最初からあなた達についていかなきゃ良かったんだ……!」
少年の顔に浮かぶ悲痛から零れ落ちるものを、ターニャは竦んだまま、受け止めるしか出来ない。
ふと、彼の頭上に一筋の光が閃いた。鋭い切っ先は、エニシスの身体を貫きながら真下に振り下ろされる。音も色も一切無く歪んだ少年の姿は、一瞬にして、霧のように消え去った。
何が起きたのか、理解するのに時間がかかった。エニシスの背後に立っていた彼女の持つ剣が、彼を斬り裂いたのだった。
「ユシライヤ……!?」
「ターニャさん。さっきのは見せ掛けだけ真似た幻覚です。あんな胸くそ悪いものに、惑わされないでください」
「……幻覚……」
「あなたの悪いところですね。目の前のものをすぐに信用するんですから。何事もまずは疑わないと」
幻。たとえそうだとしても、そのすべてが真実とは異なるものだろうか。もしもエニシスが、別離の後に言葉を残せたならば、きっと--。
そこでターニャは懸念を振り払った。進まなければならないからだ。ユシライヤと再会出来たなら、エルスとファンネルも近くに居るのかもしれない。完全には切り替わらない心の内を露わにはせず、ターニャは立ち上がる。
「……ターニャさん。さっき忠告したばかりなのに。私は、本当の私ですか? 偽物だと思ったとはいえ、仲間の人間を躊躇いなく斬れると思いますか? 私を本当に信じられますか?」
「……何を言っているの?」
「あなたにとっての私は、何ですか? はっきり言って……邪魔なんでしょう? 私にとって、あなたがそうであるように」
ターニャは後退した。彼女の得物は自分を標的にしている。
「エルス様を守るのは私なんです。あなたは言うだけ言って、何も出来ない。突然しゃしゃり出てきて、私からエルス様を奪おうとする」
彼女は先程のエニシスと同じ、『幻覚』なのだろうと悟った。しかしターニャは、彼女の言葉を聞き流せない。
「私は……絶対に譲らない。エルス様は私のものなんだ……!」
ユシライヤはターニャに掴みかかる。だが程なくして、その腕は彼女自身の胸を押さえ、ターニャをあえなく解放させた。発作が襲ったのだ。
「ユシライヤ! 待ってて、今治癒術を……」
そう言ったターニャ自身も想像はしていたが、翳した手は容易く振り払われてしまった。肩で息をするユシライヤの眼の色は、憎悪にも似ている。
「私なんか……放っておけば良いじゃないですか。あなたはそうやって、いつも私を蔑むように見る」
「そ、そんなことない……!」
「良かったですね……邪魔者の私がもうすぐ居なくなるんですから。あなたなんかに……出会わなければよかった。そうしたら……私だけが、ずっとエルス様の側に居られたのに……」
ユシライヤは倒れた。そしてそのまま、まっさらな風景に溶け込むかのようにして、雲散した。ただの幻。だからこそ呆気なく消え去る。抱けるものも残さない。
「……違うよ、ユシライヤ。私は、そんなこと思っても、願ってもいない……」
* * *
道中、先導していたターニャが突然気を失って倒れてしまったので、一行は脚を止めざるを得なくなった。眠っているだけのように見えるが、先程から幾度と声を掛けても、身体を揺さぶっても、目蓋は堅く閉じられたまま。
目的地の直前でのこと。煩わしさに、ファンネルの顔が強張る。彼の方法でもターニャは目覚めない。彼女の容態は、単なる疲労ではないことが明らかだった。
「今のターニャの意識は、此処には無い。……こんな小細工に嵌められるとはな」
彼らの進退窮まる有り様に、何処からともなく、嘲るような笑い声が聞こえてきた。
「ムダだよ、ムダ。その子は今、深ーい悩みの霧の中をさまよってるんだから。その子自身が答えを出さない限り、紫闇の眠りからは覚めない」
影も気配も無く、突如として現れたのは、黒装束を纏った少女。姿を消していたとでもいうのか。
「……お前が、ターニャを苦しめてるんだな」
「心外だなー。あたしは視せてあげてるだけ。その子が、自分で自分の首を締めてるんじゃない」
エルスに向けられた憤りなど苦にもせず、少女は高らかに笑う。
「モニカお姉ちゃん? あたし。フランだよ。標的は、ちゃーんと縛っておいたからね。あとは任せて」
「下衆が……」
呟いたユシライヤが、剣を握る腕に意識を集中させた。紋章術だ。未だ完璧な制御は出来ないので、レデの力を自身ではなく武器に落とし込めることで、操りやすくしている。
彼女が一振りすると、太刀筋から生まれた衝撃は可視化出来る焔の波となって、フランに襲い掛かった。しかし幾度と放った剣撃は、その殆どを避けられてしまった。少女が被ったのは、頬を掠める程度の軽い火傷だ。
「まったく……レデ族は野蛮で困っちゃう。勝ち目がないってことも、わかんないんだもんねー」
言いながら、フランがユシライヤに向けた手の平からは、反撃の術を放たれたようにも、防護の術を張られたようにも見えなかった。
だがその直後、ユシライヤは『何か』が脳裏を駆けたのに気付いた。そして、頭を抱えて蹲る。戦慄を抑え込みながら、震えた声を漏らした。
まさか、ターニャと同じ術に掛けられてしまったのか。エルスは助けに行こうとするも、ファンネルに腕を引かれて脚が止まった。
「待て。様子をうかがえ」
彼女を包み込む、異様な放熱。周囲の空気が、ちりちりと音を立てて火花を散らす。その中心で、ユシライヤはゆっくりと立ち上がった。
「幻術が効かない……? そんなはずは……」
見開かれたその瞳は、フランの想定していた絶望の色に染まってはいなかった。
「殺してやる……殺してやる殺してやる!!」
呪詛のように繰り返し叫ぶユシライヤは、誰の目から見ても、既に正気を失っていた。
彼女は剣も握らず駆けていくと、自らの拳をフランの鳩尾に喰らわせた。打撃の衝撃で抵抗を失った少女の呼吸は一瞬止まり、身体は地べたに打ち付けられる。起き上がるよりも先に、足蹴を浴びせられて、無様に砂上を転がった。
しかし、程なくして少女は何事も無かったかのように立ち上がる。
「どうして……あんた達は、邪魔ばかりするのよ!」
動き出したフランに、ユシライヤは再び立ち向かっていった。言葉の代わりの喚声を発しながら、彼女は攻撃の手を止めない。恐らく、標的が完全に停止するその時まで。
「ユシャ!」
堪らず呼び掛けたエルスにも、彼女は反応を示さない。
「無駄だ。今のあいつに言葉は届かない。自我を紋章の暴走が上回った結果だ」
「だからって……!」
「限界を超えれば、力の放出は一時的に止む。直に意識を取り戻すだろう。まったく……あの小娘は、俺の戒めを何だと思っているのか」
エルスは、単純に恐ろしかった。従者のそんな姿を見たことがなかった。彼女はいつも、戦闘においては冷静だった。相手が不利と見ればそれ以上をしなかった。しかし今のユシライヤから溢れ出るのは、紛れもなく殺意だ。
「呆けているんじゃない。どうやら黒装束の奴らは、ゼノンが書き込んだ算譜に過ぎない。生きている人間とは異なる。幾ら虚像を壊し続けても、本質である記録までは消えない。だとすれば、小娘ではこの状況をどうにも出来ない」
「じゃあ、どうすれば……」
「お前だ、エルス。海路を襲った奴が居ただろう。あの時と同じだ。お前がユリエの紋章術で黒装束を滅しろ」
「僕が……」
ユリエの力で産み出されたものは、同じくユリエの力でしか相殺できない。彼はそう言っているのだ。
それでもエルスは戸惑った。どうやって術を放てば良いのかすら、わからないからだ。
「お前はあの小娘のようにはならない。ユリエは俺が抑制出来る。お前が何もしなければ、ターニャは戻らない」
エルスは未だ目覚めないターニャを見た。微動だにしない彼女の表情からは、苦痛は感じられない。しかしその内に秘めた胸中では、彼女は何を視せられているのだろう。何と戦っているのだろう。
「僕が、やらなきゃいけない……」
しかし、覚悟を決めたところで、紋章術は発動しない。
すると、隙を見たフランが、棒立ちになっているエルスを引き寄せた。そして自分は素早く身を引く。側には、ユシライヤが迫ってきていた。今の彼女はただ、瞳に映した者を標的とする。それがエルスだとは判らず、焔を帯びた拳を打ち付けた。
力を放出しきったか、そこでユシライヤはようやく我に返った。目前には、力なく倒れる彼の姿。
「エルス様……?」
清白の光に包まれて、エルスはゆっくりと立ち上がった。何も言わず、ただ一点を目指して歩み出す。その先には黒装束の少女。どうせ何も出来ない、ただ愚かに近付いてくる餌--フランにはそう見えた。
しかし直後、エルスの背後からユリエの波動を感知すると、彼女の表情は一転した。
「う、嘘……お父さん? あたしの声、聴こえないの……?」
その言葉がフランの最期だった。無数の黒獣が容赦なく少女の身体を貫くと、形も塵も残さず、その姿は消え去った。恐らく再起は不可能だろう。
一息ついて、ファンネルはユシライヤを見た。彼女は膝立ちのまま、放心している。
「ユリエの発動条件として、事前に対なるオルゼの発動が必須となる。あの黒装束は、エルスの身体に直接的な損傷を与えるつもりが無いと判断した」
つまり、解っていてファンネルは彼女を止めなかったのだ。ユシライヤには彼を責める理由など無かった。既に教わっていたからだ。紋章術の扱い方を間違えた結果、護るべきものを傷付けるということを。
「エルス様……自分は……」
背を向けたままの彼に、ようやく声を振り絞るも、彼女は気を失ってしまった。
「……前にも言っただろ、ユシャ。僕は大丈夫なんだって」
エルスは未だ、晦冥の余韻の中に居た。フランを撃退するも、ターニャが目覚めないのだ。ファンネルが解析を試みた。術式は彼女に纏わり付いていて、離れない。
「……エルス。お前もこの術の中に入れ」
「そんなことできるのか!?」
「多少複雑なだけで、これは転移術の一種に過ぎない。無論、お前に託すのは異例ではあるがな。長居は出来ないぞ。門の開閉の為に俺は此処に残る。それと使い物にならない小娘も置いていけ。何とかしてターニャの意識を連れ戻せ」
突拍子も無いファンネルの言葉に、エルスは戸惑う。彼は随分簡単に言うものだが、理解は出来ていない。
それでも迷いは無かった。どんな方法だって良い、絶対に彼女を助けたいのだと。
* * *
「ターニャ! やっと会えた!」
駆け付けた彼の姿に、ターニャは胸が高鳴ったのに気付いた。
「エルスさん……!?」
「向こうにさ、穴が空いてるんだ。きっと出口かな。一緒に早くここから出ようよ」
そう言うとエルスは、ターニャの手を強引に引いて歩く。彼もまた、似て非なる存在なのではないか--そうは思いながらも、少しだけターニャの顔が綻んだ。
「……ええ、そうですね」
「でも……ちょっと困ってるんだ。よく見てみろよ」
ターニャは小さな悲鳴を上げた。進もうとしていた道の上に、無数の遺体が積み上がっていた。
「ちゃんと見えた? お前が救えなかった人たちだよ」
眼を反らせずにいると、屍の中に見覚えのある少女が紛れているのに気付いた。
「ねえ、ここ……どこ? ターニャ……わたしを見捨てたの?」
最期までターニャを凝視しながら、少女は失望と共に動きを止めた。ターニャは応えられないまま、ただ首を横に振った。
--遡るのは、オルゼの紋章を捜しに初めてユリエ=イースに降り立って間もない頃だ。彷徨う魂を見つけた。それが、ターニャが最初に呼応術を行った、オルゼンの少女だった。帰る術を知り、少女は無邪気に喜んだ。だが、ターニャの術は失敗した。天上界には帰れず、地上界でも生きられない。以来、彼女の魂の行方が、何処にも見えなくなった--
「……もう誰も、あなたのようにはしたくないと……思っていたのに」
エルスがオルゼの紋章の宿主だと知った時。エニシスが差別を受けて孤独でいると知った時。ノーアがニエに選ばれた存在だと知った時。ユシライヤが混血で不安定な紋章の持ち主と知った時。その都度ターニャは、彼らに少女の存在を重ねて、二度と失いたくないと誓った--はずだった。
「あーあ、痛いだろうなぁ。苦しいだろうなぁ」
エルスが言うと、何処からともなく、彼に続くような声が聞こえてくる。
「御使い様……あなたなんか来なければ良かった。あなたの使命など、私には関係がない。ノーアを、ノーアだけを私に返して……!」
「ターニャ。こんなところで立ち竦むとは。不要な感情を排せと言ったはずだな? お前に託したのが間違いだった」
「今更だねファンネル。だからあたしは早々に見切りを付けたってのに。もう一度言ってやろうかターニャ。あんたはガーディアンには向いてない」
サジャ。ファンネル。かつてのマスター、リナゼ。
「僕と一緒なら、どこまでだって行けるって思ってる? 本当に? 僕はこんなとこ歩きたくないなぁ。なあターニャ。お前のしてることって、なんなんだ? こんなにたくさんの人を犠牲にして……本当にお前は、正しいことをしてきたのか?」
そしてエルスが問い詰めれば、ターニャはもう、前進出来なかった。歴史が積み上げてきた、屍が埋まる大地の上を、踏み歩くことなど、出来ない。
「い……いや……! いやあああ!」
* * *
躯体をファンネルの元で眠らせたまま、エルスの意識が降り立った世界は、辺り一面が白妙に染められていた。彼はそれを空虚とは呼べない。何も無い訳がないのだ。深い霧の中にすべてを覆い隠しているに過ぎない。
どこにターニャが居るか判らない。だが、棒立ちになっている訳にもいかないので、とりあえず歩を進めることにする。
ふと、背後から袖を引かれた気がして、エルスは脚を止めざるを得なかった。
「エルス様……私を見捨てて、彼女のところに行くんですか?」
いつの間にそこに居たのだろう。引き止めたのは従者だ。彼女はどこかやつれて見える。戸惑うエルスを、ユシライヤは堅く抱き止めた。
「どうして? 彼女よりも私の方が、理解してるのに……私の方が、貴方のことを……」
彼女の腕は、エルスをその場に封じるかのように締め付けていた。振り解けない程の力だ。エルスの口から言葉が出掛かった時、彼の目の前にもう一人が姿を現した。
「無意味なんですよ……エルスさん」
近付いてきたのはエニシスだ。
「ターニャさんは僕を助けてくれませんでした。彼女を信じても、きっとあなたも同じ道を辿るんだ」
「帰りましょう、エルス様。私たちだけの場所に……!」
二人の「帰ろう」という言葉が、エルスの耳に谺のように繰り返し響いている。振り払おうと、大きく首を横に振った。明らかな拒絶は、二人の不快感を露わにさせた。
「仕方ないなぁ……そんなに解らないなら、僕の受けた痛みを少し分けてあげますよ」
エニシスはそう言うと、掲げた短剣でエルスの両脚を切り付ける。
「あ……!?」
膝下から流れる鮮紅。立つ力を失い、ユシライヤに拘束されたまま、膝立ちになる。
「可哀想に……エルス様。もう歩けませんね。これで、私の傍からは離れられない」
解っている。ここで起こることはすべて、ターニャの意識の中での幻象。それには誤認や錯覚、過剰な反映も含まれているだろう。それでも刻まれた創傷は、幻ではない。
満足そうに笑む二人に挟まれて、エルスはじっと耐えた。すると、徐々に痛みが退いていく。オルゼの紋章によりエルスの傷が治癒しているのだ。
この感覚に、エルスは少しずつ慣れてきた。
敵意を抱けば、その感情だけに集中する。続けていると、ふと一瞬、何も見えなくなる。自分とは違う存在が、自分を覆い隠すかのように。その瞬間は、不思議と恐怖はない。自分を取り戻した時には、すべてが終わっている。
自分を縛っていた者も、自分を傷付けた者も、そこには居ない。自分の身体には、傷跡一つ残らない。初めから何事も無かったかのように。寂静な真実が、絡み合う感情を引き連れて、彼の記憶に刻まれただけ。
* * *
その後もエルスは、似たような存在に幾度も阻まれた。理解しているとは言え、仲間との対峙は決して気持ちの良いものではなかったが、それらを退けているうち、ついにターニャの姿を目前にした。
しかしそこで彼は一瞬、歩み寄るのを躊躇った。彼女の近くには、自分と同じ姿の幻影が佇んでいたから。
「本当にお前に出来るのか? 誰も救ってないお前が、本当に僕を救えるのか?」
「私……私は……」
偽られたエルスの言葉によって、ターニャが閉ざしていた錠口がこじ開けられる。その扉の奥の光景を、見たくない。聞きたくない。彼女にはそんな思いが、僅かに芽生えた。
それが引き金となった。ターニャは目蓋を堅く閉じたまま、声にならない音で叫んだ。エルスには、彼女の身体に黒い痣のようなものが出来ていくのが見えた。あっという間にそれは全身を覆うように広がり、ついに彼女は影を纏ったかのように、一切の光のない、人型の黒塊に成り果てた。
「ターニャ……!?」
彼女の変貌に驚き、思わず名を呼ぶも、返事はない。こちらのエルスの姿は、彼女の目に入っていないようだ。無理もない、その瞳に光は映らないのだから。そもそも瞳の位置はおろか、存在すら判別出来なくなっている。もしかしたら、聴覚も機能していないかもしれない。
だが、エルスはふと気付いた。本物のターニャの身体なら、元の場所で眠っている。あの姿は彼女の意識の中で起こった変化に過ぎない。
「私には何も出来ない……誰からも必要とされない……私の存在なんて……何の意味もない。このまま……私のことなんか、放っておいて……」
ターニャ“だったもの”から、黒い靄が溢れ出す。負が充満した空間は、灰が散らばる鈍色に変わっていた。その異様な空気を吸い込んだだけで、エルスの胸に気持ち悪いものが込み上げてきて、吐き気を催す。まともに立っていられない程に、苦しくて、重い。
だからこそ、放ってはおけない。こんなものを内に抱え込んでいた彼女のことを。
「目を覚ましてくれ……ターニャ! 本当はぜんぶ、お前が思ってることなんだろ?」
エルスは這いつくばるようにして、何とかターニャに近付こうとする。だが黒い靄の出現は底を知らない。彼を拒むように、延々と彼女から放たれ続ける。
「今まで出てきたニセモノはみんな、ターニャを悪く言ってたんだ。でも……それは、僕たちの本当の気持ちじゃない。お前が自分を悪く言ってるだけなんだ……!」
エルスの手が、ようやく、ターニャの抱える闇に届いた。
「……ごめん。ターニャ。今まで気付けなかった。お前一人で、ぜんぶを背負わなくていいんだよ」
ターニャのその瞳では、彼の姿を捉えることは出来ない。だが、確かな温もりがあることに彼女は気付いた。触れられ続けても、その感覚は消えない。
「……エルスさん? 今度こそ……本当の、貴方なんですね」
彼女が応えた。言葉が届いた。見えないであろうとも、エルスは微笑み掛けた。
「ターニャ! 見ないふりをするのか!?」
引き裂くように、もう一人のエルスが二人の間に姿を現した。
「みんな、こんなに苦しんでるのに! 僕だって何度も傷付いてるんだ……紋章のせいで。お前が早く何とかしないから……!」
彼が言うと、ターニャは再び頭を抱えて苦しみ始めた。エルスは、真っ直ぐに腕を伸ばす。自分と同じ姿をした迷霧の壁を擦り抜けて、その手はターニャに届いた。
「僕のことなら大丈夫だよ。だって、ターニャのほうがもっと苦しんでる」
エルスがターニャに触れれば、纏わり付いていた虚妄の存在は消え失せた。
「……エルスさん。そんなことありません。未熟な私は……こんな姿になってしまった。自分を過信していました。私が努力をすれば、すべてを救えるのだと。いえ、そうしなければならない。でも、私は未だ何一つ……」
「ターニャが、自分を信じられなくても。僕はターニャを信じてるよ。最初からずっとだ」
だが、ターニャは自ら、エルスの手を振り払う。
「貴方がそう言ってくれるからこそ……! 私は私を許せないのです! 自分が情けない! ついこの前だって……貴方の悩みに、私は何も応えられなかった。貴方を理解していなかったから!」
「……ターニャ」
「私は、貴方たちとは違う。導くべき立場のガーディアンなのです。それが出来なければ……私は一体、何の為に、狭間の者として生まれたんですか!?」
消えていたはずの幻影が、二人を取り巻くように無数に現れた。彼らがターニャを責め立てる言葉は、多重に響き渡り、もはやそれぞれが何と言っているのかが聞き取れない程に。理解と体感は必ずしも一致しない。不明瞭な言語でさえ、ターニャから立ち上がる力を奪うには充分だった。
彼女を見下ろしながら近付いた一つの影が、口を開いた。
「最初からぜんぶ……何もかも、お前達のせいじゃないか!」
自分と同じ顔をしたものが、自分と同じ声で、ターニャを見下げるのを、エルスは見ていた。
彼女の聴覚が働いていることが裏目に出る。今の彼女には、どの言葉が本来のエルスのものなのか判別が付かない。いや、そもそも彼女にとっては、纏わり付くすべてが真実なのだ。
黒い靄は、今も絶え間なく溢れ出し、周囲を覆っている。漂い舞い散る暗い灰の中を、エルスはじっと佇む。深く息を吸ってみると、先程までの気持ち悪さは無くなっていた。何故なら今の彼は、別の感情に支配されているから。
「……もう、静かにしろよ。僕の思ってないことを、僕の顔で喋るな」
飛び交う雑言の中に居ながら、彼は静かに背に従えた黒獣に命じる。共振した獣は身を分かち、幾多の影を創り出した。それらが一斉に矢のように放たれると、たちまちにして、無数の幻影は声も上げずに次々と貫かれて消えていった。
「さっきの分が残ってたんだな。ちょっとずつわかってきた」
エルスの声が聞こえて、周囲の様子が変わったことにターニャは気付いた。身体の震えが治まっても、彼女は黙り込んだまま、唖然としていた。未だ何も視えないが、もし見えていたとしても、その現実をすんなりと受け止め切れただろうか。彼は苦もなく闇を退けた。あまりにも容易に行使された、同等の闇の力を以って。
僅かな恐怖すら感じた。しかし直後、彼の言葉で引き戻される。
「ターニャ。お前だって、苦しんだり悩んだり、逃げたくなっちゃう時があったっていいんだ。それが普通なんだよ」
「え……?」
「だって、生きてるんだから。ガーディアンだとか関係ない。失敗作だなんて思わなくていい。お前だけで全部やろうとしなくていい。辛いことは話していい。苦しいのは分けてくれればいいんだ。そのために僕たちは一緒にいるんだよ。僕もターニャも、みんな同じなんだ」
「同じ……?」
ターニャは改めて、自らの姿を見据えようとした。瞳には何も映らない。だが想像はつく。今の自分は、本来の姿とはかけ離れた外観であるはずだ。それを見てもなお、彼は『同じ』だと言う。
「うん。だからもう、お前を一人で歩かせたりはしないよ」
そう言ってエルスは、一人先に歩み始める。踏み入れたのは彼女を惑わせていた道だ。ターニャは耳を澄ませる。しかし、先導する彼の足元には、恐れるものなど何も無かった。
「失くしてきただけじゃないんだ。立ち止まってたら、まだ知らない何かにも、もう会えなくなる。わかってるだろ? だって、お前は僕を見つけてくれたんだ」
彼に続いて、ターニャもその上を踏み締める。まるで湖面に浮かぶ葉の上に居るかのように、足元が揺らいだ。彼女が歩けるのは、彼が手を引いてくれているからだ。
その時、ふとエルスは上から何かが落ちてくるのに気付いた。空間のあちこちがひび割れ、剥がれ落ちてきているのだった。その向こうから、二人を呼ぶ声が聞こえたので、安心して彼に身を任せることが出来た。エルスは言葉の代わりに、腕を上げて応えた。
* * *
気が付くと、エルスの意識は砂上に横たわる自身の中に戻ってきていた。初めに目にしたのがターニャの寝顔だったので、驚いて目を見開き、慌てて起き上がった。すると彼女もゆっくりと目蓋を開いて、上体を起こした。未だ状況がはっきりとは掴めていない様子で、ぼんやりと辺りを見回している。
彼女の姿はもう、黒く染まってはいなかった。透き通るような肌と、朝焼けのような長髪と、溟海のような瞳。初めて見た時から、綺麗だと思っていた。目の前にあるその色彩は、幻ではない。
「ターニャ……よかった!」
エルスは思わず彼女を抱き留めていた。その温かさが、ターニャには何故か懐かしくて、心地よい。
「……エルスさん。不思議ですね。貴方に出会ってから、私にとっては初めてのことが、何度も訪れました」
「ターニャ。術の影響はあるか?」
ファンネルに問われて、ターニャは咄嗟にエルスから身を引いた。
「問題ないようなら、早々に契約を終えるぞ」
「は、はい! すみません……」
エルスはターニャの背中を見送りながら、ファンネルの傍らで倒れている彼女を見て、目を細めた。
「……ユシャはまだ、気が付いてないんだな」
「小娘のくせに暴れすぎたからな。少し大人しくさせてやれ」
ターニャの契約が滞りなく行われた直後、時機を見計らったファンネルにユシライヤは起こされた。
黒装束に過去の幻影を視せられた後、自分が何をしていたかの記憶は曖昧だ。しかし、気を失う直前のことは覚えている。何よりも望まなかった結果が、彼女の脳裏に蘇る。底無しの自責の念に駆られた彼女に、先に言葉を発したのはファンネルだった。
「悪かった。俺はお前を利用した。お前は出来うる限りのことをした。黒装束の奴らは、ユリエの紋章でしか損傷を与えられないように仕組まれていたらしい」
つまりそれは、エルスの手で、エルスの判断で、フランを消し去ったということ。真実を確かめるかのように、ユシライヤは主の顔を見た。
「エルス様……すみません。貴方にそういうことをさせない為に……自分が居るのに」
「ううん。大丈夫だよ。僕は怖くないし、後悔してないんだ。僕のせいでお前が苦しむよりはずっといい」
ユリエの紋章は、他者を喰らう。ユシライヤの不安定な紋章はその影響を受けやすい。いずれにしろ喰らわねばならないなら、彼女の命よりも、別のものを。
エルスの眼は、真っ直ぐにユシライヤを見据えていて、少なくとも彼女には、彼が何かを偽っているようには見えなかった。
「……ずっと考えてたんだ。僕はもう、戻れないんだと思う」
黒装束の手によって、関係のない罪も持たない人間が巻き込まれた。把握出来ていないだけで、他にも犠牲になったものがあるかもしれない。彼の背負う棺は、重い。たとえその足取りでかつての居場所に戻ろうとも、決して同じ景色に帰郷する訳ではないのだ。
異質な状態さえ取り除けばすべてを元に戻せる。かつてそう信じていたターニャは、そんな二人を見ているのが辛かった。
彼らの元に歩み寄ろうとした時。ふと、ターニャは彼方の地平に、天上へ長く伸びる大きな光の柱を見た。虹のような多彩な光で、遠目から見ても圧倒される存在感だった。ユリエ=イースに存在する全てのイースダインとターニャとの契約が完了したことで、彼女にのみ可視化出来るようになった中央ゲート、その名も『トライクレスタ』。
光の中に存在するのは、界の狭間と地上界を繋ぐ楔。それを破壊すれば、歪んだ空間が生まれる。エルスを支配する紋章だけを永遠に閉じ込めておく為の、檻のような空間が。
あの美しさに、歪な手を加えなければならない--そう思うと、今更ながらにターニャは気が引けた。そもそもが、真っ当な道を選んではいないのだ。
「見えたか、ターニャ。黒装束の存在が気掛かりだろうが、そもそもあの地への進入が可能なのはガーディアンだけだ。焦る必要は無い。一先ずミルティスへ戻るぞ」
ファンネルの言葉で、ターニャは引っ掛かりのあった胸中を晒した。
「創始者様。それなのですが……彼女たちにガーディアンの協力がある可能性はないでしょうか。例えば……マスター、とか」
「そうであるとして、あいつに何が出来る? そしてお前もだ。あいつを未だに同朋と見るか? 覚悟が無ければ、尚のこと直ぐに向かう訳にはいかない」
彼の突き刺すような視線が、ターニャに霧の中での幻象を思い起こさせた。
彼女は既に、歩き始めている。彼女が選ばれた瞬間から、岐道の存在しない進路に、ただ従って。
* * *
その周辺が迷いの森と呼ばれたのは、いつからだったか。紋章を異端の力と恐れる民のすぐ傍らに、しかし彼らには決して目にすることの出来ない場所に、異端の力は眠っている。
紅き印を持つ種族、レデの民。十にも満たない数の者たちが、ここでひっそりと暮らしている。変わらぬことが平穏なのであれば、その維持を望んだだろう。しかし実際には、彼女らが求めている平穏は別にあった。
この集落は、前族長が命を落とした直後、新たに任命された族長の特殊な方法によって創り上げられた。不可視の門は、『鍵』を持つ者にしか開閉出来ない。外界とは隔たれた空間なのだ。信じられない話だが、それが真実であることを民たちはその身を以て知っている。鍵の在り処は現族長のみが知り得るが、その長は今、不在にも等しい状態にある。その間、十数年。よってレデ族の集落は、長い間閉鎖されているも同然だった。
ゆえに、突如として現れた見知らぬ存在に、彼女らは動揺し、自身の眼を疑った。
「きさま……! どうやって我らの地に潜り込んだ!?」
「おや。血の気が多くて怖いねぇ。荒立てないでおくれよ、せっかく朗報を持ってきてやってるって言うのに」
褐色の肌、そして琥珀のように輝く長髪は、レデ族の特徴とは異なる。直ちに駆けつけた数人の女達に明らかな敵意を向けられてもなお、長身の女性は事もなく言い放つ。
「ここに居るんだろう? 原因もわからないまま、ずっと眠ったままの奴が」
「……何故それを」
「あたしならそいつを、起こしてあげられるよ」
投げ掛けられた提案に、レデの民は息を呑んだ。暫しの躊躇。そしてついに最初の一人、セーナディルが手を下ろすと、次々と周りの者も抵抗を止めた。十数年ぶりに訪れた外界の人間に縋るような、一抹の希望を抱きながら。
セーナディルが先導し、同族と共に、彼女を目的の場所へと案内した。消えない彼女への疑念と、いざとなれば直ぐにでも攻撃できる態勢は崩さないままに。
扉を覆い隠す蔓草は、レデの住人が幾ら取り去っても、次の朝には行き先を閉ざすかのように伸びている。それを取り払った向こうに、彼の眠る寝台がある。
「十数年もの間、一度も目を覚ましたことも、言葉を発したこともないわ」
セーナディルが言った。仰向けに臥している青年には、意識はおろか呼吸すら伴わない。
しかしその姿を確認した女性は、露ほどの懸念も表さなかった。手首に提げた白色の石塊を、青年の胸の上に掲げてみせる。すると程なくして、彼の目蓋が動いた。消えてしまっていたレデ族の証が、その額に浮かび上がった。レデの民はその様子に、揃えて声を上げた。
「久しぶりだね、ジールバルト。あんたがヘマしてくれたお陰でだいぶ手間取ったけど、また会えて嬉しいよ」
「……リナゼさん」
彼に名を呼ばれると、リナゼは満足そうに笑みを浮かべた。しかし覚醒したばかりの青年は、過ぎた時間の流れと並行を歩めない。眩んだ視界を押さえ込もうと、ジールバルトは眼を閉じる。支えるように、リナゼがその上体に腕を回し、彼の耳元で呟いた。
「最初に言っただろう? あんたは逃れられない。あんたはもうあたしの手足と同じなのさ」
リナゼの顔が遠去かっても、ジールバルトは未だ現状を受け入れ難い様子だった。二人の間に、セーナディルが割り入る。
「私たちの長に、気安く触れないでもらいたいわね」
「……おや。礼も言わないんだね。あんた、ずっとしかめ面で可愛くないよ」
他のレデ族はみな、族長を目覚めさせたリナゼに謝意を示している。しかしセーナディルだけは、鋭い視線を彼女に向けたまま。
「感謝はするわ。けれど素性もわからない貴女を歓迎する訳にはいかない。用は済んだのだから、早々に立ち去れ」
そう言った彼女の握られた拳に、火群の術式が集束されている。従わなければ攻撃を仕掛けるつもりだろう。
「……そろそろあんたには、退いてもらおうかね」
即時、放たれた閃光。セーナディルは後方に倒れた。不意討ちを防ぎきれなかったのだ。リナゼの動きには警戒していた。だがまさか、族長の手によって創傷を与えられることになろうとは。ジールバルトは寝台の上で上体のみを起こした体勢で、術を放った。セーナディルの右腕は焼け焦げてしまっていて、炎の術を再度展開することなど、到底叶わない。
「ふうん。起き抜けにしちゃあ問題ないじゃないか。ねえ、ジールバルト。これではっきり解っただろう? あたしの言った意味がさ」
ジールバルトは、自らの掌を見返した。まるでリナゼの意思に手繰り寄せられたかのように、意識とは別のものが、彼女に従っていた。同族に傷を負わせるつもりなど無かった。しかし弁明の余地はない。その瞬間を、事実を消すことは出来ないのだから。
「さて、あたしはこう見えてヒマじゃないんでね。さっさと付いてきな」
「……はい」
命じられた青年は、操られたかのように起き上がり、歩き出す。
「族長様、どこへ向かわれるのですか!?」
「ようやくお目覚めになられたのに……!」
混乱するレデの民は、ジールバルトを引き留める言葉を向けながらも、傷付いたセーナディルを庇うように、そして彼を恐れるように、近付くことも出来ず立ち竦んでいた。何故なら彼の瞳には、彼女以外の者の姿は一切映し出されていないように見えたから。
その中にただ一人、族長の背を追う者が居た。
「ジールバルト……どうして貴方が、こんなことを……」
名を呼ばれたことで一瞬我に返ったのか、ジールバルトは徐ろに立ち止まった。振り返ると、彼女の憂える表情に、胸が疼いた。
「……リーベリュス」
ジールバルトが、『もう一人』と心身を共有していた頃。ユーシェリアにかつて問い掛けられたその名前が、記憶の奥底で妙に響いていた。それが何故だか、今となってはよく理解出来る。彼女は、リーベリュスとよく似ている。
「何をボサッとしてるんだい?」
ジールバルトは、はっと息を呑んだ。リナゼが鋭い視線を向けていた。
「ごめんなさい……リーベリュス。僕は必ず、再びここへ戻ってきます。今はこれしか言えませんが……決して僕は、あの時の誓いを忘れてはいません」
それだけ言うと、リーベリュスが応えるよりも先に、ジールバルトは彼女の側から離れた。そしてリナゼの傍らに立ち、何か短い言葉を呟いた。それはリーベリュスには理解できない--何と発音しているかすら聞き取れない言語だった。
程なくして、二人の足元から光の円陣が浮かび上がったかと思うと、そこから放たれた光は、彼らの姿を包み隠した。
刹那の出来事。その時の彼の意識が、彼女に支配されていたかどうかは判らない。だが彼は一度も振り返ることなく、リナゼと共に姿を消した。同時に、鍵を失ったレデの民にとって、集落の外への道が再び堅く閉ざされてしまうこととなった。彼女らの僅かな希望ですら、奪われてしまった。
リーベリュスは、その見えない扉の向こうに想いを馳せたまま、
「ジールバルト……私は、貴方の目覚めをずっと信じて待っていたわ。貴方の事情はわからない……それでも、まだ私は、信じていて良いのね……?」
既にその言葉が届かない距離にあると解っていてもなお、彼女は彼に問い質さずにはいられなかった。
_Act 12 end_