表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TRUE SEEDS  作者:
前編
12/14

act.11

 今からおよそ50年前のことである。孤島ギーザにて火龍が復活したという報せが、イスカ連邦に属する13の公国に戦慄を疾らせた。

 かつてこの地に訪れた英雄の手によって亡骸にされたかと思われていた龍は、長い眠りに就いていただけだった。火龍は不死の存在だったと、その姿を目にした誰もが絶望に焼き尽くされた。龍の吹かせた炎の風は多くの命を奪っていった。

 幾人もの手練れが傷一つ付けられずに火龍に倒されてゆく中、立ち上がった者がいた。その名はオレルク=マーディン。彼の刺突が、龍の眼を奪った。不死と思われた火龍は彼の手によって息絶えた。しかしオレルクもまた、全身を強く打ち目覚めなかった。イスカに現れた二度目の英雄は、龍と相討ちとなったのだ。その後、彼の出生地である港町は『マーディン』と名を改められた。

 オレルクが『永劫の英雄』と呼ばれたのには、彼に救われた者の敬意の他、もう一つの理由がある。埋葬を待って安置されていた地下から、彼の遺体が無くなっていたのだった。この不可解な出来事に、民は驚いたものの怖れはしなかった。彼は不死龍の血を受け継いで生き返り、別の地での争いから人々を救済する為に飛び立っていったのだろう、と。


* * *


 他の国を訪れた際には、イースダインに留まる紋章の影響が気候にも色濃く現れていたので、レデの紋章が留まると聞いたイスカは相当暑いものなのだろうと、エルスは覚悟していた。しかしいざ船から降り立ってみると、想像していたよりも大分過ごしやすいのだとわかる。

 船に同乗していた旅人の話によれば、広大な国土を持つイスカでは気候の地域差が大きい。この辺りでは現在雨季にあたるらしいが、それでも月に数日しか雨が降らないと言うので、エルスは驚いたものだ。彼が見渡す限りの晴天に海鳥たちが心地よく飛び交っているのだから、それは確かなのだろう。


「ユシャ! すっごく綺麗だぞ、まわり見てみろよ!」


 港町マーディン。蒼天と青海に映える白壁で統一された町並みは、この場所に風景画を描きたいと言った建築家の手が加えられたものだ。商店通りを歩けば、色鮮やかな陶器や絨毯、本日陸に揚げられたばかりの新鮮な魚介が多く並ぶのが見える。客が長く居座って店主と言葉を交わすのは、値段交渉の為か世間話か。風に煽られ揺れる波とは相反的に、町には穏やかな時間が流れていた。


 ユシライヤとはまともに会話が無かった。『護ってほしいなんて言ってない』、あの時エルスがそれを言ったきりで。だからこそ彼はここで声を掛けたのだったが、


「……ええ」


 とだけ返した当の彼女は、視線こそ周囲を向いていたものの、その瞳には何も映していないかのようだった。

 気まずくなってしまった。エルスは一旦彼女に踏み込むのを止めて前進した。数歩遅れて歩くユシライヤの横にはターニャが、後方にはエニシスが付き添っている。現在彼女の発作は治まり安定しているようだが、原因を取り除けない限り何も解決した訳ではない。再び症状が現れた時にすぐに対応できるようにと、ターニャはずっと彼女の側を離れずにいる。何故だかエルスは、それを見ているのも辛かった。


「あれが英雄像か」


 耳元で呟いたのは獣型のファンネルだ。不意に肩に乗ってきたので、エルスは一瞬身を竦める。


「呆けているんじゃない。お前とあいつは違う。為すべきことを履き違えるなよ」


 そう言い終えてすぐに駆けていってしまうので、エルスも止む無く付いていくことにした。


 中央に位置するのは、この町の象徴として造られた彫像。炎を吐き出す翼龍と、槍を構える男性が対峙している。題目は『永劫の英雄オレルク』。彼の持つ槍は龍の片目を貫いている。芸術家がその状況を実際目にした訳ではないだろうから、想像の産物だ。しかし緻密に表現された交戦の迫力には圧倒される。

 だが何故ファンネルがここで立ち止まったのか、エルスにはわからなかった。彼ならば、こういうものに関心を示さずに先を急ぐだろうと思ったのだ。

 しばらくの間ファンネルは彫像を見つめていたが、「もう充分だ」と、またしても一人で駆け出してしまった。その表情からは、満足そうな様子はうかがえなかった。


 イースダインに最も近い村リクリスは、砂地に存在する数少ない集落だ。このマーディンから更に南西に進まなければならない。道中には立ち寄れるような場所は無いので、充分な備えが必要になる。

 いざリクリスへ向かおうと歩みを進める中、その場に立ち竦んだままの者が一人。


「自分は、足手まといになるだけですから」


 彼女はここに残るつもりだと言うのか。さも面倒そうに踵を返したファンネルを制止して、エルスが彼女に歩み寄る。


「……ユシャ。お前を今さら置いてったりしないよ」

「貴方を護れないなら、もう共には行けません。自分は今まで、その為だけに生きてきたんですよ」


 揺るがない従者の様子に、エルスは言葉を失った。

 自分が護衛の為の武器になれないのなら、旅に同行する理由はおろか、自らが生きる理由すら無いと彼女は言い放った。折れた剣ならば、持ち主は容易に捨てるはずだから。

 長く共に過ごした二人。しかし彼らは決して同じではなかった。

 エルスは母を失った。兄に見捨てられた。民からは死んだものだと思われていた。それでもユシライヤだけは、何があっても側を離れないのだと思い込んでいた。だからこそ今まで何かを命じることなどなかったのだが。


「それでも……付いて来てほしい。僕の命令だったら、聞けるだろ」


 それで心から納得したかは、わからないが。エルスのその言葉に従うが為に、彼女は再び歩み出した。


* * *


 礫の敷かれた砂の上、駄獣に跨り通るのは、古くから隊商が渡り歩いて歪んだ自然の道だ。植生の少なく乾燥した大地には、道標となるようなものは無い。しかし長くその環境に身を置いた者ならば、この広い土壌に僅かな違いを見抜くことが出来る。

 一行の先頭を率いるのは、ヴァストークと名乗った蒼い眼の男性。港町にて出会い、エルスらが旅人だと気付くと、目的地まで同行しようと申し出てくれた。エルスらには彼の助言で、日差しと砂塵から全身を守る為の緩やかな衣装も用意された。この辺りの人間は皆そうしている。ヴァストーク自身も目元と手脚以外は布で覆われているので、彼の顔はわからない。背丈はエルスよりも少し低いくらいだ。表情をも読み取れない相手を信用するのは容易ではないのだが、彼に関しては危ぶむ必要はない--根拠は無いが、エルスはそう感じていた。


「では、この辺りを今宵の拠点としようか」


 ヴァストークが言って、幕屋を広げる。

 季節は未だ春に及ばない。夜間ともなれば、日中の気だるい暑さは何処かへ、むしろ肌寒いくらいだった。四方を囲む暗闇は、行く手を閉ざすかのように訪れた。しかし実際には、澄み切った空気は何事も阻まない。それを示すかのように、空に描かれた数多の星々は、他のどこよりも美しく鮮明だった。


 陽光と共に、幾つかの植生と日干し煉瓦の建築物が遠目に見えてきた。慣れない移動手段で疲労していたせいで、人々の暮らしを想像できる景観に覚えた安心感は、相当なものだった。

 ヴァストークは、エルスらを目的地まで送り届けると同時に踵を返した。彼は何も要求しない。エルスがしばらく見つめていると、


「心配は要らんよ。休憩をとりながら無事に帰るさ」


 とだけ言って、行ってしまった。



 リクリスに着いて初めに目を引いたのが、豊かな色彩を持つ円錐型の建築物だ。最初に駆け寄ったのはターニャだった。彼女に釣られるように、エルスらもそれの前で脚を止めた。

 大人も見上げる高さの石壁に、迷路のように複雑な直線の図柄が描かれている。近付けば、それは彩色された石などの小片が埋め込まれているのだと判った。大地の上にも同様に、色鮮やかな装飾が敷き詰められていた。それぞれ色調の異なる六つの円の模様が、中央の円錐を囲むように並んでいる。

 ターニャはそれを美しいと感じるよりも、違和感を覚えた。


「あんた達旅人には珍しいだろう?」


 エルスらがしばらく立ち留まっていると、集落の住人であろう男性が声を掛けてきた。


「こいつぁ不思議な力で動いてるみたいなんだ。君主様が授かった石のお陰なんだってなぁ」


 彼によれば、外の人間は大抵ここで脚を止める。その外観からは彩りの為の建造物にも見えなくもないが、集落の生活に無くてはならない水汲み場なのだそうだ。ここに集まってきた住人は皆、自らの上半身を隠してしまう程の大きな粘土製の壺を抱えている。


「やはり、紋章の力が作用していたのですね」


 ターニャが思わず呟いた。呼応石が僅かにこの場所に反応したと感じたのは、思い違いではなかった。


「紋章? ああ、そういや君主さまにはそんなんがあるって噂だな。何せあの人、ずっと小せぇままだもんなぁ」


 男性は豪胆に笑いながら腰を下ろし、円形の床に壺を置いた。すると、どこも手で触れずとも、まるで壺の中から湧き出るかのように水が溜まっていった。


 その様子を不服そうに見つめるファンネル。彼が足早にその場を立ち去ろうとしたので、慌ててエルスらも付いていった。

 

「……あんた、ラードラ?」


 その背中を見て呟いたのは、水汲みに来ていた中年の女性。

 一行が不思議に思って振り返ると、彼女はある一点を見据えながら徐ろに近付いて来る。立ち止まったのは、エニシスの前。少年をまじまじと見つめれば、その瞳からは涙が溢れた。


「やっぱり、ラードラじゃないか!」


 たじろぐ少年と、構わず彼に抱き付く女性。エニシスは何も紡げないまま。


「ラードラ、家に帰ろう。母さんにも早くあんたの顔を見せてやりたい」


 女性は半ば強引にエニシスの腕を引いて歩き出した。突然のことで状況が理解できずにいたが、喜びに満ちた彼女を止めることは、エルスには出来なかった。


* * *


 女性の名前はルディア。その母親の名はロナといった。一家の主であったグーナスは数年前に世を去り、ロナは脚を悪くした。決して裕福とは言えないが、彼女らは希望を捨てずに生きてきた。生き別れになった家族がいつか帰ってくる場所を、失う訳にはいかなかったから。

 そしてそのラードラが、二人の前にようやく現れたのだ。


  エニシスは躊躇いながらも、自分が記憶喪失であること、そして二人に関する記憶も無いことを告げた。身に覚えのない歓迎に耐えきれなかったのだ。

 それを聞いたルディアは、一度は落胆した表情を見せるも、


「……良いんだよ。あんたは何も悪くないんだから。また会えただけで充分だ」


 と、エニシスの頭を撫でる。


「実を言うとね、諦めかけてたんだ。あれからもう、20年近くになるね……」


 ルディアの言葉に、エニシスを始め一行は唖然とした。


「……それじゃあ、人違いなんじゃないか?」


 エルスが言うと、反論したのはロナだ。


「あたしが実の子の顔を見間違える訳ないよ! ずっと……待ってたんだ。毎日、この子を思いながら……」


 すすり泣くロナには悪いと思いつつも、エニシスも自分が『ラードラ』と似過ぎている別人なのだと思った。経過した時間だけが理由ではない。この家に自分が生まれるはずはないのだ。何故なら彼は、紋章を持つ『天上人』なのだから。


「……馬鹿だと思うかい? それほど今のあんたは、いなくなってしまったあの時の弟とそっくりなんだ。それから、その額の印さ」

「!」


 隠しているはずの証を見破られて、エニシスは思わずルディアから距離をとった。


「それがあれば、身体の成長は止まるんだろう? ヴァストーク公だってそうじゃないか。あの人も、過去の記憶が無いって言うしさ……」


 ヴァストーク。エルスらをこの場所まで送り届けてくれた人物がその名を名乗っていた。彼こそが紋章を宿した若き君主だったのか。どうやら紋章の存在は、この地に浸透しているようだ。

 エニシスも彼と同じように、紋章の影響で記憶を失い、長い間さ迷い続けた--ルディアの言うように、その可能性も有り得なくはない。


「ああ、ラードラ……! きっと辛い思いをしたんだろうね……怖かったね。でも、もう良いんだ……我慢しなくて、良いんだからね……」


 そう言って再びエニシスを抱きしめるルディア。その胸の中には、確かな温もりがあった。



 ルディアとロナは、エルスらの分まで食事を用意してくれるそうだ。『ラードラ』が落ち着く時間が必要だろうと、今晩の宿泊にこの家の一室を貸してくれるらしい。まだ記憶が戻らない彼には、自分たちより旅の仲間と一緒に過ごしたほうが気持ちの整理がつくだろうから、というルディアの気遣いだった。

 床に敷かれた布の上に並べられたのは、ラードラの好物だというものばかり。まるで、かつて家族で過ごしたあの頃まで、彼女らが時針を巻き戻したかのようだった。だが、二人がエニシスを歓迎しても、当人は浮かない顔をしている。


「どうしたんだ?」

「……ごめんなさい。ちょっと混乱しているみたいで」


 堪らず声を掛けたが、エルスにも察することは出来た。状況の変化に追い付けないでいるのだろう。彼自身の記憶が戻った訳ではないのだから、当然だ。

 だからエルスはこんなことを言った。


「大丈夫だよ。きっとここにいれば、ゆっくりでも思い出せるよ」

 

 その言葉が、周囲の眼差しが、エニシスの思惑と相反しているとは思わずに。


「……エルスさんは僕に、ここに留まってほしいんですね」

「えっ……」

「もしかしたら、僕じゃない……本当のラードラが、どこかにいるかもしれないんですよ」


 エルスは辺りを見回す。エニシスは小声だったので、周囲には聞こえていないようだった。


「でも……それじゃあさ。お前は嬉しくないのか?」


 黙したままのエニシスに、まるで追い打ちをかけるように。


「帰れる場所があるって。待っててくれた人がいるんだってことが」

「エルスさん……」

「……ごめん。僕とお前は違うのに」


 エルスが視線を反らして、二人の会話はそこで途切れた。

 改めて床上を眺めてみると、食べきれないと思う程に多種の料理が並べられていた。香辛料と香草の良い香りが食欲をそそる。エニシスはとりあえず一番近くの皿を手にして、少し口にしてみた。美味しいと思った。けれど、記憶を揺さぶられた訳ではなかった。


* * *


 与えられたのは、家族が今も寝室として使っている部屋。床に敷かれた布の上で眠るので、寝台は用意されていない。相部屋となった彼女からはなるべく距離をとり、エニシスは部屋の隅で、壁を向いて横になった。何せ彼女の寝姿を見ながらではまともに眠れる気がしない。今晩、エニシスはユシライヤと二人きりなのだ。


『進行に憂いを抱える者を、同行させるつもりはない』


 ファンネルがそう言ったのが切っ掛けだった。反対したのはターニャだ。彼女は一時でもユシライヤの側から離れるのを認めなかった。しかしユシライヤの方がターニャを拒んだ。


『あなたが救うべきなのはエルス様でしょう。私なんかじゃない』


 突き放すような、剣に代わるような物言いをして。

 結局、エルスら三人は別の宿を探しにここを出ていった。彼らにはここで脚を止める理由は無い。恐らく明朝にでもイースダインへ向かうだろう。このまま合流しなければ、もう会うこともないかもしれない。


 この場所を、旅の終着地とするのか。エニシスの本心は、秤に掛けるまでもなかった--この状況に置かれるまでは。ファンネルに従ったのは、今、自分の存在を求めてくれる場所が此処だけだからだ。

 会話の無いまま過ぎていく時間。瞼を閉じれば遮るものは無いのに、エニシスはなかなか寝付けない。


「ここの記憶は無いのか?」


 突然の質問だった。振り向けば、彼女は上体を起こしていた。


「……はい。何一つ引っかかるものが無いので……初めての光景にしか見えないんです」

「記憶が戻った訳じゃないんだ。その状態で決断するのも苦しいだろう」


 気遣ってくれているのが判る。けれどこういう時の対応をエニシスは知らない。何年もの間、人間との関わりを絶っていた彼には。


「……なら、エニシス。リーベリュスという人を、覚えているか?」

「……!?」


 --胸を抉られるような感覚だった。知らないはずの名前が、記憶の奥底で響くような。


「私の母の名前なんだ。もしかしたら、どこかでお前と会っているかもしれないと思ったんだが」


 少年は、言葉を紡げない。

 ユシライヤはその反応を、何も知らないゆえのものだと受け取り、視線を落とした。


「ご……ごめんなさい」

「いや、いいんだ」


 エニシスは、ユシライヤと初めて出会った時、彼女が「両親の記憶がほぼ無い」と言ったのを思い出した。父親は生まれる前に亡くなった。母親は生死すらもわからないと。


「もし、母さんが生きていたら……会えるだろうか。会いたいと、思ってくれているだろうか」


 ラードラには、帰りを待っている人間が居た。その事実が、彼女の過去を抉ったのかもしれない。


「……余計なことを訊いてしまったな。忘れてくれて良い」


 しばらくの沈黙。エニシスはその静寂を破った。


「やっぱり、僕はここには残りません。ユシライヤさん、僕がリーベリュスさんを一緒に探します」


 ユシライヤは目を丸くした。

 

「だって、生き別れの娘との再会を望んでいない訳、ないじゃないですか」

「気持ちは嬉しいけど……私には、手掛かりが何も無いんだ」

「僕もそうでした。でもここに辿り着きました。だから今度は僕が、あなたの手伝いをしたいんです。だから……その、絶対にまだ、死んじゃったりしないでください」


 ユシライヤは返答に詰まった。しかし少年の潤んだ瞳と強く握り締めた手を、拒むことは出来ない。


「……私の事ばかり心配して。もっと自分の心配をするべきなのに。お前は本当に……それで良いのか」


 エニシスは頷いた。ようやく出来たのだ、彼女の側に居られる理由が。だからもしすべてを思い出したとしても、彼はきっと同じ道を選んでいただろう--



 隣室を覗けば、ルディアとロナが布を被って寝ている様子が見える。彼女らに気付かれなければ、ここを出られる。幸いこの家の戸口は鍵の付いた扉ではないのだ。二人はルディアらに何も言わず、家を抜け出すつもりだった。彼女らが快くラードラを見送る訳が無いだろうから。無論、心が痛まないと言えば嘘になるが。


「やっぱり行ってしまうんだね」


 エニシスの背中を突き刺す声。引き止めたのはルディアだった。寝ているふりをしていたのだ。彼女は日中のエニシスの様子から悟っていた。


「お友達が心配なのはわかるけど、あんた……戦えないだろう?」


 ラードラは心優しい性格だった。動物も虫も植物も、どんなに小さな生き物も、そして魔獣相手にすら、傷付けるのは嫌だと言って武器なんか手にしたことがなかった。


「ルディアさん。もし僕が本当にあなたの弟だとしても。あなたが知るラードラと僕は違うんです」


 ルディアが彼の生き方を想像し否定するには、あまりにも長く離れ過ぎてしまった。彼女にだって、エニシスの背負う弓が見えていない訳ではない。加えて、少年は額に紋章を宿した『天上人』だ。彼はもう、過去のラードラではない。


「そうだね……あんただって大人になって……変わったんだ。あたしは過保護なだけかもしれないね……」


 過ぎ行く時が彼女に刻んだのは、弟に募る愛情だけではない。ラードラが戻って来ても、二度と同じ時間には戻れない。皮肉にもその姿形だけは、あの時とほぼ変わらないけれど。


「ごめんなさい。僕は……もう行きます。僕なんかに優しく接してくださったこと……本当に感謝しています」


 そう言って、深く礼をする。最後まで余所余所しかった少年は、ついにルディアに背を向けた。


 その後ろ姿が見えなくなっても、ルディアは扉の向こうの彼をずっと見つめていた。

 本当は、彼が本当のラードラではなくても良かった。別人だとしても、弟が帰ってきたのだと思い込んでいたかった。彼女はラードラの行方がわからなくなってから、長い間苦しんだ。かつての恋人には、「俺よりも弟が大切なのか」と、呆れられて見捨てられてしまった。母もきっともう長くない。心の拠り所は、いつか帰ってくるかもしれない弟の存在だけだった。そんな彼女に、エニシスは太陽のように現れた。


「ずっと一緒に居て欲しかった……でももう、あんたは帰ってこないんだろうね……」


 夜の帳を縫い歩く彼に、せめてあの時のラードラと同じような悲劇が起こらないように、ルディアは祈ることしか出来なかった。


* * *


 エニシスは一度も振り返らなかった。ユシライヤはと言うと、涙を拭うルディアの姿が目に焼き付いて離れない。


 彼に気を遣わせてしまった、とユシライヤは少し後悔していた。もし自分の話をあの時にしていなければ、エニシスはこの地で家族と共に過ごす事を選んでいたかもしれないのだ。ユシライヤが同じ立場なら、きっとそうしていただろう。

 それなのに、エニシスの決断を振り切ることは出来なかった。単純に、ユシライヤは嬉しかった。彼を待っていた家族を思えば、身勝手な感情でしかないと言うのに。


 --エニシスと初めて会った日。「リーベリュス」と、背中に抱えた夢うつつの少年の口から、母親の名が出てきてユシライヤは戸惑ったものだ。今思えば何のことはない。彼も同じレデ族なのだから、失われた記憶のどこかにリーベリュスの存在が有ったのだろう。しかしエニシスは、その名を口にした覚えすら無いらしい。

 エルスの護衛騎士として生きる事で、記憶の片隅で埋葬していた自分の過去。ユシライヤはエニシスと居ると、それを掘り返されてゆく気がするのだった。


* * *


 二人は居住区から少し離れた丘へ足を運んだ。ラードラが好きでよく訪れた場所なのだと、ルディアが言っていた。「あそこへ行けば、何かを思い出すかもしれないよ」とも。

 エニシスは足元に落ちていた石を拾った。朝霞の色をした、半透明の美しい石だ。地上の砂が風で舞えば、その下にも幾つか同じ物が埋まっているのが微かに見える。『ロナの石』だ。ラードラとルディアの母ロナが、幼い頃に初めてこの場所で見つけた物で、彼女の名が付いた。どのように産出されたのか、起源は未だ不明のままだ。

 この石が発見されて以来、リクリスは『天に近い村』と呼ばれることになった。ここで言う『天』は天上界を指す。この稀少な結晶は天上界から降り注いだ物だと信じられてきたのだ。


「この村にとって、天上界とは神聖な存在に近いようです。僕たちが長く居たベルダートとは真逆ですね」


 二人はそれぞれ、『天上人の証が在る者』への差別を受けてきた。それは、彼らが偶然身を置いた場所が、ベルダートだったからだ。仮にこのリクリスでのみ一生を終えたならば、現在とは違った生き方をしていただろう。

 天上と地上を隔てるものは、単なる境界ではないという事だ。


「何故、あなたはベルダートの騎士に入団したんですか? 国には心無い扱いをされたのに」


 エニシスはそんなことを聞いた。ユシライヤにしてみれば問われるまでもなかった。尤も彼女は、国と言うよりもエルス個人に仕えていたつもりだったが。

 無論、彼の護衛に任命されるまでに諍いが無い訳ではなかった。王妃シャルアーネはユシライヤを牢から出すことすら許さなかった。彼女は当時エルスの護衛に、年齢の近いティリーを選出していたが、エルスがそれを覆した。彼はユシライヤを指名して、「母上が僕の言うこと聞いてくれないなら城を出ていく」とまで言って、周囲を困らせていた。それがユシライヤを地下から救い出した鍵となった。


「エルス様さえ居れば、そこが何処だって関係なかった。私には彼だけだと思っていたから。でも、もう……」


 その先は、嗚咽に変わって言葉にはならなかったが、涙と同時に溢れ出したのは、抑え込んでいた彼女の本心。

 エニシスは悟った。やはり自分は、彼には敵わない。


「僕は……あの日、あなたたちと森を出て良かったと思います。エルスさんに言われなければ……僕は外の世界を知ろうともしなかった」


 出会ったばかりのエルスは、キュピィが死んで、生きる意義を失いつつあったエニシスを、自分と同じなのかもしれないと言った。


「同じ訳がない。羨ましい……そう思っていました。彼は前向きで明るくて、そして恵まれているんだって。僕とは生きてきた世界が違うんだなって。でも……そうじゃなかった。彼は、僕と同じ世界を、違う目で見ているだけだったんです」


 未知を絶望と感じたエニシスと、希望と感じたエルス。エニシスは想像する。もしエルスの視界が闇で遮られても、彼は視ることを止めないだろう。


「まずは、エルスさんたちを探しましょう。僕は、この場所を去るのに思い残すことはもうありません。あなたにも、未練を残してほしくないんです」


 前進するエニシス。彼の後方で、踏み込むのを惑うユシライヤ。視界を覆う涙が、歩むべき道を揺らしている。彼の背中が遠い。今更、疑問を投げかけても、きっと届かない。

 せめて、雫は砂の上に落として行ってしまおうと、しばらくの間目を伏せた。だから彼女は、彼に迫る危険に気付くのが遅れてしまった。


 何も無いはずのその場所に、エニシスは揺らぎを感じた。初めは地震か何かだと思ったが、程なくして誤認だと気付く。

 大地に立っている感覚が、無い。まるで浮遊しているかのような。しかしそれとは反して、周囲からはのし掛かるような圧力があった。ついには起立することさえ儘ならず、地の上に両手と両膝を付いた。酷い目眩だ。天地も左右も判らない。彼の見ている世界は、歪んでいた。


 ただならぬ事態を感じてユシライヤは少年の元に駆け出す。刹那、彼女がエニシスの背後に見たのは、一人の少女の姿。夜陰に紛れ込む黒色の衣装。人の気配などしなかったのに、彼女は突如としてそこに現れた。


「お前は……」


 見覚えのある姿だった。装束は違えども、その身に纏う異様な空気は違わない。黒牛を操る少女。海上で船を襲った少女。戦う為に造られた存在。それらと同一であるようで、同一でない。


「ようやく会えましたね。貴方たちが……私から奪った。せめてユリエを、父さまを返しなさい……!」


 彼女は、ユリエ教の聖堂で出会った少女--モニカ。こちらの意思など問わない。憎悪と共に何かを唱え始める。

 彼女の周囲に黒い渦が巻いた。煽られた砂塵が彼女を取り巻く。今、ターニャやファンネルは居ない。ユシライヤにはあれが何をもたらす術であるか想像もつかない。それを防ぐには、術式が完成するより前に詠唱を止めさせるしかない。ならば素早く動ける自分が彼女の前に出るべきだ--瞬間的に判断したユシライヤは、迷わず術者の元に駆け出していた。


 その光景が、エニシスには漸進的に見えていた。まるで瞬きの度に、時間が切り取られてゆくかのように。彼が脳内で変換して目前に映し出した情景には、現実とは別の映像が入り混じっていた。

 激しい動悸。自分は、あの術を知っている--そう感じた瞬間から、断片的な記憶の羅列が、彼を支配していった。忘れていたはずの過去に遡りながら。


「ユーシェリア。行っては駄目です」

「……!?」


 不意に昔の名前を呼ばれたので、ユシライヤは一瞬歩みを止めた。振り返った先には、誰も居なかった。何故なら彼は既に、彼女の傍らに駆け付けていたから。

 ユシライヤはエニシスに押し出された。斜面で受け身を取れず、幾らか離れたところにまで転がっていく。思わぬ衝撃で、目がくらんだ。彼女がようやく身体を起こして辺りを見渡すと、身を呈した少年が、少女の近くで地に伏せていた。

 すぐさま駆け寄るユシライヤ。俯せに倒れている少年。外傷は見当たらないが、皮膚が青褪めている。その目蓋は開かない。


「……違った。ここに父さまは居なかった。残念です。無駄に消費してしまいました」


 手元の道具を凝視しながら、モニカは失意の表情を浮かべた。ユシライヤには疑問だった。何故そんな顔をするのだろう、彼を手にかけた女が。


「……エニシス」


 名を呼べば、返事が返ってくると思った。だが少年はぴくりとも動かない。ユシライヤの思考が、現実にようやく追い付いた。彼はモニカから自分を庇って犠牲になったのだ。


 あの時、エニシスは何故、あの名でユシライヤを呼んだのだろう。父の居ない彼女のその名前を知っているのは、母リーベリュスと、兄ロアールと、他に誰が居ただろうか--わからない……いや、思い出せない。彼はあの瞬間、ユシライヤ自身の知らない記憶を思い起こしていた。

 思い残すことはない--彼はそう言っていた。もしも彼の唇が開いたら、同じことを言うだろうか。過去を取り戻した今でも。


 熱さが、全身を駆け巡っている。この感覚はあの時と同じだ。リーベリュスを捕らえていた男に、炎を浴びせた。母を奪い返す、その一心だった。しかし彼女はそれを放出させる方法を知らない。燻った戦意は、行き場の無いまま静かな音を立てる。標的は目の前に居るのに。感情だけはすぐにでも散らせるのに。熱い。このまま、自分の方が焼滅してしまいそうな感覚--


「ユシライヤ!」


 少女の呼び掛けが、ユシライヤの耳に届いた。


「ターニャ……さん」

「貴女のところだったのですね。来て良かった」


 すぐ側には、ファンネルとエルスも駆け付けていた。仲間の姿を見たことでユシライヤは正気を取り戻した。

 その様子にターニャも胸を撫で下ろす。だが、改めて現場を見れば彼女の眼の色は変わった。


「彼は私が治療します! ユシライヤ、貴女は下がって……!」


 一目では判断出来なかった。彼はまだ生と死の境を彷徨っている。そう思いたかった。ターニャは倒れているエニシスに手を翳す。ユシライヤはその場から動かず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 間も無くしてターニャは手を休めた。辺りを照らしていた治癒術の光は、温もりと共に消え失せた。


「どうしたんだ?」

「……術をかけるべき場所が、見付からないのです。魂が、見えない……」


 問うたエルスに理解出来る答えは返ってこなかった。しかし、彼女の表情やユシライヤの様子から、彼は予測してしまった。


「それって……し、死んじゃった……ってことか?」


 ターニャは何も答えない。行き所を失くした彼女の手は、力無く下ろされたまま。

 確認するのが、肯定するのが、怖かった。ようやくエルスは少年に近付いた。眠っている--それがいずれ覚める眠りではないのが判った。彼は何かから解放されたのかもしれなかった。その額からは、異端の印が跡形もなく消え去っていたから。


「理解しましたか? もう貴方たちにはそれを扱えません。さあ、こちらに渡しなさい」


 嘲るような笑みを浮かべながら、モニカが歩み寄る。彼女の意図が読めない。だが無論譲る気など無い。ターニャがエニシスの身体を抱え、ユシライヤは武器を構える。ファンネルも既に抵抗の術は整っていた。

 モニカが何かをこちらに翳した。すると、詠唱も無しに彼女の手元からは再び黒い渦が巻き起こる。猛烈な旋風が、周囲のあらゆる光彩をも呑み込んだ。僅かな月明かりさえ、その瞬間は存在を許されなかった。何も見えない。立っているのが限度だ。


「……これは……」


 一切の明度が欠落してしまった闇の中で、ファンネルがあることに思い至る。しかし今となっては為す術もない。悔いを刃に変えられるなら、過去の自身を穿つだろう。今の彼にはそれ以外の手段が無かった。


 経過したのは、ほんの十数秒。風が止み、目を開くと、何事もなかったかのような静閑な夜の景色に彼らは立っていた。

 しかしターニャは、持て余した自身の腕を見つめ、目を疑った。そこに居たはずの者が消えていた。辺りを見回しても、彼の姿は--無い。


 一人平然としている少女は、耳に手を当て、エルスらではない『誰か』に向かって話し始める。


「フラン。聴こえますか。失敗しましたが、別の収穫があったと言っておきましょうか。私は一旦彼女のところへ戻ります。この先は任せます」


 それだけ言ってモニカは背を向けた。


「逃すか……!」


 感情に身を任せ、立ち向かったのはユシライヤだ。しかしその衝動は、モニカを防護する見えない壁によって、いとも簡単に弾き返される。

 モニカは振り返り、砂にまみれた醜体を見下げた。


「仮初めの証で何が出来ますか。貴女が紋章に呑まれそうになる様は、実に滑稽でしたよ」


 並べられる言葉は淡々と。その表情に、微かな愉悦も現れない。


「それから……ユリエの器よ。一切の抵抗も有りませんでしたが、本領を呈する事すら不可能とは。何故そのような者に父さまが及ばなかったのか、まったく理解出来ません。次は……必ず、あなたを捕らえます」


 転移術の門が開き、刹那にしてモニカは姿を消した。まるで闇の中に入り混じるかのように。その姿を掴める者は、居ない。


 闇の淵源は去った。しかし同時に、一つの灯火も消え失せた。影も灰も残らない。今となっては、少年の存在は、彼らの記憶に刻まれているだけ。


「……ユシャ。お前だけでも無事で……良かった」


 エルスに声を掛けられても、ユシライヤは地の上に座り込んだまま。意識をどこかへ置いてきてしまった。

 かつて彼女はエルスの為になら、他の何者の犠牲も厭わないと誓った。だから剣を握った。しかし、エルスが側に居るのに、エニシスの犠牲で結果的に彼は守られたのに、彼女は現実を、今を受け入れることが出来ない。それは、彼女が心の奥底で、捧げられるべきは自身だけだと思い込んでいたから。携えた武器は、見せ掛けに過ぎなかったのだ。


 エルスが待ち続けていると、彼女から、震えた声がようやく絞り出される。


「私が……! どうせもう長く生きられない私の方が、犠牲になるべきだったんです! 側に居ても……何の役にも立たない。貴方に望まれなければ、自分なんか……!」


 彼の顔もまともに見ていられず、ついに首を下ろす。砂を掴んだままの手の甲に、雫が落ちた。


「ごめん……ユシャ。傷付けるつもりなんて、なかったんだ」


 エルスは腰を下ろして、彼女と同じ視線に立った。


「ユシャも僕も……同じだったんだよ。ユシャだって僕に、護ってほしいなんて言ってない。でも僕は、ユシャが苦しんでるのは嫌だし、なんとかしたいと思う」

「……エルス様」

「だから……今まで、お前が僕の分まで背負ってきたもの、返してくれ」


 突き刺すようなその瞳に、ユシライヤは捕らわれて動けなかった。今、自分の前に居たのが本当にエルスだったのか、疑わしかったから。


 返答を待たずにエルスは立ち上がる。黙したまま、惨劇があった何も残らないその場所を見据えた後、風向きに逆らい西進した。


「行こう……ユシライヤ」

 

 ターニャが差し出した手を握り返すのを、ユシライヤは躊躇っていた。だからターニャは、彼女の腕を強引に引いた。

 ようやく地に足を付けたユシライヤにファンネルが近寄る。


「小娘。身を滅ぼすくらいなら、残された時間を俺に預けろ。紋章の制御方法を教えてやる」

「……!」

「ただし、直ぐに純血のオルゼンと同等に扱えるとは思うな。それこそ砕身の覚悟を要する」


 ユシライヤは迷わなかった。


「私はもう誰も……大切な人を、失いたくない」


 そう言って、改めてターニャの手を取る。同じ道を歩むと決めた。彼の残した足跡が、風で消し去られる前に。

 夜明けには未だ遠い。彼らが進む陰りの地上で僅かに輝くのは、天上から零れ落ちた石屑だけだった。


 ファンネルは少し遅れて歩む。先導する彼の背後に重なるのは、かつての友の片影。


「ゼノン。俺は……お前を侮っていた訳ではない。むしろ逆だ。過去の俺は、お前への信頼を完全には捨てきれていなかった」


 相容れない関係だった。だが認めている部分もあった。だからファンネルは最後、非情にはなれなかった。

 あれから幾度、月陽が巡ったか。創成した機関で、数多の生命の流転を目にしてきた。有すると同時に廃してきた。


「お前達には……悪いことをした。俺が、総てを引き受ける……その時が訪れるまで、どうかお前達は……」


* * *


「おや、モニカお嬢ちゃん。浮かない顔を見るに、期待通りの成果は持ち帰れなかったってことだね」


 帰還した途端に向けられたのは、そんな言葉だった。何故彼女が楽しそうにそう尋ねるのか、モニカには理解し難い。


「リナゼ。それは貴女も同じでしょう。大した情報を持ち寄らないまま、徘徊しているようですが」

「あたしにはあたしのやり方があるからね。お嬢ちゃん、勘違いしないでおくれよ。あたしはあんたの仲間じゃない。互いの目的の為に、足並み揃えてやってるのさ」


 モニカは下唇を噛んだ。二人の目的を辿れば同じ人物に行き着くはずなのに、リナゼは『互いの目的』と表現する。それではまるで協働ではなく競合だ。

 彼女には潜伏場所としてこの空間への鍵まで与えてやったのに、我が物顔で監視室の椅子に腰を下ろしている。本来そこには父が座るべきだと言うのに。それのみか彼女は、所員には何も告げずに自由に出入りを繰り返す。隠匿が信頼を失わせるのが、理解出来ない訳ではないだろうに。


「私が得たものは、全くの無意味ではありません。完全体に対抗するには、多くの検体は必要不可欠ですからね」


 眼下の現場を眺めて、リナゼは顔を歪ませる。六列の細長い通路の中に、無数の寝台が狭苦しく置かれている。性別も年齢も不揃いに並べられた、『順番待ち』の人身の数々。眠っているのか、死んでいるのか、判らない。それを少女はなおも増やし続けると言うのだ。


 モニカは懐から何かを取り出した。掌に収まる大きさの瓶型の容器だ。彼女がそれを床上に投げ捨てると、割れた瓶から溢れ出たのは、空気をも歪ませる黒い影--それが霧のように消え入り、現れたのは一人の少年と、小さな石塊。モニカは石の方を『核』と呼び、人間の方を『器』と呼んだ。


「ではリナゼ。これを共鳴する紋章の元へ導いてくれますか」


 器は例の寝台へ、核は別の場所へ運ばれる。元々同一であったものは、ここで分断される。そして別のものと入れ替えられる。モニカの言葉をそのまま引用するならば、『共鳴に成功する』まで、幾度も繰り返す。

 ガーディアンであるリナゼならば、その共鳴を容易く見分ける事が出来た。その点では、彼女は組織にとって有用である。


 リナゼは気の進まない針路を歩み出す。それが探し求める近道であるかもしれないから。皮肉なものだ。ガーディアンであることの煩わしさから逃げ出したも同然なのに、これではミルティスに居た時と同じだ。

 しかしその足取りは、思い掛けないところで引き止められる。突如として彼女の進行方向から溢れ出た眩い光だった。


「リナゼ……何ですか、その反応は?」


 モニカは詰め寄った。これは『共鳴』とは異なる。


「……へえ。懐かしい奴に出会えたもんだね」


 白光の出所を、リナゼは掬い上げた。白く塗られた石屑のその中から、隠された本質を見透かすかのように。


「モニカお嬢ちゃん。こいつはあたしが貰うよ」

「何を勝手なことを……!」

「いや、元々あたしのものだった。返してくれ、が正しいね」


 掴み取った物を、掌の上で転がす。愛しさとは違う視線で、見惚れるように眺め続けた。


「こんな形で再会できるなんてね……あんたは望んだかどうか、わからないけど。ねえ……ジールバルト」




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ