act.10
あの日の朝、締め付けられるような頭痛に襲われて目覚めたので、外は雨だとユーシェリアには判った。
雨は空から降る恵みなのだと母が言っていたが、少女には空が泣いているように見えた。だから雨の日は苦手だが、一つだけ良いことがある。冷たくて、暗くて、外で遊べないけれど、それは他の子も同じで、ユーシェリアだけではない。羨む相手がいないから、孤独を感じずに済む。
ついこの前までは、兄が紹介してくれた近所の子どもたちと一緒に外で遊んでいた。だが、ある時ユーシェリアが転んで怪我をして、背中を見られてしまったのを境に、誰も近づいて来なくなった。以来、兄がたまに見せてくれていた笑顔もすっかり消えてしまった。
戸口の開いた音がして、思わず身を隠す。どうせこちらには来ないだろうに。出迎えた母と、玄関口で短い会話を交わす兄。近付いてくる足音は、やはりこちらを通り過ぎて、彼の自室へと消えてゆく。
『やっぱり、お前とは無理だ。本当の兄妹なんかじゃないし』
言葉を交わしたのは、それを言われたきり最後だ。兄は最近、頻繁にどこかへ出掛けているようで、夕飯の時刻を過ぎても家に戻らないという日も多い。今日のように、次の日の朝に帰ってくることもままあった。偶然姿を見掛けても、視線を逸らされてしまう。本当の兄妹ではない--その意味を問い詰めたいのに、ユーシェリアはいつも訊くことができない。
雨の止んだ夕暮れ時、兄がまた家を出ていった。後から母に聞いた話だと、些細な出来事から兄と母が言い合いになったらしい。元々口数の少ない兄は、滅多に母に反抗を見せなかったので、もう以前の兄とは違うのだろう。いや、本当の兄妹ではないと言うのだから、その呼び方はおかしいのだ。
結局、その日も、次の日も、幾つか日を跨いでも、彼は--ロアールは帰って来なかった。ユーシェリアに孤独の時が戻って来てしまったのは、空が涙を落とさなくなったからだ。
それからの二人は、身を隠すように生きる他なかった。優しかったはずの村の長は、「行き場の無い異端者に土地を貸してやっているのだ」と言い、過剰な貢納金を要求してきた。
母は寝る間も惜しんで、仕事をしに外へ出掛けるようになった。夕食の後はユーシェリアの就寝を見届けてから外へ出掛け、彼女が眠りから覚めた時には既に帰っていて朝食を用意してくれている。娘の食事が済めばまたすぐに外出する。日常にはそんな母の姿があった。
一日のほとんどを一人で過ごすことになったユーシェリアが寂しさを面に出さなかったのは、母リーベリュスから笑顔が絶えることがなかったからだ。
「大丈夫ですよ。いつだって、願い続けることを、信じることを諦めてはいけませんよ」
毎日のように彼女はそう言った。
しかしある日、ユーシェリアが普段より遅く目覚めたにも関わらず、リーベリュスはまだ帰っていなかった。
一人の時は、決して外へ出てはいけない--言われたことを守り続けてきたユーシェリアだったが、その時に初めて逆らい、母を捜しに出掛けた。
息を切らせて走り回る幼い少女に、慈悲の手を伸ばす者はいない。村人たちの排するような視線を、ユーシェリアが気にする余裕はなかった。
少女が見たのは、知らない人間と身体を寄せ合い歩いて行く母の背中。向かう方向は村の外だ。
何処へ行くと言うのだろう。まさか、自分は捨てられてしまうのではないか。きっと兄はもう戻らない。母にまで出ていかれてしまっては、自分は独りだ。瞬間的にそう感じたユーシェリアは、
「ま……待って! 置いてかないで!」
そう叫んでいた。
娘の声に気付いたリーベリュスが、慌てて振り返る。隣り合う男性も同様に振り向いた。赤い長髪をなびかせる後ろ姿から想像していたものとは違う、その鋭い眼差しに、ユーシェリアは思わず後退する。
「……ほう」
男が愉悦にも似た懐疑を向けると、
「ユーシェリア……どうして!? 戻りなさい、家に……彼のところに……!」
隠し通すつもりが、いざ娘を目の前にすると偽ることが出来なかった。そのリーベリュスの発言で、男がとある憶測を立てる。
「レデの血を汚したか、リーベリュス。まさかとは思うが、ユリエスとの混血か?」
リーベリュスは答えない。
が、それを待たずして、歩み寄る長身の緋い影が、少女に覆い被さった。男は無抵抗の存在を凝視する。鮮やかな血のような髪、潤んだ翠の瞳、無垢な白肌。この母親譲りの美しさを自分のものには出来ないというのが口惜しい、男は思った。
「不安定な紋章の存在は、我々にとっても当事者にとっても、善とはならぬ……それを知りながら望んだと言うなら、愚かとしか言いようがない」
幼い体躯を這っていた男の右手が、その首筋に伸びた。恐怖を口にしようとしたユーシェリアだったが、それは叶わない。喉元にかかる圧力が、声はおろか呼吸まで奪っている。
「やめて……やめなさいラーシュロフ! その子には手を出さないで……!」
男--ラーシュロフの行為は、リーベリュスが彼への敬意を忘れるのに充分過ぎた。彼の背に掴み掛かった彼女は、いとも容易く振り払われてしまったが。
「一族の定めから逃れた者が、戯れ言を。生かしておけどもこれは絶望しか生まない。種を孕む前に摘み取っておかねばならん」
ユーシェリアは拘束に耐えながら、意識だけは何とか保とうとしていた。霞んだ視界の中で、俯せに倒れるリーベリュスの姿が見えた。
苦しい。死ぬのかもしれない。孤独に耐えて、痛みに耐えて、今まで何の為に生きてきたのか。母のように強くはなれなかった。母の存在があったから、その日常さえ壊れなければそれで良かった。だが男は、その些細な望みまでも打ち砕こうとしている。
母が決して忘れるなと言った--願うことすら、信じることすら奪おうというのなら。
(世界には、リーベリュスと……私だけで良い……!)
「な、何だっ!?」
異変を感じ取ったラーシュロフが拘束を解く。そして二度と『それ』には触れようとしなかった。いや--触れられなかった。右手の感覚が無い。肘から下が、炭のように黒い。一瞬にして痛みすら奪われてしまった。
退く男の顔だけが、ユーシェリアには見えていた。全身が燃えるように熱く、周囲への聴覚も視覚も、遮断されているかのようだった。自分自身が何をしているのかさえわからない。
それがどれだけ続いただろうか。何かに阻まれたのか、身体を覆っていた熱が急激に冷めていったかと思うと、そこで意識が途切れた。
時刻も、場所も、わからない。
だがユーシェリアが次に聞いたのは、知っている人間の声だった。
「絶対に、大丈夫だからな……! 俺が助けてやる。あんな奴のとこになんか、行かせるか……!」
どうやらその少年は、自分を背に抱えて走っているらしい。仮定に過ぎないのは、ユーシェリアの意識もまた明確ではないからだ。微かな温もりに揺られながら、再び彼女は目を閉じた。
だから、その声を聞いたのは夢か何かだったのかもしれない。ユーシェリアには到底、現実として信じられないものだった。彼が--自分に、優しい言葉を掛けてくれたなんて。
* * *
「おにい……ちゃん」
うわ言と同時に意識を取り戻すも、そこは闇に覆われていた。膝下に冷たい床の感覚があるので、どうやら建物の中ではあるらしい。周囲を確認しようと立ち上がろうとした時、違和感に気付いた。何かに引っ張られている。見れば、足首は鉄の輪に咬まれていて、鎖で繋がれた先には硬く重い球体があった。これのせいで自由に動けないようだ。手を伸ばせば扉に触れた。だがその格子状の鉄の扉は施錠されていて開かない。
ようやくユーシェリアは自身の置かれた状況を察した。彼女を闇に隠したのは夜陰などではなく、誰かが意図した閉鎖によるものなのだと。
突如、鉄を揺らす衝撃と呻き声が響き渡る。あらゆる方向から、異なる種類の--人間ではない何かの声が聞こえる。恐らく、自分と同じように捕らえられた『何か』。
「い、いや……」
どうして自分は此処に居るのか。
そもそも此処は何処なのか。
住んでいた村は、リーベリュスは、ロアールは、どうなったのか。
あの時の男は何だったのか。自分は彼に何をしたのか。
何もわからない。何かを忘れているのか、何も知らされていないのか。
何を願えば、何を信じれば良いのか。
自分は此処から出られないまま、生を終えるのだろうか。
答えの出ない疑問が、やがて否定となって返ってくる。
「いやあああ!!」
少女の慟哭すら、囚われのもの達の鳴動に掻き消された。
* * *
永遠に続く暗闇と、黴と錆の匂いが漂うその場所に、時折、鎧を纏った人間が通った。捕らえたものに息の根があるかを確認しに来るか、新たに収容するものを連れてくるかのどちらかだ。尤も、兜で顔を隠した相手からは、ユーシェリアは微かな人間味も感じられなかったが。
彼ら--体格や声質が異なるので、どうやら複数人だ--が言うには、此処に収容されているものは『異端』ということらしい。そういえばかつて住んでいた村の長も、同じ言葉をユーシェリアと母に投げ掛けていた。異端者の居るべき場所など存在しないのだと。
それならば、いっそのこと殺してくれれば良いと思った。
一切の食事を摂っていないせいで腕は枯れ木のように痩せ細ってしまった。リーベリュスのこともロアールのことも、最初こそ気に掛けていたが、今となっては自分を産み育てたことを恨むような感情すらあった。望みを失ったので、自身の生への執着を失った。なのに、未だ鼓動が止まないのは何故だろう。このまま苦痛が続くよりは、一瞬で終わらせてくれた方が楽になれるのに--と。
微かに、人の足音が聞こえる。また『異端』がここへ囚われる為に連れて来られたのだろうか。
何度目の事からか、ユーシェリアはもう哀れだとも思わなくなっていた。収容されるのは理性の無い獣ばかりだった。もう入れる場所が無いからとユーシェリアと同じ檻の中に入れられてくることもままあった。そいつらは、目の前の少女を餌だと思い込み襲い掛かってきた。恐怖と痛みに耐えながら、ユーシェリアは考えていた。
(きっと私を殺す為に……同じ場所にこんな凶暴な奴を入れるんだ)
しかし何故か、いつも先に獣の方が息絶えている。そういう事が何度か続いていた。
今度収容されてくる奴こそは、自分を終わらせてくれるだろうか。ある意味で縋るような視線を向ければ、近付いて来た足音の正体に、ユーシェリアは目を見張った。
「あれ? お前……なんで、こんなとこにいるんだ?」
あまりにも場違いな存在を、目の前の真実だと受け入れるのには時間を要した。自分と同い歳くらいだろうか、上品な召物を身に付けた少年が一人。ユーシェリアが他の人間を見たのなんていつ以来だろう。
「なあ、ここ何なんだ? なんか寒いし真っ暗じゃん。人がいてびっくりしたなー」
檻の中の少女は何も答えない。むしろ、同じ質問を返したいくらいだ。
「そうだ、ちょうどいいや。僕のかくれんぼ手伝ってよ」
少年は承諾も得ないまま扉に手を掛けるが、鉄同士の擦れる音が空しく響くだけで、開かない。
「もしかして……お前、ここから出られないのか?」
ユーシェリアは黙したまま頷いた。
「うーん、鍵とかどっかにあるんじゃないのか? お前何もわかんないのか? さっきから、なんで何も喋んないんだ?」
次々と重ねられる問い掛けに応えられるはずもなく、ユーシェリアはたじろいだ。
他人を信じられなくなってしまった--それもある。だがそれ以前の問題だった。実は先程から、返事くらいはしようと口元を動かしてはいるのだ。だが声が出ない。長い間、感情を他人に伝える機会の無かったユシライヤは、思いを声にする方法すら忘れてしまっていた。
音の代わりに伝ったのは一筋の涙。それを見た少年は慌てて言葉を捻り出す。
「え……ご、ごめん! 僕なんか変なこと言ったかな? もしかして、僕のこと怖いとか?」
泣いている理由がわからないので、動揺する。そこで、少年は叔父の言っていたことを思い出した。相手の素性を尋ねる前に自分の身の上を明らかにするのが礼儀だと。叔父のように上手くは出来ないかもしれない、だがなるべく彼に近付けるように、一息深い呼吸をしてから、話し始める。
自分の名前はエルス。一日中勉強を強いられて、それが嫌で部屋を抜け出して逃げている最中、知らない場所を見つけて偶然ここへ入り込んだのだと。だから怖がらなくていいと。
しかし彼の差し出したものに、ユーシェリアは何も返すことが出来なかった。
「……エルス様! このような場所に居てはなりません、お戻り下さい!」
鎧の人間が慌ただしく駆け寄ってきて、エルスの腕を引いて行く。眼前の有様を見せまいと、片手で彼の視界を覆いながら。
今更そんなことをされても、見なかったことには出来ない。エルスはその場を離れるまで、ずっと抵抗を見せていた。
「僕を連れてくなら、あいつも出してやってよ!」
遠いところで少年が訴えているのが、ユーシェリアの耳にも届いた。
ほんの僅かな時間の出来事だった。きっと彼とはもう会うことは無いだろう。ユーシェリアにとってエルスの存在は眩し過ぎて、同じ場所には居られない。汚れてしまった手で、彼の手を握り返す訳にはいかない。少女は再び長い暗闇の中に、身を落とした。
しかし、彼女の想像はいとも簡単に覆される。次の日も、その少年はユーシェリアの元へやって来たのだった。
「なあ、僕すごいだろ? 部屋を抜け出すのだけは才能あるって言われたことあるんだ!」
エルスは得意げにそう言ってみせて、辺りを見回した。無いも同然の明かりの下で、何かを捜している。そう、ユーシェリアがここを脱出する為の何か。
その様子を、当のユーシェリアは憂うように見ていた。ここに捕らえられているのは自分だけではない。獰猛な獣たちの目に、もし彼が触れてしまったら。捨て置かれたような『異端』の屍体に気付いてしまったら--
「だ、だめ……!」
思わぬ喚起の声に、エルスが振り向く。
「いらない! 見ないで! 帰って!」
溜め込んでいたものが溢れ出すかのように、少女の閉ざされていた唇から次々と紡がれていくのは、否定的な言葉ばかりだった。首を横に振りながら涙ながらに訴える様子が、痛ましくて、落ち着かせようとして、エルスは彼女の前に一歩踏み出し、手を差し伸べた。
だがそれが、ユーシェリアには却って刺激となってしまった。
「いやいやいや! 来ないで……!」
沸き起こるものが抑えきれなかった。一瞬、身体中に炎を纏ったかのような感覚だった。少年が悲鳴を上げて転倒したのに気付いて、ユーシェリアは我に帰る。
(私……今、何を? 私がやったの?)
平静を取り戻した時には、エルスはその場から駆け出し、去っていた。空虚となった檻の中で、動悸と疑念だけが残り、彼女を支配した。
その数日後、再び彼の姿を見ることになろうとは少女は思わなかった。
エルスはそれからも頻繁にユーシェリアの元に訪れては、その日にあった出来事を楽しそうに話したり、食事を持ってきたりした。
その日、彼が外套の中に隠し持って来たのは、ユーシェリアが初めて目にする物だったが、彼が言うには甘くて美味しいらしい。枝のような形に、濃紫色の小さな実が幾つも成っている。エルスが先に一粒取って食べてみせるも、ユーシェリアは口にしなかった。
「……なんで、来るの?」
突き放すような言葉も、エルスは気にも留めない様子だ。
「お前が寂しそうだからだよ」
「! 寂しくない……!」
「ウソだよ。こんなとこに一人でいたらいやに決まってるじゃん」
と、得体の知れない果実を、無理やり相手の口に運んでくる。ユーシェリアは含んだそれを味わうこともなくようやく飲み込むも、込み上げる悪心に耐えきれず吐瀉した。
「……私、普通じゃない。生きてちゃダメ。誰かが言ってた。生きるの、いや。見られるの、いや。汚い私。だからもう……来ないで」
強い拒絶、あるいは自棄の思いが、触れる者を消却しようと燃え上がる。
しかしエルスは、彼女を恐れることも、逃げることもせず、
「この前のは、ちょっと痛かった。でもさ、初めて見えたんだよ」
と、格子の隙間から、ユーシェリアの額に触れた。
「髪の毛に隠れちゃってるけど。お前のその目の色、すごくキレイなんだな。母上の部屋にある、キラキラした石みたいだ」
その時に、二人はお互いの顔を初めてまともに目にした。
「なあ、お前、名前なんていうんだ?」
「……ユー……シェ、リア」
「? ゆし、らいや? 長くて覚えられない! ユシャにしよう!」
名前を改められた少女は唖然とする。彼の刻む調子が速すぎて、付いて行くのに精一杯だった。
* * *
程なくしてエルスは、どこからか鍵を探し当てて檻を開き、少女を外に連れ出してくれた。一緒にいようと言ってくれた。
ユシライヤもそうしたいと願ってしまった。彼を汚したくはないと思った。自分が決して、汚しはしないと。
(この人には……私みたいには、なってほしくない)
--その数年後、正式にエルスの護衛騎士に任命された際に彼女が述べた誓いは、礼節に従った訳でも、飾りなどでもなく、偽りない本心だった。
「私の命は、この剣と共にエルス様の為に捧げます。彼の障害となるすべてを、私が阻みます」
* * *
アストラの船着場で、エニシスが意識のないユシライヤを抱えてきたあの時。
船の乗客に医者は居ないかと尋ねながら、出航を待ってほしいとエルスは乗員に頼んだ。しかし多くの乗客に影響が出る為、船の時間を遅らせる事は出来なかった。ユシライヤの快復を待って、次の便でイスカへ向かうべきか--エルスがそう考えていた時、ターニャが歩み出た。
「移動中でも治癒術は可能です。私に任せて下さい」
彼女の存在を忘れていた訳ではない。だがエルスは、今ターニャに頼るのには気が引けた。何故なら、
「お前こそ、消耗が激しい状態だろう」
ファンネルの言うように、度重なる術の行使でターニャは見るからに疲弊していたからだ。
「平気です。彼女の危機を救えないままでは、私も前へ進む事は出来ません」
「……そのせいで、お前が倒れたりなどという失態を晒すなよ」
ファンネルは決して良い顔をしなかったが、直接禁じた訳ではないので、ターニャはユシライヤの看病を決めたのだった。
--それからもう、二晩が過ぎようとしていた。ユシライヤはまだ、意識を取り戻さない。波に揺られながら、時の流れに抗うことなく船は進行していく。
エルスは一人、甲板に出ていた。視線は深い海の底に落としたまま。そうすれば、溢れた思いも海の中に溶かしてしまえそうだったから。他に当たるところが無くて、手摺を掴んだ手に力が込められる。
情けない。自分のことばかり気にして、ユシライヤを気遣わなかった。思い返せば、時にこういう事はあったのだ。それでも彼女はその度に、これからも何度だって再起する。それが当たり前なのだと、エルスはどこかで思い込んでいた。彼女は、病気か何かを抱えていたのだろうか。そんな話は聞いたことがない。だがもし、それを今まで隠されてきただけなのだとしたら。
「僕は……本当はユシャのこと、何も知らないんじゃないか……?」
ふと、背後の音に気付いて、ようやく顔を上げる。エルスを案じたエニシスが探しに来てくれたらしい。
「……エルスさん。ご自分を責めないで下さい。ユシライヤさんは貴方を責めたりはしませんよ」
「……でも」
「悪いのは僕です。だって……知っていて、黙っていたんですから」
少年は目を合わせない。
「どういうことだ?」
「彼女は……僕と同じなんです」
それだけでは理解に至らないだろうが、エニシスはそれ以上を語らなかった。
二人が船室に戻ると、未だ目覚めないユシライヤの傍らに腰掛けるターニャと、ファンネルの姿があった。治癒術で体力を酷使したせいで、ターニャはだいぶやつれていた。
「やれることはやった。じきに目覚めるだろう。ただ……治癒術では、症状を一時的に抑える事は出来ても、その原因を取り除くまでは不可能だ」
そこまでに酷い容態なのか。不安に押し潰されそうになるエルスに向かって、ターニャが躊躇いがちに口を開く。
「……ユシライヤさんには、レデの紋章が宿っています。それも不鮮明な。その紋章の影響で、安定した生命の維持が難しいのだと思われます」
あまりにも思い掛けない宣告を、飲み込むまでの惑いがあったが。
「なんだよ……それ。紋章なんて、なんでユシャに……。そうだ、呼応術とかで何とか出来ないのか?」
「既に試みました。けれど紋章は彼女から離れる事を拒絶しました。それは、本来そこにあるべき紋章だという事実を示します」
「この小娘に宿るレデの紋章は、元々生まれ持っていたものという事だ」
「それって……ユシャが、天上人ってことなのか?」
二人が肯定したことで、エルスも受け入れざるを得なくなった。これまでも薄々は感じ取っていた。見ないふりをしてきただけで。それが真実ならば、母が理想だと掲げたベルダートは、惨い仕打ちを彼女に与えた事になるから。
「……僕が、ユシャに初めて会ったの、城の地下牢だったんだ」
もしあの日エルスが出会わなかったら、異端者はいずれ殺されていた。仮にそうだった時の未来を、エルスは想像できない。だからなるべく思い返さないようにしてきた。遮ったところで、事実が変わる訳でもないのに。
沈黙に委ねられた空気の中、ユシライヤがゆっくりと目蓋を開いた。
「ユシャ……!」
エルスが駆け寄るも、彼女は未だ身体を起こすことは出来ないようで、横になったまま辺りを見回す。
「自分を……待ってたんですか? まったく……頼りない護衛なんて、置き去りにしてくれて良かったのに」
「バカなこと言うな! そんなことするわけないじゃん……」
皮肉を交えた口振りは普段通りだが、それは彼女自身に向けられたものだ。エルスの耐え難い思いは、口から滑り落ちるかのようだった。
「あの……ユシライヤさん。治癒術をかける際、貴女の背中を見させて頂いたのですが」
二人を前に踏み切れずにいたターニャが、ようやく切り出した。
すべてを問われずとも解る。ユシライヤにはもう、しまい込んでおく理由が無い。
「……バレちゃったんですね。私は……どちらでもないんです。母が天上人で、父は地上人らしいです。父には私も会ったことがないので、よく知りませんが」
地上人と天上人の混血。それが、ユシライヤの紋章が不安定である原因。彼女自身も、昔から受け入れていた事実。
「でも……どうして。今までは大丈夫だったのに。辛かったの、隠してたってことなのか?」
「隠せる程度なら良かったんですけど。以前よりも発作の間隔が短くなってるんです。これじゃあ、貴方の護衛なんて無理でしょうね。まあそれ以前に……」
その先に続く言葉は、彼女は飲み込む事にした。エルスがそれ以上は聞きたくなさそうに目を背けたから。
「そうだな。現段階ではお前を同行させる利点は見当たらない」
言い放ったのはファンネルだ。
現実的な遂行の為には、捨て去ることも不可欠。それを理解しようとしても、エルスは非情にはなれない。だから、細やかな望みを打ち砕こうとするファンネルに反感が生まれる。
しかし感情を露わにするエルスに対して、ファンネルは冷静を欠かない。
「思い違うなよエルス。俺はこいつが足枷になると言いたいんじゃない。それ以前の問題だ。お前の側にこのような不安定な存在を置くべきではないんだ」
「……え?」
「説明を必要とする機会のない事を願っていたんだがな……お前に宿る紋章、オルゼとユリエの因果にまつわる話だ」
未だ不信感を向けるエルスに、自分では不適任と感じたか、ファンネルはその先の説明をターニャに託した。
「……エルスさん。貴方が受けた創傷を、瞬間的に快復させるオルゼの力。それは宿主の生命を永続的に維持させますが、それは対となるユリエが、他から生命力を奪っているがゆえの恩恵なのです。つまりユリエの紋章が、ユシライヤさんのレデの紋章に影響を与えている可能性があります」
そうして容易に明かされた事実は、一時的にエルスの思考を留まらせた。
「じゃあ、僕のせいでユシャが今、苦しんでるってことなのか?」
「ユリエは標的を単体に絞る訳ではない。だが、その中に脆弱な対象があれば、ユリエからの干渉は大きいだろう。そして狙い易い存在が間近にあれば、ユリエの力もまた暴走しやすいと言える」
ファンネルが言うには、一側性のものではなく、互いに悪影響を及している。それが尚のこと二人を隔てた。
「やっぱり自分は、これ以上は付いていかない方が良いですね」
ユシライヤが言った。
「護衛騎士だなんて、都合のいい名目でした。貴方の為には、自分は離れるべきなんですよ」
「だから、護ってもらいたいなんて、僕は言ってない!」
エルスが声を荒立てるのは、彼の胸の内が今、現状への否定で満たされてしまっているから。
「エルスさん。貴方から紋章が取り除かれれば、その影響も無くなります。それまでの間、私が治癒術でユシライヤさんの体力を維持させるよう努めます。ですから……」
そう、彼らの旅も終わりに近い。次の目的地イスカは、ターニャが向かうべき最後のイースダインとなる。無事に彼女が契約を終えれば、エルスを紋章の束縛から救う為の突破口が開かれる。
「でも、私から紋章が消える訳じゃない」
「そ、それは……」
「私はもう……良いんですよ。本当ならあの地下牢で、死ぬはずだったんですから」
宥めに入ったターニャも、ユシライヤにそう言われれば、言葉を詰まらせた。
紋章を在るべきところへ正しく還す為の呼応術。それを以ってしても、すべてが元に戻る訳ではない。知らなかった頃には、帰れない。
「何か……あるはずです。貴女を救う方法が」
それでもターニャは引き下がらなかった。ユシライヤから向けられる眼差しに期待など含まれていなくとも。
「私は誓ったのです。貴女たちを、本来あるべき日常に戻すと。ユシライヤ。私にはもう、貴女たちの事を見て見ぬ振りなど出来ない」
疲弊して力を入れることすらままならない弱々しい手が、ユシライヤの手を握り締めた。
* * *
その日の晩、エニシスはユシライヤの傍らに寄り添うことにした。少年は彼女を一人にするのが怖かった。今は静かに寝息を立てている彼女が、もしそのまま目覚めなかったら--そんな悪い予感ばかり過っていくから。
どうして自分ではなく彼女が苦しんでいるのだろう。エニシスは思った。自分だって彼女と『同じ』はずなのにと。
「せめて僕が、もっと早くエルスさんたちに伝えていたら……」
今更自分の愚かさを悔いるも、過去は変えられない。エニシスがユシライヤの紋章について仲間に明かさずにいたのは、彼女自身がエルスに話したがらなかったから--それだけではない。
独占したかったのだ。自分だけが彼女の弱みを知っている。彼女の痛みをわかってあげられるのは自分だけなのだと。だが、現に彼は何も出来なかった。ただの思い込みだった。
そもそもエニシスは、彼女が苦しむ様子を見たかったのではない。出会って間もないあの時--彼女が悲しい過去を語る時に見せた不意の綻びに惹かれて、側に居たいと思った。もう一度その表情が見たくて、今度は彼女を喜ばせたくて、自分に何かが出来ないかと願った。その為なら、自分の過去は捨てられる。
「ユシライヤさん。もし……そんな方法があるなら……あなたを生かす為に、僕の小さな命なんて犠牲にしても良い。だって僕はあの時からずっと、あなただけを……」
* * *
眠れない。形だけ寝台に横たわっていたターニャだが、ついに上体を起こした。ガーディアンにはそもそも睡眠の必要は無いのだ。生きている人間とは異なる。それでも見せ掛けだけは、彼らと同じ方法で休息をとろうとする。
風にでも当たった方が良いだろうか。立ち上がり、ターニャが部屋を出ようとすると、彼女の肩を引き止める手があった。
振り向けば、ファンネルがターニャよりも少し高い目線から、心までも見透かすように見下ろしていた。部屋の隅で、獣の姿で丸くなって休んでいたはずだったのに。
「ターニャ。お前の紋章を見せろ」
拒む事は出来ない。寝衣の留め具を一つずつ外していき、紋章を露わにすれば、それは薄く不鮮明になってしまっていた。
「救い出す立場の者が、そのような状態でどうする」
ファンネルがターニャの胸元に手を翳せば、次第に紋章は元の色を取り戻し、彼女に活動の為の力が蘇る。極度の疲労が、瞬時に取り払われる。その、造作ない事。しかしそれはターニャの身体が元々ファンネルから与えられたものであるから可能なのだ。
「……有難うございます」
ターニャは着衣を整えながらファンネルに礼を述べるが、意識が別のところにあった為、簡素なものになってしまった。同じことがユシライヤに出来れば良いのに、と思ったのだ。無論、条件は揃わないが。
彼女が何を考えているかは、ファンネルにも容易に想像出来る。
「お前の正義感は認めるが、無責任な事を言うのは止めろ。最優先は、エルスへの呼応術だ。それが終われば俺たちは、あいつらから離れなければならない」
「……はい。承知しています」
「虚言に与えられた願望は、後により大きな絶望を生むだけだ」
* * *
人選には気を遣う。ロアールは苦手な内容の仕事を終え、与えられた部屋でようやく緊張を解いた。
昨晩は悪い夢を見たので、充分な休息を得られなかった。何者かに追われる夢。逃れようとも、後方から強い何かに引き寄せられ、駆け出す事が出来ない。両脚を掴んだ者の顔を見て、目が覚めたのだった。
ロアールはこのような形で過去を思い返すことが多くなった。変革が必要だと言ったシェルグの真意を想像した、あの時からだ。
今は無きカーナという小さな村で暮らしていた時のこと。ある日くだらない事で母親と言い争いになり、家に帰り辛くなった。それから友人の家庭で世話になり始めたが、程なくして村が何者かによって火の海と化す。その時、妹が赤髪の天上人に捕らえられているのを見た。気の失った幼い妹を彼から取り返し、王都まで連れて来る道中、魔獣に遭い、妹を庇って片目を傷付けた--
「だ、団長。その……」
ティリーの呼び掛けで我に帰る。呆けてしまっていたのか、ロアールは部下が側に来た事に気付かずにいたのだ。
シェルグからの言伝を彼から受け取るも、ロアールはらしくない生返事で応じてしまった為、ティリーは懸念を向けながら、その場から動かなかった。
「団長、右眼……もう何とも無かったんすね」
不意に眼帯を外していたのを、彼に見られてしまった。隠し続けてきた眼は、はるか過去にフィオナーサの施術で完治していた。
「……負傷の原因と、その時の感情を、忘れぬようにとな」
自分とは別の人間を慕い付き従った妹とは、道を違えた。彼女に「今更だ」と振り払われてしまいそうな願いは、もう口にする気など無いが。
(今、お前が何処に居ようと。無事でいてくれれば、良い)
* * *
空から舞い落ちる白く冷たい結晶は、弔いの花だろうか。道も、家屋も、木々も、人も--すべてを埋め尽くしてしまう。
リナゼはどうも雪というものが好きにはなれない。界の狭間に生を受けるより以前、自身が何処でどんな暮らしをしていたかなど記憶に無いが、恐らく故郷には雪は降らなかっただろう。
先ほどモニカからの報告があったばかりだ。ヘレナが倒れた。それもユリエの宿主と接触した後ということだ。
「想像通り、あいつはイースダインに現れたか。でも、ちょっとおかしいね。こちらが干渉する前に、奴はそこに辿り着いていた。そもそもの目的がイースダインにあったかのように……」
イースダインの破壊という、ゼノンを呼び寄せる為の策は失敗に終わった。シェリルの近くに位置する蒼の門は、他者の介入が不可能な状態にあった。既にそこに訪れた者が、ゲートとの契約を交わし、独占的な管理下に置いたという事だ。
もしそれがゼノンであるなら。彼がリナゼを蔑ろにして、計画を実行し始めたという事なのか。協力関係になる事を条件に、ガーディアンとしての知識を彼に与えたのを後悔する。
「許さないよ、ゼノン。あんたの思い通りにはさせない……」
今更ガーディアンを名乗るのは癪に障るが、その立場でなければ為せない事もある。ゼノンの行動に関して、いまいち納得しきれない点があるのも然り。
だからこそ急がなければ。しかしリナゼはあるものを視界に入れ、不意に脚を止めた。
彼女の眼に映ったのは、閉鎖され、立ち入りを禁じられたという聖堂に、ある集団が歩み入る様子。それぞれ武器を携え、青と銀を基調とした同じ鎧を皆が身に着けている。
その外見には見覚えがあった。ここから西へ進んだところにある、小さな国。ゼノンを探し当てる為に気まぐれで訪れた、あの場所に居た連中と酷似している。耳を澄ませば、彼らが囁き合うのが聞こえてきた。
「本当に……大丈夫なのか? 紋章は異端の証なんじゃ……」
「あの方が仰るなら……従うしかない。力を、得られると言うなら……」
リナゼはようやく気付いた。無垢な白雪とは不調和な黒色の聖堂は、厳かと言うよりは異様だ。
「……ちょっとだけ、寄り道してみようかね」
その選択が、結果的には最短の道筋となるかもしれない。彼女は、僅かな可能性さえ捨てる気はないのだ。
* * *
「フラン。パウラに続き、ヘレナとの交信が途絶えました」
「モニカお姉ちゃん! あたしにも感じたよ。きっと返り討ちに遭っちゃったんだねー。ヘレナお姉ちゃんには無理だったけど、あたしは大丈夫だもんね!」
「……今から、私もそちらへ向かいます」
「えー!? あたし一人で充分だよ! モニカお姉ちゃんはあたしを信じてないの?」
「私がここに留まる意味がなくなりました。リナゼの推測では、宿主は『ある事』を成そうとしている可能性が高い。その道順を辿れば、彼はイスカのイースダインに現れることがほぼ確実。彼の目的が果たされるよりも先に、その場で食い止めます」
「ある事って?」
「……そこまでは言いませんでしたが」
「ねー、それってちゃんと信じられるの? あたしよりもそのガーディアンの言うことが大切なの?」
「フラン。私は二人の妹を無くし、傷心しているんです。あなたまで失いたくない。だから彼女に従っているだけです」
「……わかったよ。あたしもはやくお父さんに会いたいしね」
「ええ。一刻も早く、彼らから父さまを取り戻しましょう」