act.9
魔獣の奇襲から数日。王は護衛にロアールを連れ、城下町へ何度目かの視察に訪れていた。
被害が大きかったのは、皮肉にもかつては王都で最も賑やかな商業区だった。大きな通りを挟んで両側にいくつも連なって建てられていた建造物は、ほぼ全壊。その殆どが個人商店で、店舗をそのまま持ち家としている者も多かったが、住むべき場所を失くした今では、彼らは王城に寝泊まりしている。騎士を増員したところに、更に多くの人間が転がり込んできたのだ。決して良い環境ではない。それでも彼らが王城を仮の住まいとする理由は、他に居場所が無かったからだ。貴族街と呼ばれる区域には立派な建物は存在するも、平民を受け入れる家というのはなかなか存在しなかった。シェルグは魔獣の襲撃によって王都に亀裂が生じたのだと感じたが、それは単なる切っ掛けに過ぎず、元々あった溝が深まったというだけなのかもしれなかった。
普段は王城を見回る任務に就いている騎士が、復旧作業にあたっていた。慣れない手付きで、数日間まともな寝食を犠牲にしている。シェルグは作業者に休息を促した。彼の顔と言葉は、騎士たちに束の間の安らぎを与えた。
「王弟殿下……いえ、失敬致しました、国王陛下。陛下御自らにご足労頂けるとは」
「……そうだな。私など未だ位に及ばん」
額の汗を拭って敬礼をする騎士に、シェルグはそう言って視線を逸らした。自信に満ち溢れ、苦難の中を闊歩するかのような佇まいの彼も、そういう表情を見せる時があるのだ。
失言を詫びながら、騎士は戸惑う。自尊心の高い彼のことだ、ひび割れた矜持が鋭利な刃物と成り得る事もある。だがロアールだけは、表情を変えずにいられた。
「陛下。彼らはこの数日で疲弊しきっております。私からも詫びますので、どうか御慈悲を」
騎士団長の言葉で、王は冷静になれたようだ。口角を上げて笑むと、城から運んで来た食料を作業者に分け与えるよう、ロアールに指示した。そして、
「私の方こそ悪かったな。この状況においては些細な問題に、神経質になり過ぎてしまった。お前らの働き有ってこその国だ。私一人が尊ばれる道理は無いな」
シェルグは騎士たちにそう告げて、その場を後にした。
建造物への被害は著しいものだったが、かつてシェルグも言っていたように、フィオナーサの施術によって住民が身体に受けた傷はすべて完治していた。彼女の治療を受けた者たちは、「暖かい光に包まれたかと思うと、痛みが退いていって、傷口も塞がっていた」と、こぞって話した。
そんな嘘のような話は、普段のベルダートの人間であったならば不信感を抱いたに違いない。前王妃シャルアーネが掲げた隣国フリージアとの親交条約には、「異端の力とは関わってはならない」と記されたからだ。そう、フィオナーサの施術は、ベルダートで異端とされる紋章術によるものだったのだ。
だが、時と状況が彼らの判断を改めさせた。危機に瀕し多くを失くした民の心身を救ったのが、フィオナーサの紋章術だった。もし彼女がいなければ、彼女の術が無ければ--、その先の結果が絶望であったことは、誰しもが想像出来ただろう。
この数日で、隣国からやってきた新王妃は、民からの厚い支持を受けることとなったのだ。
道端で何やら話し込んでいた女性二人は、シェルグの姿を目にすると駆け寄ってきて、
「新王様。フィオナーサ様のご容態はいかがでしょうか」
「私たちを救って下さる為に、ご自身を犠牲にされたのかと思うと……」
と王妃を案じ、目には涙まで浮かべていた。
「安心しろ。彼女は少し疲れただけだ。日々の疲労と同じだ。紋章は宿主を蝕む事など無い」
その言葉で安堵した女性たちは、歩き出す王に何度も深く頭を下げていた。
シェルグは彼女らの姿が見えなくなった後、
「これでは、どちらが真に敬われているか判らんな」
と、ロアールの隣で静かに笑った。
後日。ベルダート騎士団員それぞれの部隊の代表者が、王城に召集された。普段は王都以外に配属されている者も含めて全員だ。謁見の間には、未だ王の姿は見えない。
騎士らは自分たちが今ここに居る理由を想像する。その切っ掛けと成り得たであろう事象は、わざわざ思い返すまでもなく記憶に新しい。シャルアーネの崩御の後の、王都への魔獣の襲撃。それは前王妃が守り続けた理想の壁が崩れ落ちていくかのような出来事だった。
遡ること二十数年前までは、この城も戦争の為に使われていた。シャルアーネの掲げた協定により、ベルダートは平穏な小国という安定した状態を保てていたのだ。
騎士たちは一様に、この国の変化を--あるいは、地盤が傾きつつある事を、心の奥底で感じ始めていた。
「そういや、騎士の一人が職務を放棄して城を脱走したって話もあっただろ、それもあの例の女だと」
「あの赤髪のだろ? だから俺は前々から言ってたんだ、訳のわかんねぇ奴を騎士団に置いておくんじゃねぇって」
「そもそも女に騎士が務まるとは思えん」
「実は、あいつの正体こそ魔獣なんじゃないかって噂でな……」
各々が思うがままに話し出し騒然となる空気を、
「静粛にしろ。陛下の御前だ」
扉が開き、騎士団長ロアールが諌める。彼の傍らにはシェルグの姿があった。
整列した騎士の間を、新王が歩み進める。かつての王が“この国を表す色”だと言った青色の絨毯を踏み締めながら。権威の象徴である長い外套を騎士団長に支えられて、シェルグは幾つかの段を上り、玉座へと腰掛けた。傍らにはロアールが位置する。隣の空席は王妃の為のものだ。
騎士たちの敬礼が向けられれば、シェルグは満足げに笑む。そして、頬杖をつき、目下の者達を文字通り見下げるかのようにして、言った。
「封鎖された国、或いは歴史に名を遺さない国。我が国がそう呼ばれているのを知っているか?」
それは国王の第一声としては、自国への誇りや慈愛を感じさせない言葉であった。
「無理も無い、我らは他国との交流を避け続けてきた。隣国フリージアとの同盟すら名ばかりであろう。私は警鐘を鳴らすぞ。周囲に怯えるかのように潜む暮らしをしていては、瞬く間に人も国も滅ぶ。解り易く言うならば、この国には変革が必要なのだ」
騎士たちに表情を変える事は許されない。従うべき者の前では、個々の感情は捨て置かねばならない。少なくとも、このベルダートの地では。
閉ざされた重圧感の中、騎士の一人が静かに口を開いた。
「畏れながら陛下。具体的には、どのような対策が必要だとお考えですか」
発問したのは王都護衛軍のグランドルだ。
「ふん。それを言わせるか。先日の襲撃の後、民が真に仰ぎ見た対象は何であったか。把握していれば自ずと答えが解るだろう」
グランドルは黙した。シェルグの言った意味が解らなかった訳ではない。それを国王の前で口にしても良いものかと躊躇したからだ。しかしその気遣いも、シェルグには不要なものだった。
「フィオナーサだ。いや……正しくは、彼女が宿す紋章だな」
そう断言する王の表情には、愉楽さえ感じさせる。
「立ち向かわねばならない敵が有るとすれば、弱者のままではいられない。先ずは相手と対等となれる場に立つべきだ。私の言葉の意味が解るか?」
フリージアとの同盟。変革。紋章。対等となれる立場。騎士たちは無言のまま、シェルグの放った言葉を繋ぎ合わせて、その先を想像する。彼らが容易に導き出し、それでも信じ難い答えは--
「ロアール。お前にも異論は無いな」
「陛下の御志をお護りする為に、私がおります」
「……愚問だったな」
騎士団長の自身に向ける揺るぎない忠誠心を見てとれば、シェルグの憂いは無くなったも同然だった。
* * *
「ガーディアンの一人と手を組んだ」と、ヘレナは姉から伝えられた。詳しい説明はされなかったが、無論のこと、あくまで一時的だろう。そのガーディアン--リナゼという名らしい--によって重要な拠点の情報を得たヘレナは、指示通りに“イースダイン”の破壊を目的に、アストラの大地に広がる山道を歩いていた。イースダインは世界に複数点在するらしく、妹たちも別の場所で、同じく彼女に従っていることだろう。
リナゼは「イースダインに異常が生じれば、“そいつ”は放っておけずに飛んでくるだろうね」と笑っていた。ヘレナにも姉にも、その根拠はわからないが、彼女もどうやら同じ人物を捜しているようなので、黙って服する事にしたのだ。尤も、捜す理由までもが同一であるとは限らない。元々ガーディアンと彼女らは相容れない間柄である。そこに相違があれば、リナゼから“彼”を守らねばならない。
疑いの余地も充分に残したまま、ヘレナの脚は土壌を踏み締めて行く。その決意に従うものが一頭。 短めの黒い体毛に全身を覆われた、ウシ科の獣だ。ヘレナの友と言うよりは、紋章術の素質に恵まれなかった彼女にとっての、紋章術に代わる戦闘用の道具であると言って良い。それに「グラジオ」とヘレナは名付けた。上向きの長い角が、彼女には勇ましい者の振るう剣に思えたのだった。遥か過去に群れを成す事を忘れたその獣は、ある時からヘレナにだけは心を開いていた。彼女の役に立ちそうな事なら、何でもしてきた。今は、ヘレナが歩きやすい道を選べるように先導してくれている。もしも何かに襲われた時には盾としての役目も請け負いつつ。
とはいえ、この場所ではその必要も無さそうだった。とても静かだ。土は水分を含み生き生きとしている。常緑樹も生まれ変わる際には落葉するものだが、道には落ち葉や枝なども散在していない。種の異なる動物や虫の共存は、自然界の規定通りの弱肉強食の世界ではなく、虫を主食とするはずの動物すらも、それらを食べようとはしないのだ。ここにあるのは永遠の生であり、死を感じさせるものは何一つ存在しない。それが果たして本当に生を意味するのか、ヘレナには判断が出来ないが、異様とも言える光景の陰には、翠の紋章の影響が色濃く現れているのだろう。
ふとグラジオが前進を止めた。訝しげに辺りを見回したヘレナの瞳孔は、一際目を引くものを捉えた。
翠色の毛並みの雄鹿だ。立派な枝角、背には七色の翼を持ち、尾は馬のように長い。近くに仲間はおらずたった一蹄、それも『地上界』では珍しい--魔獣と称されるであろう外見だ。
ヘレナはその雄鹿の魔獣には気付かれないように、グラジオを一旦その場に残し、木々に姿を隠しながら、少しずつ近付いていく。
下を向いていた雄鹿の頭が、急にこちらに振り返った。瞳はしかとヘレナを捉えている。目が合ってしまった。視線はそのままに後退るヘレナ。しかし、雄鹿の方は彼女に何もせず、背を向けた。
こちらに敵意は無いのか--ヘレナは胸を撫で下ろすが、あの存在が彼女の目的とまったくの無関係という訳ではない事は想像できた。翠色の雄鹿が現れた地点は、モニカに知らされたイースダインの座標と一致しているからだ。加えて、この地のイースダインに宿るという紋章は翠色のギラの紋章だという話だ。
「都合が良いじゃない。こっちから仕掛けられるんだからね」
ヘレナは一人呟くと、後方で待機させていたグラジオを近くに呼び寄せる。雄鹿は気が付いていないようだ。
翠色の魔獣の正体は定かではない。だが、目的を果たす為に必要ならば排除する事に躊躇いは無い。妨げとなるよりも先に、その芽を踏み潰してしまうのだ。ヘレナは今までもそうしてきた。
ヘレナの静かな合図で、猛々しいグラジオの二本の剣が、未だ穏やかなままの対象を、貫かんと向かっていった。
* * *
地下から戻ったエルス達が村人から知らされて向かったのは、カルーヌの北西に位置する広大な森の中だった。儀式によって開かれたイースダインがその場所にあるのだと、地図に目印の記号を付けてもらった。
その近辺まで辿り着いた時には、正確な場所は地図を見ずとも把握出来た。何故なら、そこが何者かによって争いの舞台となっていたからだ。
エルスらが最初に見たものは、大きな衝撃を受けて、獣がこちらに倒れ込んできた様子だった。訳も解らず思わず避けてしまったエルスだったが、その身体には幾つもの創傷が刻まれていて痛々しかった。枝角を持つので雄鹿だと思われるが、背の翼や長い尾、翠色の毛並みが、普通の鹿ではない事を表していた。だが、なおも立ち上がろうとする雄鹿に目も当てられなくなり、ターニャに治癒術を請おうとした時、エルスは不思議な光景を見た。
雄鹿が身に受けていた傷が、自然と塞がっていく。ターニャはまだ詠唱をしていないし、術が発動した際に現れる光の陣も、そこには無かった。雄鹿が自らの力で、自らを癒したかのように見えた。まるで、エルスが宿すオルゼの紋章の作用と同じように。
翠色の雄鹿は、エルスらとは対なる方向を見ていた。そこには黒褐色の獰猛な牛が、敵意を露わに息を荒げていた。二本の長い角は血で染まっている。恐らくあれで雄鹿を何度も突き刺したのだろう。牛の身体の方には傷一つ見受けられない。あちらが一方的に攻めているという事だろうか。
「あら、こんな所にぞろぞろ来るなんて。あなた達、ただここに迷い込んだって訳じゃなさそうね」
突如、黒牛の後方から現れた声の主。聞き覚えのある声、そして見覚えのある黒い装束。目から下を布で覆っているので顔はよく判らないが、その特徴的な外見から、かつてフリージアで出会った少女と重なる。
「お前……モニカ、だったっけ」
うろ覚えの少女の名を発したのはエルスだ。その従者が皮肉げに彼女を見下げる。
「見た目に反して、随分と粘り強いようですね」
少女は何が可笑しかったのか、高らかに笑っている。
「ええ、確かによく似てるわね。でもそれは姉さんの名前。私はヘレナ。父さんが付けてくれた大切な名前。間違えてほしくないわ」
フリージアからアストラに渡るまでの船上で、妨害をしてきた黒い艦。あれに乗っていた術者こそがモニカであるとエルスらは認識していたが、ヘレナの言い分からすると、同じようなものが複数存在するらしい。
ファンネルはいかにも面倒臭そうに溜め息をつく。彼には想定済みではあったが、ゼノンが“創り出した”であろう彼女らは一体どれ程にのぼるのか。脅威と見做していないとはいえ、このように幾度となく阻まれては煩わしい。
「姉さんを知ってるなら、やっぱりあなた達のうち誰かが、父さんを奪ったのね」
ヘレナは表情こそ変えないが、その言葉には憎しみや怒りといった感情が含まれていた。それに呼応するかのように、大人しくしていた黒牛もいきり立つ。標的をエルス達に変え、血濡れの角がこちらに向けられる。
ヘレナにとっては手間が省けた訳だ。オルゼとユリエの紋章の宿主を呼び寄せる為にイースダインの破壊を目的としていたが、それを成すよりも先に、宿主の方から姿を現したのだから。
しかし彼女は、攻撃を仕掛けて来ようとはせず、相棒をなだめた。逆立った黒毛が元に戻り、怒りは静まったように見えた。
「……でもね。今の私は、別なことで苛々しているの。……たかが鹿一匹相手に、無駄な時間をかける無能な魔獣にね」
主の声色に、黒色の魔獣は酷く怯えた。その姿からは先程までの粗暴さは感じられない。姿勢を低くして後退する。
しかし、ヘレナはそいつを逃がさない。彼女の詠唱によって、半透明の球体が黒牛の身体を包み込んだかと思えば、球体ごとその大きな身体が宙に浮いた。その中では重力が存在しないのか、上手く身動きがとれない獣は、ついには逆さの状態となってじたばたし始めた。球体はそのまま、エルスらの頭上を越えるまでに浮かび上がる。
「よく聞きなさいグラジオ。敵を仕留められない武器は、私には要らないのよ」
長い間行動を共にした相手に、慈悲の欠片も無い言葉を発するヘレナ。
ターニャの呼応石が反応を示していた。船上で襲われた時のような、鈍い輝き。まるでその正体を明確に映し出せないようで、見る者に憂いを与える。
術を中断させようとユシライヤがヘレナに向かっていくが、当然のように弾き返される。術者を守る見えない壁が、自動的に生成されたようだ。
僅かな時間で、球体は闇色に染まっていく。中にいるものの姿を完全に隠してしまう程に。そうして出来上がった宙に浮かぶ不自然な影は、ヘレナの声音によって収縮と膨張を繰り返した。外からの圧力に、中の存在が反抗しているように見えた。やがてその反抗は抑圧を破り、球体はみるみると膨れ上がっていく。元の大きさの数倍ともなったそれは、耐えきれなくなり大きな音と共に張り裂けた。
剥がれた闇の鎧から落とされた黒牛の魔獣の身体は、幾らか逞しく成長したかに見えた。二本の角もより太く長く伸び、充血した目や荒々しい息遣いも、凶暴さを増している。
「少しは強くなったかしら。さあグラジオ、鹿もあの邪魔な人間たちも、まとめて潰してしまいなさい」
グラジオと呼ばれた黒き魔獣は、ヘレナが言い終えるのを待たずに駆けて来た。命令に従うと言うよりは、昂った感情を抑えきれない風だった。
ファンネルは舌打ちしながらも、自ら前に出て迎え撃つ。彼が一瞬の詠唱で創り上げた強固な壁は、獰猛な獣の鋭い一撃をも通さない。
だがその安全も、永続的なものではない。高度な術であるほど使用者には負担が掛かる。途切れなく繰り返し行使する事は不可能だ。
「ターニャ。お前のすべき事は理解しているな」
創始者にすべてを語られずとも、ターニャは頷いてみせた。彼から与えられた使命、そして自ら決断した責務。彼女はそれを果たす為に、戦上を離れた。ファンネルが仲間の安全を保たせてくれているうちに、自身は成すべき事をしなければ。
一人別行動をとった者に、ヘレナの警戒が向けられた。
「グラジオ、もうそこは無駄だわ! 向こうの女を狙うのよ!」
だが、獣はなおも見えない壁に突撃を繰り返すばかりで、主の指示は届かない。溢れ出した激昂が、聴力をも失わせてしまったと言うのか。
ターニャは手元に意識を集中させ、鍵杖を形成する。幸い、碑石が現れる地点はすぐ近くだ。契約の方法は覚えている。瞼を閉じ深呼吸をして、その場に近付いて行く。
ターニャが目的に辿り着けなかった理由は、黒き魔獣でもなく、黒装束の少女でもなかった。あと数歩で儀式が行えるという所で、彼女は目の前に現れた翠色の雄鹿に、行く手を阻まれたのだ。
意図的とは思えなかった。そうする理由が有る事は、ターニャには解らなかったからだ。しかし鹿の魔獣は、何かを訴えるような澄んだ瞳でターニャを見つめ、決してその場を動こうとしない。もしファンネルならば、強引にでも押し退けていた事だろうが、ターニャはその考えには至らない。だから彼女は戸惑い、機を逃してしまった。
無作為な突進の二本の剣が、ついに壁を突き抜けた。ファンネルの防護の術が、取り払われてしまったのだ。グラジオは頭部を振り回し、標的目掛けて一直線に駆けていく。
その瞳に据えるは、未だ決着のついていない翠色の魔獣。そして偶然その側にいた、無防備なターニャだった。
「ターニャっ!」
エルスが彼女の元へと走り出した時、従者も後を追わざるを得なかった。
彼は自らを盾とするつもりなのか。ユシライヤにはそれが許せなかった。たとえ彼の負ったものが紋章によって癒えたとしても、事実までは消えない。護るべき者に傷付いてほしくない。そんな単純な理由で。
エニシスも彼女に付いていこうとしたが、黒装束の術者を警戒するファンネルの加勢をすべきか、脚を迷わせた。高度な術を行使した直後のファンネルは、本来の能力が引き出しきれない状態だ。ましてや獣の姿だ。正体の解らない術を使う少女を相手にするには、彼一人では負担が大きいのではないかと感じ取ったのだ。尤も、ファンネルにはその気遣いは侮辱と同等だった為、結局はエニシスも彼に指示され、ターニャの元へ向かったのだが。
仲間が駆け付けるより先に、ターニャを黒牛から護ったのは、鹿の魔獣だった。しばらくそこを一歩も動かなかった雄鹿が、グラジオの気配を感じ取りそちらへ駆けて行ったのだった。
銀に閃いた二本の角が、翠色の身体に深く突き刺さる。まるで天に掲げるように、グラジオは獲物を角に引っ掛けたまま頭部を振り回す。反動で雄鹿は放り出され、鮮血と共に地に倒れた。
一つの死を確認した後、グラジオは別の標的を捜した。獲物となるべくはそこに集中している。選択に特別な理由は無く、たまたまその瞬間に視界へ入った人間に狙いを定めていく。
数ではこちらが優勢だ。エルスらは何とか魔獣の突撃を回避する事が出来ている。だが、闘争本能が剥き出しになっている状態の魔獣を相手にするには、体力の消耗も激しく厳しいものとなるだろう。
その荒れ狂うグラジオを、一時的に冷静にさせたのもまた、あの雄鹿だった。止まったはずの心音が鳴り響く。傷口が自然と塞がり、再び立ち上がったのだ。そうなれば、グラジオの瞳がまたしても翠色のみを映し出す。
まるで蔑ろにされているエルスらには、それが終わりの無い争いに見えた。同時に疑問も浮かんできた。彼らは一体、何の為に繰り返すのか。
「……もういいわ、グラジオ」
そんなヘレナの声も、もはや聞こえていない。もっとも、暴走する魔獣の耳に届くような声量ではなかったが。
「もう、あなたの事は要らないって言っているのよ!」
突如として響く怒号に、魔獣の動きが止まった。グラジオは見開いた瞳で、声の主を、自分の主を見つめている。
「あなたよりも、その鹿の魔獣の方が面白そうで、強そうなのよ。理解したのなら、そこで大人しくしていて」
束の間の静寂だった。行き場を、目的を失った黒き魔獣は、戸惑い、その場でじたばたと足掻いた。それが視界に障ったヘレナは、再びその魔獣を闇の球体の中に閉じ込める。中からは悲鳴に似た声色が伝わってきた。
「今度は、あなたを私の手脚にするのよ」
翠色の雄鹿を見据えて、ヘレナが笑った。
少女に狙われた魔獣は、ターニャの側に寄り添うように、同じ地点をぐるぐると回っていた。その場所に何かが在ると知っているかのような、その上で何かを求めているような、不可思議な動きだ。
ヘレナはファンネルによって足止めされている。今のところは、黒き魔獣への危惧も無い。イースダインとの契約を終えるには契機とも言える。しかし、目の前の存在がどうしてもターニャの懸念を掴んで離さない。
ついには、ターニャは言葉の通じない相手に問い掛ける。
「あなたの望みは、何なのですか?」
待ち望んでいた言葉だったのかもしれない。雄鹿はターニャに身を預けるかのように、体勢を低くして、ゆっくりと首を下ろした。
イースダインの地点を中心に、結界が張られた。その中に収まるターニャと雄鹿。ファンネルが作り出した、二度目の好機だ。もし再び壁が消えても彼女を守れるようにと、近くには仲間も寄り添う。
しかし、ターニャが優先したのはガーディアンとしての責務ではなく、目の前に居る素性の不明な魔獣だった。彼女は彼の首の後ろに腕を回す。鹿の魔獣は、彼女の肩の上で目蓋を閉じ、静穏に心を預ける。理解し合いたかった。お互いに何も知らないままでは、何かを失うかもしれない。自身の境遇をその直前まで周囲に語らなかった、ノーアのように。
だが、ターニャには魔獣の胸中までは読み取れない。彼が何を求めているかが解らない。
その様子を見ていたエニシスが、武器を収めて口を開いた。
「ターニャさん。もしかして彼が、アストラの人たちの言う“天神様”ではないでしょうか」
ターニャは目を見張り、改めてその姿を凝視した。
踊りの儀式と贄ノーアの死によって開かれたという、アストラのイースダイン。それを司るのが翠色のギラの紋章だ。雄鹿に宿る自然治癒の力は、確かにギラの紋章によるものだと言える。鹿の身体は天神という言葉とは結び付かないが、彼の背に生える七色の翼からは、美しく天を翔ける姿を想像させても可笑しくはない。
だが、もしそうだとしたら、彼の望みとはイースダインとターニャとの契約にこそあるのではなかったのか。何故、それを拒むような挙動をするのか。ますますターニャには理解が出来なくなった。
「これは……僕に、そう聴こえるというだけなんですけど」
彼自身も受け入れ難い見解だ。エニシスはその次に続く言葉を、雄鹿に向かってようやく解放させる。
「あなたは、その身体を……永遠に続くと思われる自身の命を、拒否しているのではないですか」
呈示されたそれは、ターニャには信じ難く、判断を鈍らせるものでしか無かったが。
雄鹿は顔を上げ、肯定するかのようにエニシスを見据えた。
思い返せば、鹿の魔獣の行動は不可解であった。黒牛の魔獣に一方的に攻められ、決して自分から相手に立ち向かっていかなかった。それがもし、自らの死を望んでいるが故だったとしたなら。
物事を把握出来たとて、その事実に納得しすべてを受け入れられるとは限らない。彼らは命が失われる瞬間に立ち会ってしまったばかりだ。天神様に選ばれて、運命を受け入れたノーア。彼女が最期まで見たものは未来だった。だからこそ自分の命を懸けて、笑顔で託した。
「では一体、ノーアは……あなたを信じた者たちは、何の為に犠牲になったと言うのですか?」
ターニャは“天神様”と思しき獣に問い質す。彼の望みが、ノーアの願いを踏みにじるように感じたのだった。
二者の間に壁が生まれたのと時を同じくして、彼女らを包み込む結界は消失した。
しかしターニャは、あろう事か杖を持つ手を下ろしてしまった。困惑に囚われて、儀式に必要な詠唱すらも出来ない。
彼女の代わりに雄鹿の前に出たのはエニシスだった。少年に見つめられれば、神の獣は澄んだ瞳を彼に返した。
エニシスはしばらくそうした後、獣の言葉を代弁するかのように言い放つ。
「それは……本意ではなかった。他の誰の死も望んでいなかった。そもそも、我には神と呼ばれる所以など無い。だがもし我をそう呼ぶならばこそ、不毛な犠牲をなくす為にも、長く生き過ぎたこの命を終わらせたい。この地の理を揺るがす、お前達に託す--」
エニシスが代わりに紡いだ雄鹿の言葉。彼は心痛な表情でいたが、その内容に比べれば、周囲には淡々としたものに聞こえてしまったかもしれない。
それは真実であるならば、アストラの風習を覆してしまうものだった。この地の民は長い歴史を間違った解釈のまま、死を捧げる事によって繋ぎ続けてきたと言うのか。
その場の誰もが口を閉ざした静寂の中、ふとエルスが疑問を投げ掛ける。
「なぁ。エニシスって、そいつが思ってること全部わかるのか?」
少年は頷く。雄鹿は何かの言葉を発している訳ではない。鳴き声でもなければ、そもそも口を開いてもいない。それなのにエニシスには、彼の言葉が“聴こえている”らしいのだ。
「お前って、時々普通じゃないよなー。実はすごいやつなんじゃないのか? ファムみたいな」
呼び掛けたつもりはエルスにはなかったが、そこに丁度ファンネルも駆け付けた。暫く振りに見せる人型の姿で、辛辣な表情を浮かべている。
「そいつは想定以上に厄介な相手だったらしいな。黒装束よりもな」
ファンネルの背後、離れたところでヘレナはうつ伏せになって倒れている。黒き猛牛も、術に抑え付けられたままで。従える獣を自ら手放した彼女では、到底ファンネルの相手にはならなかった。
にも関わらず、未だターニャの契約は完了していない。ファンネルが作り出したその好機をターニャが二度も逃す事となった原因が、目前の神獣にある。
ターニャは自身の行動に後悔はしていない。だがもしファンネルが居なければ、もしヘレナがこちらに攻めてきていたなら、同じ事が出来たかは判らない。
うなだれるターニャが反省の言葉を口にしようとした時、前に出たのはエルスだった。
「待ってよ。こいつのこと……死なせちゃうのか」
「俺たちの行く手を阻むならば」
ファンネルにとって、獣の言葉が通じようが、彼が何を望んでいようが、さして問題にはならない。己の目的を遂行出来るかどうか、それこそが重要だ。
エルスの顔に苦渋が浮かぶ。サジャの時も、ノーアの時もそうだ。たとえ当人が望んでいたとしても、死を目の当たりにするのは不本意だ。だが、神の存在により、アストラの人間が犠牲になり続けるのも事実。
秤にかけるつもりはない。しかし選ばなければ、背負わなければ、進めない。
「でも、どうするんですか? どうせ殺したって死にませんよ」
ユシライヤがそう言うのは、先程の雄鹿と黒牛との戦闘を見ていたからだ。彼女も不快なのだ。否定されたいから、棘のある物言いをする。
「……あまり、認めたくはない可能性ではあったんだが」
創始者が、おもむろに雄鹿に近付いて言った。
「この紋章の作用は、通常のギラのものとは異なる。恐らく、このイースダインに留まるべき“原種”の紋章だ。何らかの影響で、この獣に誤って宿ったのだろう」
エルスらには理解出来なかったが、ターニャには納得がいった。彼女が雄鹿に抱いていた違和感。ギラの紋章はあくまでも宿主の自然治癒力を高めるに過ぎない。自ずと発動するものでもなく、生命を永遠のものに変じさせる訳ではない。それが可能なのは、エルスの宿すオルゼの紋章か、“原種”のギラの紋章のみだ。六種の紋章それぞれに存在する“原種”。それはイースダインに留め、世界を形作り維持させる為の紋章。この獣は、望まずしてその強大な力に捕らわれていたのだった。
ならば、ガーディアンである彼女がやるべき事はただ一つ、決まっている。
「呼応術……ですね」
ターニャの導き出した答えに、ファンネルが頷いた。
「ああ。こいつを紋章から解放させ、本来の在るべき姿に戻す」
「それって……こいつ、結局どうなっちゃうんだ?」
紋章を宿す前の、本来の在るべき雄鹿の姿を、彼らは知り得ない。だが少なくとも、紋章によって生き長らえているのは事実。その紋章が取り去られたならば、どうなるか。簡単な事だ、本当は訊かずともエルスにだって解っている。
「いずれお前にも為すべき事をするだけだ。何を恐れる必要がある? それともお前は、現在の自身の状況を都合の良いものだと考えているのか」
創始者の問いには、エルスが返せる言葉は無かった。
痛くない方が、死なない方が、絶対に良い--エルスがそう感じることも、決して嘘ではない。自分だけではない。他の誰にも、命の終わりなど訪れなければ良い。たとえ自然に反しようとも、そんな世界を心の奥底で望むのは、果たして自分だけだろうか。
「お前に自覚は無いようだがな……あまり猶予はない。俺たちに残された選択肢は限りなく少ない。これは、お前をそのような状態にしてしまった俺たちの贖いで、賭けなんだ」
創始者の急く思いは、その理由にあった。
何を優先すべきか判るか--幾度となく彼がターニャに問うた言葉の真意だ。決断とは、選択肢を削っていくという事だ。一つの思いを守り続けるには、選ばれなかった壁を貫かねばならない。
「エルスさん。紋章を外したからと言って、対象の命が突然失われるという事はありません。紋章によって止められていた時間が流れ出す、そう思って頂けたら分かりやすいかもしれません」
ターニャがそんな事を言った。
止められていた時間。誤った紋章は宿主が刻む生命の鼓動をも狂わせるのだ。摂理に背いた存在。有ってはならない存在。雄鹿の姿が自身と重なり、エルスはシェルグに言われた言葉を思い返す。
--お前は、生きているべき人間ではない。
「勝手なことを、言わないでよ……」
エルスの思考を途切れさせたのは後方からの声だ。
「死を望んでるですって? その子は私が従わせるのよ。死なせる訳ないでしょ」
見れば、傷の痛みに耐えながらヘレナが立ち上がっていた。
「……グラジオ。あなたにもう一度だけ機会を与えるわ。むかつく奴らをやっつけて」
主の命令を聞き入れれば、すっかり小さくなり静まり返っていた黒色の球体が、息を吹き返したかのように再び膨れ上がる。影を破り生まれ出た獣は、一段と屈強な体躯に成長していた。黒い体毛が怒りで逆立ち、より肥大化して見えた。
大地を蹴り潰し、空に剣を舞わせる。既にその視野には狙いなど定めない。荒れ狂う黒獣はもはや自身すらも抑えきれない様子だが、その動きが予測出来ない分、非常に戦い辛い相手だ。
疾駆するグラジオ。武器を構える騎士と射手の前に、ファンネルが気怠そうに進み出た。黒牛の突進は彼の目前まで迫っていた。しかし彼は詠唱も無しに手の平を翳すだけで、それを難なく弾き返す。地に倒落するグラジオ。標的に向けた速度と重量の反発が、衝撃となって返ってくる。打ち付けられ、土壌を転がり、蹲る。黒い獣は立ち上がれない。外的損傷が原因と言うよりは、戦意を失った様子だ。
強化した魔獣の呆気ない終わりに、ヘレナは呆然とする。
「何よ、なによなによ! 私はただ、父さんに会いたいだけなの! よくやったって、認められたいだけなのよ!」
ヘレナの声は耳障りだ。ファンネルは不快を取り除く為なら、少女をも魔獣と同等と見做す。
何かを悟り、後退するヘレナ。視界から相手を外さないまま。
言い返そうとして、ヘレナは自身に起きた異変に気付く。声が出ていない。聴力が失われたのではない。他の音は聴こえている。冷静になると、目の前の青年が引き起こしたのではないかと思えた。ヘレナは相手を凝視する。
ファンネルが彼女から攻撃の手段を奪うにはそれで充分だった。指示を出されない獣は気力も失われてうつ伏せたままだ。長時間有効な術ではないが、だいぶ煩わしさからは逃れられただろう。
「ターニャ。暫く振りだろうが、俺の補助もある。余計な事を考えなければ、術は成功する」
言われれば、ターニャは黙って頷き、鍵杖を握り締める。雄鹿と眼が合った。今、為すべき事こそが、彼を救う方法なのだと信じた。
「エルスさん達は、少し離れていて下さい。決して、陣の中に入ってはいけません」
名を呼ばれた事で、虚けていた頭がようやく正常に戻った感覚だった。エルスには何か、ターニャに問い掛けたい事があったはずだ。しかしその機会も与えられず、事態は展開していく。
ターニャとファンネルが詠唱を始めると、大地に光の円陣が張られた。エルスは従者に後ろから腕を引かれ、その場から離れる。円陣の光は術者と神獣を包み込む柱となって空を貫いた。その眩さは中の様子をも見通せない程だ。何が起こっているのか、判らない。
しばらく呆然と見ていると、二人の詠唱が止んだ。柱の光は上部から徐々に消えていって、やがて二人と一蹄の姿も現れる。獣は、姿を変えていた。翠の毛並みは茶にくすみ、翼は消え失せていた。そして、力無く大地に崩折れる。そこで光は失われた。
一番最初に駆け付けたのはヘレナだ。変わり果てた--否、元の姿に戻った雄鹿を見つめる。瞳は閉じられ、酷く弱っていた。その獣からは、美しさも強さも失われてしまったように思えて、見ていられず、目を逸らした。
呼応術は無事、成功に終わったのか。エルスらも徐ろに現場に近付いた。雄鹿は眠っている。死んでしまったかのようにも見えて、彼らは言葉を失う。
「宿っていた紋章の代償とも言うべきか。内側に蓄積された疲労が急激に襲ってきているのかもしれないな。こればかりは……仕方がない」
事も無げにファンネルが言うので、エルスはぞっとする。紋章が宿った期間が長ければ長いほど、その代償とやらも大きいのだろうか。自ら望んだ賜物でもないのに、自然に還るだけで、その苦痛と戦わなければならない。いずれは--彼と同じく、自分も。
「……ターニャさんも、相当疲れているように見えますが大丈夫ですか?」
ユシライヤがそう言うので彼女を見れば、ターニャは青褪めた顔色をしていて、何とか立っていられるという風にも見える。
「平気です。まだ……終わりではないので」
そう、今成し遂げたのは、彼女がここまで足を運んだ目的の前段階でしかない。“原種”の紋章がイースダインとは別のところに留まっていた状態を異常と呼ぶなら、今ようやく正常に戻したというだけだ。
呼吸を整えて、ターニャは自身を中心として円を描く。詠唱によって発生させるものではなく、自分の手に持つ杖で、大地に直接描いてゆくのだ。線が途切れてしまわないよう、歪んだ円にならぬよう、精神を集中させる。
すると、彼女の目の前に石板が現れた。そこに記された、界の狭間への転移術の呪文。それを自身の中枢に刻み付けるように繰り返し言葉にする。転移の為のその扉を、自分のものとするかのように。他の侵入を決して許さぬように。
祈りは振動となり、痛みとなる。彼女はまた一つ、禁忌に近付いた。
「う……っ」
全身を襲う痛みと、ひび割れる意識。前回を覚えてはいたが、脱力し、体勢を保てなくなって座り込んでしまった。先程の呼応術での疲労もあるかもしれない。
そんなターニャを気に掛けて、エルスが近寄る。しかし差し出した手は、彼女に握り返される事はなかった。
「……エルスさん。私への気遣いは不要です。私は、貴方を救う立場にあるのですから」
エルスを横切って、ターニャは未だ目を覚まさない雄鹿に寄り添った。少しでも彼の負担を減らせるようにと、治癒術をかけた。その姿を受け入れるべきだと、彼が望んだ結果なのだと、自身に言い聞かせながら。
儀式は無事終えた。石板にターニャの名前が刻まれているのを、ファンネルも確認済みだ。計画の中間地点をようやく過ぎたというところだ。ターニャを休ませた後は、三つ目の、最後のイースダインへと脚を運ばねばならない。
先導するようにファンネルが踵を返し、一行がその後に付いて行こうとした時。
「私を……どうするの」
ふと聞こえてきたのは、声を取り戻したヘレナの問い掛けだった。
「殺さないの? もう抵抗なんかしないわよ。でも残念ね。あなたたちがここへ来たことは、もう姉さんに伝達済みよ。私じゃどうにも出来なかったってこともね……」
殺すなどと、誰一人としてそんな意図は無い。ファンネルにもだ。この場所ではもう、何も起こす気は無い。
しかしヘレナは、彼らに語るのをやめなかった。
「役立たずは……要らないのね。私には素質が無かった。他の何かを従えて、強くさせる術しか使えない。自分は強くなれないのに。私は一人じゃ、戦えない。そうね……私を一人にしたんだから、あなたたちは私を殺したのと同じよ」
一方的なヘレナの言い分に疑問を呈したのはエニシスだった。
「ヘレナさん。戦う事だけが、生きる術でしょうか?」
「そうよ。あなたたちにはわからない。だって私は戦う為に父さんに造られたんだから。……姉さんだって妹たちだって、私を見下すのよ。父さんだって、弱いままじゃ見向きもしてくれない。失敗作だったって。おかしいでしょ? だったら、最初に壊しておいてくれれば良かったのよ! どうして私、今まで生かされてきたの!?」
勢いよくまくし立てるヘレナに、返せる言葉を持つ者はそこには居なかった。尤も、ヘレナが心から望んでいるのは、彼らからの返答ではない。
その空気を、ヘレナに対する反感と受け取ったのかもしれない。いつの間にかグラジオが立ち上がっていた。脚を震えさせながらヘレナの元まで必死に歩き、彼女を他から守ろうとするように、彼女に背を向けて、身構えた。
「……グラジオ」
ヘレナと同様、その魔獣も彼女と出会うまでは孤独だった。ヘレナを信じたから従っていた。たとえ道具として見られていても、共に居られるのならと。
そんな黒牛の意思をも、エニシスには読み取れてしまった。だから敵対する立場の少女にも、声を掛けずにはいられなくなっていた。
「あなたは……一人ではないですよ」
少年に敵意が無いのを悟ったか、黒い魔獣から威嚇の色が消えた。
陽の光に照らされて、グラジオの黒いはずの毛並みが、少し金色がかっている。彼の色がそういうものだと、ヘレナは初めて知った。長い間、共に居たというのに。
「あなた……すごく綺麗だったのね。もう少しだけ、側で見させてくれる?」
彼に感じた美しさは、剣に見えた角だけではなかった。強さだけではなかった。今は穏やかな瞳を、少女に向けている。ヘレナは、魔獣に手を差し伸べた。
しかしその手は、二度と彼に触れる事は無かった。彼女の身体は力を失い、卒倒した。突然の事だった。
横たわる少女に近付いたのはファンネルだ。意識も、呼吸も、心音も無かった。もう少女は動かない。糸の切れた操り人形のように。
彼女が壊れたのを切っ掛けとしたか、黒牛はもがき苦しみ、元の姿に戻った。強化術が解除されたのだ。エルスらが最初に見た時の彼よりも小さく、弱々しく見えた。よく観察すると、片方の後ろ足を引きずりながらも何とか歩いて、ヘレナに近付いて行く。
「戦う為に、造られた……か」
彼女がそう言っていたのを、ファンネルがそのまま繰り返す。
恐らくヘレナは直前に、戦意を失くしていた。争いの為に造られた道具からその意思が失われれば、製作者にとって彼女がどんな存在となるか。ゼノンがどこまで彼女らに『組み込んだ』かは判らない。明確なのは、もうヘレナは抗う必要が無いという事だけだ。
旧友とは、解り合えない事が多かった。これもその一つだ。彼を止める方法は無かったのだろうかと、過去への後悔ばかり込み上げるが、それに惑わされて自身が歩みを止める理由は、ファンネルには無い。
「……先を急ぐぞ」
それぞれに口惜しい思いはあるはずだ。それでもターニャは彼の道の上をなぞり行く。次にエルス、そしてユシライヤと続いた。
エニシスは、そこに立ち竦んでいた。自分と似た境遇の彼女。しかし残されたのは、獣の方だ。主が動かなくなった理由を理解できない魔獣は、ヘレナの命令を待っていた。もし自分がエルスらと出会わなければ、同じ運命を辿っていたかもしれない。その光景に背を向けるまで、時間を要した。
* * *
一行がカルーヌへ戻った時、村は夕暮れの色に染まっていた。村人たちは待ち望んでいた御使いの帰還を喜んだ。こちらから頼み込むよりも先に彼らはターニャを支えて、宿へ案内してくれた。
今宵も宴は続く。ノーアの犠牲と彼女の儀式によってこの地の平穏が守られたのだと、村人たちは信じている。崇める天神は、彼らの虚構から解放されたに過ぎないというのに。
しかしエルスらは、事実を告げるつもりは無かった。と言うより、ファンネルが認めなかった。他者の言葉よりも、幾らかの時を経た方が、この地に真実が伝わるだろうと。歓喜の笛と太鼓と歌声が、眠らない夜に響き渡っていた。
夫にも何も告げずに、サジャは一人、王の間へ足を運んだ。自らの意思で再び訪れるとは思わなかったが、恐らく、活気に満ちた村の雰囲気から逃れたかったのかもしれない。あるいは、現実を未だ受け入れられないかだ。
鉄製の開き戸は、いとも容易く開いた。贄を食んだ時には堅く口を閉ざしていたと言うのに。目前に現れる光景は、初めて予言を聴いた時のものと同じだ。中央の椅子に腰掛ける、骸の王。今となっては、その眼窩はサジャを見てはいない。何を問い掛けても、あの重くのし掛かるような声も発しない。それもそのはず、神は今、その身体には宿っていないのだから。
捧げられた犠牲者の身体は、何処にも見当たらない。以前からずっとそうだった。だからこそ贄は転生に成功したのだと、言い伝えられてきたのだ。
サジャは王の遺体をしばらく見ていた。不思議と、恐ろしいという気持ちは湧かなくなっていた。もう、二度と動かないように見えた。ノーアの居る日々が戻らないように。その人が生きていた時間は、遥か過去に終わっていたのだと。
* * *
夜の賑わいが嘘であったかのような、静かな朝を迎えた。穏やかな空気だ。宿の前で一行を待っていたのはニクス一人、傍らに妻の姿は無い。
「御使い様、お連れ様御一行。アストラの平穏をお守り下さいました事、深く感謝致します。旅の成功を祈ります。そしてどうか……お元気で」
ニクスは村の長として出迎えてくれて、言葉を送ってくれた。その最後まで、彼が娘の名を出す事はなかった。
この時、エルスらはカルーヌを去った。次の目的地イスカへ歩みを進める為に。エルスには、初めてアストラへ訪れた時とはまるで景色が違って見えていたが、方向は違えど山道である事に変わりはなく、実際にはそれ程の差異は無いだろう。
宿を出てから沈黙が保たれたままの道中、
「ノーアって……本当にいなくなっちゃったんだな」
と、ついにエルスが発した言葉に、その場の空気が一瞬、冷たいものに変わった。
ノーアはもうあの場所に存在しない。彼女とは、たった数日の間過ごしただけだ。それなのに、いや--だからこそ、記憶の中で彼女は鮮明に生きている。これは寂しさというよりも違和感だ。
「あいつ、最後に色々変なこと言ってたけどさ……どういう意味だったのかな」
エルスの抱いた疑問。本来ならばその答えを知る術は無い。ノーアが遺した言葉には、ガーディアンのみが知り得るべき真実が含まれていたからだ。
しかしここまで来ては、ファンネルも説明せざるを得なくなっていた。彼らはエルスらと、“共に歩み過ぎた”のだ。
「それには先ず、俺たちの事を……話す必要があるな」
先導する獣の創始者の意思を受け止め、ターニャは黙したまま彼の足取りに従う。
「以前、ガーディアンとは輪廻転生を正しく管理する為の存在と言った。この世界は、二つの存在が互いに転生する事で成り立っている。ユリエ=イースで生まれた者は、オルゼ=イースの命として。オルゼ=イースで生まれた者は、ユリエ=イースの命として。ミルティスとは、その転生が出来なかった者が集まる場所。俺たちとは、そういう存在だ。つまりあの小娘は」
話の途中にも関わらず、エルスは思わず訊き返した。
「転生ができなかった、って?」
ファンネルは事も無げに言っていたが、エルスには疑問に思えた。だがそれに対して彼の回答は無く、代わりに口を開いたのはターニャだ。
「ノーアは……きっと、ミルティスで生まれる事を望んだのだと思います。しかし大抵は、ユリエス(地上人)であるノーアは、別の命としてオルゼン(天上人)に転生します。私たちと同じ存在として生まれる可能性は低いです。その転生に失敗した結果が、私たち狭間の者なのですから」
ターニャと同じになれる--ノーアのその言葉は、ガーディアンへの転生を意味していたとターニャは言うのだ。
「そんなほんの僅かな可能性の--それも過ちの為に、今ある命を投げ出すなんて……私にはまだ、受け入れられません」
ターニャを慕うように共に居たノーアの存在は、ターニャの中に大きく残っている。その悲痛な表情は、彼女が普段はあまり見せないものだ。
しかしエルスには、別の疑問が浮かんできてしまって、ここで問い質さずにはいられなかった。
「あ、あのさ、失敗って……。じゃあターニャたちって、どっちでもないって事なのか?」
「……はい。地上人になれなかった天上人。その逆だったかもしれませんね」
ターニャに付け加えるように、
「狭間として生まれた者は、新たに転生も出来ない。死ぬ事もない。永遠にミルティスに留まるだけだ。いわば……輪廻から外れた存在だな」
と、ファンネルが言った。
何故、ノーアはガーディアンへの転生を望んだのか。それも含めての神の予言であり彼女の運命だったのか。果たしてそれがギラの紋章を維持するのに必要だったのか。そもそも、予言とは真実なのか--判らない。
ファンネルはかつてアストラの人間を愚かだと思っていた。しかし元を辿れば、彼らを神の元へ誘ったのは、ガーディアンが管理すべきイースダインの異常が原因なのだ。
「……だから俺は、先を急ぐと言っているんだ」
アストラに背を向けるファンネル。幾重にも重なる罪を背負うように。彼に従う一行の中、エルスだけが立ち止まったまま。
「生まれてきたことを、失敗しただなんて言うなよ」
そんな事を言ったので、周囲も脚を止めて、視線が彼に集中した。
「生まれ変われなかったのかもしれないけど、それだけじゃん。ターニャもファムもちゃんと生きてるんだ。失敗だなんて、さみしいこと言っちゃダメだよ」
エルスの悲しげな面持ちに、ターニャは唖然としたまま、彼に返せる言葉を捻り出せなかった。彼女にとっては有りのままの真実を伝えただけに過ぎず、そんな顔をされるとは思わなかった。自分の存在が、誰かを悲しませるようなものだとは思わなかったのだ。
失敗作。戦闘用に生み出されたというヘレナも同じ事を言っていた。認められない自分を、壊して欲しかったという事も。そのヘレナが死を迎えた時、エルスは悲しみとも怒りとも言えない、どこにも向けられない感情に苛まれた。雄鹿の時もそうだ。誤って紋章が宿った存在は、ある意味では失敗作と言えるのではないか。
つまるところ、エルスはその言葉を自身に重ねていた。いや、実のところその場の誰もが、少なくとも一度は葛藤したはずだ。
重い一歩を踏み締め、再び彼らは歩み出す。それぞれの孤独を背負いながら。
「……俺たちのこの状態が、生きていると言えるならな」
風に拐われたファンネルの呟きは、そもそも何処に向けられていたものだったのか。
* * *
ここアストラには三箇所の停泊場がある。アストラから見て北のローンレイブ、南東のフリージア、南西のイスカ、それぞれ別の三国へ向かう船が発着する。
エルスらが辿り着いたのはアストラの南西部。緑に囲まれた景色を見続けてきた彼らにとって、久方ぶりの海が目前に広がっていた。
次なる目的地はイスカ連邦公国。広大な面積は幾つかの地域に分かれ、それぞれに君主が存在するという。長い間をほとんど城の中で過ごしたエルスにとっては、ベルダートという自国の大きさに驚いたものだが、それとは比べ物にならないという事は想像だけでも解る。エルスは従者から借りた地図を綺麗に折り畳んで、懐にしまった。
そのユシライヤはと言うと、出航の時間までには余裕があるからと言い、一人鍛練に出掛けていた。近辺には魔獣も現れるのでエルスは心配したが、彼女にとって腕が鈍るのが良くないらしい。
しかし、あれから随分と時間が経過した。出航時刻も迫っているので、エニシスが呼びに行ったところだ。
「エルスさん、あれ……!」
ターニャが示す方向には、こちらへゆっくりと歩いて来るエニシス。そして、彼の背中に抱えられたのは。
「ユシャっ!」
駆け寄ったエルスに、従者の反応は無い。顔は青褪めて、瞼は閉じられている。意識が無いようだ。一見、外傷は見当たらない。
「エルスさん……ごめんなさい。僕の、僕のせいで……」
エニシスから雫が零れ落ちる。何故、彼が謝るのか、エルスには訳が解らないまま、しかし流れる時はそこに留まる事を許さない。
少年に代わって従者の身体を抱え、エルスは歩むべき方向へ駆け出した。彼女の時をも止めてはいけない。行く先を闇色に染めたくはなかった。