表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

終末の週末

作者: KZ

世界の終わりそんな漠然とした議題の元制作した短編になります。SF(少し不思議)な世界をお楽しみいただければ幸いです。

もうすぐ日曜日が終わる。

終末の週末が、終わる。


 どうやら、この世界は終末を迎えたようだ。ノストラダムスの大予言でも、超古代文明の終末宣言でも、滅びることのなかった世界も、とうとう終わってしまうらしい。他人事のように語ってしまうのは、きっと私がこの事を人づてに聞いたからで、いまだに現実味のない話だと感じているからだろう。

 ただウソと断定できないのは、情報の仕入先が、これまた私が信頼している人物からなもので、彼が私を騙すためだけに用意した話だとも思えない。宙ぶらりんな思考の中、私の天秤は自己の疑念よりも彼の言うことを信用することにしたのだ。

 こんな時に、世の中の反応を見るために、情報端末を持っておけば良かったのにと後悔するのだが、ないものは仕方ない。単にお金がないという理由もあるが、狭いコミュニティで生きていこうとしたのは私の判断であり、さびれた田舎町で呑気に暮らしている私には無用の長物だと遠ざけていた。それがまさか、世界の終わり云々なんて巨大な問題でさえ、情報端末がないと蚊帳の外になるとは想定外であった。情報化社会の現在、受け口となる端末を持たぬことは、いい意味でも悪い意味でも世間とは完全に隔離されるようだ。

「さて、どうしようか」

 独り言は 白い壁に消えていく。背もたれに身体を預け、天井を仰いでみるが、見慣れたものが映るばかりで何の発見もない。私はため息をついた。

 彼の話を信じる、つまり世界が終わることを前提としたうえで、今後どうしようかと悩む。彼の話では世界が終わるのは十月第四の日曜日。正確な時刻は分からないが、夜になるだろうという事で、今は十月第三の金曜日。午後十時を少し回ったところだ。自宅の書斎で万年筆を片手で遊ばせながら、私はゆらゆらと思考を流している。

 よくある、世界が終わる前にしたい事なんて考えたことはあるが、確固たる答えに辿り着いたことは私には無かった。優柔不断、自己主張がないと自覚していたけれど、現実に世界が終わるとしても、こうもが思いつかないとは自分に呆れてしまうほどだ。

 もっと前もって予告があったら何かしら思いつくのだがと、言い訳を吐きそうになるが、情報を捨てたのは私であり、そもそも今回は奇跡的に事態が起こる前に知ることができたのだから、文句は言えない。

「カレー……」

 グルグルと回る思考回路は、食べたいものへとたどり着く。夕飯は先ほど食べたばかりだというのに、ぐぅと腹が鳴った。

 こぼれ出た欲求を私は、何かに書き留めようかと机を漁る。引き出しを開け、見つかったのは一つの黒いノートだ。日記帳と三年ほど前に購入したものだが、使用されたのは僅かに数ページだけ。私のやる気が持続しないがために、数年放置された日記帳の真っ白なページが、責める様に目に飛び込んでくる。

 世界の終わりなんです。大目に見てください。

 誰に言い訳するわけでもなく適当な思いを吐いて、私は白いページにカレーを食べようと簡潔に書き込む。

 よし、とりあえずやりたいことは一つできた。後は行動に移すだけだ。私は万年筆を置いた。計画表に目標は一つのみ。生憎私にはそれ以上持ちきれそうにない。

 首を左右に振って、大きなあくびをする。物思いにふけるなんて慣れていないことをしていからだ。完全に脳がオーバーヒートしている。そろそろ眠ろう。書斎を出て、私は寝室へと足を向けた。

ベッドだけが置いてある寝室は、自宅の一番日当たりのいい部屋だ。私はベッドに飛び込む。軋む音がして、反発で私の身体は少し宙に浮いてまた落ちる。無理して買ったダブルサイズのベッドは、とうとう誰かと眠ることはなかったけれど、寝相の悪い私でも、朝目覚めたときにベッドから落ちていることがないという利点だけを大事にしておこう。ないものねだりをするには、もう遅いだろうから。

 リモコンを操作し、明かりを消す。

「おやすみなさい」

 一人事の挨拶は、天井へと吸い込まれていった。


 土曜日。

 眩しさで目を覚ました私は、顔を顰めたまま大きなあくびをした。昨日カーテンを閉め忘れたなと反省しながら、身を起す。時計の針は七時半を回ったあたりだ。

 声を出して伸びをした後、窓を開けた。冷たい風が頬を撫でて、少しずつ頭を覚醒させてくれる。雲一つない青空に、太陽は嬉しいのかより一層眩しく輝いている。

 私は目を細めて窓の景色をしばらくの間眺めていた。高台にある私の家は、眼下に街を見下ろせる。民家ばかり立ち並び、人通りもあまりない。目につくものと言えば、町工場の煙突と、廃校になったまま崩されることがなかった小学校。遠くには遊泳禁止の海が見えるが、本当に申し訳ない程度のものだ。特段好きでもなかった風景だが、少しでも目に焼き付けようとするのはもう見れなくなるからだろうか。

「ハックション」

 体が冷えたのか、大きなクシャミが出た。身震いをして、私は窓を閉めた。今日は冷える。まだ早いと思っていたが、コートを出しておこう。この間まで暑いと思っていたのだが、あっという間に寒くなる。季節の移り目がここ数年は曖昧になってきている気がする。

 疑念は解決できないまま、私は身支度をするために、寝室を出た。冷たい廊下をはだしで進み、洗面所へと向かう。

 寝癖でボサボサになった長い髪をかき上げ、乱雑にゴムでまとめる。蛇口を捻り、冷水で顔を洗う。

 そういえば、お隣の奥さんが美容にはぬるま湯の方がいいと言っていたっけ。顔を拭きながら思い出すが、もう遅い。まあ、今更美容に気を使ったところでしょうがないので、別にいいだろう。ずぼらな性格なので、将来は老化におびえる人生だと思っていたが、まだまだ若いうちに終えれそうだ。そう考えると案外世界が終わるのも良いことかもしれない。

「いやいや」

 メディアに向けて発信したら、色々と問題になりそうな思考に首を振って、私は苦笑いを浮かべる。

皆は世界の終わりをどう思っているのだろうか。賛成か反対か。そりゃ、もちろん滅びないことに越したことはないが、奇異な人間はいるもので、賛成意見を堂々と展開している奴らも何%かはいるんじゃないかと考える。

彼らはどうやって今この日々を送っているのだろうか。正しい世界の終わり方なんてものがあるのならばぜひとも教えていただきたい。

終わり良ければ総てよしという言葉があるが、私の引き際はこれでいいのか。

鏡に映る私に目で問いかけても、何も答えてくれやしない。それどころか、目の下にある隈が気になる始末だ。ここ最近は生活リズムを乱していないはずなのに、中々消えてくれない。

今日はきちんと化粧をしていこう。最後の外出になるかもしれないし。

やりたいことを二つ目ができた。メモは取れないが、実行しよう。愛用の鞄から小さなポーチを取り出し、鏡と向き合った。


結局服装なども気になり始め、外出する頃には時刻は十時を過ぎていた。お気に入りの鞄に黒いノートを入れて、茶色いコートを羽織り、磨いた靴を履いて扉を開ける。ヒールがアスファルトにぶつかって軽快な音を立てた。慣れない足取りで玄関先の階段を下りていく。

「さてと」ノートに書いてある目的地を確認する。『案欄』という自宅からは遠いが、贔屓にしてある喫茶店がある。定年を過ぎた老人が趣味でやっているとした喫茶店だ。自宅兼用でやっている店なので外からは分かりにくいが、落ち着いた雰囲気の内装と、水出し珈琲がおいしいお店だ。昼時にはランチサービスがあり、そのメニューの中にあるカレーがまた私のお気に入りであった。家の周辺を散策していた時に見つけ、試し半分といった気持で入った店であったが、今では立派な常連となってしまっていた。

 路地を抜けて、大通りへと出て、そのまま直進していく。人通りはない。それどころかいつもはまばらに走っているはずの車ですら見当たらない。

 沈黙した街に流れるBGMは私のヒールの音だけだ。コツコツコツと規則的なリズムが、響き渡る。なんとまあ、退屈な音楽だろうか、これでは観客も飽き飽きだろう。

 私はリズムを崩し、不規則に音を鳴らす。それに合わせて、歩幅もまた不規則に変わっていく。小刻みに歩いて、速足で鳴らして。飛んで大きく音を響かせ、足を挫き、無様に頭から倒れた。

 変なことをするんじゃなかった。強く打った鼻頭を手で押さえながら後悔する。

涙目になりながら、ゆっくりと立ち上がる。コメディ劇だったら、観客の笑い声でも届いているだろうか。残念なことに何の音も私の耳には届くことはなかった。

 歩き始めて、数十分。大通りから外れ、また民家が立ち並ぶ狭い路地を突き進む。右へ左へ。曲がりくねった道なりを間違えないように、何度もノートにメモした地図を確認し私は足を止めた。

 観葉植物がやけに並べられた店先。手作りの看板には『案欄』と走り書きのような文字が書かれている。私は息を大きく吐いた。

安堵と緊張が入り混じった吐息だ。

ドアノブを掴む手には汗がにじんでいる。心臓の鼓動が少し早足になるのが分かった。

あまりに静かな街には、誰もいないような錯覚さえ覚えさせる。

確認はしていなかったが、そもそも今日この店はやっているのだろうか。ああ、それと。彼は、いるだろうか。

その思いが身を固くさせた。

私は扉を引いた。抵抗はなく、扉は音を立てて開く。来客を知らせる鈴の音がなる。

「いらっしゃいませ」

 低音のかすれた声が私を迎えてくれた。私は顔を上げた。にこやかな笑みを浮かべて、カウンターに立つ老人は私を見ていた。

「よく来たね。こんな日に」

「ええ、ここのカレーが食べたくなって」

「嬉しいね。とりあえず、掛けな」

 言われて、私はカウンター席に腰かけた。店内には客は誰もいない。沈黙をごまかすようにいつもはつけていないテレビの電源が入っていた。私の目線が向けられたのが分かったのか老人は黙って電源を切った。「退屈だったんでね」

コートを脱いで汗ばんだ身体を冷やすために手で仰ぐ。「ほら」と老人がおしぼりをくれる。ひんやりとしていてとても気持ちが良い。

「人、いないだろう」

 首元の汗を拭いていると、老人はそう問いかけてきた。私は首肯し「車すら走ってなくて」と言葉をつづけた。

「終わり方をみんな探しているんだよ」老人はカレンダーに目を向けた。ハサミで切り取ったのだろう来週からの日付はもうなくなっている。「どいつもこいつも、背伸びして、特別な終わり方をしようとしやがる」

 日常でいい。最後の日まで日常でいいのにと老人は言う。

「それで、今日もお店を」

「ああ。まあ、客は嬢ちゃん以外来ることはなさそうだけどな」

 静まり返る店内を見渡して、老人はため息をついた。嬢ちゃんというのは私の呼び名だ。単に常連の中では私だけ若い女だからそう呼んでいるそうだ。一度名前を教えようとしたが、断られた。「俺の名前も知らなくていいし、嬢ちゃんの名前も知らない方がいい」その距離感が一番ちょうどいいと老人は言っていた。どんなに親密になろうとも、老人にとって私は客であり、それを取っ払ってしまうことは客商売をする以上はしてはいけないことだと。彼なりの哲学だ。

「それで、カレーでいいのかい」

「はい。あ、それと珈琲も」

「はいよ。ちょっと待ってな」

 老人はそういうとカウンターの奥にあるキッチンへと引っ込んだ。私は腕を伸ばし、カウンターの横にある本棚から適当に一冊本を手に取った。ここには老人の趣味で集めた本から、客が持ち寄った本が置かれている。そのほとんどが喫茶店にいる時間で読み切れるように短編集ばかりだ。

 紙がすれる音だけが鼓膜を揺らす。目に通される文字列を私は頭の中で復唱していく。

 一人の女性の悲哀を描いた作品だ。同棲していた彼が失踪し、二人で暮らしていた部屋に取り残された彼女は、残された彼氏のモノを毎日一つずつ燃やしていく。そうすることだけが、女性の生きがいになっていく。

 一つ一つモノを手に取るたびに、思い出が浮かび上がり、燃やすことで消えていく。

シングルベッドを捨て、彼の温もりを消して、大切にしていたカメラを捨て、彼の姿を消し、一緒に購入したテレビを捨て、彼の笑い声を消して、携帯を捨て、彼との繋がりをまた消していく。

「そうして彼と出会っていなかった私を取り戻していくのだ」

 ふと漏れた主人公の台詞が、口どけ良く私の中に吸い込まれていく。

「面白いかい。それは」

 怪訝そうな顔で老人が手元の本を見ている。「俺も読んだが、いまいち面白さが分からんな」

「まだ、途中ですが、結構面白いですかね」ページを捲りながら私は答える。

「感性の違いかね。俺にはさっぱりだ。ほらご注文のカレーと、珈琲。あとお冷な」

「ありがとうございます」

 本を横によけて私はカレーの皿を受け取る。持ってみて気づく。今日はいつもより重い気がする。「なんか……」口を開いたところで老人はサービスだと言う。

「食べきれないかもしれないですけど」

「なあに、残してくれても構わない」

 老人は自身のカップにも珈琲を注ぐと、カウンターを離れ、横にある彼専用のロッキングチェアに腰かける。老人はよく、客が少ない時にそうやって休憩することもある。常連になるにつれて知ったことだ。

 いただきますと声に出さず言って、私はスプーンでカレーをすくう。一口含んで喉が鳴る。この店のカレーはとっても甘い。すりおろしたリンゴと蜂蜜をたっぷりと入れていると老人は言っていた。辛いのは好きではないそうだ。たまに客からはもっと辛くしてと言われる事があるそうだが、味見のできないものは出せないと頑なに断ったとか。

ある意味、店の名物であるこのカレーを私はとても気に入っていた。辛いものも好きだが、ここのカレーは懐かしみがあるのだ。幼少の頃、最愛の人と二人で作ったカレーのような、古い記憶を蘇らせてくれる味が。

「少し味が違いますね」

 一口、二口と食べ始めた所で気づいた。ルーが滑らかだと思っていたが、コクが足りないように感じたのだ。

「今日のは寝かせてないからな」

 老人の声が飛んでくる。視線を向けると彼は目を閉じて身をイスに任せ揺れている。

「いつもは二日ほど寝かせて出しているんだが、切らしちまってね。客も来ねえから作る気も起きなくてよ。だからそれは出来たてた。気がつくとは嬢ちゃんはいい舌をしてるな」

「いえ、そんな……」反射的に口に出して、手を左右に振った。

「今日のはどうだ? 上手いかい」

「はい。とっても」

「そりゃ、良かった。なら……」

 そこで老人の言葉は止まった。薄く開いた彼の眼と私の視線が交錯する。

なら、二日後はもっと上手いかもな。そんな言葉の続きがあったのだろうか。

「食べな。冷めちまう」

 老人は語らなかった。視線を外し、再び目を閉じて椅子に揺られる。

 私も何も言わず、黙々とカレーを食べる。八割ほど食べたあたりで、正直おなかいっぱいであったが、無理に口の中へとかき込む。

「ご馳走様でした」

 最後の一口を珈琲で流し込み、私はおなかを撫でた。満腹だ。しばらくは動きたくもない。今後の予定は決めてはいないが、もう少しここにいることにしよう。

「よく食べたな」

 カウンターに戻った老人は少し驚いたように眼を見開いた。

「美味しかったもので」口元を抑えながら私は答える。あまり言葉を吐きすぎると別のモノも出てきそうだ。

「嬉しいことを言ってくれるね」

 老人はお皿を下げて、珈琲のおかわりを用意してくれた。これもサービスだと老人は笑って珈琲を注ぐ。 

「これから、予定でもあるのかい?」

 老人の問いに私は首を振った。一応、黒いノートを取り出し、確認するが何も書かれていない。

次はどうしようか。こめかみを叩き、考える。左右に視線を動かしながら、私はそれを見つけた。そうだ。これでいいだろう。私はノートに挟んでおいたペンを走らせた。そして、それを老人に見せる。

『この本を読み終えます』

 横に置いてあった本を軽く叩く。

「そうかい。……ゆっくりしていってくれ」

 そう言い残して老人は、再びロッキングチェアへと向かった。邪魔をしないようにとの彼なりの配慮だろうか。

「何かあったら、声をかけてくれ」

 飛んできた声に返事をして、私は本に触れる。装丁が剥がれかかった古い本は、なんだかよく手になじむ。最近は電子書籍なんてものもあると聞いた。書籍をデータ化し、印刷や製本、流通のコスト削減や、省スペースを図ったものだと。手元に情報端末があれば、手軽にどんな時も読むことができるというのは確かに魅力的だが、私には、この乾いたページを捲る感触が何よりも読書における魅力なのだと思う。捲る先に物語が続いていて、少しずつ減っていくページに切なさを覚えて、最後のページを捲り読み終えたとき、ざらつく用紙の感触から余韻が広がっていく。ただの文字列が暖かく温もりを持ち、脳内に溶けていくような感覚が、話に聞く電子書籍では味わえない気がするのだ。……なんて、情報端末を持たぬ私の言い訳だろう。

 私は本を開いて、意識を溶かしていく。

 何も持たなかった。情報端末は何故だか持つ気にはなれなかったのだ。不便だよとよく言われた。それどころか、持っていない事を驚かれることもしばしあった。話題についていけないことはもちろん、知らないといけなければならないことも知れなくなると。常に変化していく世界では情報は己を守るため武器だ。それを捨てる行為は愚かだとしか言えない行為であることも、十分理解はしているつもりだった。「なら、どうして?」と問われ続け、「知らなくていいことを知ってしまいそうだから」と絞り出した言い訳は誰にも言わなかった。

 すべて捨てたはずであったのだ。温もりも、姿も、笑い声も、繋がりも。消して、何も知らない自分を取り戻したはずだったのだ。なのに、私はいつも探してしまう。

 彼が好きなのどかな田舎町で、彼が好きな落ち着いた雰囲気の喫茶店で、彼が好きだった甘いカレーを食べて。彼の姿を探してしまっている。

 情報化社会だ。調べようと思えば、いくらでも道はあるのだろう。心の中にへばりつく感情に支配されないためにも、自身を隔離するべきだと判断して、捨てた日から、新たに情報端末を持とうとはしなかった。それが、自分にとって贖罪であるような気もしていた。だって、裏切り者は自分自身であったから。理由も、策略もない。一時の感情に身を任せたあまり、自身が引き起こした、つまらない出来事の顛末だ。

失って、ようやく気付くのだ。

 こぼれ出る台詞は、誰に聞かせるでもなく、壁に消えればいい。溶けて、吸い込まれて誰の心も揺らさなくていいから。

 だからもう少しだけ、吐き出させてほしい。

「ごめんね」

そして、さようなら。その言葉だけは、声にならないまま、痛みが走る。頭と胸元に。

耐えきれないと訴える様に滴が手元を濡らす。

胸元を抑えたまま、私は本を閉じた。視界が朧気だ。歪む世界の中、手探りで鞄の中を探り、ハンカチを取り出す。何度か目元を拭うとようやく視界が元に戻る。瞬きを繰り返して、私は息を吐いた。

頭と胸元がやけに痛い。いや、苦しい。『彼』との思い出が消えないからだろうか。ああ、きっとそうだ。

「大丈夫かい」

 かすれた声が届き、私はびくりと肩を震わせた。顔を上げると。老人と目があった。心配の色が滲む瞳に、熱を帯びていた思考が急速に冷めていく。胸元の痛みなんて嘘みたいに消えてしまった。

「大丈夫です。すみません」

 怪訝そうに老人は眉を下ろしたが口を開かない。おそらく彼にも何が起きたのかわからないのだろう。

 誤魔化すように、手を付けずにいた二杯目の珈琲を飲む。液体が喉を通り、おなかへと流れていく感触で気が付く。あれほど感じていた満腹感が消えている。不思議に思って店にある時計に視線を移すと、時刻は三時半を差していた。カレーを食べ終えたのが十二時を回ってないくらいの時刻であったから、四時間近くも経っている。

「私、ずっとボーとしていたみたいですね」

「心配になるくらいにな。まあ、俺も寝ちまって今起きたばっかりなんだけれど」

 それでも老人が目を覚ましてから三十分ほどは呆然としていたらしい。それで心配になって声をかけたというのだ。

私は何をしていたのだろうか。目元をもう一度拭って思考回路を回す。意識が混濁しているが、少しずつ状況が理解していく。

「私、自分が思ったよりも感情豊かだったみたいです」

 結論を導き出して、私は笑みを浮かべて見せた。

 どうやら、読んでいた本に、正確にはこの本の主人公に、大分感情移入をしていたようだ。作品の登場人物である『彼』の事を思って心を痛めるほどに。

「そんなにか」

 呆れた表情で老人は私を見た。彼の眼には鼻をすすりながら笑っている私の顔が映っていることだろう。

「……まあ、良いことなんだろう。その本面白かったって事だろ」

「ええ、とても面白かったです」

「良かったら、貰っていきな。その本も嬉しいだろうし」

 少し迷って、私は「じゃあそうさせてもらいます」と口を開く。老人も満足そうに頷いてくれた。本を鞄に入れる。

その時気が抜けたのか大きなあくびが出た。途端、強烈な眠気に襲われる。胸の痛みはないが酷使した疲れか頭痛だけは引いてくれないし。「そろそろ帰りますね」そう言って私は立ち上がり、コートを羽織る。

「気を付けてな」

「はい、ご馳走様でした。これお会計です」

「いいよ。こんなものは」

「駄目ですよ。そう言っちゃ」突っぱねようとする老人に私は無理やりお金を握らせる。頑な抵抗を見せる老人も「私はまた客としてきたいんです」と口に出したところで動きを止めた。

「このカレーとっても美味しかったです。二日置いて熟成させたらもっと美味しいんだなと思えるくらい。だから、私絶対にそれを食べに来ますから」

 自分で言って、私は覚悟を決めたように、黒いノートを取り出して、走り字で書き込み、老人に見せた。

『絶対、案欄にカレー食べに行く』

「そいつは……」言葉が出てこないのか、老人は口を開けたまま言葉を発しない。

 来ますから。念を押すように私はもう一度囁く。

「嬉しいね」老人は笑みを浮かべた。来た時と同じ、にこやかな笑みだ。「それじゃあ、こいつは受け取らないとね」

 また来なと彼は言葉を紡いだ。私は首肯し、店を出た。

 数時間ぶりの外は、変わらぬ沈黙した街だ。車もなくて人もいない。皆、どこかで終わり方を探しているのか。日は傾き始め、あと数時間もしないうちに空はどっぷりと黒く塗り潰されるだろう。

「今日は、もう帰ろう」

 自然と声が出た。まだ何かやれることはあるかもしれないが、今日の予定は終わったのだ。もういいだろう。あくびをして私は自宅へと向けて歩き始めた。

 日曜日。

 さえずる鳥の声で、私は目を覚ました。身を起こして、顔を顰める。服装が前日の格好のままだった。昨日帰宅してそのまま眠ってしまったようだ。皺くちゃになったシャツを脱いで、部屋着へと着替える。いつものように顔を洗い、書斎に入る。乱雑に放ってあった鞄から入れっぱなしだった黒のノートを取り出した。

 今日の予定も確か、メモしておいたはずだ。朧気に残る昨日の記憶を頼りにノートを開く。そこには眠かったのかミミズ文字で何やら書かれている。一文字ずつ読み取っていく。

『掃除をしよう』

 そうだった。洗濯物も随分溜まっているし、部屋も埃っぽい。最後に掃除をしたのはいつだっけか。記憶を辿るが、思い出せない。

 まあいいと私はノートを机の上へと置いて、部屋を出た。洗濯機の電源を入れ、リビングへ向かう。昨晩は何も食べずに寝た為か腹の虫が泣き止まないのだ。二本ほど買っておいたバナナを見つけ、それを食べた。

 ついでだ。まずはリビングから掃除を始めよう。まだけだるい身体を引きずって、モノの整理を始めていく。一番物が少ない部屋だ。数十分も経たずに終わり、一か所に纏めておくと今度は掃除機をかけていく。色あせたカーペットの上は、粘着性のカーペットクリーナーで念入りに。後は使わなくなったタオルを雑巾代わりに床を拭く。

 そこで洗濯が終わったことを知らせる音が鳴り、私は作業を辞め、洗濯物を取るとバルコニーへと出た。バルコニーはリビングに隣接されている。

 今日も天気は良好だ。昨日よりは雲はあるが、お日様は元気にその身を輝かせている。この調子なら、夕方になれば乾くだろう。間に合いそうだ。

 干し終えると、私はキッチンへの掃除を開始する。自炊はあまりする方ではないが、たまにの料理で大分汚れていたようだ。油汚れに苦戦しながらも、確実に落としていく。特に長らく掃除していなかった換気扇の中は酷いものであった。顔が引きつるが、放置していたのは私だ。観念して洗う。これには時間がかかった。

 始まった掃除は、年末の大掃除のように、細かい所まで行われていく。照明のカバーや、エアコンフィルター、カーテンレールの上部分も、普段はしないようなところまで。

 おかげで、簡単に一日は潰れ、清掃を終える頃にはもう日が暮れつつあった。私は冷たくなる前に洗濯物を取り込んで畳む。

 呼び鈴が鳴ったのはそんな時間だ。誰だろうと推測するが、答えは浮かばない。不気味であったが、私は特に警戒もせず、玄関の扉を開けた。

「やあ、こんばんは」

「ああ、貴方でしたか」

 その姿を見て、数時間ぶりに私は声を出した。変わらずの黒いスーツを着込んだ男性は、私がよく知る人物だった。

 彼は、私に世界の終末を教えてくれた人だ。老人と同じで、名前を聞くことはなかったが、それを差し引いても私の交友関係で最も信頼している人であった。

 彼は自身の事を学者だと名乗った。私にはまだ年若い青年にしか見えないが、私よりもずっと長生きだ。落ち着いた物腰なのはそのためなのか。彼はしゃべり口調は役者の語りのように心地よく入ってくる。

「どうしたんですか。こんな日に」

 訪ね人は、笑顔を崩すことなく話始めた。

「うん。実はね、少し問題が起きたみたいでね」

「問題? ですか」

「まあ、プログラムの齟齬みたいな話さ。上がらせてもらっても良いかな」

 ええどうぞ。私は彼を家へと上げ、リビングへと通した。彼をイスに座らせ、お茶を置く。「ごめんなさい。何もない家で」対面に私も座った。

「いやお構いなく」彼は一口お茶を含んで喉を鳴らした。「それで、どうでした。この生活」

「不便なことはありましたけど、それなりに」

「それは良かった。でも実際、テレビとかないと退屈しませんでした?」

 彼はリビングのやけに開けた空間に目をやった。テレビを置くにはちょうどいいくらいのスペースが何故か開いている。

「そうですね。たまに話についていけないことがありましけれど、退屈は本が埋めてくれましたから」

 問題はなかったですかねと続けた。彼は頷き、何やらメモを走らせた。

「それじゃあ、本題なんだけど。いいかな」

 彼は立ち上がると、私の頭へと手を当てた。私は抵抗することなく身を任せる。

「ごめんね。ちょっとメモリーを見せてもらうよ。大丈夫、変なところは見ないから」

「はい、お願いします」

 私は目を閉じる。額が熱を帯びていく。機械音と彼の驚きの声が耳に届いた。

「そうか、前回の記憶と接触したんだね。それで意識混濁を起こしたみたいだね。でも元に戻っているから」

 手の感触が消える。私は目を開けて、彼の姿を見た。彼の髪色と同じ色の瞳は、優し気に揺れている。

「何やら面白い本を読んだみたいだね」

 昨日の記憶が蘇る。一人の女性の悲哀を描いた作品の事だ。直観的にそう思えた。

「感情移入しちゃいました。なんだか重なることが多かったので」

 読み取ったのなら、私の行動も知ったのだろう。照れくさくて私は顔を下げた。

「……うん。でもあまり重ねちゃだめだよ。あくまで貴女は貴女だからね」

「ええ」

 私は短く答えた。かかっていた靄が晴れたようにスッキリとした気持ちになる。

「問題は確認したし、特に支障はないよ。邪魔をしたね。もうじきアップデートが来るから」

 その言葉に時計を見た。十九時をもう過ぎている。あと四時間後にはもう私はいないのだ。焦燥感が胸から溢れ出した。

「あの」

 立ち去ろうとする彼に、声をかける。「私のデータを本の形で保存してくれませんか」

 振り向いた彼は眉を上げた。「不安にならなくても、きちんと貴女はデータバングに自動的に保存されるはずだけれど」

「ダメなんです」

 私も、あの作品のように誰かの心を動かすものになりたいのだ。

本という形になれば、きっとどこかに流れてくる。誰とも知らぬ誰かが私の記憶を見て、何かしらの感情を抱いてくれる。

願望は、奇麗な言葉で飾れないまま、彼にぶつけられた。

「不安因子は、確実になくしたいんだけどね。君らの願望を叶えるのも僕の仕事の一つだから……」

 一呼吸入れて、「分かった。約束しよう」と言葉が紡がれる。

「ありがとうございます」

 私は大きく頭を下げた。

「うん。それじゃあ」

 玄関口で彼は私を見た。背広姿の彼の姿に、どこか過去に見たような既視感に襲われる。心臓の鐘の音が速くなる。

「はい。……さようなら」

 誰かに言えなかった言葉は、今少し震えて声になってくれた。


 記憶は五年しか持たない。それが、彼らのメモリー容量の限界だった。

無理もない話だ。何せ彼らの記憶は映像で保存されているのだ。見たままの景色をそのまま保存して生きていくのだから、いつかは容量限界が来るのも当たり前だろう。むしろ、人の脳と同じ形の記憶媒体で、五年も保存できることを褒めてもいいほどだ。

本来は、もっと持つはずだと言われているが、個体差があるのだ。一日中家にいて代り映えしない日々を送る個体もいれば、各地を飛び回り、様々な情報を保存する個体もいる。そうなると必然的に、情報をたくさん保存する個体に全体のラインを合わせなくてはならない。五年という年月はそれを踏まえて導かれた期間だ。

彼らは五年経つとメモリーを消去され、また新たな人生を歩み始める。無論、今までの事を一切忘れるのだから、手助けが必要となってくる。生きていくうえでのサポートをして、問題があればそれを上へと報告する。それが、学者の仕事であった。

記憶の更新が行われる週末に、一個体の意識の混濁が見られたとの報告が上がったときには驚いたが、自己のデバックが正常に行われていたようで、学者は安堵の息をついた。

彼らはとても高価だ。一体破損でもしたら数十億の損失になる。一つの小さな街とは言え、管轄をまかれている以上、問題事は起こってほしくはない。

それに彼らが残す記憶は金になるのだ。他人の人生を味わえるのだから、それなりの値で取引される。

彼らは、実験材料で、商売道具だ。

その考えを忘れてはいけないと学者は常々思う。彼らと接する機会が増えていくにつれ、まるで彼らが人間のような錯覚に陥ってしまう。五年ごとに終末を迎える彼らの為に何かしてやりたいと心が動きそうになる。

だが、と学者は首を強く振った。前回、一人の女性の願いを聞いて今回みたいなことが起きたのだ。これ以上の甘さは大きな問題へと発展してしまうだろう。

拳に力が入るのが分かった。やり場のない怒りが身体を巡って、学者熱くさせる。

もう冷たくなってきた風が、学者の身体を撫でていく。

「さようなら」

 終末の週末を迎える彼らに向かって言葉を吐いてみる。

 叫びに近い学者の声は、沈黙した街に響くこともなく消えていった。

                     了



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ