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夕刻、白妙に染まる。

作者: 枕度膝斗

 最寄りから一つ離れた駅で下り、自宅への帰路を歩く。

 週に一回、金曜日だけの習慣だが俺はこの時間が好きだ。夕に染まる空を眺めつつ、軽快なロックサウンドを聞きながら淡青色のスニーカーを動かす。

 この習慣を始めてから、人生に活気が出てきたように思う。

 イヤホンや靴を選ぶのが楽しくなったし、毎週末CDショップに通うようにもなった。良い装備を身につけて歩くと、体の内側から活力が沸いてくるのを感じる。

 だから俺は、この時間が好きだ。



 家まであと二〇分ほどというころ。ふと、少し違う道から帰ってみようと思い立った。特に何があったわけではない。ほんの好奇心だ。日常の僅かな変化がエキサイトな刺激を与えてくれるかもしれないと期待して。


 住宅街の細い裏路地を歩く。


「……何もないな」


 路地を十分ほど進んだが、電柱が無造作に並んでいるだけで、他にこれといったものはなかった。

 期待はずれか、と溜息をついたその時、電線にとまる一羽のハトと目が合った。

 茜空に照らされた灰色の羽毛と、深紅の瞳が彼の「赤」という印象を強烈に彩っている。

『赤いハト』だと見紛うほどだった。


 一説によると、鳥類は便を我慢できないらしい。枝に止まっていても、餌にあり付いていても、溜まれば大便小便を垂れ流す。

 しかし、特筆すべきは"飛び立つ瞬間"だ。羽を広げ、飛び立とうと力んでしまえばそのままブリッとミサイルを射出してしまう。力んでついミサイルを発射してしまうという意味では北の国と同レベルの存在とも言えるが、相手は理性のない獣だ。『愚かな味方より、賢い敵の方がよっぽどマシだ』なんて言葉を聞いたことがあるが、まさにその通りだと思う。

 ハトはアメリカからの報復も恐れていないし、経済制裁の「け」の字すら頭にない。


 ――故に、誰にでも牙をむく。



『赤いハト』は今もこちらを見つめている。

 おそらく、俺が今この電線の下を通ろうとすれば、人への警戒心が強いハトは飛び去ろうとするだろう。

 さすれば、その勢いのままニュルンベルクっとフンを投下されるのは目に見えている。死んだふりをしたセミが急に暴れだすかのごとく驚異的な瞬発力で、だ。人間の反射神経で対処することは不可能と言ってもいい。


 しかし、この細い路地では彼の真下を避けて進むことは不可能だし、今さら来た道を引き返すのも気が引ける。


「……やるしかないか」


『赤いハト』は今こちらを向いている。ということは彼が飛び立つとすれば俺から見て手前側であることは間違いない。飛び始めてからフンが完全に肛門を抜けるまでには僅かながらのタイムラグがあるはずだ。手前側に飛んでくるハトに加速されたウンコはどちらに飛んでくるか。――無論、手前側である。

 つまりこの場合、電線の下を走り抜けるのが最善である。手前側の速度を受けて落下するウンコは、真下に落下するウンコに比べれば、落下地点も少し手前側にくるので、走り抜ける余裕が生まれる。


 毎週、長い帰路を歩き続けていた脚だ。自信はある。念入りに準備運動を行う。心臓が高鳴るのを感じる。

 加速するために、電線から二〇メートルほど離れて、クラウチングスタートの体制をとる。


「ふう。――よし、行くぞッ!」


 地面を勢いよく蹴りだした。一歩、また一歩と、コンクリートを踏みしめるたびに速度を増す。風を切る音が一層うるさくなった。

 そして、電線到達まであと二メートルのところで、俺は最高速に達した。


「いける!」


 ふと、ハトの方に目をやる。「俺の勝ちだ」と、言外にそう伝えてやった。すると彼は、深紅の瞳をふいとそっぽへ向けた。……それで勝負は決したようなものだった。


 ――戦いから目を逸らした者に、勝ち目はない。


 俺はついに、電線の下を通り抜けることに成功した。脚を止め、後ろを振り返ってみると『赤いハト』はようやく羽を広げ、飛び立とうとしているところだった。あまりの愚かさに彼を嘲笑する。


「フハハハ、余裕だったな! 今更爆弾を落としても、そこに俺はいないぞ?」


 でも少しは楽しめたぞと、そう続けるつもりだった。しかし、あまりの光景に、俺は二の句を継ぐことができなかった。

『赤いハト』は電線から飛び立ちながら、彼の"後方"、つまり俺に向かって白いモノを飛ばして見せたのだ。

 ――それをフンだと認識するのに、幾分か時間を要した。


「……なん…………だと?」


 ありえない。前に加速するハトから落ちるフンが、後ろに飛んでくるはずがない。それは自然の摂理に反している。となると……。


「まさか、肛門が真下ではなく、後ろ向きに付いていたとでもいうのか!」


 そうか、仮定から間違っていたのか。砲台が前に動いていようと、発射口が後ろを向いていればミサイルは後ろへ飛んでいく。そんな当たり前のことを見逃していた。


「俺の……負けか」


 今、動き始めたところでこのフンを避けることはできない。いや、仮にできたとしてもしなかっただろう。負けを受け入れようとしないのは、勝負師にとって最も恥ずべき行為だ。


 ベチャリと、水気の多い白い塊を俺は顔中に受けた。粘着質で匂いもきつかったのは間違いないが不思議と嫌悪感は沸いてこなかった。


 夕暮れに飛び立った真っ赤な一羽の鳥類を見上げる。


 能ある鷹は爪を隠すらしいが、能ある鳩は肛門を隠すらしい。どちらも等しく素晴らしいものであることは間違いない。そう、知った。


 すでに米粒ほどの大きさになった赤い彼に、心の中で最大限の賛辞を贈る。


 顔は白く汚れてしまったが、心は夕に澄み渡っていた。

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