二、
一刻は過ぎただろうか、土御門大路を内裏から邸へ向かう一人の男がぼんやりと浮かぶ。
白の狩衣を纏い、無防備にも深夜の都を一人で歩いていた。
この時の都は、夜にもなれば魑魅魍魎が現れ人を食らうと言われており、このような時間には人一人として外には出ていない。
それを知ってか知らずか、はたまた忘れてか。
己は例外だと自負しているのか、男は気にせずに酒の入った瓢箪を下げて悠々と歩く。
「ほう、私の邸の前で行き倒れとは、なんとも暢気な・・・。」
その男は女を見下ろしながら言葉を漏らす。
しかし、その女から流れ出す赤を見つけ、先ほどの言葉は覆される。
ただごとではない。
「女にこのような傷を負わせるとは、よほどのことでもない限り許せぬことだな。いや、しかし・・・これも何かの縁だろうか。私の邸の前で倒れるとは運のいいやつよ、仕方ない。」
男は倒れている女の横を通り過ぎ門の中へと入る、そして中に居るであろう者に告げる。
「常盤、朽葉、主が帰ったぞ。それと、この門前に倒れている者を私の部屋へ運んでおけ。至急だ、わかったな。」
「お帰りなさいませ、主様。」
「清明おかえり、ってその門前に倒れている女何?」
「いいから中へ入れておけと言っただろうが。それと、常盤は女を中に運び込んだら結界を強化して置け、その女なにやら変なものを付けているようだからな。」
「承知した。」
「了解。」
常盤、朽葉と呼ばれた二人の青年は、清明と呼んだ男の指示に従い女を邸の中へと運び込んだ。
そして、常盤は清明の言いつけどおり結界の強化を施し、何人たりとも通さぬように開け放たれた門を静かに閉じた。
時を同じくして、朽葉の手により清明の部屋へと運ばれた女の身体からは、止まることなく今もなお赤が滴り落ち、板の廊下に赤い斑点の軌跡が残る。
「この女、死んでいるの?」
朽葉は女を床に横たえてから、その顔を覗き込むようにして清明に尋ねた。
しかし、清明はその言葉に回答はせず、おもむろに文机に向かい硯を取り出し、墨を磨り始めた。
しばらくの間、心地よい墨の磨れる音が真夜中の部屋に響き渡る。
朽葉は瞼を閉じて聞き入っていた。
ふと音が消えると清明の動きに合わせて軋む床板の音が耳に入り、自然と朽葉の瞼も上がった。
硯を持ち、筆を執った清明は女を横たえた周辺の床板に躊躇なく筆を躍らせていく。
床板には文字のような模様のような陣が描かれていく。
そして、完成した陣を消さすまいと清明は朽葉の首根っこを掴み上げて、そのまま部屋を出て廊下で下ろした。
「いいか、朝になるまで部屋には入るな。術の邪魔になるだけだ。」
少し厳しく言い放てば朽葉は素直に一度頷き、その場に腰を下ろす。
それを見た清明は部屋の御簾を下ろして術に入る。
御簾越しに朽葉が中を覗こうとすると、その後ろから足音が聞こえてくる。
「朽葉、もう寝よう。主様の邪魔をしたら後が怖いよ。」
「うぅ・・・そうだな常盤、清明は何も言わないけど、術を施すって言うことはあの人も死んでないみたいだし、明日になれば元気になるさ。」
「主様が看ています、大丈夫。」
そして二人は清明の部屋を後にした。
その頃、清明は完成した陣を駆使し、術を発動し傷の回復を促していた。
妖術、奇術かわからないが、見る見るうちに傷口は塞がり、傷に残されていた回復を妨げる呪も浄化された。
しかし、女の傷深くに執拗なまでに幾重にも施された呪を見つけた清明は頭を抱えて苦笑してしまった。
「子供だまし程度の呪をこうも容易く…解呪できんではないか。」
清明の見つけた呪は、ただ単純に目標を追うだけの単純な呪である。
元来、妖討伐の際に討ちもらした場合に再度捜索から行わなければならないという手間を省くという目的で考えられた呪なので対象が明白になっている。
すなわち、難しい操作は必要なく、対象に直接仕掛けるという簡易的なつくりなのだ。
つまり、お互いが対峙しなければ行使できない呪である。
そのような呪を簡単に受けてしまうほどの女には清明の眼には見えない。
この女はただの女ではない、見立てが正しければ拒否することが可能なほどの妖力を持っている。
「なんとも無様なものだ、妖力を行使する間も与えられんとは。」
解呪できないと判断した清明は、ため息とともに術を終え、女の様子を見渡す。
傷口は塞がったものの、受けた痛みと疲労は消えない。
そして、多くの血を失ったことにより彼女の身体は冷たくなり、汗も止め処なく流れている。
苦悶する表情は見るに耐える。
「私はこういった事に疎いのだが、仕方あるまい。少し待てるな。」
清明は静かに立ち上がり、御簾を上げて部屋を後にする。
しばらくした後に、手に水の張った桶と布、赤の単を持って帰ってきた。
体温の低下を食い止めねばと、床に転がしたままの女の身体を起こし、血と汗に濡れた水干、単を丁寧に脱がした。
透き通るように白い女の肌が露になり、赤く汚れた部分を綺麗に優しく拭い、乱れた髪を櫛で梳かし纏め上げ、まるで何事もなかったかのように赤の単を纏わせ褥に横たえる。
「これは、こいつが起きた時に怒鳴られるやもしれんな。」
そんな懸念を抱きながらも、苦悶し歪む女の額に汗が滲めばそれを拭う。
清明は女の顔を覗き込んでは様子を伺い、これ以上自分にできることがないことを恨めしく思っては眉間によった皺はとれなかった。
状況が悪いのは見て取れるだけでも良く分かる、傷は塞がっても血は増やせない。
失った血の量を考えれば知る限りでも限界に近い状況だった、そしてそれよりも前から怪我をしているなら、なおのことに状況は悪い、女は必死に生きようとしている。
「頼むからくたばってくれるなよ・・・。」
――静かな部屋に声が消えた。