ゾンビ56
それはどちらも地獄だった。
自分とて獣だ。森の生物を生きたまま引き裂き喰らったこともある。逃げる何かを喰らい尽くしたこともある。しかし、それは己が絶対強者だからであって、狩られる立場になったことはない。だからこそ、今は肝が冷えるほどの恐怖を感じているし、歯の奥が音を鳴らしている。
そして、思い知っている。
殺される覚悟が無いのに殺していたのだ。逆の立場になって初めてわかる。
あの時は本当に腹が減っていたのか? あの時蹂躙する必要があったのか?
絶対強者の立場をなくして初めて考える。
でも、すでに手遅れなのだ。
後悔は先に立たないし後にも立たない。
獣は初めて思う。
『死にたくない』
と。
しかし、それは自然なことなのだ。獣は生命を脅かされることなどなかったのだ。そして、世界が変った後も王者として君臨していたのだ。にも拘らず獣の認識が変ることもないだろう。単純に運がなかっただけなのだ。
だから、目の前の理不尽な存在が言葉の通り理不尽として認識してしまう。
だが、目の前の死神の行動は変らないだろう。ならば、森の王として無様な姿を晒すわけには行かない。だからこそ、顔を両手で覆うようなことはせず、頭をたれて成すがままに任せようと………
『死にたくない?』
そんな言葉が獣の脳裏を叩く。
『なんだ? 熊の言葉が俺に聞こえたのか?』
その声は間違いなく獣に届いていた。だからこそ、下げていた頭を上げて視線を目の前の人間に合わせたのだ。
『おい、お前、俺の声が聞こえているのか?』
獣は頷く。
『お前は喋れるのか?』
言葉と言う概念が無い獣は、喋れないが己の意思を思い浮かべることはできる。だから、
『私はあなたの言葉が聞こえています』
それは言葉になっていた。同時に獣の脳に負荷がかかった。それは、使ったことのない器官に大量の情報を流したことによる痛みであったが、獣にそれを知る術はない。
『そうか。なら、お前の選択を聞かせてくれ』
『死にたくありません』
『お前が俺を殺そうとしたのにか?』
獣は緊張する。それは紛れもない事実だ。変えようのない事実だ。お互いに殺しあったとしても手を出したのは己の方だ。
だけど、
『まあいいや』
『え?』
彼がなにを言っているのか意味がわからなかった。




