恋模様 1
今や、夏を盛りのクロスロード、通りに並ぶケヤキの街路樹には、蝉が朝から雨を降らせ、御用猫の安眠を妨害する。
これはたまらぬ、と、御用猫は暑苦しいベッドから身を起こし、黒い革製の戦闘服に袖を通す。この、耐熱の呪いが施された逸品は、季節に関わらず、快適な肌温度を保ってくれるのだ。
大きく、伸び、をする男こそは御用猫。
中肉中背、黒髪黒目、年の頃は二十代半ばで、顔面を斜断する大きな向こう傷以外には、これといった特徴の無い、賞金稼ぎを生業とする男。
眠い目をこすりながら、寝ぐらであるマルティエの亭、の階段を降りる。
時刻は、午前の十時程か。
オランから帰ってこの方、御用猫は、ごろごろ、と、毎日を無為に過ごしていた。
暑さの所為もあろうが、このところ、どうにも。
(どうにも、いかんな、やる気が出ない)
鬱屈とした仕事が続いた為か、御用猫の気分は沈んでいた。
旨い飯も、良い女も、今は遠慮したい気分なのだ。
それでも野良猫の浅ましさ、腹が減るのは変わらない。
何か腹に入れたら、川べりにでも涼みに行こうと、彼はそう考える。
「久しぶりだな」
ふいに、投げかけられる、風に揺れた硝子風鈴の様に、澄んだ声。
「辛島ジュート、殿」
だが、その声には、ありありと、不機嫌さが滲み出るようだ。
声の主は、リリィアドーネ グラムハスル。
今、クロスロードで最も有名な女騎士の一人である。
若干十八歳にして、テンプル騎士、王女付きの近衛騎士団に所属。
「剣姫」アルタソマイダスに次ぐ剣力の持ち主と言われ、しかし、美しさならば五分と五分、と市井でも評判の美剣士である。
栗色のミディアムショートの髪は、絹糸のような滑らかさ、薄い碧の瞳は天界の泉もかくやと透き通り、白磁のように艶やかな肌は、国中の陶芸家も、自らの才能を疑う程に、完成されていた。
やや、目つきが険しいのが難点とは言われていたが、最近では随分柔らかくなったと、何かあったのではと、話題になる事しきりである。
彼女は何時もの格好で、白を基調とした防刃ジャケットに、ミニスカート、黒いタイツ、その上から、深緑のローブで、すっぽりと身を包んでいたが、暑そうにしていないところを見るに、あのローブにも、空調の呪いが、かけられているのだろう。
「やめてください、何ですか、その射殺す様な視線は」
御用猫は足を止める、元々、短気な女ではあったが、これ程の鋭い目は、最初に出会った頃を思い出す。
「……オランでの長逗留、楽しかったのか? 楽しかったのであろうな、何の便りも寄こさずに、私を放置し、戻ってきたのに挨拶も無いとは」
ぷるぷる、と震えるリリィアドーネは、瞬く間に涙目になってゆく。
(あ、いかんな、いかん)
御用猫は、足早に、リリィアドーネに歩み寄ると、その意外に細い肩をかき抱く。
びくん、と身体を強張らせた彼女であったが、両手を縮め、御用猫の胸に顔を埋めた。
「リリィ、聞いてくれ、まぁ、無沙汰は無事の便り、ではないが、お前に心配を掛けたくは無かったのだ、こんな商売ではあるし、今回の仕事も楽では無かった、リリィに手紙でも出せば、オランまで飛んで来かねないだろう? 」
御用猫は、まるで手掛かりの無い、指が滑るような彼女の髪を、優しく撫で付ける。
「クロスロードに帰って来た報らせもな、リリィの仕事のな、邪魔になってはと、その、遠慮してしまったのだ……すまなかった、許してくれ」
御用猫は、リリィアドーネの反応を、息を飲んで伺った。
これは生死に関わる問題だ、全力は尽くした、後は天命を待つのみなのだ。
「……ふ、不安だったぞ」
ぽつり、とリリィアドーネが零す。
「心配を掛けられるのも、勤めを妨げられるのも構わない、ただ、何も知らないのは……不安なのだ、怖いのだ」
服の裾を、きゅっ、と絞り、擦り付ける様に頭を振る。
「お前が、何処かに行ってしまうのでは無いかと、私の様な、粗野でがさつな女の事は、嫌いになってしまったのでは無いかと、不安になって……ぐぅ、ぎゅぅ」
自分で言っておきながら、段々と嫌な想像が膨らんでしまったのだろうか。リリィアドーネの喉から、湿った音が漏れ聞こえ始めた。
「悪かった、次からは必ず何がしかの連絡を入れる、約束だ」
御用猫は、リリィアドーネの身体を離すと、人差し指の背で、目の下を拭ってやる。しばし、御用猫を見つめる彼女は、がば、と抱き着き、うんうん、と何度も頷いた。
「しかし、もう少し信用してくれても良いだろうに、俺が可愛いリリィを置いて、何処かに行く訳無いだろう? 」
「うん……ごめんなさい、でも、なんだろ、こうしてたら、なんだか、すごく、落ち着いてきちゃった」
現金なやつだ、と笑いながら、御用猫は、リリィアドーネの髪に口付ける。
(よし、助かった、後は飯を食わせれば何とかなる)
こっそりと拳を握り、マルティエに声をかけようと、厨房に顔を向ける。まだ時間も早く、客のいない店内には、マルティエと従業員の母娘。その三人が三人共、御用猫に冷えた視線を送っていたのだ。
ぐっ、と、一瞬たじろぐ御用猫であったが。
これは、命を懸けた勝負なのだ、一対一の真剣勝負だ。
例え手段が卑しかろうと、勝てば良いのだ。
そう、必死に目で訴えたのだが。
どうやら、しばらく料理の質は、期待出来そうに無かった。




