外剣 飛水鳥 4
いのやの階段を上った先、店の二階には遊女達の個室が並んでいる、十帖程の畳部屋を襖で仕切り、手前の六帖が客用座敷、奥の四帖が私部屋となっていた。雰囲気を出すためであろうか灯りは抑え目であるのだが、香を焚いたり花を生けたりといった、その他の飾りつけに関しては個人の裁量に任されている。
ちなみに、一階は遊女達との顔見せや宴会用に大座敷と、土間を挟んで厨房と共用の浴場、その他女中達の生活空間となっている、いのやを訪れた遊客は一階で好みの遊女を口説き、財布の中身と相談しながら今宵の春に段取りをつけるのだ。
しかし今、御用猫は独りで二階へ上がってゆく、廊下の突き当たりには少しだけ広めの角部屋があるのだが、ここは本来ならば大女将である、いのの部屋である、そこへ辿り着くと御用猫は、なにやら恐る恐るといった様子でそっと襖をずらし、中の様子を伺うのだ。他の部屋よりも更に光量を落とし、小さな雪洞の中で生き物の様に揺らめく灯りは、配膳の済んだ夕餉の横に、こじんまりと座る人影を浮かび上がらせていた。
「……元気にしてたか、カンナ」
囁くように呼びかけてみると、僅かな間を空けてから、影は少し頷く。
その人物は、柔らかそうな小袖を着回したマキヤ達とは違い、薄い赤色を基調とした振袖を、きちっと着付けている。年の頃は十七、八といったところ、瘦せぎすな肢体に病的な肌の白さ、真黒な髪は座っていると床に溜まる程の長さであり、前髪も長く垂らしているために、俯き加減な姿勢と相まって表情は殆ど伺えないのだ、毎度のことで見慣れたはずの御用猫ですら、彼女を視界に入れるたび。
(……ちゃんと、生きてるよな? )
と、疑いをもつほどに、生気のない佇まいをしているのだ。
御用猫が膳の前に着座し、片手をついてカンナの顔を下から覗き込むと、暗がりの中でも分かるほど頬に紅をさしながら、少女は桜色の薄いくちびるを開いた。
「……また、先生にお逢いでき、カンナは嬉しゅうございます」
どうやら、後回しにしかけた事を怒ってはいないようだ、そういえばカンナは御用猫の右側に陣取っている、これはおそらく無意識であろうが、相手に心を許している場合の、彼女の合図のようなものだったのだ、御用猫は心の中で胸を撫で下ろし、くい、と盃を持ち上げる。
しとやかな手付きでカンナは赤い銚子を盃に傾け、とくとくと、澄んだ酒を注いでゆく、各部屋の仕切りには防音の呪いが施されているために、銚子の呼吸音以外に部屋を満たすものはなく、御用猫としては居心地のよい静けさとも思えるのだが、遊びなれた男が見れば、遊女が客を黙らせてはならぬと文句をつけるやもしれないだろう。
しかし、それも当然であろうか、彼女はいのやの遊女ではあるが、御用猫以外に客を取ってはいないのだ。他の女達と同じく、捨て子同然のところをいのに拾われ、客が取れるようになるまで、ここで下働きをしていたのだが、成人となった彼女が水揚げを迎えたときに事件は起きた、カンナの最初の客であった貴族に床での不興を買い、煮えた鉄瓶を打ち付けられてしまったのだ。
熱湯をあびた彼女の顔の左側には、治療の呪いでも消せぬほど大きな火傷の跡が残ることとなり、それ以来カンナは人前、特に男性の目を恐れるようになってしまった。
それから彼女と出会った御用猫であるが、いのやをねぐらにしていた数年間、半ば暇潰しで少しずつ餌付けをしていたのだ、現在では客は取れぬまでも、床の準備をさせておきながら自分を放置しようとした野良猫に、二階から無言の圧力をかけてくる程には。
(人慣れした、という事で喜ぶべきなのだろうか)
もちろん今回、御用猫が彼女を訪ねたのは、社会復帰するための訓練という名目の性的な悪戯が目的などではなく。
「先に、仕事の話をしようか」
「……はい」
カンナは僅かに身動ぎし、居ずまいを正すと、目を閉じて語り始める。
「トベラルロ キットサイに関する情報ですが……」
「はい、ちょっと待って、そこからおかしいな」
何か間違っていたでしょうか、と、不思議そうにカンナは小首を傾げるのだが。
「……いや、間違っていないからおかしいんだよ……何でな、話を持ちかける前にな、その答えを用意してるんだ」
倉持カンナは隣に座る男を斜めに見上げると、まるで幽鬼のごとく、少し掠れたような息を細く長く吐き出すのだ、これは笑っているものか。
「……カンナは、猫の先生の、ためになる事は、直ぐに答えを出せるよう……頑張っていますから……頑張って、いますから……」
数年前、御用猫は、いのから彼女の経緯を聞き、何かしら力になってやって欲しいと頼まれていた、少しずつ打ち解けてゆくカンナを見て、御用猫に期待をかけたのだろう。苦界に生きる彼女にとって、いのやで暮らす者たちは家族同然である、もともと人見知りで大人しい性質のカンナに、本人の希望とはいえ客を取らせた後悔と罪の意識は、ずっと彼女の両肩に重くのし掛かっていたのだ。
興味本位といえど、知った以上は出来る限りの事はしてみようと、珍しくも野良猫が情を見せ、色々と話をし、何か行動する事で気晴らしになればと、カンナの興味を引く事を探ってみた。すると意外にも、彼女は御用猫の仕事に興味を持ち始めたのだ、これは情報屋や手配師達との密会にカンナの部屋を利用していた為だろうか。
どのみち、いつまでも自分の殻に閉じ籠っていては精神衛生上よろしくないのだ、他人と話す機会は多い方がいいだろうと、御用猫は女の情報屋に繋ぎを任せ、種銭として彼の資産の一部をカンナの裁量で使う事を許していたのだが、そういわれて思い起こせば、最近では彼女達がどんな身動きをしているものか。
(まったく、確認していなかったな……)
御用猫は、言い知れぬ不安が、こころのうちに渦巻いてゆくのを確かに感じた、しかしリリィアドーネとの悶着は昨日の昼の出来事なのだ、これが全てカンナに筒抜けであり、尚且つ彼が求める情報まですでに集めていようとは。
「……ふひ」
簾の如く垂れ下がる前髪の奥で、心なしか、したり顔に見えるカンナは、まるで空気の抜けるような短い笑いをこぼし、その先を続ける。
「トラベ……トベラルロは……裏口屋の保護下にあります……でも、闇討ち屋としては、先走りが多く、扱いには苦慮しているそうなので……交渉次第かと」
「分かった、それまでの差配は任せる」
その言葉に満足したのか、カンナは一つ頷いてから、つつ、と身を寄せ、なんとも遠慮がちに、御用猫の胸の辺りに手を触れる。
「明日の昼には、先生あてに、場所の指定があると思います……なので、それまでは……」
あまりに迂遠な意思表示ではあろうが、彼女との付き合いも長くなってきた御用猫は、その思惑を汲み取ることができた。
そうしてみれば、成る程、と、得心のゆくこともある。
この少女は、時間を欲したのだ。
己が見栄えには自信がない為、仕事以外の誘い方を知らぬのだろう、逢瀬の機会を作り出すには「ご褒美」という理由が必要だったのだ、今も男の胸に触れ、慎ましやかに指を這わせるカンナの姿は、確かにいじらしくもあるのだが、これはなにか空恐ろしくもあるだろうか。
なので御用猫は、厳しい面付きで声を落とした。
「今回は役に立ったかも知れんが、話も聞かず先走り……これは勝手な奴だ、扱いに困る女だ、そういった問題児は、遠慮したいところだなぁ」
カンナは、びくり、と身を震わせると、そのまま、しゅうしゅうと吐息を漏らし、小さく畏まってしまうのだ。
「だからご褒美は無し、だな」
御用猫は膝を立てて立ち上がると。
「貴様のような跳ねっ返り女は、再教育してやるわ!」
ワハハ、と笑いながら、カンナの痩躯を米俵のように担ぎ上げた。
あっ、と小さく悲鳴を漏らしたカンナは、肩に担がれたままに、ぐるぐると回され。
まことに珍しくも、きゃいきゃいと嬌声をあげたのだ。