外剣 飛水鳥 2
人を赦すというのは、難しいものだ。
まったく遺恨を残さない、というのであれば、それは不可能であろう。
忘れるというならば、ふと思い出した瞬間に、再びわだかまりが生じるだろう。
もしも心底、気にならないというのであれば、それはもう、赦す赦さない以前の話であり、問題も罪も、片方にしか存在しなかった、という事なのだろう。
そして、御用猫は聖人でもなければ、君子でも無い。
実際、謂れなき咎により剣を向けられたのだ、いくら未熟な少女の暴走といえど、相応の報いを受けさせたい、との気持ちも確かにあった。しかしながら、リリィアドーネと名乗る少女の、これまでの経緯を聞き、彼女の悲嘆、その焦燥や困憊を斟酌するに。
(これはもう、責められぬ)
気づけば御用猫自身が、怒りをすとん、と、胃の腑に落とし込んでしまったのだ。そして、そうやって改めて見てみれば、彼女はいかにもにも真摯でひたむきな、およそ好感のもてる人物であるといえるだろう。
「重ね重ね、本当に申し訳ない……」
ここは南町五番街、御用猫のねぐらである小料理屋、マルティエの亭、なんとも面倒で迷惑なこの出会いに疲れと空腹を覚えた彼は、リリィアドーネの長い身の上話を断ち切るため、女将に晩飯を用意させた。三時間に及ぶ謝罪の言葉も、運ばれてきた食事により、どうやらひと区切りがついたようだ。
「勘弁してくれよ、もう許したと何度も言ってるだろう? これ以上は新たな地平から、太陽のごとく別の怒りが生まれ育ちそうだ」
回りくどくも意味のない言い回しを、いまひとつ理解できなかったのか、リリィアドーネは眉を寄せて答えに変えた。とりあえず冷めないうちに食え、と少女食事を勧め、御用猫もメバルの煮付に箸を付ける、甘辛く煮あげた魚の身をほろりと剥がし、猪口に注いだ清酒を、くいと、あおる。
「これは……美味い」
こぼしたのは、リリィアドーネだった。
まったく、と御用猫も心の内で同意する。
態々、野良猫がねぐらをここに移したのは、ひとえに女将であるマルティエの料理の腕によるものだった、東食好みの御用猫であったが、ここの女将は彼の味好みの、たまらぬ適所をくすぐってくるのだ。
まだ三十路に届いてはいないだろうか、マルティエは赤みがかった自慢の髪を三角巾に押し込めて、人好きのする笑顔を振りまきながら、忙しそうに配膳給仕をこなしている。幾人かの常連客は明らかに彼女が目当てであろう、その後ろ姿になにやら熱っぽい視線を送っていた。
御用猫とて、マルティエが既婚者でなければ手を出していたかもしれぬ、賞金稼ぎなどという危うい商売を嫌う彼女の事だ、そうなれば野良猫も引退し、飼い猫に収まる事になっていたのだろうか。
そんな益体もない考えから御用猫を引き戻したのは、枯れ井戸の底から響くような、唸り声とも啜り泣きともつかぬ、震えた鳴き声だった。
「先生ぇー、御用猫の先生ぇー、お腹が空きました」
うぉぉん、と、再び壊れた弦楽器のような鳴き声で、チャムパグンという名の森エルフが空腹を訴える。
「美味しそうです、ソレ、美味しそうですよぅ」
高い情報料を騙し取った挙句、いい加減な情報を流し、御用猫にリリィアドーネをけしかけた罰として、先程から簀巻きにされて放置中の性悪エルフは、テーブルの上に顎を乗せて、ぱくぱくと口を開け閉めしている。
何とは無しに御用猫は魚の身を取りほぐし、彼女の口に放り込んだのだが、たちまちに相好を崩した卑しいエルフは、テーブルの上に顎を乗せたまま、もっちゃもっちゃと咀嚼を始めるのだ、チャムパグンの卑しいその姿は、何処となくツバメの雛を想起させるであろうか。
「何だか、昔飼っていたイグアナを思い出します」
御用猫とは別の感想を覚えたのだろう、懐かしむ、というより、何か嫌な事でも思い出したかのようにリリィアドーネが眉をひそめる。たとえそれが楽しい記憶であろうとも、今の彼女にとっては、それすらも自らを苛む記憶にしかならぬのであろう。
「まぁ、それはそうとだな」
「はい」
この先、何かあてはあるのか、と御用猫が訊ねると、彼女はぴたりと手を止め、それが色を失うほどにフォークの柄を強く握りしめた。
「それは……もう、正直、どうしたら良いのか……」
俯くリリィアドーネを見やり、御用猫は考える、そこまで詳しくは聞かなかったのだが、彼女は騎士らしい、それも中央の騎士団、テンプル騎士団の団員なのだろう、あれ程の腕をもつならば、少々若かろうが、女であろうが、納得の出来る話ではある。
騎士団の剣技指南役であり、名声も人望もあった彼女の父が、オランに帰郷中、盗賊の一味に討たれる、との事件が起こったのが五ヶ月前、国から彼女に許された敵討ちの期間が半年。これを過ぎればグラムハスルの家は取り潰しとなり、リリィアドーネは叔父に引き取られて、何処ぞの貴族に輿入れするのだという。
どうにも手際の良い事ではあるだろうか、彼女の父に権威人望があったというのなら、さぞかし敵も多かったことであろう、まったくに確証は無いのだが、なにかの権謀政争にでも巻き込まれ、騙し討ちにあったと言われても得心のゆく話なのだ。
「手掛かりは、仇の名しか無いのだ……事切れる前の小間使いから聞いた名しか……父を手にかけたという、男の名乗りしか……」
急な任務の為に遅れて合流したリリィアドーネが、自家の馬車を発見した時には、すでに家族は冷たき骸と化していたという、その感触を再び思い出し、硬く、冷たい怒りに彼女は身を震わせる。
御用猫は半ば無心にてそれを聞きながらも、魚の身から丁寧に小骨をはずし、いつの間にか膝の上に移動してきた卑しいひよこの口に、せっせと餌を運び続けていた。
(これは、しかし、どうしたものか)
御用猫は知っていたのだ、トベラルロ キットサイの名を。
それは一千二百万の大物首であった、もしも仕事にするならば、それなりの覚悟が必要な相手だろう。しかし彼女であれば、リリィアドーネの剣力をもってすれば、打倒するに難くはないとも思える。
とはいえ問題はそこでなく、御用猫の気持ちの有り様だったのだ、御用猫はあくまで賞金稼ぎ、情報屋でも周旋屋でもありはしない、そして彼女に助太刀をするほどの義理もなければ、なにがしかの見返りを強請るような下心もないのだ。
ないのだが、どうにもこれは腰の据わりが悪いのだ、知ってしまった以上は、袖振り合うも他生の縁、と考えるべきか。
(袖どころか、細剣で喉を突かれそうになったのだがな)
くすり、と、笑う御用猫は、メバルの頭を箸で摘み、まるで潰れた饅頭のように弛んだエルフの口に、それを押し込んだ。
「一つ、提案がある、商売の話だ」
突然、訳も分からぬ話を振られ、またも眉根を寄せるリリィアドーネに、御用猫はしっかりと告げる。
「アンタの仇、そいつの居場所、分かるかも知れない」