桜花斉唱 8
マルティエの亭では、元々、二階で宿を取る事が出来たのだが、現在ではマルティエと飯炊き女として働く従業員の母娘、そして御用猫が寝泊まりしているのみである。
多少の空き部屋はあるのだが、以前に泊めた不逞の客が、亭主不在のマルティエは若いからだの疼きを抑えきれまい、などと酒に酔って不埒なことを考え、彼女の寝込みを襲うといった事件があったのだ、それ以来、二階の宿は女性客にのみ当てがわれている。
因みにその事件は、たまたま泊まり込んでいた御用猫によって未然に防がれていた。マルティエを襲った男達の中に、彼が狙う賞金首が居たというだけのことであったのだが、彼女からは随分と感謝されているようで、それ以来この店には一匹の野良猫が、用心棒という名目で二階の一室に住み着いている。
御用猫にしてみれば、部屋を血で汚した事にも文句を言われず、感謝されたうえで、向こうから安いねぐらと美味い飯がやって来たに等しいだろう、他はともかく食事に関しては一家言ある野良猫なのである、その提案には諸手を挙げて飛び付いたのだが、これで彼女が独身であったならばと、未だに彼は思わなくもないのだ。
もぞもぞと蠢めきながら、朝に微睡む男の顔に、石壁に取り付けられた木窓の隙間から光が射し込む、卑しい野良猫はそれを嫌がるように寝返りをうつのだが。
その脇腹に、恐ろしい悪魔が降臨するのだ。
「先生ぇー、御用猫の先生ぇー、朝がきました、お腹が空いてますでげす」
びょん、と不意に飛び乗られ、御用猫は息に詰まる。
「ぐぅっ、隠形の呪いか、やはりこいつは危険だ、早めに消さないと」
「先生ぇ、心の声が漏れてごぜーますよ」
身体を起こし小癪な忍者エルフの胴を抱えると、鳶色のショートパンツの上から、その柔らかな尻の肉を揉みしだく。
「聞かせてんだよ、どうせ始末すんだから関係無い」
「なにおゥー! 朝からいきり立った草片の収穫祭を始めてやろうか」
ベッドの上でチャムパグンと一頻りじゃれ合った後、そろそろ着替えるかと伸びをした御用猫は、ようやく、部屋の入り口で、ぶるぶると震えるリリィアドーネに気付いたのだ。
「なんたる卑猥! 」
彼女は、ついに御用猫が着替えを済ませるまで、破廉恥だの、淫らだのと、ぶつぶつ文句を言っていたのだが。
「ところで、今日も来たのか? 何の用事だよ」
「それは……いや、本人から聞いてくれ」
そうか、と興味無さげに御用猫は答えると、森エルフの両脇を抱え階段を降りようとしたのだが、ふとその足を止めると。
「今日は私服なんだな」
リリィアドーネは、草色の上品なシャツと、薄い灰色に染めた柔らかそうなパンツ姿で、いつもと変わらぬのは、腰から吊るした細剣のみである。
「ひ、ううん、さるお方の計らいで、しばらく非番になったのでな」
そうか、と、もう一度言ったのち。
「似合ってるぞ」
御用猫が短く告げると、彼女はマルティエが、朝食ですよと声をかけるまで、階段の上で微動だにしなかったのだ。
一階に降りた御用猫が見たのは、大きな背囊を両脇に抱え、隅のテーブル前に、まるで陣取るように仁王立ちするサクラの姿である。
「ゴヨウさん、おはようございます、先ずは食事にしてから出発しましょう」
御用猫は笑って挨拶を返すと、マルティエに軽い食事を注文する。
「意外と早かったな」
「そうですね、一晩考えましたが、やはり、やられっぱなしで泣き寝入りするのは性に合わない、と結論が出ました、あのいけ好かない金髪の美少年を、昨日は侮っていたと謝って、少しだけきゅんときましたが、それはそれだと叩きのめし、田ノ上先生の指導を受け、然るのちに、これを超えることによって、汚名を濯ぐつもりです」
きっぱりと、彼女は宣言する、その灰色がかった瞳には、峻烈な炎が燃え盛るようでさえあったのだが、そこに暗い色は微塵も感じられないだろう。
やはり、彼女達は違うのだ、棒もて石をもて追われる野良猫とは。
(住む世界が、まるで違う)
御用猫は、正直、妬ましいとさえ思うのだ、陽の当たる世界を知り、自らの生まれを呪うのは幾度目のことか。惨めさを覚えるのが怖くて、眩しさを嫌い、背を向けて、それでもどこか憧れる。
「なに、ニヤニヤしてるんですか、馬鹿にしてるんですか、馬鹿にしてるんですね、分かりました、ゴヨウさんも、いずれ見返すリストに入れておきます」
サクラの指摘に、御用猫は少し驚いた。
(笑っていたのか、自分は)
なんとなくそれが可笑しくて、彼は今度こそ、くっくっと声を漏らすのだ、また笑った、と机を叩くサクラに手を挙げて謝ると。
「いやむしろ、お前のそういう所は、好きだぜ、俺は」
「なぁっ!? 」
サクラは何時ものように、素っ頓狂な声をあげる、どうやら、完全に復活しているのは間違いない様子だ。
「……私は、嫌いだな」
ぽん、と御用猫の肩に乗せられた手のひらの持ち主は、奥行きの深い笑顔を見せると、滲むような怒気を辺りに撒き散らし。
チャムパグンは運ばれてくる料理の皿を、どうせ使いもしないのであろうフォークで、ちんちん、と叩きながら。
はやくはやく、おなかすいたと、独特の調子で歌いはじめた。




