未だ名も無き御用猫
クロスロードの東を流れる、線川のほとり、船宿「扇鶴」の二階に、御用猫の姿はあった。
木窓から見える川の水面には、薄い下弦の月の下、鵜匠達の姿が篝火に照らし出されている。
その、どこか幻想的な風景を肴に、御用猫は杯を掲げ、上物の酒を、するり、と、喉に流し込む。
部屋の真ん中には、寝転がるチャムパグンと黒雀の姿。甘やかすと約束した二人には、ここ数日、手を尽くしたもてなしをしているのだ。
今日も、たらふくに鮎を食べさせ、幸せそうに腹を膨らませる姿は、まるで姉妹のように見えるだろうか。
先程までの戦いが嘘のように、部屋の中には、ゆったりとした時間が流れていた。
御用猫は、塩焼きにした鮎の背中と腹を挟むように箸でほぐし、尾を外して、頭から背骨を抜き取る、こうすると綺麗に身が残るのだ。
しかし、骨を抜いた端から、子エルフどもが、二人して即座にかぶりつくのだ、大皿の上には戦の跡、何十匹分かも分からぬほど、食べがらが積み上げられている。
目を回しながら、焼き鮎を運んでいた女中には、悪い事をしてしまっただろうか。
ようやくに満足し、膨らんだ腹を上に向け、二匹のエルフは、仲良く仰向けに、寝息を立てている。
わずかに残った鮎から骨を抜き、御用猫は、卵の詰まった落ち鮎に、なんとか舌鼓を打つ事が出来たのだ。
温い夜風が、少し火照った顔を撫で付け、ざぶり、ざぶり、と、櫂の音を運んでくる。
心地良いひと時に、細くため息を零した。
(これほどに、落ち着いたのも、久しぶりだなぁ)
最近はどうにも、色々と、こと、が起こり過ぎるのだ。
あれこれと、思い起こす御用猫であったが、ふと、透き通った清酒が、杯の中で僅かに震えた。
「やっと見つけた、ずいぶんと探してしまったぞ」
小さな水面を揺らした犯人は、少し伸びてきた栗色の髪を耳にかき上げ、御用猫の隣に腰を下ろす。
「……ひょっとして、邪魔をしてしまったか? 」
「どんな時でも、可愛いリリィを、邪険にしたりはしないさ」
笑って杯を空けると、リリィアドーネに差し出した。
「むぅ、だから、言葉が軽いと言っている」
ぷくり、と頬を膨らませると、杯を受け取る代わりに、その細い身体を寄せてくる。
彼女の心地良い暖かさに、御用猫は目を細めると、無言のままに、しばしの時が流れた。
夜風に吹かれ、再び降りてきた彼女の前髪を戻してやろうと、撫でるように耳にかけてやる。リリィアドーネは少しくすぐったそうに身体を揺するのだが、その時、はた、と視線が絡む。
何を勘違いしたものか、少女は身を強張らせ、きゅっ、と、目を瞑るのだ。
(全く、可愛い奴め)
くい、と鼻を摘んでやると、間の抜けた声をあげ、抗議するように、肩を押し付けてくる。
「こ、子供扱いするな、私は、もう、大人なのだぞ」
「……大人扱い、して、欲しいのか? 」
御用猫が、少し、いやらしい笑いを浮かべると、ぱっ、と、彼女は身体を離す。
「う、それは……まだ、こ、こわい」
尻すぼみに小さくなる声は、隣にいる御用猫にも聞き取れぬほどの大きさで。
「き、興味は、ある、のだが」
と締めくくられた。
何とも可愛らしい事ではある、御用猫は彼女の頭を撫でながら、何とは無しに、言葉を紡ぐ。
「ゆっくりでいいのさ、リリィは、急ぐことも、慌てることも無い……相手だって、変わるかもしれないぞ」
ゆらゆらと、遠く篝火を眺めれば、そのような気持ちにも、なるであろうか。
もう一度身を寄せ、こてん、と御用猫の肩に頭を乗せたリリィアドーネは。
「うん、ゆっくりでいい……でも、きっと、気持ちは、変わらないよ」
恥ずかしそうに微笑む少女は、御用猫に、次の杯を忘れさせてしまうのだった。
今宵はここまで御用猫
明日も生きる野良猫の
次の語りはまたいずれ
御用、御用の、御用猫
これにて完結いたします。
目を通して頂いた皆様には、海より深い感謝を込めて、御礼申し上げます。
もう少しお付き合いして頂けるのならば「続・御用猫」の方も可愛がってやって下さいませ。
それでは。