獣剣 月の牙 12
「なかなかに、良い時宜を得たと思うのだよ、ボクはね」
目を覚ました御用猫は、下着姿で寝転がされていた。
呪いで創り上げたのだろう、つる草が絡み付いて編み込まれた様なベッドの上で、手当を受けていたらしい。
何をもって都合が良いタイミングだと宣ったのか、なんとなく恐ろしいので、確認する気は無かったのだが、とりあえず、礼は言わねばなるまい。
「ああ、正直、危ない所だった、ありがとうな、あー……」
名前を呼ぼうとして、ふと、ブブロスの方を見る。魔力の糸で、すっかりと絡め取られ、身動ぎ一つできない様子であったが、意識はある様だ、今は不味いだろうか。
「構わないよ、他人に聞かれるのは、正直、癪に触るけれどね、この名は、キミに呼ばれる為のものさ、キミの声で、ボクの存在を確認する、その甘露とは、とても、引き換えにできるものではないのだから」
御用猫の枕元に腰掛けるのは、一人の黒エルフ。
腰まで伸ばした黒い髪は、その瑞々しさを存分に発揮し、幾つもの光の筋をきらめかせている、切り揃えた前髪の下には、男とも女とも言えぬ様な、怪しげな色気を感じさせる美貌を備え、その上から、黒エルフ特有の、梵字の様な入れ墨を飾っていた。
貫頭衣のような簡素な服は、両側が剥き出しで、梵字まみれではあるが、白く嫋やかな手足から繋がる、脇や腰周りまでさらけ出してしまっている。
早く早く、と促すような視線に押され、御用猫は、渇いた喉から、彼の名を紡ぎ出した。
「ああ、ありがとうな、ホノクラちゃん」
「あんっ」
肩を抱き身を震わせた黒エルフは、何処か恍惚とした眼で御用猫を見詰めてくる。
彼らにとって、名前は特別な意味を持つ、例え親子であろうとも、軽々しく呼べるものではないのだ。
そんな事とはつゆ知らず、いつものように、何とは無しに付けた愛称であったのだが、御用猫は、彼と会う度に、後悔、という言葉の意味を噛み締めるのだ。
(とりあえず、注意だけはそらしておこう)
人差し指で、楽しそうに、御用猫の顔の傷を、つつ、と、なぞるホノクラちゃんに手をあげ、身体を起こすと、即座に襲う電が走ったような激痛に、御用猫は短い悲鳴をあげる。
「おっと、その左腕だけどね、多少は動くだろうけど、無理をすると骨が離れると思うよ、それと、痛みは取っていない……忘れてはいないだろうね、これは、キミが以前に言ったことなのだから」
そう言って、くつくつ、と悪戯っぽく笑うのだ。
確かに、御用猫は覚えている。剣を振るうのに感覚が鈍るから、傷の手当をしても、痛みを誤魔化すような呪いは使うな、と。
「言ったけどさ、確かに言ったけど、ちょっとだけ、和らげてくんないかなぁ、超痛いから」
左腕は、どうやら粉砕骨折していたようだ。
相手の攻撃に合わせて飛び、衝撃を緩和する「浮島」という技と、目の前のホノクラちゃんが防刃の呪いをかけた、愛用の黒い戦闘服。どちらが欠けていても、御用猫は死んでいただろう。
笑いながらも、艶かしい動きで、御用猫の身体を弄りながら、再び治療を始めるホノクラちゃんに、視線を合わせないよう心掛けながら、御用猫はブブロスに声を掛ける。
「おっさん、ちょいと、話せるか? さっきの狼が「マダラ」ってやつなのか」
確か、戦闘が始まる前に、そんな事を言っていたはずだ。
「……そうだ、月狼の、本来の月狼の、最後の一匹よ」
「本来の、ってのは? 」
頭だけしか動かせないブブロスは、少し窮屈そうに顔を向け、話始める。
「言わなかったか、魔力に満ちた奥森と違い、外周森は、ごく普通の、普通の森だ、太古から森に暮らす幻獣は、森の魔力を糧に生きてきた、此処では、生きてゆけぬのだよ、新しく生まれた月狼は、体も小さく、知能も低い」
その代わり、金にならぬので、人に狩られる事も少ないがな、と、ブブロスは乾いた笑いを漏らす。
帰らずの森や、北嶺山脈といった、精霊の集まりやすい土地には、濃い魔力が充満している。そこで暮らす生き物の中には、独自の進化を遂げたものも多く、エルフ族なども、元は人間と同一の存在であった。
その中でも、月狼や角馬など、魔獣と呼ばれる程に魔力に適応した種は、蓄えた魔力を全身に巡らせる事で心身の強化を行なっており、奥森の外で産まれた子孫は、唯の獣と変わりないのだ。
「……なんで、その、最後の一匹を狩るんだよ、ほっとけば良いだろ」
即座に口を開いたブブロスであったが、言葉は一度飲み込んだ、そして。
「ネップのように、最後の月狼を狙う人間は後をたたない、いずれ、マダラも殺されるだろう、ならば、せめて……」
「その左手は、マダラに取られたのか? 」
びくり、とブブロスは身体を震わせる。
「……もう、五十年も、前の事よ……だが、勘違いするなよ、恨みは無い、むしろ、奴には尊崇の念すら覚えるよ、あれは、気高く、美しい……だからこそ、で、あるか」
老エルフは、ごとり、と頭を地面に付け、ぽつりと漏らす。
「……他の奴には、渡したくない」
成る程、と御用猫は納得した、おそらく、ネップの一味と共闘したのは、無法な人間を制御下に置き、利用する為であったのだろう。
記憶は曖昧であったが、御用猫の見たマダラの戦闘力は、ネップ一味よりもはるかに高い。
協力してマダラを倒した後に、ネップ一味を始末するつもりであったのだろう。ブブロスの腕前ならば、それも可能なのだ。
しかし、先ほど、御用猫を助けるように飛び込んできたのは、ネップ一味を殺す機会を伺っていたのだろうか、知能が高いとは言っていたが、これは、ブブロス程の狩人が腕を取られ、五十年追い回しても捕まらぬ筈である。
「お前さん、御用猫と言ったか、儂を見逃してはくれぬか、礼はする。マダラをやる訳にはいかぬが、今までに狩った月狼の牙をやろう、どうであろうか」
さっきまで、命のやり取りをしていた相手に、なんと切り替えの早い男だ。
「ドビットみたいな奴だな、エルフは、皆んなこうなのか」
「うん、誰だ? 」
何でも無い、と手をあげ、御用猫は考える。
ネップの首は取れたのだ、今回の仕事は終わりである。新たな仕事を請ける事に、問題は無い、とはいえ、月狼の牙に興味は無いのだが。
しかし、このままブブロスを解放すれば、彼は単身マダラに挑み、そして返り討ちにあう。
聖地に行かないはぐれ者、との事であるし、ブブロスの仲間は、ロレホドだったか、あの若いエルフだけだったのだろう。
御用猫は、迷っていた。ブブロスの気持ちも理解できる、賞金稼ぎと狩人とはいえ、やる事は同じであろう。
卑しい商売かどうか、誇りを持てる仕事かどうか、違いはそこしか無いのだ。
御用猫は、迷っていたが、迷っている時は、大抵、答えは出ているものなのだ。
一つ溜息を吐き、御用猫は答えた。
「牙はいらないが、老い先短い老人を、見捨てるのも、気分が悪い、手伝ってやるから、終わったら、ちゃんと隠居するんだぞ」
「……キミは、相変わらず、可笑しな生き方をするよ、命を無駄にするかと思えば縋り付き、興味無さげに尊厳を重んじる、全く、度し難いね」
黙って聞いていたホノクラちゃんが、口を挟む。
「でも、だからこそ面白い、それでこそボクの認めた友人さ」
楽しげに笑い、両手を広げる。
「ぐっ」
「なんだい、親愛なる友人よ、久方振りの来訪に、顔も見せなかったのは、ボクを驚かせるつもりだったのだろう? オーフェン少年から聞いた時は、流石に、耳を疑ったよ」
思い出したかのように、ホノクラちゃんは、また、くっくっ、と笑うが。
その細い両手は、広げられたままだ。
「オーフェンめ、野郎、この恨みは深いぞ」
「その時は、協力するよ」
ついに観念し、両手を広げた御用猫の胸に、ホノクラちゃんは勢いよく飛び込み、親愛の口づけを交わす。
黒エルフは、元々排他的な種族である為、ブブロスとて、その文化を詳しくは知らないのだが。
随分と長いそれを見ながら、この森で、二百八十年を生きる老エルフは思った。
はたして、あの行為に、押し倒す様式があっただろうか、と。